●フェイズ83「第二次世界大戦(77)」

 北フランスに第一歩を記した連合軍将兵は、空挺部隊の将兵だった。
 空挺部隊のうちパラシュート降下する空挺兵の精鋭中の精鋭は、英本土南部各地の飛行場から5月8日夜に飛び立った。

 米第82空挺師団、米第101空挺師団、英第1空挺旅団のうち、グライダー部隊を除く全てで、主に二手に分かれて降下した。
 主力は上陸東側のパ・ド・カレーに近い沿岸部の後方。一部が砲撃と空襲で破壊できなかった堅固な砲台の破壊をする他は、ドイツ軍増援部隊の沿岸突入を妨害しつつ、沿岸部から友軍が進軍してくるまで現地を守る。もう一つは、西部のソンム川に架かる橋を全て落として、西方からのドイツ軍の増援阻止を任務としていた。
 東側はアメリカ第101空挺師団とイギリス第1空挺旅団が、西側はアメリカ第82空挺師団が担当する。彼ら以外に救国フランス第一空挺旅団なども、作戦の計画段階では参加を予定していたが、別の作戦がほぼ同時に動くため参加を見合わせていた。また、ノルウェー作戦に参加した日本海軍の空挺旅団も同様だった。このため大規模な作戦に対して、空挺部隊が不足するという認識が持たれた為、可能な限り別の面での戦力強化が実施された。
 ここで大量に投入されたのが、曰く付きの機体である「中島 四式特型滑空機」だった。
 約1年前の南仏上陸作戦でデビューを果たしたドイツのグライダー「Me321 ギガント」のコピー生産品だが、その後連合軍内で、積載量23トンという点などが高く評価されたため本家ドイツよりも大量に生産され、各地の戦場で空挺作戦を行ったりエンジン装備の輸送機型が活躍していた。
 ドイツ軍では曳航する大型機が不足していたが、連合軍には十分な性能の大型機があったため、グライダー型も問題なく運用されたが、より贅沢ができる連合軍ではエンジン装備の輸送機型は通常の輸送任務にすら使われるほど生産されていた。さらに、エンジンを強化して積載量を増やしたタイプも製造されており、この作戦に少数機が参加していた。
 本作戦では80機のグライダー型が用意され、「M-24 チャーフィー」軽戦車、「M18 ヘルキャット」対戦車自走砲、105mm榴弾砲などが第二波のグライダー降下の際に投入されることになっていた。それ以外にも約7トンの積載量を持つ一般的なグライダーも多数投入され、重爆撃機に曳航される事となる。

 危険な夜間パラシュート降下は、概ね成功した。その夜の気象も安定していたし、5月10日が新月のためほぼ闇夜だった。現地の風も機体が流されるようなことはなく、そしてパラトルーパーを運ぶ輸送機のパイロット達は、今まで何度も空挺作戦を行ってきた熟練者が多かった。特に先導機は熟練者で操られていたため、ほとんど降下地点を違えることも無かった。
 しかし当時の空挺作戦に100%の成功はあり得ず、輸送機から飛び降りるのが遅すぎた兵士は、降下地点を通過して海に出たところで降下してそのまま溺死するなど、10%以上の兵士が無為に戦死している。またドイツ軍も、連合軍のパラシュート降下は警戒していたため、連合軍の上陸作戦が判明した段階から降下予測地域での夜間の警戒を強化していた。このため闇夜に降下するパラトルーパー達は、夜目の利くドイツ軍兵士によって発見され迎撃されてしまう。数千もの落下傘は、当時絹で作られていた上に真っ白のままだったため、闇夜でも数千名も降りてくれば見つからないわけがなかった。
 だが、警戒する兵士の数よりも、降下する兵士の数の方がずっと多かった。何しろ各地で連隊規模、数千名が一斉にパラシュート降下するからだ。また後方警備しているドイツ兵は、国民擲弾兵など練度などに問題のある兵士が多いため、夜間の戦いに慣れていなかった。そして闇夜の遭遇戦となると、武装で勝っていない限りドイツ軍が不利な場合が多かった。
