●フェイズ82「第二次世界大戦(76)」

 1946年4月下旬にはいると、ヨーロッパ大陸北西岸への上陸作戦に参加する連合軍作戦部隊は出撃地点での待機状態に入った。

 ベルファスト、リバプール、ポートタルボット、カージフ、プリマス、トルベイ、ポーレ、サウザンプトン、ポーツマス、ブライトン、テムズヘブン、ロンドン、サウスエンド、そしてスカパ・フロー。どの港も、いやイギリス中の港という港に連合軍の艦船が溢れていた。
 ほとんどの船はアメリカ沿岸のどこかの港からやって来たが、戦闘艦艇を中心にはるか東からやってきた船も混ざっていた。掲げる旗は、アメリカ合衆国、イギリス連合王国を中心として、日本帝国、英連邦各国、救国フランス政府、イタリア王国、自由ポーランド政府など多くに及んでいた。中には、遅ればせながら連合軍に参加した中南米の国旗を掲げる船もあった。
 しかし機密保持のため、いつどこに上陸するのかは一般将兵には知らされていなかった。知らさているのは、佐官クラス以上の上級将校に限られていた。また各艦船には、兵器、機材、物資は満載されていたが、将兵の乗り組みはなかなか命じられなかった。将兵は作戦発動48時間前にならないと乗り組を命じられないからだ。
 このため兵士達の間で緊張が高まると共に、上陸地点についての憶測が飛び交った。日時と場所を対象とした賭け事も流行った。一番人気はカレー。それ以外あり得ないというのが理由で、オッズは限りなく1に近かった。それ以外だと、ドイツ軍が賭けたかも知れないノルマンディー、フランドル、オランダ西岸、エルベ川河口部などがあったが、やはり連合軍内ではカレー以外あり得ないというのが一般将兵の認識だった。
 一方で、日時については少しばらつきがあった。
 4月末から5月10日頃までばらつきがあり、場合によっては6月の5日〜7日という予測まであった。

 そうした中、5月6日早朝から約一ヶ月前の作戦からの整備と補給を終えた巨大な空母機動部隊が、他の艦船に先駆けてスカパ・フローなどから続々と出撃を開始した。連合軍海軍にとって、ノルウェー作戦はウォーミングアップだったとでも言いたげな出撃だった。
 空母機動部隊の目的は、上陸作戦の前に邪魔者を一掃する露払いだ。そして一撃必殺の空母機動部隊が大挙出動したという事で、誰もが上陸作戦が実働状態に入ったと感じた。
 日米英合わせて12個群60隻の高速空母、4500機もの艦載機を擁する空母機動部隊は、北海の出口付近で四半日かけて巨大な陣形を組み上げると、高速空母艦隊としては比較的ゆっくりとした速度(12ノット)で北海を南下していった。翌々日の夜明け前には、北海沿岸が十分な攻撃圏内に入る予定だった。
 艦隊にはノルウェー作戦時に加えて、イギリス海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍の高速戦艦打撃艦隊が加わっていた。艦艇数は直接的な数だけで350隻を越え、13個の艦隊に分かれて北海を圧するように堂々と進撃した。隠れる必要もないので、敢えて見せびらかせるような堂々とした進撃だった。本来ならドイツ海軍のUボート、ミゼットサブ(小型潜水艇)、Sボート(魚雷艇)などを強く警戒しなければならないが、あえて対潜水艦航行は取られなかった。
 しかしドイツ軍潜水艦に対しては、基地航空隊の対潜哨戒機と別働隊の熟練したハンターキラー戦隊6個群が前衛や側面に展開して徹底した警戒と掃討を行っていた。ハンターキラー戦隊だけで、護衛空母9隻、旧式軽巡洋艦2隻、護衛駆逐艦38隻にも上る。さらに英本土に移動していた、もともと空母部隊に属していた対潜水哨戒機隊も出撃していた。もちろんだが、空母部隊の随伴艦艇も積極的な潜水艦掃討戦を実施した。
 そしてドイツ海軍は、連合軍の大艦隊が夜間北海を南下してくると分かると、少しでも敵空母の行動を阻止しようと試みた。分かっていた事だが、まともに攻撃を受けると戦闘の段取りが何もかも無茶苦茶にされてしまうからだ。
 連合軍としては、ドイツ軍が手を出してくれることを期待してのあからさまな夜間進撃でもあったが、ドイツ海軍はまんまと乗せられた形だった。そしてドイツ軍としては、嫌でも乗らざるを得なかった。しかも生半可な攻撃が通用しないのは今までの戦いで立証済みなので、ドイツ海軍も総力を挙げて攻撃を実施した。
 当時ドイツ海軍は、北海方面に約60隻のUボート(主にXXI型)と80隻のゼーフントなどのミゼットサブ、100隻以上のSボートを、連合軍の上陸作戦に備えて配備されていた。このうち今までの爆撃の逃れて出動可能だったのは全体の70%程度だが、潜水艦、小型潜水艇の全てに出撃を命じる。
 合わせて約100隻が各地から出撃したが、5月6日夜から激しい水面下と水上での戦いが始まる。
 そしてこの戦いで意外に活躍したのが、連合軍の潜水艦だった。

