●フェイズ80「第二次世界大戦(74)」

 1946年初夏に連合軍がドーバー海峡を押し渡ってくる。
 この事は、敵味方共に決定事項に近かった。他の作戦はあり得ず、せいぜい「いつどこに上陸するのか」が賭の対象になったり、話題に上る程度だった。

 1946年4月に連合軍の空母部隊が動いたときは、ドイツ側に少し緊張が走ったが、初夏、5月初旬から6月初旬のどこかだという見方が変わることも無かった。
 上陸地点については、最もドーバー海峡の幅が狭いカレー方面と考えられていた。パリに比較的近いノルマンディー半島の付け根当たりを予測した者もあったが、それでは上陸に成功してもソ連軍とのドイツ侵攻競争に勝てない可能性を高めるだけだった。加えて、南部から押し上げている連合軍との進撃路など様々な要素からも否定された。別の意見としては、ドイツ本土にさらに近いベルギーのフランドル方面への上陸は、パ・ド・カレー上陸と大差ないのでカレー上陸と同じと見られていた。さらに東のオランダ上陸に関しては、ライン川河口部の上陸作戦はドイツ本土に近い分だけ危険が大きいし、上陸に成功してもライン川の中州地帯と縦横に走る運河が邪魔をするので、迅速な進撃に適さないと見られて否定的だった。少なくとも最初の上陸地点としてはあり得ないというのが総評だった。さらに冒険的意見としては、ユトランド半島の付け根辺りへの上陸だが、ドイツ側も万が一の事態をを警戒して砲台などで防備を固めていたし、上陸自体は成功しても半島の付け根、キール運河辺りで強固な防衛線が引かれたらその後の進撃が難しいので、この意見も否定的見解が多かった。
 結局のところ、パ・ド・カレーからダンケルク周辺への上陸以外あり得ないという結論だった。そしてその予測を肯定するように、同方面とその後方地域への連合軍の事前攻撃が激しさを増していった。
 そうした中で連合軍の懸念として浮上してきたのが、ドイツ軍が急速に建設しつつある沿岸部の陣地群だった。

 戦争が一旦は1940年夏にドイツの勝利となり、その後長らくヨーロッパは戦火か遠かったため、ヨーロッパの防備はほとんど1940年夏の段階で止まっていた。それまではドイツ北部沿岸に限られ、実際強力な砲台があったのは軍港のヴィルヘルムス・ハーフェンぐらいだった。
 そして1940年4月から6月にかけての大勝利の直後に、イギリスから欧州大陸を守るための計画が大まかではあるが研究された。しかし1940年7月に戦争は終わり、その後も継続した第二次世界大戦の戦場はヨーロッパ以外だった。連合軍の欧州沿岸に対する実質的な軍事活動も、偵察のため欧州圏内に侵入してくる潜水艦対策を行ったぐらいだった。
 しかし1944年半ば以後に入ると、戦局は欧州枢軸にとって急速に悪化。北アフリカ、アイスランドと相次いで失い、少し早く地中海にも連合軍が溢れた。このため、まずは英本土と地中海沿岸の防備が急がれたが、それでも英本土に守られた形の欧州大陸北岸の防備はおざなりのままだった。ノルウェーが例外的に沿岸防備の工事が始められたが、ノルウェーへの本格的侵攻はないと考えられたこともあり、沿岸砲台などの建設はゆるやかなものだった。ノルウェーの方は、そのツケを1946年4月に支払わされた格好だったが、仮に全力で陣地を構築していたとしても、制空権のない地域に4000機もの艦載機が押しよせては、何をしても無駄だったかもしれない。
 だが、ヨーロッパ大陸北西岸は違っていた。制空権は完全には失われていないし、陸路で物資、兵器、兵員、労働者を運び込めるので陣地の構築は容易だった。しかも連合軍は1945年秋頃まで空襲は本格化させなかったので、ドイツは辛うじて防備工事の為の準備期間を与えられた形だった。とはいえ、既にドイツ自身、欧州枢軸自体の物資不足、窮乏が進んでいるので、計画したほどの資材、特に鋼鉄は割り当てることが不可能だった。労働者についても不足しており、早々と方針が変更された。最初は北西部沿岸全てに強固な沿岸陣地を長々と構築する予定だったが、重要性の低い場所はほぼ切り捨てて防御の重点を特にカレー正面に絞った。次点としてはノルマンディー半島の付け根辺りも対象とされたが、後者はあくまで保険でしかなく実際の工事は10%も行われなかった。ノルマンディー方面の工事もフランスが行った。
 そして夏までに防衛陣地の建設計画が決まり、まずは制空権を維持するための高射砲陣地が大量に建設されていった。このため連合軍は危険を冒してまで沿岸部を空襲しなくなる。無理をすれば攻撃は可能だったが、他の任務が忙しかったし、現時点での中途半端な攻撃は犠牲が大きすぎると考えられたからだ。ドイツ軍もそれを期待しての防空体制の強化だったが、これはドイツ軍の思惑が嵌った形となった。