 連合軍の空挺降下は概ね成功を収め、グライダーの降下地点、最優先で確保するべき橋などを次々に占領。連合軍によって最初に村が開放されたのも夜間の事だった。
 続いて第二波となるグライダー部隊が到着し、降下の失敗、ドイツ軍の妨害を受けながらも80%以上が目標地点への強行着陸に成功。軽戦車やジープ、軽量な重火器などを多数の兵士と共に降下させ、一気に大きな戦力となる。
 前後して空挺部隊の目標となる地域への夜間爆撃が実施されたが、夜間爆撃の常で攻撃の多くが失敗し、空挺部隊にその負担がのし掛かった。
 だが兵士一人一人が精鋭であり、またドイツ軍の国民擲弾兵や張り付け師団の兵士よりも重武装な場合も多いため、連合軍の空挺兵達は夜明けまでに目標をクリアしていった。
 そして夜明け頃の午前5時半。兵士達は、北部沿岸一帯に渡って日々生きていた遠雷が轟くような轟音を聞く。
 上陸作戦の開始だ。
 これで空挺兵と戦っていたドイツ兵達も、空挺兵ばかりに構っているわけにもいかなくなる。しかも空からは無数の連合軍機が押しよせて、手当たり次第に攻撃し始めた。この中には連合軍空挺兵への誤爆も含まれていたが、状況は空挺兵に一気に有利になった。しかも第三波として、さらなる増援の空挺兵と一部レンジャー兵が降り立った。加えてパラシュート投下によって大量の兵器と補給物資が届けられ、空挺部隊は一段と強化された。この時点で2万5000名に及ぶ空挺兵のほぼ全ても敵地に降下し、空挺部隊としては友軍の到着を待てばよいだけになった。しかしそこは精鋭の空挺兵なので、偵察情報を友軍に送り続け、さらに敵の隙を見つけては攻撃した。
 そして少し高い位置にいた空挺部隊の偵察兵は、沖合に並んだ揚陸艇の縦列が一斉に白い航跡を海面に絨毯のように描きながら進軍する様を目撃する。
 午前6時30分。上陸の開始だった。

 上陸の第一陣は、半ば揶揄的に「海上機甲部隊」と呼ばれていた。
 「M4」戦車を改造した40トンに達する「M11」水陸両用戦車と、各種LVT(水陸両用装甲車)によって編成されているからだ。しかもどちらも登場から年月を経ているため、改良型が多数を占めるようになっている。「M11」は、上陸策戦時には重宝する榴弾砲はそのままながら、前面と上面に増加装甲を着けたタイプが増えていた。それでも大口径の短砲身榴弾砲搭載型や、3インチ速射砲搭載型も若干含まれるようになっていた。LVTは、短砲身75mm榴弾砲を装備したアムタンクと呼ばれる車両が一定割合で含まれていた。特に上陸の第一列は、「M11」とアムタンクだけで占められており、並の機甲部隊よりも強力なほどだった。
 しかもアメリカ軍は「M11」の成功に味を占めて、さらに大型の戦車の水陸両用型を開発しており、ギリギリ間に合った一部が実戦参加していた。「M26-LV」と名付けられた車両で、その名の通り「M26」中戦車の上陸用だった。もともと42トンもある戦車の外装を一部改造し、その前後にフロートと推進装置を脱着式に付けたものだが、総重量は55トンに達した。またフロートが大きくなりすぎたため、上陸したらすぐにパージしないといけないなど、戦場での柔軟性にはやや欠けていた。しかし90mm砲の火力と最大100mmを越える装甲は魅力であり、約20両がこの時の上陸作戦で米陸軍第1師団に配備されていた。
 なお、大戦終盤の「M26」戦車の初陣だが、この戦いが系列車両全体での初陣と誤解されやすいが、実際は南仏戦線への投入の方が2ヶ月以上早かった。
 そしてカレーの沖合でも「M26」戦車の姿はごく一部に限られ、主力は300両以上揃えられた「M11」で、速射性能の高い75mm砲から榴弾を矢継ぎ早に放って、沿岸陣地を圧迫しつつ強引な前進を行った。