 連合軍の潜水艦は、連合軍がインドを奪還し、さらに大西洋を押し渡って以後、偵察任務以外の活躍の場が大幅に減少していた。欧州枢軸の船舶を洋上で見ることが無くなったからだ。それでも地中海がまだ残っていたが、イタリア上陸後はもはや敵商船の姿を欧州大陸沿岸以外で見ることも無く、大型戦闘艦艇すら滅多に出撃してこないため、偵察任務ぐらいしか残されていなかった。
 そこで新しい任務として考案されたのが、可能な限り秘密裏に欧州沿岸部に近寄り艦船を襲撃する任務だった。そしてその任務の攻撃対象は、何も水上艦船とは限らなかった。
 この時代に水中同士での戦いはほぼ不可能で、連合軍も敵潜水艦と水中戦をしようとしたわけではない。この時代の潜水艦は「可潜艦」とすら言われるように、水中行動できる時間が限られ、敵のいない海域では水上航行するのが普通だった。このため連合軍は、海上で多くの対潜水哨戒機を飛ばすことでUボートの行動を封殺し、ドイツ海軍は航空機に見つかった場合に備え、尚かつ潜行までの時間稼ぎをするため、潜水艦が対空兵装を強化するというおかしな事態になっていた。さらに連合軍は潜水艦に高性能レーダーを搭載して、これを積極的に活用することで敵を発見し、さらには遠距離から水上雷撃すら行うようになる。遠距離雷撃を選んだのは相手に悟られないためで、相手のレーダー能力が低ければ非常に有効な戦術だった。そして潜水艦が水上戦で雷撃を受けることはないという固定観念もあり、何隻ものUボートが餌食となった。そして攻撃を受けた艦の殆どが、攻撃を受けたときに不意打ちで沈められるため、ドイツ海軍の司令部は潜水艦から攻撃を受けたとは考え無かった。しかし欧州沿岸で沈められる事態が何度も発生し、さらには攻撃を受けても生還した潜水艦からの報告が上がることで、連合軍潜水艦の攻撃だと知ることになる。だが、当時の潜水艦の能力では、出撃当初からずっと潜水したままというわけにもいかず、警戒を厳重にする以外の措置は取れなかった。
 1946年4月下旬でも変わらず、しかも連合軍がかなりの数の潜水艦を敵潜水艦襲撃のために送り込んだため、各所で早々に沈められるUボートが相次いだ。せめて沿岸部の制空権が維持できていれば良かったが、既にそれすらできない状況なので、出撃初期の段階で水上航行中に雷撃を受けて沈んだ。特にレーダー、高性能ソナーを搭載する余裕のない小型潜水艇の損害は激しく、10隻以上が餌食となった。
 次に襲ってきたのは、夜も関係なく飛び回る基地航空隊の対潜哨戒機だった。各種レーダー、磁気探知装置、サーチライトで目標を探しだし、磁気、音響など各種爆雷と必殺の誘導魚雷で次々に沈めていった。中には、対潜ロケット弾、初期的な対潜ソノブイを使用した戦例も見られた。
 そして潜水艦、哨戒機を抜けて艦隊に近づこうとしても、次は濃密な陣形で対潜陣形を組んだハンターキラー群が待ちかまえていた。夜間は護衛空母は少し後方に下がっていたが(※それでもレーダー搭載の夜間攻撃機を積極的に出撃させている。)、基地の哨戒機が多数飛んでいたので昼間と大きな違いは無かった。戦果を挙げるドイツ艦もあったが、多くが手ぐすね引いて待ちかまえていた狩人達の餌食となった。
 そして全てを突破してようやく目標の空母機動部隊にたどり着くのだが、夜の間は空母部隊の駆逐艦群も外周で対潜水陣形を敷いて敵潜水艦の接近を強く警戒していた。相手は大型の艦隊型駆逐艦だが、十分な対潜能力を有していた。
 結局、ドイツ軍の攻撃は未帰還70%以上という惨憺たる損害を受け、戦果は駆逐艦数隻撃破(見込み)という悲惨な結果に終わった。そして予想をはるかに上回る損害を受けたため、帰投後に予定していた上陸船団への攻撃にも大きな支障がでてしまう。
 ドイツ海軍では、戦果次第では水雷戦隊の出撃も予定していたが、あまりの損害に水雷戦隊はむしろバルト海への待避を行ったほどだった。またSボートは、敵が沿岸まで来なければならないので、空母部隊に対して出撃する事は無かった。