 1944年初夏以後にドイツ軍が建設し始めた沿岸陣地は、主にノルウェーだった。また、念のためバルト海の玄関口とも言えるスカゲラック海峡封鎖のための長距離砲の砲台建設が、ノルウェー南端部とデンマーク北端部で始まった。しかしどれもゆっくりしたものだった。工事が急がれたのは、フランス北西部のブレスト軍港などだが、工事はフランス自身が主導した。このブレストの沿岸砲台建設では、戦艦から空母への改装が行われて完成するも余剰となった4連装38センチ砲や、15.2cm3連装砲塔なども使われた。巨大な4連装砲塔は、今でも北大西洋を静かに睨み続けており、戦争の史跡として見学する事ができる。ちなみにこの巨大砲台は、大きさでギネス記録に記されている。(※主砲口径では日本の対馬海峡を睨む41cm連装砲塔が最大。)
 ドイツ軍の沿岸陣地構築は、先述したように英本土が陥落するまでは低調だった。しかし1945年6月に政治的、軍事的には一瞬でイギリスが寝返ると、状況は大きく変化する。加えてドイツ総司令部の戦争方針によって、欧州北西部沿岸は強固に守らねばならない場所となった。地中海側はともかく、北西部に上陸されたらフランスばかりかドイツ中枢部が危機に瀕して、戦争継続どころではなくなってしまう恐れが高かったからだ。さらに、連合軍を出来る限りドイツに踏み込ませずに戦争終結に持っていこうというヒトラー総統らの希望的な思惑によって、「最大限の努力」が行われることになる。

 そして無数の沿岸砲台建設が俄に始まり、そして急速に進められたのだが、そうした中で注目されたのが海軍が用いていた巨砲だった。
 まず注目されたのが、近代改装で降ろされた《シャルンホルスト級》戦艦の54.5口径28.3cm3連装砲塔だった。同砲塔は6基が近代改装の際に降ろされ、しばらくは海軍工廠の空き地に再利用可能な形で置かれていた。当時は沿岸砲台という考えはあまり無かったが、何かに使えるかも知れないと考えたからだ。そしてもともと載せていた艦が撃沈された後、俄に脚光を浴びることとなった。強固な装甲で覆われた完成された砲塔をそのまま沿岸砲台として用いれば、非常に効果的だと考えられたのだ。しかし砲塔そのままを設置する陣地を構築するとなるとかなりの手間であり、また長砲身の28.3cm砲は1門ずつでも十分に強力なので、半数は1門ずつにバラバラにしてオランダやドーバーの各所に設置された。そして砲塔のままの3基は、カレー方面の要所に他の大型砲と共に効果的な配置で設置されることとなる。砲塔型だと360度に対して砲撃が可能なので、この点が戦術上の有利とも考えられた。
 砲塔は1基で一つの要塞陣地で、砲塔、弾薬庫はもちろん、自家発電装置から居住区など、多くの施設が地下陣地として建設された。さらに周囲には、空襲を警戒する防空陣地も構えられており、鉄壁の要塞の様相を呈していた。
 そしてこれ以外にも、カレー正面には沢山の巨砲が設置された。
 代表的なのが「ジークフリート砲」だ。