 また、彼らの前には突撃砲艦と呼ばれる小型の砲艦が各所に陣取り、小型ロケットランチャーと無数の機関砲、機銃を、船体が爆発したようになりながら放っていた。少し後方に陣取る全面ロケットランチャーの支援艦も、爆発するような火力の投射を開始していた。そして沖合には、1個連隊に1隻と言われるほどの戦艦が群れており、盛んに巨砲を沿岸に送り込んでいた。戦艦1隻の火力は7個師団に匹敵すると言うが、39隻だと270個師団分という事にもなってしまう。
 こうした連合軍の上陸風景は、敵手であるドイツ軍にとっては意外に馴染みが薄かった。ドイツ軍が体験した大規模な上陸作戦は、実のところ殆ど無かったからだ。ほとんどはフランス軍とイギリス本国軍が受けたもので、ドイツ軍の場合は経験した兵士がそのまま敵地に残されて帰国していない場合が多かった。インドから後退を続けに続けたロンメル将軍の部隊が例外といえるが、彼らの生き残りのほとんどが将軍と共にハンガリー方面で戦っていた。
 そして連合軍の前に陣取るのは、急速に進歩、大規模化した第二次世界大戦の戦いを知らない老年兵が多かった。傷病兵の中には経験者もいたが、敵の上陸まで頭を低くして壕に伏せておく以外に手だてはなかった。

 だが、連合軍が予測していたよりも、ドイツ軍の沿岸陣地は破壊されていなかった。一見SF小説に出てくる月面のようだと言われるほど穴だらけの荒廃した大地になっていても、地下、半地下に作られたトーチカなどの陣地は驚くほど強靱だった。十分な深さに掘られた塹壕だけでも、砲爆撃で破壊するのは難しかった。この事は第一次世界大戦から変わらない事で、圧倒的物量を有する連合軍の攻撃でも変わりは無かった。しかし逆に、全く無傷というわけでは無かった。事前攻撃でも集中的に狙われた大型の沿岸砲台の90%以上、500門以上が連合軍が上陸するまでに破壊されていた。砲口が外に露出していないといけないので、どうしても撃破されやすかった。各所のレーダー観測所などは、跡形も無くなっていた。上空に向けて露出していないと意味のない高射砲陣地も、ほとんどが破壊されていた。重砲トーチカなどは、大きくなまじ目立つため破壊しやすかったと言えるだろう。
 それでも陣地の多くは健在で、兵士達は陣地の奥で耐えつつ連合軍の上陸を待ちかまえていた。
 連合軍の上陸正面には、張り付け師団が3個。そのすぐ脇の東に1個。少し後方に張り付け師団が2個と、半自動車化されている一般の歩兵師団が2個展開していた。そして反撃の要となる装甲部隊だが、カレーの西側の装甲師団は実質的に動かせず、東側には2個装甲師団からなる有力な装甲軍団がいたが、ソンム川の西側ですぐには駆けつけられなかった。またセーヌ川の西側には、機動戦力として装甲師団1個、装甲擲弾兵師団1個、歩兵師団2個が配備されていたが、これはノルマンディー上陸にも備えた配置なので移動には時間がかかる予定だった。
 当面は張り付け師団3個、少し東の1個、それに加えて要塞都市化されたブーローニュとパ・ド・カレーの独自の守備隊(共に連隊規模)が上陸してくる連合軍を迎え撃つ全てだった。だが、張り付け師団と言っても兵士の質は決して低くなく、ドイツ軍がカレー方面の防備を重視していたことは後の実戦からも明らかだった。
 ただし、後方の張り付け師団は10キロ以上後方なので、本来なら半日以内に海岸線に到着予定だったが、連合軍の妨害によって到着まで1日以上かかった。周辺の歩兵師団についても同様だ。しかも少し後方の部隊のかなりが、降下してきた連合軍の空挺部隊と既に交戦中のため、半分も海岸に移動できそうに無かった。さらに移動で自らの場所を晒せば、連合軍機の激しい空襲を受けた。