 5月7日の夜明け前、オランダの沖合300キロの海上に、東西120キロメートル、南北80キロメートルの間に13個の大きな輪形陣を組んだ大艦隊が出現する。
 この日は風向きもほぼ真南を向いており、前進しつつの艦載機の発艦に向いていた。とはいえ、昔ながらの発艦方法を取る母艦はいなかった。この時の出撃では、一部は帰投時はブリテン島を目指すことを前提として、積み込めるだけの艦載機を飛行甲板一杯に搭載してきていた。もちろん格納庫内にも艦載機を満載しており、通常より50%近い過積載をしていた。日本海軍の大型空母《雲龍型》などの100機搭載型で約150機、アメリカ海軍の《ノースアトランティク級》大型空母だと200機に迫る数を搭載していた事になる。通常より多い艦載機は、本来なら交代用として後方で補充と再編、訓練を行っている部隊を乗せられるだけ動員してきたもので、通常ならば後先考えない出撃と言えた。しかも、艦載機と搭載する燃料、弾薬は文字通り動く火薬庫なので、通常ならこんな危険な事は決してしなかった。しかしこの作戦は、出撃拠点からごく短い距離しか進撃しないし、何より戦争ばかりか戦後政治の命運すらも決すると考えられていたので、全てが許容された。
 60隻の高速空母が搭載してきた艦載機数は、実に6500機。この作戦に連合軍の各国空軍が用意した航空機の約半数と同じだけの数に及ぶ。しかも半数が戦闘機か戦闘爆撃機なので、制空能力はずば抜けて高かった。だからこそ攻撃の第一陣に選ばれたのだ。通常ならば移動空軍基地としての奇襲効果も求められるのだが、今回はいつも通りの戦力集中と強襲能力、そして何より短期間の制空能力が求められての出撃だった。
 攻撃機の方も手抜かりはなく、「流星」、「スカイレイダー」が装備を満載して出撃すれば、数回で巨大空母の腹の中に過積載で積み込まれた大量の弾薬も空になってしまう。搭載量1.6トンや2.7トンという数字は、大戦の中盤頃までなら中型爆撃機の搭載量だ。しかも搭載量を調整すれば精密な急降下爆撃も可能という万能性を有し、加えて操るパイロットは大戦を戦い抜いてきた熟練者揃いだった。
 単純な戦力差なら、空母部隊だけで上陸作戦の航空戦力は十分なほどだった。何しろ、今までほとんどそうしてきたからだ。難点は空母という容積が限られた拠点のため、機体の発着や補給に手間がかかることだが、短時間であるなら異常なほどの戦力集中度合いもあって長所の方が際だっていた。それに彼らは第一陣であり、すぐにもブリテン島を飛び立った空軍機が、敵地上空に殺到する予定だった。後方の重爆撃機基地では、夜明け前から4発重爆撃機の離陸も始まっていた。24時間活動する大型偵察機は、既に数日前から各地の上空に陣取っていた。
 何しろ彼らは、「A-day」に合わせて出撃してきたのだ。

