●フェイズ82「第二次世界大戦(76)」

 「カレー上陸作戦」。
 作戦発動日は先年の「アイスバーグ作戦」、一般的には「ノースアイルランド上陸作戦」と呼ばれる英本土奪回の作戦決行日が「D-day」と呼ばれたのに対して、「A-day」と呼ばれることがある。作戦名は「オーバーロード」。
 なぜ「D-day」、「A-day」と呼ばれたのかは諸説あるが、少なくとも「A-day」は特に意味はなかった。「A-day」の方は、トランプの「A(エース)」つまり切り札という説が有力だが、実際は特に意味は設定されていなかった。

 作戦自体は、1946年4月半ばまでにブリテン島に進出した連合軍200万の兵力を、一ヶ月以内にヨーロッパ北西部に上陸させる史上最大規模となる大規模な上陸作戦だ。第一派上陸部隊だけでも20万を越える予定だった。
 目標はパ・ド・カレー(カレー港)。カレーの東約30キロには、1940年5月末に有名になったダンケルクがあるが、比較的大きな港湾のあるこの町も早期の確保が目指されている。また、反対側のカレーから20キロほど西にあるブーローニュも上陸予定地に含まれていた。これらのドーバー海峡にある港湾都市は、はるか昔に小さな入り江の奥や浚渫した港を作り、以後それらを手直しして少しずつ拡張しつつ使っている。20世紀になると大きな港湾とは言い難いが、上陸した後の補給拠点として使うには十分な能力を備えていた。

 連合軍の上陸地点については、敵味方双方がどこかを理解していた。強いて違いを挙げるなら、ドイツ軍はカレーからダンケルクの間に上陸すると予測しており、連合軍は西側のカレーよりもブーローニュ方面の西海岸沿いを上陸地点に定めていた事だろう。
 そしてどちらに上陸するにせよ、カレーからブーローニュは丁度ゆるやかな半島状の先端部にあたり、東西双方に視界が開いているため長距離沿岸砲台の多くが建設されてもいた。周辺部にも多数の砲台が急ぎ建設され、陣地が構築されていた。(※連合軍により、事前にほぼ全てが破壊されたが。)
 同地域の守備については、1945年6月までは砲台を含めてほぼ丸裸だった。1940年6月までに作られた陣地や軍事施設はあったが、ごく少数の警備隊以外置かれることは無かった。1944年夏頃からは、連合軍の潜水艦を警戒する為の措置が敷かれて部隊が置かれるようになったが、これも限られていた。
 そして1945年6月に状況が激変すると、俄に防衛体制の強化が実施される。
 場所はフランス領内なので、本来ならフランス軍が防衛も担当するべきだった。だが、ほぼ同時期に南フランスの地中海側に連合軍が大挙上陸してきたため、フランス軍はほぼ全軍を挙げてこの阻止をしなければならなかった。しかもフランス軍だけでは足りないため、ドイツ軍も少なくない戦力を急いで援軍として差し向けなければならなかった。このためドーバー海峡の対岸を守る戦力が無かった。
 出生率の低さもあり第一次世界大戦の人口学的損害から回復できていないフランスでは、兵士のなり手が少なくなっていた。すでに通常の徴兵年齢の若者は、ロシアの大地で倒れるか、北アフリカで捕虜となっていた。それでも全滅したわけではないが、徴兵年齢を大幅に広げざるを得なくなる。
 もっとも徴兵は40才程度までが肉体的な限界なので、一見25年から30年前の戦争はそれほど影響はないと考えがちとなる。事実、ドイツはそれほど深刻な影響は出ていない。これはフランスで第一次世界大戦前後までに出生率が低下していたことが影響している。そして第一次世界大戦が拍車をかけていた。このため30代の兵士のなり手が他国に比べて少なく、さらに補助的な地域の治安程度を担う老年民兵のなり手が少ないため、そちらにまで30代の人が吸い取られていた。25年から30年前に兵士だった者は、多くが第一次世界大戦で戦死するか深い戦病を負っていたからだ。
 そして兵士のいないフランスは、ドイツにドーバー防衛を託さねばならなくなる。そしてドイツ自身も、フランスはあまりアテにならないと考えていたので、ドーバー防衛を半ば自ら買って出ていた。
 とはいえドイツ軍に兵力の余裕があるわけではない。