 伝説の勇者の名が与えられた砲は、《ビスマルク級》戦艦、近代改装後の《シャルンホルスト級》戦艦に搭載された、47口径38cm砲の陸軍用の事だった。もともとは、計画中止(正確には計画変更)となって余剰した《ビスマルク級》戦艦の砲8門と予備の2門が陸軍に供与され、さらに「Z計画」の再興された方で計画された巡洋戦艦3隻用の砲18門のうち転用で《シャルンホルスト級》戦艦に予備の砲として搭載されなかった6門が追加供与されたものだった。
 合計16門のうち、4門は実際に列車砲に改装されて、実戦でも使われた。だが大きすぎる砲なので、予算や人員の面から簡単には列車砲にして配備するわけにもいかず、多くの砲が沿岸砲台用として備蓄された。それが1945年初夏に注目され、急ぎドーバー海峡各所に設置されることになった。
 それぞれ1門ごとの強固な砲台を作り、そこに1門ずつ設置された。砲台は固定型で旋回はせず、150度程度の角度に対して射撃可能とされていた。艦載砲との違いはそれだけでなく、砲弾と射程距離にもあった。艦載砲だと射程距離は36キロメートル程度。これに対して砲台設置型では、通常の800kg弾で42キロメートル。陸軍が特注した重量495kgの軽量砲弾を用いれば、最大55.7キロメートルもの射程距離が得られた。そしてこの軽量砲弾の事をジークフリート砲弾と呼んでいた。
 しかも砲自体は地上設置なので、艦載砲よりも命中精度は高かった。これは古くから変わらない事だった。あえて欠点を挙げるなら、射程距離が長くても水平線の向こう側を正確に狙う方法が既に少ないと言うことだった。光学装置、レーダーでは水平線の先になり、着弾観測を行う飛行機を飛ばすことは1945年の後半では自殺行為でしかなかった。砲弾の弾道を途中までレーダー観測するのが比較的確実な方法で、各砲座には少し離れた場所に光学照準装置と共に射撃レーダーも設置された。
 これ以上の火砲としては、「H級戦艦」こと《フリードリッヒ・デア・グロッセ級》戦艦に搭載されていた47口径40.6cm砲がある。
 同砲は1954年6月に《フリードリッヒ・デア・グロッセ級》戦艦2隻が共に沈んだことで、損傷時の修理用に予備として置かれていた4門が、目的が無くなったため陸軍に砲塔関連の予備部品と共に供与された。そして38cm砲と同様に固定砲台として砲として完成させた後に台座に据えられた。最大射程距離は38cm砲とほぼ同じだが通常弾1030kg、軽量弾610kgと少し大きく重くなっている。
 そして各巨砲は3〜4門を一組として近くに設置された。一般的な配置だと250メートル間隔で設置されているので、砲撃する時には戦艦と少し似たイメージになる。また、近距離からの軽快な艦艇による砲撃を防ぐため、近くには必ず中型か小型の砲座が多数設置されていた。さらに空襲を防ぐため、多数の高射砲、高射機関砲が考え抜かれた配置で設置されていた。
 それ以外の大型砲台も、旧式の30.5cm砲、旧式戦艦の28cm砲塔、未完成に終わった重巡洋艦の20cm砲塔をはじめ、15cm砲クラスの野戦重砲などが無数に、強固な陣地として建設された。

 無敵の巨砲としてカレー方面に集中的に、そして相互支援できるように比較的近くに設置された38cm砲、40.6cm砲だが、弱点が無いわけではなかった。問題は重コンクリートで覆えない砲塔型と、旋回できるよう設置された砲台だ。
 旋回型の砲自体は、戦艦搭載時のように分厚い装甲で鎧ってしまうと重くなりすぎるため、また戦艦と同じ砲塔型だと砲下部のシステムが大きくなりすぎるため、建設期間短縮を図る為もあり分厚い装甲は施されていなかった。ならば周囲全てを天井を含めて分厚い重鉄筋コンクリートで覆ってしまえば良いく、かなりが射撃範囲を限定する形でコンクリートン覆われた形状で設置された。だが、一部の砲座は360度方向に射撃できるように据えられていた為、攻撃に対して比較的脆かった。
 とはいえ、簡単に攻撃できないものであり、カレー方面に殺到するであろう連合軍を寄せ付けないと期待された。また砲台の主力は、前面だけに砲撃できる砲台で、周囲を分厚い鉄筋コンクリートで覆っていた。