 第一陣である空母艦載機の第一目標は、言うまでもなく敵飛行場だった。今までも十分以上に攻撃してきたが、今回は大型爆弾で飛行場の滑走路を一定期間使えなくする事が第一に求められていた。航空機の撃破や破壊を求められないのは、既にドイツ軍の航空機の稼働数が大きく減じており、戦闘機隊で押しつぶすように制空権を奪えば十分と考えられていたからだ。
 また、艦載機部隊は精密爆撃が得意なので、小さな目標への攻撃も補助的な任務として組み込まれていた。
 すでに今までも十分以上に爆撃が行われていたので、この時の爆撃は総仕上げといえる爆撃とされた。臨時の滑走路に使えそうな広い直線の道路にも大型爆弾が投下され、臨時の待避壕、格納庫に使えそうな民間施設も容赦なく攻撃した。中でもジェット機が運用可能なコンクリートやアスファルトの滑走路、道路は優先目標とされた。
 しかも攻撃は、上陸地点から200キロ以上内陸部にまで及び、カレー周辺、ベネルクス地域はもとより、パリ周辺部、アルザス・ロレーヌ周辺、ルール前面にまで攻撃の手は及んだ。今まで攻撃を受けたことのない場所では、ドイツ軍にとっての不意打ちともなって多くの戦果が挙がった。

 空母機動部隊による攻撃は、第一撃が特に大規模だった。
 それもその筈で、飛行甲板に並べられるだけ並べた過積載の機体を飛ばしてしまわなければ、格納庫内の艦載機が飛べないからだ。だが、最初に飛行甲板に並んでいた機体は、攻撃が終わると母艦には帰らず、その足で英本土の中部地域を目指した。南部、特に南東部の各飛行場が空軍機で一杯なためだ。
 そして直衛機500機などを除く約6000機は、第一波2000機を皮切りに、第二波1500機、第三波1300機、第三波1200機と既に準備されていた機体が約30分おきに次々に各空母を飛び立ったが、ドイツ軍の空からの反撃は皆無だった。戦場伝説では、ドイツ軍が苦し紛れに「V-2」数十発を艦隊の概略位置に向けて放ったと言われているが、連合軍の記録には着弾の報告すら無かった。水中からの反撃も完璧に防がれていたため、60隻の高速空母は何物にも邪魔されることなく、攻撃に専念することが出来た。対空戦闘専門の護衛艦艇は、暇を持てあましたと言われる。
 第二次攻撃隊からは約4000機と機体数は3分の2に減るが、午前9時頃から開始された第二次攻撃隊の一回当たりの規模は大きく減っていた。空母群がローテーションを組んで攻撃するようになったためで、早い空母群だと後から追いかけてきていた補給艦隊からの洋上補給を受けるために早くも後方に下がっていた。
 また、ローテーションの穴埋めをするため、護衛空母から編成された上陸支援用の機動部隊が前線に到着しはじめ、高速空母群と並んで攻撃隊を送り出し始めた。動員された護衛空母群は合わせて4群。これだけで護衛空母24隻、艦載機600機の集団になる。その他の任務に従事している空母を合わせると、本作戦に動員された空母の数は実に100隻に達する。
 そして連合軍海軍の長期戦を行う姿勢から分かる通り、いよいよ作戦が実働段階へと移行する。