 ドイツ軍が主に兵力を注ぎ、そして失ったのはロシア戦線だが、ロシアでの戦いで人口学的にはすでに致命的といえる損害を受けていた。武装親衛隊が兵士のなり手を同盟国に求めたのも、そうした一面がないわけでない。
 そしてドイツ軍は、彼らにとっての主戦線となる東部戦線(旧ロシア戦線)から多くの兵力を引き抜くわけにはいかないので、英仏海峡沿岸部に増援できた兵力は限られていた。しかも南フランスにも援軍を贈らなければならない為、さらに当面の兵力が減少した。その代わりと言うべきか、それまでも行われていた後方に下がって戦力を再編成している部隊のかなりが、フランス北西部に来るようになる。これは回復の負担のかなりをフランスが負わなければならないが、フランスにとっても背に腹は代えられないため、両者の合意で行われた。同様の事はベルギー、オランダでも行われ、これにより1945年内には、後背地を含めると一定の戦力形だけだが展開するようになる。
 そして初夏が近づくにつれて、配備される兵力も増えた。
 この結果1946年初夏の頃には、カレー周辺半径50キロに移動手段がなく装備に劣る「張り付け師団」が8個、その少し後方に一般の歩兵師団が3個配備された。しかし1個師団当たりの戦力が連合軍の実質半分程度なので、実質兵力としてはまったく不足していた。「この程度の戦力」でしかないのは、フランス南部から兵力が引き抜けないのもあるが、他の大西洋沿岸各地にも最低限の戦力を置いておかないといけない為だった。連合軍は、遠距離から出撃して自由に上陸作戦ができるので、無防備な場所を晒せばすぐさま襲いかかってくると十分に予測されたからだ。その事は北アフリカの地中海側でも思い知らされていた。しかしそこまでドイツ軍が面倒見切れないので、カレー以外の沿岸防衛はフランス軍がかき集めた戦力が充てられていた。それでも足りない分は、ドイツ軍が「東方大隊」として編成したロシア戦線で戦わせるには信頼できないソ連軍のロシア人捕虜の部隊が充てられていた。この東方大隊は、それ以外の東部戦線以外にいるドイツ軍にも数多く配備されており、最大で200個大隊(※20万人以上)が編成されていた。カレー方面の張り付け部隊の一部も、この東方大隊だった。統計数字では、フランス北部の枢軸兵の6人に1人が東方大隊所属とされている。
 そしてカレー正面に戻るが、連合軍を追い落とす役割を担うドイツ軍の機甲戦力だが、カレーの東のベルギーとフランス国境の辺りに1個装甲師団、カレー後方と西のパリとの中間地点に2個師団(1個装甲軍団)が配置についていた。
 フランス領内には、他に3個の装甲師団、1個の装甲擲弾兵師団、3個の歩兵師団が配備されていたが、全て南部のリヨン方面の防衛にかり出されていた。同方面には1個軍集団以上の規模のフランス軍の総力といえる部隊が防戦に当たっていたが、地の利を得て狭隘な地形を利用しても、連合軍のクリューガー大将が率いる第51軍集団を防ぐのが精一杯だった。