 装甲師団に至っては、内陸部を迂回しないのならば、まずはソンム川の橋を確保する連合軍の空挺部隊を撃破しなければならなかった。

 連合軍の序陸部隊の第一列が機関銃や軽迫撃砲の射程距離に入ると、一斉に火蓋が切って落とされた。既に海岸まで数百メートル。近い舟艇だと200メートルにまで接近していた。火を噴いたのは歩兵の火器だけでなく、今までの攻撃を生き残った全ての火砲が火を噴いた。中には戦艦用の38センチ砲まで含まれており、十分に防備され擬装された沿岸砲台の破壊の難しさを後世にまで伝えた。そしてドイツ軍の全ての砲火は、沖合の艦艇には目もくれず接近する上陸部隊に向けて榴弾や散弾を放った。
 海岸に接近する水陸両用車両や揚陸艇にその砲火が降り注ぎ、各所で爆炎を吹き上げた。しかし第一列の「M11」は重機関銃程度では歯が立たず、直撃した迫撃砲弾を跳ね返す事すらあった。そして逆に、75mm砲を撃ちかけて沿岸陣地からの攻撃を妨害し、着実に前進した。
 また、後方の艦船からもより激しい砲火が、沿岸陣地や後方の砲兵陣地に降り注ぎ、撃破できないまでもドイツ軍の砲火を沈黙させた。最後まで奮闘した38cm砲台には、実に10隻もの大型戦艦の集中砲火が浴びせられたと言われており、実際午前7時頃には砲台は瓦礫の山と化していた事が後の記録から判明している。

 連合軍の第一列は、一部で隊列に乱れが生じた。ドイツ軍の反撃によるものではなく、上陸を阻害するため埋められた障害物と敷設された機雷のためだった。これらは事前に掃海部隊や工作部隊によって排除が進められ、そのほとんどは無害なまでに破壊もしくは除去されていたのだが、全てではないため影響を受けた形だった。とはいえ全体から見れば限られており、6箇所同時に上陸作戦を進める連合軍の鋼鉄の波を押しとどめるだけの力は無かった。また、海岸各所に隠れていた多数Sボート(魚雷艇)が、夜明け前ぐらいから各所で攻撃を仕掛けたが、連合軍も反撃は折り込み済みだったため、各地で激しい戦いが行われるが、連合軍は大小30隻程度の艦艇(ほとんどが小型艇)が沈められたに止まっていた。他にも波打ち際にはコンクリート製の障害物などもあったのだが、多くは既に破壊されていたし、現地ドイツ軍の方針が敵を内陸に引き入れる方向だった為、設置された数そのものが少なかった。
 最初に上陸したのは、強固な装甲を有する水陸両用戦車の「M11」と「M26-LV」だった。そしてどちらも、本来なら上陸してすぐに前と後ろのフロートを強制パージするのだが、ほぼ全ての車両が後ろをパージしただけでそのまま進軍を続けた。前のフロートを「弾避け」に使うためだった。どうせ簡単に生産できるものだし、機銃弾を防ぎ、うまくいけば簡易ロケットすら効果を大きく減殺できると言うことで、南仏上陸作戦の頃から連合軍将兵が行いだした現場の戦術だった。この戦いでも有効に機能し、中には何発ものパンツァーファウストを受けても平然と活動する「M11」もあった。そして第一波として上陸した水陸両用戦車とアムタンクが、前進できるだけ前進したところで臨時トーチカとなると、すぐにも通常のLVTによる第二列が上陸を敢行し、浜辺に溢れる連合軍兵士が一気に数を増した。兵士達はLVTなどを盾として果敢に前進し、後方の艦船に連絡したり友軍機を呼び寄せて敵陣地を攻撃させ、着実に橋頭堡を広げていった。
 そうして沿岸部のドイツ軍が駆逐され中型艇が接近できるようになると、主にイギリス軍の橋頭堡には変わった形の装甲車両が揚陸されてくるようになる。元英本国軍だったホバート将軍らが開発した、特殊装甲車両群だ。