 そして連合軍も、俄に数を増やした砲台を脅威に感じる。
 連合軍は、様々な制約と条件によりカレー方面からの上陸を、かなり前から正式決定していた。故に障害物は、何としても乗り越えなければならなかった。
 そうした中で、一つの作戦が浮上する。カレー砲台群破壊作戦だ。
 だが、何をもって破壊するか決まるまで一悶着あった。
 空軍(航空隊)を用いるのが常道だが、空軍にはやるべき仕事が沢山あった。また、既に一部沿岸陣地を小規模に攻撃した結果、高射砲の反撃で大きな損害を受けたため、より強い消極姿勢を取っていた。ならば海軍艦艇を用いるのかという話しになったが、古来より洋上を走る軍艦が沿岸砲台に勝ったという事例が少なかった。圧倒的差があったり、遠距離から一方的に攻撃する場合は例外だが、互角であるなら軍艦の方が不利だった。揺れる洋上と微動だにしない地上という条件の差から、命中率が格段に違うのが一般的だからだ。しかも沿岸砲は、目標が砲撃予定地点に入ってきてから一斉に火蓋を切るが、既にその場所の測定が終わっているため、最初から命中修正をする必要が無かった。
 また時間をかけて建設された砲台自体は、強固な防備が施されているのが一般的で、余程幸運もしくは不運の一撃でも受けない限り、簡単に破壊することは難しかった。
 しかも今回の場合、沿岸砲台の方が射程距離で勝っていた。
 《大和型》戦艦の45口径46cm砲で、射程距離は42キロメートル。アメリカ海軍が多数保有する16インチ45口径砲Mk.6で33キロメートル弱。16インチ50口径砲Mk.7だと39キロメートル弱。そして1946年春に就役した、《モンタナ級》戦艦の改良発展型といえる《ルイジアナ級》戦艦に搭載された18インチ47口径砲Mk.Aで40キロメートル弱。どれも敵戦艦の装甲を貫くため重い砲弾を用いているため、射程距離に若干の制限がかかっている。仮に軽量砲弾を用いれば、射程距離自体はドイツ軍の沿岸砲台のように伸びるが、命中精度が格段に落ちるため対艦砲撃戦には向いていない。地上目標なので榴弾による射撃が有効と言われることもあるが、相手となるドイツ軍の沿岸砲台は天井部分で2メートル、3メートルもある強固な構造の重鉄筋コンクリート製なので、1発、2発の命中ではラッキーヒットでないとほとんど意味がない。
 破壊するには適切な方向からの大型戦艦の徹甲弾か、空爆による大型徹甲爆弾のどちらかしかなかった。しかも複数命中させなければ撃破が難しいと判定されていた。
 しかし上陸作戦の前に、可能な限り破壊しておかなければならなかった。そして上陸作戦の失敗に比べれば、多少の艦艇や航空機の損失は許容できると判断が下される。
 そして連合軍が選択した作戦は、もはや定番とすらなっている過剰攻撃、飽和攻撃だった。

 攻撃が決定したのが1946年の2月頃、攻撃自体はドイツ軍が上陸作戦までに再建する可能性を潰すため、1〜2ヶ月程度前を定められた。そして1946年3月末頃から、ドーバー海峡のパ・ド・カレー近辺に対する激しい攻撃が開始される。
 爆撃は事前の対空陣地の制圧と、その後の飽和爆撃。艦砲射撃は、出来る限り多数の戦艦を動員した集中射撃。どちらも端っこから順番に、しかも連携して破壊することとされた。
 カレー正面の約200キロメートルの海岸線には、合わせて以下の大型艦載砲が設置されていた。

 ・54.5口径28.3cm3連装砲塔 2基3門(1基はロッテルダム方面)
 ・54.5口径28.3cm 単装砲 6基6門(3門はロッテルダム方面)
 ・47口径38cm砲 単装砲 12基12門
 ・47口径40.6cm砲 単装砲 4基4門
 ・旧式28.3cm連装砲塔 2基4門(4門はロッテルダム方面)

 ( )内は、港湾防衛と念のための沿岸防備のため、同時並行でオランダ方面に設置された数で、双方を合わせた数が1945年夏以後に慌ただしく建設された艦載砲転用の大型砲だった。これ以外にも多数の砲台、砲座があり、その全てが連合軍の破壊対象だった。
 攻撃に対して空軍の爆撃部隊は、主に日本海軍航空隊が急降下爆撃隊を多く手配していた。連合軍で、本格的で強力な急降下爆撃隊を持つのは、各国空母艦載機を例外とすると、同じ海軍所属の日本海軍航空隊しか無かった。アメリカ陸軍航空隊(空軍)は、基本的に水平爆撃しか行わなかった。完全に連合軍となったイギリス空軍も似たようなものだった。低空からのロケット弾掃射が例外だが、強固な砲台相手に向ける攻撃では無かった。しかしこの時期は、日本海軍航空隊の3分の1程度しかドーバー方面には向けられていなかった。残りは空母部隊と共にノルウェー作戦にかかりきりで、先に決まったのがノルウェー作戦の為転用することも難しかった。
 しかし連合軍は、高度3000メートル程度からの大型爆弾の集中的な水平爆撃で十分な効果が望めると考えていた。2メートル、3メートルある強固な重コンクリートでも、同じ場所に何発も2000ポンド爆弾が命中すれば、耐えられる筈がないからだ。しかもこの作戦の為に、2000機もの攻撃機が用意され。昼夜を問わず、敵に休む暇も追加の砲台を建造させるゆとりも与えず攻撃する予定だった。
 一方の海軍の方は、この時期暇を持てあましていた戦艦を根こそぎ集めていた。