 南フランス方面の連合軍は、1945年6月の上陸以後毎月のように軍団規模の部隊を増強して戦力をジリジリと拡大した。一気に増やさなかったのは、当初は沿岸部だけで展開できる陸地を占領していなかったからだ。8月のマルセイユ陥落後は占領地も増えたが、イギリスへの輸送に船舶を取られ、さらに英本土奪回で北西部からの上陸が決まったからだ。山岳部の突破に規模の大きすぎる戦力があっても仕方ないし、物量線を仕掛けたところで突破には時間がかかる事には違いないので、大軍投入は戦略的意味が小さいと判断されたのだ。
 それでも戦争末期の連合軍なので、豊富な戦力を有していた。
 1946年春の時点でアメリカ軍2個軍、日本軍1個軍、救国フランス軍1個軍の総数43個師団が展開していた。師団数の差だけを見ると連合軍が少し多い程度なのだが、もともとフランス軍は1個師団当たりの規模が小さく、ドイツ軍も戦略単位の師団を増やすため部隊規模が小さくなっていたため、単純な兵員数の差だけで連合軍の師団とは二倍近い格差が出ていた。その他装備の優劣を加えると、地上戦力の格差だけで3倍半もあった。その上に、稼働戦力で10倍近い格差のある空軍、双方の補給状況が加わるためさらに戦力差は開き、実戦力差は5倍以上と見られていた。
 1年近い戦いで、緩やかな山岳部や丘陵地帯とはいえ200キロ程度の後退で済んでいるのは、連合軍の補給体制が長期間確立されなかったのと、フランス軍を中心とする枢軸軍は善戦していた何よりの証拠だった。だが枢軸軍にとって防戦も限界に近づいており、連合軍も手をこまねいているわけではなかった。南フランス戦線の連合軍の後方では、イタリア方面で仕事の無かった日本軍1個軍の精鋭が移動しつつあった。
 これらの戦力にフランス北部への突破を許さない為には、連合軍のカレー上陸を何としてでも阻止して余裕と予備兵力を作り上げ、その余剰した戦力を南部に回さなければならなかった。そうしなければ、上陸作戦を阻止したとしても、結果としてフランスが連合軍の手に落ちてしまうと明確に予測されていた。

 なお、1946年春頃の連合軍(陸軍)の大まかな配置は以下のようになる。

 ・北大西洋戦域軍(ニミッツ元帥) 《イギリス方面》
  第21軍集団(モントゴメリー大将):英2個軍、米1個軍
・アメリカ第2軍(アイケルバーガー中将)
・イギリス第1軍(デンプシー中将)
・イギリス第2軍(マウントバッテン大将)※旧英本国軍
  第12軍集団(クラーク大将):米2個軍、英1個軍
・アメリカ第5軍 ※本土待機軍。編成表上のみ。
・アメリカ第9軍(シンプソン中将)
・アメリカ第10軍(バックナー中将)
・イギリス第12軍(パーシバル大将)※旧英本国軍
  予備
・海兵隊欧州遠征軍(ヴァンデクリフト大将)
・日本海軍特別陸戦軍(太田中将)

・中部大西洋戦域軍(マッカーサー元帥)《フランス方面》
  第51軍集団(クリューガー大将):米2個軍、仏1個軍
・アメリカ第6軍(デヴァース大将)
・アメリカ第8軍(ウェインライト中将)
・救国フランス第1軍(司令官:ド・ゴール大将)
  日本陸軍遣欧総軍(連合軍第52軍集団)(岡村大将):日2個軍
・日本第10方面軍(地中海方面軍):牛島中将
・日本第11方面軍(大西洋方面軍):本間大将

・地中海戦域軍(アイゼンハワー元帥)《イタリア方面》
  第15軍集団(ブラッドレー大将):米3個軍、日1個軍、伊1個軍
・アメリカ第1軍(ホッジス大将)
・アメリカ第3軍(パットン大将)
・アメリカ第7軍(パッチ中将)
・日本第8方面軍(伊太利亜方面軍):山下大将
・イタリア第1軍