 主に「チャレンジャー」歩兵戦車を流用、改装して作られた車両が多かった。基本的には、車体機銃座に火炎放射器を装備した「クロコダイル」、主砲を臼砲にした戦闘工兵車の「AVRE」だが、戦闘工兵車は他にも地雷原を突破するための新装備を搭載した車両、陣地に接近して爆薬を仕掛ける車両など様々な車両があった。変わり種だと、「ボビン」という装置で砂浜や湿地など軟弱地に厚手の絨毯を敷いて道を造っている車両まであった。
 これらの車両は英第79機甲師団だけでなく、英第50師団、カナダ第3師団も装備しており、もと衛本国兵の予想に反して海岸部での進撃、敵陣地の破壊などに大きな威力を発揮した。米軍の使用する「M11」や「M4」の中にも臼砲搭載型や火炎放射器搭載型もあったが、イギリス軍ほど徹底した改造車両ではなく、相対的に見てアメリカ軍の方が水際では苦戦していた。

 一番東側に上陸したアメリカ海兵隊は、間隔を狭めてほぼ横並びで上陸したのだが、これが前面の敵防衛部隊主力を挟み撃ちする形になった。しかも海兵隊は上陸作戦に最も慣れているうえに、そもそも上陸作戦の専門部隊なので、上陸と海岸部での戦闘は最も優位に運ぶことが出来た。戦場伝説として、海兵隊の兵士達が海兵隊行進曲や海兵隊賛歌、さらには訓練時の少し卑猥な曲を歌いながら上陸を行ったというものがある。これが隣の救国フランス軍のライバル心をかき立て、彼らは祖国への第一歩を記すに当たり「ラ・マルセイエーズ」を歌った。そしてさらには上陸部隊全体に、歌を歌いながらランディングしていく事が波及したと言われている。しかし、各師団の間隔はキロ単位で離れていたし、砲爆撃の音の砲がはるかに大きな音を立てていたので、隣の舟艇ならともかく数キロも離れた友軍にまで歌声が聞こえたとは考えにくい。このため、偶然に各上陸部隊が自らを象徴する歌を歌いながら上陸していったと考えられている。
 最も困難な上陸地点は、最も東側のカナダ第3師団と考えられていた。ここはパ・ド・カレーのすぐ西側で、同地域の中で緩やかな半島上に突き出た場所に近く、生き残っている沿岸砲台からの激しい攻撃を受けると考えられていたからだ。加えて正面には、1個連隊以上の防衛部隊も展開しているのは確実だった。そして上陸作戦の一番東側にも当たるため、連合軍もイギリス海兵隊のコマンド部隊を増強するなど、非常に気を遣っていた。
 艦砲射撃部隊が18インチ砲搭載戦艦の《モンタナ級》、46cm 砲搭載の《大和型》を中核としていたのも、東からのドイツ軍艦隊の突入に備えるというよりも、生き残った沿岸砲台に備えての事だった。そして案の定1門取りこぼしていたため、激しい砲撃が行われた。それ以外にも15cm重砲などかなりが生き残っていたため、各艦艇が危険を冒して距離を詰めての砲撃が行われた。強固に建設されたドイツ軍の沿岸砲台は、駆逐艦の5インチ砲はもとより、巡洋艦の6インチ砲でも破壊が難しいからだ。
 そして戦艦部隊は砲台や強固な陣地を破壊すると、今度は升目に沿って榴弾による規則的な砲撃を開始する。日米合わせて12隻の大型戦艦による統制射撃は圧巻の一言で、現地を守備するドイツ軍を地下深くの陣地ごと破壊していった。この砲撃では、榴弾は適切な高度での炸裂ではなく地表炸裂に設定されていた為、各所に大きなクレーターが作られていった。
 さらに空からは、重爆撃機から小型単発の艦載機に至るまでが無数に飛来して、次々に目標もしくは目標と思われる場所に爆弾やロケット弾を投じていった。
 そしてカナダ第3師団は激しい抵抗を受けながらも順調に橋頭堡を拡大し、カレー側面に部隊を展開させるまでに進出することに成功する。それでもドイツ軍が頑健に抵抗したため、カナダ第3師団は上陸作戦に参加した師団の中で最も多くの損害を受けた師団となった。「血染めの第3師団」というニックネームは、彼らにとっての名誉称号だった。