 「A-day」は5月9日。
 予備日に10日が取られていたが、当日の初夏の北の海は上陸作戦を邪魔するような気象では無かった。最適とは言い難いが、世界中で上陸作戦を行ってきた連合軍にとって、障害となるような気象条件では無かった。
 総司令官のニミッツ元帥は、5月7日の時点で作戦にゴーサインを出し、全てがスケジュール通りに動き始める。
 作戦名は「オーヴァー・ロード(上帝)」。
 作戦はカレー上陸からフランドル地域の奪回までを含んでいた。一般的にはパリ解放が第一目標だったと思われがちだが、実際の作戦でパリへの進撃は、パリ方面の敵の防備が薄い場合のオプションの一つでしかなかった。連合軍の目的はパリ奪回、フランス奪回よりも、ドイツ本土への1日も早い進撃だった。パリ奪回、フランス奪回の任務は、地中海から進んできているマッカーサー元帥の部隊の役目だからだ。
 カレー上陸作戦では、1000隻の艦艇、艦載機を含め1万8000機の航空機に支援された6個師団、20万名の将兵を各種揚陸艦艇と5000隻の上陸用舟艇もしくは各種水陸両用車で運ぶ。そして空からは、2000機を越える輸送機、グライダーが2個師団以上の空挺部隊を一気に降下させる。さらに200万の将兵と5万両の車両を後続として送り込み、その上全てに対する補給物資も必要量の150%以上という十分以上に準備された。この巨大な兵力と物量が、「カレー上陸作戦」こそが史上最大の上陸作戦と言われる所以だ。沖合に並ぶ連合軍艦艇を見たドイツ軍将兵が、「ドーバー海峡が敵で真っ黒だ」と記録を残したほどだった。
 揚陸作戦艦艇の出撃は5月8日、まずはアイリッシュ海沿岸の各所で始まる。彼女たちはアジアで、カリブで、北アフリカで、そして地中海で上陸作戦を行ってきた歴戦の揚陸艦艇達であり、それぞれの腹の中には10本の指で足りない強襲上陸勲章を持つ歴戦の将兵達を乗せていた。彼らは、艦が上陸地点にまで到着しさえすれば、上陸する浜辺がどれほど頑健に守られ、いかなる状態であろうとも、仲間の屍を乗り越えて進んでいく猛者達だ。
 しかし上陸予定地点には先客がいた。
 小さな掃海艇達と、巨大な戦艦、巡洋艦群だ。
 掃海艇は、敵の待ちかまえる浜辺のすぐ近くまで近寄り、機雷や海中の障害物の除去のために決死の覚悟で除去、排除にあたっていた。戦艦や巡洋艦は、今までの攻撃で撃ち漏らした砲台、陣地を砲撃するために少し沖合に布陣し、盛んに遠雷のような轟きを響かせていた。
 この時の艦砲射撃では、もうこの戦争最後だと考えられていたためだろうか、連合軍が動員できる全ての戦艦が集結していた。集められたのは空母部隊の護衛を任された10隻の高速戦艦、巡洋戦艦以外の全て、新旧強弱を問わず39隻にも及ぶ。日米最強の《モンタナ級》、《大和型》の艦列もあれば、退役時期を越えてしまっている《クイーン・エリザベス》《ウォースパイト》の姿もあった。地中海にいる筈の《イタリア》、《コンテ・デュ・カブール》も、今度は欠席できないとばかりに存在を誇示していた。もちろん救国フランス軍の《リシュリュー》の姿もある。戦艦群の前に霞んでしまっていたが、各国が集めた砲力重視の巡洋艦も30隻に迫っていた。