 上記のうち指揮官名が無いイタリア軍は、まだ連合軍部隊として編成中であるばかりでなく名目上に近い編成で、各部隊は師団単位で連合軍各部隊の指揮下に置かれていた。
 そしてこれ以外の戦力となると、世界各地で残敵掃討や治安維持に当たる部隊(※各地のGHQ所属部隊含む。)と、アメリカ、日本の本国に留め置かれている形の部隊だけになる。
 また、南仏に日本陸軍遣欧総軍が設立されているが、これも1946年春時点では約半数が移動と編成作業中で、前線のやや後方に位置していた。
 なお、指揮官の第10方面軍の牛島中将は、欧州での戦いが始まってから45年6月まで山下将軍配下の第32軍を率いていた。この時期イタリアでの戦いで活躍し、特にアメリカ軍から高い評価を受けた。その後しばらくは欧州の総司令部勤務をしていたが、そして岡村大将の実質的昇進(総軍司令官への転任)に合わせて、連合軍内での協議の結果を受けて反映された日本陸軍内での人事の結果、方面軍指揮官に就任した。日本陸軍内での経歴や年齢的にも順当な出世と抜擢ではあるが、陸軍中枢の永田=東条の派閥ではなく、特に東条将軍との関係が悪いため、戦時でなければ、連合軍として戦っていなければ無かった人事とも言われている。牛島中将の大将昇進が方面軍司令就任と共で無かったのも、日本陸軍主流ではない為だと言われている。なお牛島将軍は、前線に出てくるまでの陸軍士官学校校長務め、その後の前線での指揮ぶり、総司令部勤務での各国軍人との交流で、アメリカ軍から非常に高い評価を得ている。特にアメリカ第10軍司令のバックナー将軍が高く評価していた。

 話しをカレー上陸作戦に戻すが、上陸するのは第21軍集団(モントゴメリー大将)麾下のアメリカ第2軍とイギリス第1軍、第11軍になる。上陸作戦の第一波は、45年6月の「アイスバーグ作戦」と大きな違いは無かった。ノルウェー奪回作戦でアメリカ海兵隊が大挙参加していたが、「アイスバーグ作戦」参加部隊はノルウェー奪回作戦には参加していなかった。

・「オーバーロード」第一波上陸部隊:
 ・英第1軍団:
 加第3師団、豪第2師団、豪第8師団、英海軍コマンド旅団
 ・英第3軍団:
 英第44師団、英第50師団、英第79機甲師団
 ・アメリカ第2軍団:
 陸軍第1師団、第1騎兵師団、陸軍第23師団、他独立大隊多数
 ・アメリカ海兵隊第1遠征軍(軍団):
 第1海兵師団、第3海兵師団

 ノースアイルランド上陸作戦との大きな違いは、旧英本国の軍団が加わっている事と、空挺部隊が多数参加することだった。

 ・第一空挺軍団
 米第82空挺師団、米第101空挺師団、英第1空挺旅団

 第一波のうち6個師団が同時上陸予定で、海兵隊は遠征軍(軍団)丸ごとが上陸を敢行する予定だった。
 上陸作戦の指揮は、同じくモントゴメリー元帥。上陸船団の実質的な統括はターナー大将が行う。そして上陸船団の直接護衛と支援には、司令部の交代でキンケイド大将が前線に戻っていた。その他上陸支援には、連合軍海軍が総力で当たる予定で、空母機動部隊も危険を冒して北海の奥深くに布陣することになっていた。機動部隊指揮官のキンメル大将と伊藤中将、主力艦隊のリー大将と宇垣中将など、綺羅星のごとき提督達が率いる艦隊が、可能な限り全て参加予定だった。ノルウェー作戦を終えたばかりの空母部隊、事前艦砲射撃任務の戦艦部隊も、英本土各所で英本土の工廠と世界中から集まった工作艦部隊、そして巨大な補給支援部隊によって作戦準備が大車輪で整えられていった。
 上陸する部隊も、今まで世界中で上陸作戦をしてきた艦船が可能な限り全て投入される予定だった。もっとも、本当に全てを作戦に投入すると一度に1個軍、10個師団以上の部隊が上陸可能で、上陸用舟艇の数などは1万隻を越えてしまう。この数字を一度に運用するのは最盛期の連合軍にとっても流石に荷が重く、大きく2波に分けられる予定だった。つまり作戦初日と二日目以降に、続けざまに巨大な規模の上陸部隊がドーバーの海岸に押しよせるのだ。
 パ・ド・カレーを目指すのも、イギリス本土のドーバーの対岸から直接上陸用舟艇などで乗り込むものから、大戦を戦い抜いてきたランプ型の揚陸艦、ドック型揚陸艦、戦車揚陸艦、揚陸用大型貨物船などに搭載され、ウェールズ方面や、遠くリヴァプール、さらにノースアイルランドから出撃する部隊もあった。
 「M11」水陸両用戦車は、上陸第一波の師団全てに特別編成の大隊で組み込まれ、参加総数は350両に達していた。