 古来より船と砲台の戦いでは船が敗北すると相場が決まっており、近い例では第一次世界大戦のガリポリで、連合軍は停滞敗北を喫していた。
 故にドイツ軍が強固な砲台の建設を開始するまで、連合軍は上陸作戦の事前攻撃と上陸作戦に際しては、基本的に旧式戦艦しか投入しない予定を立てていた。もう出番がないからといって、就役から数年の新鋭戦艦を危険な艦砲射撃に用いるのは、流石に費用対効果が合わないと考えたからだ。
 だが、上陸作戦を何があっても成功させなければならないという連合軍の決意と、空軍と海軍の対抗意識から全ての戦艦を任務に投入することになる。同じ海軍同士の日本海軍内でも、航空派と艦隊派の対抗意識から、ほぼ同じ心理状態だった。
 かくして、沿岸砲台を破壊するためだけに、大艦隊が用意される運びとなった。
 この時期、戦艦による任務部隊は旧式戦艦以外一旦解体して、高速発揮のできる戦艦は空母機動部隊に編入していたのだが、2月末にそれを変更して、再び戦艦を中心とした艦隊が多数編成された。
 1946年3月時点での戦艦部隊は、以下のように戦艦を分けて運用していた。

 アメリカ海軍第24任務部隊(指揮官:リー中将)
BB《ルイジアナ》BB《メイン》BB《ニューハンプシャー》
BB《インディアナ》BB《サウスダコタ》
BB《アラバマ》BB《マサチューセッツ》
BB《ワシントン》

 アメリカ海軍第44任務部隊(指揮官:オルデンドルフ中将)
BB《モンタナ》BB《オハイオ》
BB《アイオワ》BB《ニュージャージ》
BB《ミズーリ》BB《ウィスコンシン》

 アメリカ海軍第61-1任務部隊(デイヨー少将)
BB《コロラド》BB《メリーランド》
BB《テネシー》BB《カリフォルニア》
BB《ニューメキシコ》BB《アイダホ》
BB《ネヴァダ》BB《アーカンソー》