 一時的に連合軍の全ての戦艦を配下としたキンケイド大将麾下の艦隊による艦砲射撃は、5月9日の空襲開始と同時の午前5時30分に開始された。
 敵に対する威嚇の意味、そして何より作戦に対する「号砲」もしくは「祝砲」の意味を込めて、艦砲射撃部隊に属する全ての艦艇が一斉射撃を実施。一斉射撃の投射弾量として、ギネスブックに記録される一撃を始まりとした。
 そしてその猛烈な艦砲射撃の下で、アイリッシュ海から進んできた大小の揚陸作戦艦艇群から吐き出された揚陸艇や水陸両用車、水陸両用戦車、さらにブリテン島の南部沿岸各地から進んできた中小の揚陸艇が、海岸への突撃に備えて沖合に整然と並んでいく。その隙間からは、中型揚陸艇を改造したロケット砲艦、5インチ搭載砲艦、さらには一部の駆逐艦が岸に向けて前進し、中近距離からの艦砲射撃を開始する。
 甲板一面にロケット弾を並べたロケット砲艦の砲撃は凄まじく、しかも複数の艦が一斉に発射を行うので、あまりの轟音に周囲の他の音をうち消してしまうほどだった。
 ターナー大将と彼の幕僚団が組み上げ運営する上陸作戦は、少なくともこの段階までは芸術的とすら言える完成度だった。

 そして午前6時30分。師団ごとに沖合で隊列を組んでいた揚陸艇が、一斉に前進を開始する。前衛の要所には「M11」水陸両用戦車、もしくはその改良発展型が位置した。さらに上陸の第一列には、多少なりとも装甲が施された各種LVT(水陸両用装甲車)が並んだ。彼らは第一陣としてそのまま海岸に乗り上げ、あわよくば敵の陣地まで突撃するべく進む。第二列はDUKW水陸両用トラックと一部LVTで、主に第三列以後に車輪のない揚陸艇が進んでいった。
 モントゴメリー元帥の指揮下で上陸するのは、西から以下のように並んでいる。

 カナダ第3師団(+英海軍コマンド旅団)
 英第50師団
 英第79機甲師団
 米陸軍第1師団
 救国仏第2師団(1個旅団)
 第1海兵師団
 第3海兵師団

 火力はともかく機械化率で劣る海兵隊が一番東側なのは、敵の側面からの反撃に対して臨機応変に対応するためと、当面は内陸深くに進撃しない予定だからだ。ブーローニュ正面近くには、連合軍期待の「ホバート将軍の愉快な仲間達」こと第79機甲師団と歴戦の「ビッグ・レッド・ワン」米陸軍第1師団が、敵水際師団が陣取る海岸に対して危険を冒して果敢なランディングを仕掛ける。だが、最も危険なのは、パ・ド・カレーに近い一番西側に上陸するカナダ第3師団だ。精鋭の英海軍コマンド旅団が最も西側に位置するが、カナダ第3師団は歴戦の勇猛な師団で上陸作戦に最も慣れている為、抜擢されていた。西側は最も洋上、航空戦力の支援も分厚くされた。連合軍最強の主力艦隊部隊も、沿岸砲台の取りこぼしの撃破と、万が一の敵艦隊の出撃に備えるため、最も西側に陣取っていた。
 救国フランス軍の部隊も上陸作戦には加わるが、これは政治的言い訳、フランス奪回の建前の為でしかなく、ド・ゴール将軍が強引にねじ込んだ結果でしかなかった。