 第一波上陸部隊のうち英第3軍団は旧英本国軍で、志願によって危険な場所への上陸を行うことになっていた。そこで俄に注目を集めたのが、英第79機甲師団だった。同師団はホバート将軍が各方面に運動して設立したに等しいが、英本国が追いつめられなければとっくに解体されていた部隊でもあった。というのもホバート将軍は、英本国陸軍内では戦前から機甲部隊に金ばかり使うという面から、伝統的な騎兵などから嫌われ疎まれたため解任された経歴すらもっていた。しかしその後は民兵に志願しても戦い続ける不屈の人であり、戦況が逼迫した1944年秋以後に旧階級で現役に復帰。機甲部隊の一翼の育成を任されるようになる。そしてそこで、各方面から藁にも縋るような人々から装備と資材、人材を集めて部隊を編成していった。変わり種の兵器が多いことから「ホバート将軍の愉快な仲間達」と言われるも、将軍自身は気にもせず部隊の編成を急いだ。しかしブリテン島決戦に温存されたため、この時は実戦を行うことは無かった。
 そして元々嫌われ者の変人将軍と彼が編成した部隊なので、すぐにも予備役に編入され解体を待つばかりとなった。だが、連合軍が英本土に進出してくると、俄に注目を集めた。第79機甲師団の所属車両が、防衛だけでなく上陸作戦に向いていると判断されたからだ。しかも連合軍は、英本国の人々と違ってホバート将軍自身を高く評価しており、彼が編成した部隊、彼のアイデアで製作された兵器も高く評価していた。そして敗軍であるため何も反論できない旧英本国軍は、同部隊を上陸第一波に組み込みA-dayを迎えることとなった。ただし部隊番号が79のままなのは、英本国軍人の当てつけだった。本来ならもっと小さな数字を充ててしかるべきだが、英本国軍にとって書類上は予備部隊だという嫌味であった。