 敵師団とブーローニュ守備隊を相手にする英第50師団と英第79機甲師団は、大量の機械化部隊を投じるも、ドイツ軍も激しく抵抗したため水際でかなりを損害を受けてしまう。特に港湾部の破壊を禁じられていたブーローニュからの攻撃には手を焼いた。しかし両師団は街を挟んで上陸後も強引な進撃を続け、その日のうちにブーローニュを包囲するまでの進軍に成功する。しかしブーローニュを包囲した事と、大きく前進したことが重なって、内陸にいたドイツ軍部隊を引き寄せることにもなってしまった。だがドイツ軍がここに反撃するのは折り込み済みで、だからこそ上陸地点のほぼ真ん中とされていた。そしてイギリス軍の各師団は、反撃を見越して重武装が施されており、既に大きな成果を挙げている特殊車両を多数保有する第79機甲師団の活躍が期待されていた。同師団は、主力の戦車連隊も新型の「センチュリオン」重巡航戦車を装備し、さらには防戦に向いたドイツ軍の言う所の突撃砲も対戦車部隊が有していた。「センチュリオン」巡航戦車の装備は、第50師団も同様だった。突撃砲ばかりか、本来は本土防衛用の17ポンド砲搭載の「アーチャー」など軽量自走砲も対戦車部隊に装備されていたが、これは軽いため上陸し易すかったためだ。
 なお、「センチュリオン」重巡航戦車は、主力戦車の第一世代に当たるとされる優秀な性能と発展余裕を与えられた優秀な戦車だった。戦争中の教訓を数多く取り入れて開発された、イギリス陸軍の歩兵戦車と巡航戦車の長所を併せ持つ、高いレベルで装甲、火力、そして機動力を備えた次世代の戦車だった。しかし開発に手間取り、量産が開始されたのは1945年の春。本来なら英本土に上陸してきた連合軍と戦うための「本土決戦戦車」だったのだが、戦う前に英本国が実質的に寝返り連合軍と戦う機会を逸してしまう。ノースアイルランドでの戦闘例があるという説もあったが、記録には残されていない。そしてその後は、イギリス軍全体が再編成に入ったため、新型戦車がどこかに派遣されると言うこともなく、また量産も混乱の中で遅れたため他国に供与もできず、このカレー上陸作戦がデビュー戦だった。しかし量産開始から約1年が経過していたため、初期の20mm砲装備の廃止など幾つかの改良型も産み出されている。

 カリブ海での戦闘から上陸作戦ばかりしてきていたアメリカ陸軍第1師団は、戦争終盤では専門の上陸作戦装備を多数与えられた専門師団のようになっていた。その上、アメリカ陸軍を代表する師団なので装備全体が機械化歩兵師団編成であり、非常に重装備の部隊となっていた。師団兵員数も総員4万名を越えており、ドイツ軍なら小さな軍団ほどの規模に膨れあがっていた。そして同師団は、「M26-LV」を装備した唯一の師団でもあった。主力戦車もノーマルの「M26 パーシング」中戦車で統一されており、師団直轄の重戦車中隊も日本製の「Type-3R G-KA」だった。
 上陸正面はそれほど大きな脅威はなく、その事は連合軍もある程度掴んでいた。この配置は、前進速度の遅い海兵隊に側面を固めさせて、いち早く内陸へと進軍してドイツ軍機甲部隊の反撃に備えるためだった。
 そして一番西側に上陸した海兵隊だが、彼らの前には1個師団が展開しており苦戦が予測されていた。にもかかわらず、一番東側はソンム川の東岸になり、内陸に降下した空挺部隊との合流のため強引な進撃が予定されていた。このため隣の第1師団に内陸の進撃が任されていたとも言える。
 しかし上陸は非常な成功を収めた。犠牲も少なく、流石海兵隊と言われた。もっとも実態は、事前の艦砲射撃と爆撃が非常にうまくいっていた為、沿岸砲台や強固な陣地のほとんどが破壊されていたからだった。また上陸に選んだポイントが、ドイツ軍の予測と外れていたため抵抗がさらに微弱だった。さらに言えば、ドイツ軍の予測とは少し違う場所、上陸に不的確とされていた地形を敢えて選び、そして練度の高さを活かして難なく上陸を成功させた事自体が、上陸作戦時の海兵隊の優秀さを示しているとも言えるだろう。