 ・日本海軍 第二艦隊(宇垣中将)
BB《大和》BB《武蔵》
BC《高雄》BC《愛宕》BC《鳥海》BC《摩耶》

 日本海軍・第七艦隊(司令官:阿部中将)
BB《長門》BB《陸奥》
BB《伊勢》BB《日向》
 
 ・イギリス海軍 A部隊(フレーザー大将)
BB《ライオン》BB《サンダラー》
BB《キング・ジョージ5世》BB《ハウ》

 ・イギリス海軍 D部隊(リーチ小将)
BB《ロドネー》BC《フッド》
BB《ウォースパイト》BB《クィーン・エリザベス》

 ・イタリア艦隊(連合軍側)
BB《イタリア》BB《コンテ・デュ・カブール》

 ・救国フランス海軍
BB《リシュリュー》

 上記以外には、日本とイギリスが空母部隊に戦艦、巡洋戦艦を合わせて6隻随伴させている。
 全てを合わせると、アメリカ海軍22隻、日本海軍14隻、イギリス海軍10隻、その他3隻の合計49隻になる。このうちイタリア、フランスは除外し、旧式戦艦の全てと日米の最強の戦艦を有する部隊が参加する事になった。参加戦艦数は30隻なる。
 もっとも、真っ正面から砲撃戦を挑むといいうような勇ましい作戦では無かった。流石に無為に戦艦を失いかねないような作戦は立てられず、最初は夜間砲撃戦を仕掛けることになる。相手が目視できない状況で、場所の分かっている固定目標に対するレーダー射撃を行うというのが作戦の骨子だ。何しろ相手は動かない砲台なので、20ノット以上で動く敵艦よりも狙い打つことは比較的容易かった。それに夜間艦砲射撃は、既にカリブ海で何度も経験済みだった。
 また、ドイツ軍がレーダー射撃する事を阻止するための各種電波妨害を実施し、さらに夜間爆撃も平行して実施されることになっていた。逆にドイツ軍が電波妨害を仕掛けてきても、夜間用の着弾観測機を飛ばす事も行われるし、通常通り照明弾も使う予定だった。
 なお、作戦参加する戦艦に新鋭艦も加わっていた。
 《モンタナ級》戦艦の発展型、新型の18インチ砲を搭載した《ルイジアナ》、《メイン》、《ニューハンプシャー》の3隻だ。ドイツ海軍の新鋭戦艦に対抗するため、実際は日本海軍の《大和型》戦艦への対抗心から計画途中で変更して16インチ50口径砲Mk.7の3連装砲塔から、18インチ47口径砲Mk.Aの連装砲塔に変更したものだ。それ以外にも砲塔の各部装甲が増厚されるなど、細かい違いもある。だが完成を急いだので、多くの部分は《モンタナ級》と同じだった。このため《モンタナ級》に含める場合もあるが、通常は《ルイジアナ級》戦艦と呼ばれる。
 搭載している18インチ砲は、口径では3mm小さいが口径の長い砲身のため初速は高く、また超重量弾を用いているため砲弾重量も46cm砲より300kgほど重い。威力の点でも史上最強である事は間違いない。しかし1番艦の完成は1945年のクリスマス。春までに3隻全てが戦列に参加できたが、如何せん完成が遅かった。倒すべき敵は1945年6月にまとめていなくなり、戦争自体も終盤にさしかかっていた。故にアメリカ海軍は、このカレー砲撃にかなりの力を入れていた。
 主力の一翼を占める日本海軍はというと、沿岸砲台相手の艦砲射撃にはやや消極的だった。上陸作戦時の艦砲射撃は、第二次世界大戦における運用から最早日本海軍の十八番、お家芸とすら言われたほどだった。だが、日露戦争の栄光と苦戦を語り伝えている日本海軍内では、要塞の砲台相手の砲撃戦は半ばタブーに近かった。同時期に進行しているノルウェー作戦においても、空爆によって強固な筈の砲台を破壊することに非常に積極的で、旧式軽巡洋艦を湾内奥地に送り込むことにすら反対気味だったほどだ。
 だがカレー砲撃は、連合国主要階軍国の面子がかかった作戦の様相を見せつつあったため、嫌々ながらも力を入れざるを得なかった。軍隊とは面子も非常に大切だからだ。