 しかし上陸作戦も上陸部隊の出番も、もう少し先立った。巨大すぎる上陸作戦であり失敗が決して許されない上陸作戦のため、事前攻撃が徹底して行われていたからだ。戦艦を総動員した沿岸砲台の破壊も、事前攻撃の一環だった。
  上陸作戦に先立つ事前爆撃は、1946年2月頃から本格化した。本来は3月初旬からの予定だったが、ドイツ側のある動きが計画の前倒しと作戦の一部変更を強いた。
 ある動きとは、準中距離弾道弾「A-4」またの名を「V-2」による、ブリテン島南東部に対する爆撃だった。
 「V-2」は1945年秋頃に実戦投入が開始され、12月のソ連軍への攻勢で大規模に使われたことで連合軍内でも注目を集めた新世代の兵器だった。厄介なのは、一度発射されてしまうと誰にも止めることができないという点だった。マッハ7で成層圏はるかに登って落下してくるので、当時のレーダーで正確に捉えることすら難しかった。幸い命中精度は悪く搭載弾薬も1トン程度だが、弾頭に毒ガスを仕込まれたりしたら、どれほど損害が出るのが予測も難しいほどだった。流石のナチスも毒ガス使用には踏み切らなかったが、制空権を失った代わりと言わんばかりに、同兵器による爆撃を日常化させるようになった。1946年1月まではソ連軍相手に多数が使用されたが、ポーランド東部での戦いが一段落すると俄に標的をブリテン島南東部に絞ってきた。
 「V-2」の名が、もともとヒトラー総統が寝返ったイギリスへの報復のために命名された事を思えば、ようやく目的通り使用された事になる。その証拠とばかりに、最初の頃の数十発は政治的目的の為にロンドンに撃ち込まれた。
 しかし命中精度が悪く、それほど沢山発射できるわけではないので、戦略的効果はほぼ皆無だった。その代わり、ドイツ側が主に狙った市民に恐怖感を植え付けることには成功した。何の前触れもなく落下してくる事が、逆に恐怖感を高めたからだ。
 同時期にブリテン島に撃ち込まれるようになった「V-1」の方が数は圧倒的に多かったが、ジェット機すら動員するようになった連合軍にとって大きな脅威とは言えず、「V-2」の方が強く印象に残ることになる。
 だが「V-2」によるロンドン爆撃は、嫌がらせ目的の散発的な攻撃を除き短期間で終わる。

 ドイツ軍側は、ロンドンに撃ち込んでも戦略的にあまり意味のない事は分かっていたので、象徴的なロンドン爆撃を行った後は、連合軍の作戦を阻止する攻撃へと切り替えた。
 ドイツ軍が狙ったのは、連合軍がカレー上陸のための作戦準備している場所だった。揚陸艇の集結するポーツマスなどの港湾都市、港湾都市の後背に設けられた巨大な兵站拠点、兵士達が駐屯している兵舎などである。
 この攻撃は当初かなりの効果が認められ、連合軍は少なくない損害を受けると、「V-2」発射をある程度阻止できるようになるまで、南東部での作戦準備を他の地域に代替した。また、ロケットが全く届かない場所での作戦準備を先に進めた。渡洋侵攻部隊が多く作戦に参加しているのには、こうした事情も存在していた。
 そして発射阻止のため連合軍が取った手段が、発射地点の徹底した爆撃だ。しかし「V-2」の発射は固定施設だけでなく、簡易施設による移動しての発射も可能な上に、固定発射施設でも森林で隠蔽されていたりしたら発見が困難な事もあった。それでも連合軍の事前爆撃が、ドイツ軍の爆撃が大規模化する前に動きだしたことが幸いして、多数の機体を動員することで発射阻止と設備、弾道弾の破壊は順調に進んだ。装備を揃えれば移動できると言っても、当時としては危険な液体酸素を注入してからの発射なので、その事も連合軍の攻撃を成功させる要因となった。加えて連合軍は、ドイツ軍が攻撃を続けるように、南東部での上陸準備を続けているように見せかける偽装工作も徹底して行い、ドイツ軍は遂に囮となっていた南東部への攻撃を止めることはなかった。
 だが、、「V-2」発射を完全に阻止できるわけでもない為、元を絶つために生産施設の破壊作戦が計画された。しかし直接の偵察、諜報情報、生産統計の調査などで調べると言っても全てはほとんど初めからしなければならないため、短期間での破壊は困難だった。そうした中で、取りあえずドイツ全土の航空偵察の見直しが短期間で行われた。そこでオーデル川河口部のウードゼム島が注目されたが、航空偵察で確認されたのは「以前に活発に使用されていた公算大」という事だった。当地は実験場もしくは生産施設と考えられたが、すでに人や車両の移動はほとんど見られず、それが擬装である可能性も低かった。つまり攻撃を受けることを予期して、すでに施設は移動もしくは疎開していたのだ。事実ドイツは、1945年冬のソ連軍への大量使用の後で施設が攻撃を受けることを予測し、1946年2月には一斉疎開と移動をしていた。だが疎開は間一髪というのが正しく、連合軍の偵察が2週間早ければ稼働状態の施設の写真が撮られていた筈だった。この場所こそが、後にペーネミュンデの名で知られる場所だった。
 結局、連合軍は発射阻止の攻撃を続行するしかなかったが、攻撃の規模が大きかったのでドイツ軍の意図の多くを阻止することには成功する。しかも移動の阻止にも攻撃が向けられたため、「V-2」部隊以外もベネルクスやフランス北東部での動きを酷く妨害されることになる。そしてその空爆は、本格的にカレー上陸作戦の準備へと向けられるようになった。