 対するドイツ軍だが、状況は悪かった。
 現地司令官は、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥。歴戦の軍人で、プロイセンの伝統を背負って立つほどの人物だった。ドイツ陸軍内では長老格で、指揮能力よりもカリスマ性で部隊を率いていた。老齢ながら新しい技術に対しても相応に理解を持ち、第二次世界大戦でも多くの戦場で実績も挙げていた。大戦中盤はしばらくは前線から離れていたが、イギリス本国の連合軍への寝返りで動揺する軍内部を引き締める意味も込めて、ドーバー海峡などヨーロッパ北西部沿岸を守る西方総軍司令官に就任。以後、連合軍にドーバー海峡を越えさせないための任務に老齢を押して精励した。
 しかしルントシュテット元帥と国防軍最高司令部は、防衛方針に違いがあった。ヒトラー総統も支持した最高司令部の考えは、徹底した水際撃滅だった。物量に勝る連合軍に1歩でも踏み込ませたら終わりだという考えだった。対してルントシュテット元帥は、連合軍の圧倒的な洋上、航空戦力に対して水際撃滅は効果が無く、引き込んでから得意の野戦で撃滅する考えを持っていた。
 どちらも戦場の実状を違う側面から見た結果のため、結局防衛方針は折衷的となった。カレー正面を中心に沿岸陣地を構築して張り付け師団を薄く配備するが、少し内陸部に機動戦力、機甲部隊を配置する形だ。
 そして陣地を構築し、部隊の事前配置が終わる頃、連合軍による上陸予定地域の攻撃が激化する。
 パ・ド・カレー周辺半径50キロには、移動手段がなく装備に劣る「張り付け師団」が8個、その少し後方に一般の歩兵師団が3個配備されたが、連日の激しい空襲のため夜間以外の移動はままならなくなった。兵士ばかりか物資の移動も同様で、ロバが牽く小さな馬車すら例外なく空襲を受けた。夜間もヘッドライトを煌々と照らしていると夜間爆撃の餌食となり、控え目な明かりを頼りに移動するしかなかった。しかも移動するための道、鉄道、運河も徹底した攻撃を受けて、一日が過ぎるたびに寸断が進み復旧は全く間に合わなかった。復旧作業も当然のように執拗な妨害を受けたので、放置される道などが日一日と増えていった。そして連合軍の攻撃の手は、地元民しか知らないような小さな道以外のほぼ全てに及び、カレー後背地のアルトワ丘陵地からフランドル北部では、交通網が原始時代並に後退してしまう。
 それでもルントシュテット元帥の西方総軍司令部は、機甲部隊(装甲部隊)ならば道を使わずともある程度移動は可能と考えていたのだが、その考えも大きく間違っていた。
 そもそも道を使わない場合、装軌式、半装軌式ならば田畑や荒れ地でも移動は可能だが、機械の傷み、疲労は酷くなる。ドイツ軍の重戦車のように重ければ尚更だ。しかも普通のトラックやワーゲンでは、路外を走るのは出来る限り避けるべきだった。
 加えて昼夜を問わない連合軍機の活動で移動は夜間にしかできず、短い時間での長距離の移動は望むべくもなかった。さらに大規模な移動となれば、何をどうしても隠すことは難しく、移動すなわち連合軍の攻撃を意味する状況だった。しかもそれは、連合軍の事前攻撃という状況で起きていることで、連合軍が上陸作戦を開始したらさらに状況が悪化するのは火を見るより明らかだった。
 その事が明確に理解されたのは1946年の3月中頃だったが、既に大きく変更する時間的余裕、物的余裕は無かった。
 
 移動すれば空襲を受け、交通網は破壊され、沿岸陣地は粉砕された。自力での移動力のない張り付け師団は、手持ちの資材と僅かに後方から送られて来る資材や武器で、陣地を強化、補強、もしくは修理、復旧するしかなかった。沿岸部の少し後方で待機している部隊は少しマシだが、隠れている森林などから出ることは自殺行為でしかなかった。
 今更水際撃滅のための陣地替えも、大規模な移動を伴うのでこちらも自滅を意味していた。それでも敵が上陸してきてから移動を開始するよりも安全度は高く、水際撃滅に徹するなら早期に作戦を変更するべきだという意見が強まった。だがその議論がされている時期に、連合軍のノルウェー侵攻の報がもたらされる。これで総司令部は、カレー一択の敵上陸作戦に自信が持てなくなり、限られた場所への兵力配置に疑問を持つ。先にも説明したとおり、肩すかしを食らったら目も当てられないからだ。
 結局、第二候補のノルマンディー方面にも兵力の一部を配置することになり、機動戦力は敵の上陸に柔軟に対応できる位置に待機する事に落ち着く。そして、とにかく後方の機動兵力は移動可能な対空戦力を強化したのだが、敵が上陸作戦を決行したら万難を排して海岸に殺到し、敵を蹴落とすという以外に道が無が無くなってしまう。
 そして5月9日「A-day」の朝を迎える。
 ドーバー海峡を睨むドイツ軍将兵の眼前には、無数の水陸両用車両が迫りつつあった。


●フェイズ83「第二次世界大戦(77)」