 砲撃自体は、他からの支援が少なく陣容の薄い西の端から順番に行われることとなる。しかも15cm砲以下の砲弾が届かない場所に戦艦部隊を配置することとして、戦艦部隊の前面には水雷戦隊を配備し、場所によってはレジスタンスや潜入工作員などの地上からの誘導に従い作戦を実施していくことになる。もちろんだが、展開海域の掃海、対潜警戒は最高度の厳重さとされた。
 カレー方面の一番西に設置されていた砲台は、射程距離の問題から旧式戦艦から外した28cm連装砲塔だった。その20キロほど東には最初の38cm砲群4門が睨みを効かせていたが、これも作戦初日の目標の一つだった。旧式戦艦の砲塔は、上面装甲を増厚するなどの措置は施されていた。また、別の場所に設置された比較的新しい測距儀と射撃用レーダーによって砲撃を行うように近代化されていた。
 攻撃は高射砲陣地など周辺部への空爆で開始される。
 定石の攻撃に対してドイツ軍も果敢に応戦したが、連合軍は通常の35倍から5倍を言われる規模で、一時的な制圧を目的とした照明弾を投下しての夜間低高度からのロケット弾攻撃と小型爆弾による絨毯爆撃を行った。しかも長時間に何度も行うのではなく、短時間の間に集中的な攻撃が二度行われた。そしてピンポイントではなく「面」制圧で過剰なまでに行われた攻撃で、普通なら対空弾幕と陣地などでしのげるはずが、多く陣地が破壊されたり兵員の大幅な損害で一時的な沈黙を余儀なくされた。
 そして次に、中高度からの大型爆弾による水平爆撃が実施される。2000ポンド爆弾は、地表で爆発すれば20メートルの巨大なクレーターを作り、爆風で周辺50メートル以内の人を殺傷できるとされている。通常は強固な目標の破壊に用いられるが、通常は貫通能力はない。対艦用の特殊爆弾のみが徹甲爆弾として装甲など強固な対象への貫通力を有している。日本海軍が41cm砲弾を改造した800kg徹甲爆弾を運用しているのが極端な事例となる。
 この時主に用いられたのは空軍(米陸軍航空隊)が用いる通常の2000ポンド爆弾だが、1機のB-24が一度に4発程度投下していく。一度に投下すると、機体が一気に軽くなって少し浮き上がるほどの重さだった。これが16機で一度に行われるので、投下された地点は通常は何も残さないほど破壊されてしまう。
 この空爆だけで、1門の38cm砲が大規模な修理を必要とする重大な損害を受けた。
 そうして爆撃のタイミングに合わせて、艦砲射撃が開始される。
 最初に火蓋を切ったのは、距離2万メートルに接近した旧式戦艦部隊を中核とするイギリス海軍D部隊。砲撃目標はすでに事前測定を終えていたので、猛烈な電波妨害を浴びせつつ目標とした2基で構成された28cm連装砲塔に集中射撃を実施する。4隻で1隻の旧式弩級戦艦を砲撃するのと似ているが、相手は砲塔以外は強固な鉄筋コンクリートと地下陣地なので、簡単に破壊することはできない。
 そして猛烈な射撃を浴びつつも、ドイツ軍の砲台も果敢に反撃の砲火を測定を終えている概略地点に浴びせた。だがドイツ側は、電波妨害以前に見た目にも分かりやすいレーダー観測所が空爆で破壊されていた。サーチライトの照射は自殺行為だった。敵砲火を目印に事前測定の情報に従って砲撃するが、最初から不利な戦いを強いられた。
 最初に砲塔上部に命中した砲弾は増強された分厚い装甲で弾き返したが、過剰な攻撃に対抗するには限界があった。無数に降り注ぐ徹甲弾の前に周囲の強固な鉄筋コンクリートは徐々に削られていき、場所によっては自重で内部に崩壊する場所も出てきた。別の一弾は砲身をへし折り、砲撃自体も徐々に衰えて、砲撃戦開始10分を待たずして2基の砲塔型砲台は見た目は比較的健在だが沈黙を余儀なくされた。特に砲塔内の兵士は、人の限界を超えた衝撃で、死傷はしなくても昏倒が続出し砲撃どころでは無くなっていた。
 28cm連装砲塔の危機を受けて、近在の4基の38cm単装砲も、すぐさま敵の砲撃方向に向けた援護射撃を20秒間隔という速さで開始した。だがこれは、連合軍の罠の一つだった。発砲炎で正確な場所を最終測定した別の戦艦部隊が、ドイツ側の砲撃開始から1分ほど経過した段階で砲撃を開始したのだ。
 しかも4門に対して2つの戦艦部隊が集中砲撃を実施する。砲撃を実施したのは日米の最強艦を有する部隊だった。合計12隻の新鋭戦艦群による15秒に1回の交互射撃は熾烈を極めた。砲撃開始から20分が経過した頃には、強固な重鉄筋コンクリートの構造物全体が、崩壊した古代遺跡のような有様となっていた。1発2発ならともかく、10発20発と重さ1トン以上の大きな運動エネルギーを持つ大型砲弾が立て続けに命中しては、どれほど強固な防御を施しても意味が無かった。中には砲身がちぎれ飛んで高々と舞い上がり、300メートル以上離れた場所まで吹き飛ばされたものもあった。同じ場所を何度も、複数の砲、複数の戦艦が砲撃するという戦闘は、通常の艦砲射撃ではあり得ない破壊力を発揮したのだ。
 またほぼ同時に、友軍の危機を見たドイツ軍の各砲台も一斉に敵を探し、そして砲撃を実施した。だが、最低でも20キロメートルも離れていては、射程距離外という場合がほとんどだった。周辺にある砲だと15cm長距離重砲による軽量弾が辛うじて届く程度だが、こちらも発砲で位置を暴露すると、護衛する駆逐艦と大型砲を片付けた戦艦群による集中射撃を浴びて、1門また1門と瓦礫の山になるまで破壊されていった。
 砲台の優位を、圧倒的物量しかも短時間での戦力の集中投入で覆してしまった戦闘が、この時行われた戦いだった。

 それ以後の戦いも、概ね似たような状況で連合軍が強引に破壊作戦を進めていった。7群の戦艦部隊は、2〜4部隊が出動してその都度砲撃を行い、ドイツ軍の沿岸砲台を順番に粉砕していった。端から順番に破壊されては相互支援も虚しく、今更移動することもできないので、その場で半ば無意味な徹底抗戦するより他無かった。それでも一部ではさらなる防備強化の工事を行おうとしたり、高射砲部隊の増強を実施した。だが、追加工事は激しい空襲で物資移動の段階で多くが阻止され、損害ばかりが増えた。局所的な場所への高射砲部隊の集中は、ただでさえ戦力が不足する中で他の地域への負担と損害を増やすことになった。
 また、夜中に近づいてくる連合軍戦艦部隊に対して、魚雷艇や小型潜水艇、潜水艦による迎撃も積極的に行われた。だが、連合軍艦隊は基本的に海峡の英本土側で行動する上に、そもそもドイツ軍に制空権がないので、闇夜の海上での行動も危険すぎた。しかもドイツ側は連合軍の戦力密度に対して少なすぎ、、十分な時間も作戦も無かった。また自らも反撃を受ける場所に出撃するため、ドイツ側が連合軍に誘われて英本土沿岸まで近づきすぎて、逆に沿岸から砲撃を受けるような事も起きた。探知能力に劣る小型の潜水艇は、艦隊に随伴する駆逐艦や護衛艦、夜間でも平然と飛び回る対潜哨戒機に追い散らされるか、敵の存在を知る前に葬られる事が多発した。そしてそうした攻撃で、本来なら連合軍の侵攻時に使う予定の上陸阻止部隊のかなりを消耗してしまっていた。