 英本土方面(稼働機:約1万1000機 ※輸送機除く)
英・第1航空軍(自由英系)
英・第11航空軍(旧本国系)
米・第3航空軍
米・第6航空軍
米・第8航空軍(戦略空軍)
米・第15航空軍
日・海軍第十一航空艦隊

 イギリス本土を根城としていた連合軍空軍は、以上の部隊を主としていた。しかし以前説明したとおり、旧イギリス本国所属だった空軍は準備不足で、日本海軍航空隊はノルウェー作戦に主力が参加しておいた。このため戦略空軍を含めても9500機程度が事前空襲に動員できる状態だが、同方面のドイツ空軍との戦力差は圧倒的格差があった。純軍事的に言ってしまえば、これほどの制空権差が開いてしまえば、後は何をしても連合軍の作戦は成功したも同然だった。その事はノルウェー作戦でも十分に証明されていた。
 そしてその連合軍のノルウェー侵攻で、ドイツに動揺が広がっていた。そしてドイツ軍は、集中しなければいけない筈の戦力の分散という愚作を取ってしまう。
 今まで一貫して、連合軍のカレー上陸は確定的で他はあり得ないと予測していたのに、作戦発動期間に入ってすぐノルウェーに連合軍が大挙侵攻してきた事は、カレー上陸作戦こそが真の囮なのではないかと強く疑ったのだ。
 連合軍はあからさまなカレー上陸の準備をすることで、ドイツ軍の少ない戦力をカレー方面に集中させ他を手薄にさせて、別働隊で易々と無防備な海岸に上陸。その後も反撃を受ける前に橋頭堡を拡大する、というのが作戦の本命なのではという予測は、瞬く間にドイツ中枢を汚染していった。もちろんその事をドイツ軍も警戒しており、最低限の戦力は各地に配備していた。だが酷い場所だと100キロに1個師団という場所もあり、ライン川河口部ですら十分では無かった。
 そしてドイツ軍の懸念を裏付けるように、連合軍の上陸作戦部隊のかなりがブリテン島の中部や北部で上陸作戦の準備を進めていた。彼らは中型以上の洋上揚陸艦船で編成されているため、別にカレーでなくても欧州北西部のどこにでも上陸作戦を仕掛けることができた。それを証明するかのように、ノルウェー上陸作戦が実施された。しかも実質的に無防備同然だったノルウェーは、呆気ないほど短期間で連合軍に占領(もしくは奪回)されつつあり、同じ情景はカレー以外の欧州北西部沿岸でも実現されうる情景だった。カレーとカレーに近いフランドル沿岸、オランダ沿岸、ドイツ本土は比較的に例外だが、それ以外ならどこでも連合軍の巨大な戦力の前には無防備同然だった。だがフランドル沿岸、オランダ沿岸も、彼我の戦力差、連合軍の強襲上陸能力を考えれば十分な戦力とは言えなかった。このため各地から集められたなけなしの増援の一部は、フランドル沿岸、オランダ沿岸などに配備され、本来配備されるべきカレー方面には置かれなかった。
 こうした中で俄に注目を集めた場所が、ノルマンディー半島の付け根辺りの沿岸だった。
 同地域を含めたルアーブル周辺から西側沿岸の全てがフランスの防衛担当だったが、フランス軍はただでさえ戦力不足なのに、南部に戦力の殆どを取られており、沿岸部の防衛はままならない状態だった。若干の沿岸砲台を建設するのが精一杯で、フランス北西部の制空権も既にほとんど失っていた。最も重要なブレスト軍港も、1945年の冬ぐらいから連合軍の爆撃と機雷投下で軍港としてほとんど機能していなかった。
 ノルマンディー地方の防衛については、廃兵、老年兵ばかりで装備の劣る規模の小さな3個歩兵師団(=移動力のない張り付け師団)が細く長く守備をしているだけだった。ドイツ軍から「東方大隊」の増援は受けていたが、フランス軍はロシア兵捕虜をほとんど信用せずに、陣地建設や交通網復旧など後方での雑用にしか使っていなかった。ブレストのあるより西部のブルターニュ半島の防衛体制はもっと酷いが、こちらに上陸してくる可能性は地形などから流石に低く、他の地域も含めて引き抜ける限り引き抜いて南部に兵力を回しており、ノルマンディー方面はまだマシな方だった。
 連合軍がノルマンディー方面から上陸する場合は、ソ連とのドイツ本土進撃競争が距離の問題から後手に回る可能性が高いと見られ、当初は上陸予測地点から外された。
 しかし連合軍のノルウェー上陸以後はそうも言ってられないため、ドイツ軍が1個軍団を配備することになり、貴重な1個装甲師団、1個装甲擲弾兵師団、2個歩兵師団がノルマンディーのやや後方からセーヌ川下流域の西方にかけて配置された。やや中途半端な配置だが、この辺りなら連合軍の上陸がノルマンディー、カレーのどちらでも、事前に察知さえできればある程度対応できると考えられたからだ。

 ドイツの懸念をよそに、連合軍によるカレー周辺の事前爆撃は1946年2月中旬から本格的に開始された。戦略爆撃論者も強引に説得され、4発重爆撃機を擁する米第8航空軍も事前爆撃に大挙参加していた。
 主な目標は二つ。一つ目は、上陸地点の制空権獲得のための飛行場と戦闘機。もう一つは、カレー周辺とそこに続く道路、鉄道、運河など交通連絡線(交通網)だ。2月半ばから4月末にかけて、ブリテン島を根城とする連合軍は、毎月12万トン(120キロトン)以上の爆弾などを敵地に向けて投下したが、そのうち80%はカレー上陸関連の目標に向けられた。(※連合軍全体での爆弾投下量は、一ヶ月で20万トン(200キロトン)に達する。)
 この攻撃の破壊効果は凄まじく、ドイツ軍の事前防衛準備の多くを阻害し、施設、装備、そして兵員を失わせた。特に交通連絡線の破壊は致命的と言える状態で、5月までにドイツ軍はカレー方面で移動もままならない状態に追い込まれていた。しかも連合軍は、ドイツ軍が兵力の一部をカレー以外の北西部沿岸に配置したことを知ると、それぞれの地域の爆撃も余裕を見つつではあるが強化した。特に、それぞれからカレーに向かう道路の破壊を徹底した。
 道路の破壊は短期間での復旧は難しく、連合軍内では破壊しすぎて上陸後の進撃に大きな影響が出るのではないかと懸念されたほどだった。そして少しでも対応できるようにと、道路復旧を目的とした工兵部隊と装備の増強も急いで実施された。しかし急には工事車両を用意できないので、アメリカ本土から民間用の工事車両が有志の形でかき集められ、急ぎ船に乗せてブリテン本島へと送り込まれたりもした。

 連合軍にとって、この道路工事車両の事一つ取っても、カレー上陸作戦の成功と勝利は約束されたていた。


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