 だが、ドイツ軍がただ一方的にやられっぱなしだったわけではない。連合軍の艦艇も無傷とはいかず、被弾と損害は相次いでいた。しかし、多くの場合は巨大化した戦艦の防御力の方が勝っていた。《モンタナ級》戦艦が、15インチ砲弾を弾くような場面も見られた。
 そしてカレー正面は特に強固に防備されており、1000機単位の空襲でも簡単には破壊もしくは一時的無力化には限界があった。砲撃戦でも、敵が必ず上陸してくる場所なので特に強力な砲が多数配備されていた。
 ドイツ軍の切り札である40.6cm砲4門もここに配備されており、直接支援できる砲としても十字砲火を組める形で38cm単装砲3門、54.5口径28.3cm単装砲3門などが配備されていた。加えてドイツ軍の方も、敵の攻撃に対してある程度対策を立てていた。監視を強化するだけで敵の砲撃前に照明弾を打ち上げる事もできるし、潮流を調べて敵が取る可能性の高い進路を予測することもできた。浮遊機雷を砲撃予測地域に散布したりもした。かつてのガリポリの戦いでも、機雷が多くの戦艦を撃沈している。さらに昔の旅順要塞の戦いでも、戦艦を沈めたのは機雷だった。
 そして4月6日にカレー正面での砲撃戦が行われるが、連合軍もかなりの苦戦を強いられた。
 この砲撃に連合軍は4個戦艦群、うち2つは最強の戦艦部隊を送り込んだ。機雷に関しては予測済みなので、十分な対策を立てた上でほぼ完璧に阻止できたが、砲撃戦自体が非常に激しく行われた。連合軍側も、旧式戦艦群を中心にしてかなりの被弾を受けてしまう。沿岸砲台と船の対決の典型例のような場面もあり、被弾して戦線を離脱する戦艦が相次いだ。掃海などから漏れた機雷を触雷して、大損害を受けた艦も出た。しかしドイツ側に幸運の一弾が生まれることはなく、分厚い装甲で覆われた戦艦を沈めるには至らなかった。機雷に対しても、触雷前提で隔壁を閉じるなど対策を立ててきているため、3万トン以上の戦艦が沈むことも無かった。
 逆に、どの砲台も過剰な空爆と艦砲射撃の集中攻撃を順番に受け、次々に沈黙を余儀なくされた。特に《シャルンホルスト》から移設した3連装砲塔には、アメリカの18インチ砲弾が天蓋に命中し、砲塔の奥で炸裂した砲弾によって砲塔が天高く吹き飛ばされるほどの大爆発となった。戦艦なら轟沈しているような命中弾であり、他の砲塔型砲台同様に装甲を増していたのだが、想定以上の打撃の前に敢えなく屈したものだった。
 とはいえ連合軍も無傷とはいかず、駆逐艦5隻が沈没、戦艦3隻が判定中破に損傷。航空機も50機以上が撃墜破されていた。しかしこの損害は、連合軍が投入した戦力の10%にも満たないものでしかなかった。

 このカレー正面での戦闘をピークとして、その後も連合軍の過剰と言える沿岸砲台破壊作戦は続いた。大型砲を破壊し尽くすと戦艦部隊のほとんどは引き揚げたが、それは砲弾の打ちすぎで砲身内筒が摩耗したため交換が必要となっていたからだった。そしてこの交換も、イギリスに全ての機材と交換部品を持ち込んで各所で行われた。中には造船所、整備ドックなどが足りないため、日米の工作艦が岸壁に横付けして工廠施設の代役を務めることもあった。
 戦艦がいなくなっても、艦砲射撃自体は重巡洋艦などが行い、日を増すごとに脅威が低下していったので、昼間にも空襲と平行して艦砲射撃が実施されるようになっていく。
 そして沿岸砲台以外に対する攻撃が日増しに激しくなり、連合軍の「D-day」が刻一刻と近づいていることをドイツ人に直に教えた。


●フェイズ81「第二次世界大戦(75)」