 また、海兵隊が他の米英陸軍よりもうまく戦えた理由の一つとして、陸軍や海軍のように海兵隊が独立した軍隊であり、揚陸艦船から航空隊に至るまで全て自前で賄える事が理由に挙げられる。特に海兵隊同士なので密接に協力し、さらに上陸支援に特化した航空隊の存在は大きく、カリブ海での戦いからずっと海兵隊の活躍を支え続けていた。
 これに対して米英の陸軍は、空軍との協力関係が今ひとつだった。アメリカ陸軍なら陸軍の航空隊があるという意見もあるが、第二次世界大戦でのアメリカ陸軍航空隊は、アーノルド元帥に代表されるようにほとんど独立軍種で、しかも完全自立を目指してスタンドプレーに走りやすかった。アメリカ海兵隊と同じ事は日本陸海軍にも言える場合が多く、日本軍がアメリカ軍より活躍を示す場合は航空戦力との密接な協力が関わっている場合が多かった。
 話が少し逸れたが、海兵隊の上陸後は敵の抵抗も少なく、しかも2個師団が密接に連携して進軍することで戦力面で前面のドイツ軍を圧倒。その後も順調な上陸と橋頭堡の拡大を続けた海兵隊は、予定を早める形でソンム川での河川防衛体制を構築するべく内陸部への前進を継続。上陸初日で約15キロの内陸部にまで前進した。このため上陸初日で、内陸に降下した空挺部隊の一部と合流に成功している。この前進は、先に内陸に進む予定の隣の第1師団よりも先を行っていたため、その後の功名争いを誘発することにもなった。

 以上のように、上陸初日は連合軍にとって順調と言えた。夜中までに15万人以上が上陸に成功し、既に橋頭堡の縦深をある程度確保した場所では、戦車揚陸艦が直接浜辺にランディングを仕掛けて、多くの兵器、物資、兵士を揚陸するまでになっていた。
 もちろん上陸作戦による犠牲は皆無ではなく、全てを合わせると5000名以上の戦死者が出ていた。これは、1万人以上、最大で3万人の戦死者を予測していた連合軍にとって十分許容範囲の損害ではあったが、圧倒的という以上の物量差と現地ドイツ軍の水際での消極姿勢を考えると、激しい戦いだったと言えるだろう。しかし結果論的だが、ドイツ軍にとっては連合軍の戦力と事前攻撃が過剰過ぎて、連合軍にとっては少し拍子抜けするほどだったと言われることが多い。

 ドイツ軍の予定では、敵が上陸してから1日目の昼間以後、さらには各地から装甲部隊が集結する2日目以後が、反撃を本格化する筈だった。ルントシュテット元帥は、報告されてくる戦況を司令部でほぼ正確に把握し、内陸部に展開する部隊に対して連合軍が過度に進撃してこなければ増援を待つように伝えた。水際の部隊に対しても、可能ならば遅滞防御しつつの後退を命じていた。後退許可に関してはヒトラー総統の命令に反するが、ルントシュテット元帥と西方総軍司令部は、敵を内陸に引き込んでから機動戦で撃滅することを考えていた為だった。現実問題としても、水際に装甲部隊など有力部隊を配置していても、塹壕に籠もっていない限り砲爆撃で吹き飛ばされるのは確実だった。
 しかし、その後の戦況を知る後世の研究者などは、追い落とすのは戦力差から不可能なので、次善の策として可能な限り水際で戦うべきだったという論を展開することが多い。現地司令部の機動戦を展開する前提としての制空権と移動手段が、連合軍によって完璧といえるほど崩されていたからだ。さらに、ひとたび待機している内陸の潜伏場所から移動すれば、それが夜間の無灯火行動でない限り徹底した空爆を受けて壊滅させられてしまった。ならば海岸線の陣地に籠もって徹底抗戦する方が、はるかに有効だったと言うのだ。
 だが、ヒトラー総統などドイツ中枢が求めるのは、連合軍を海岸線に一歩も踏み入れさせない事、ドーバー海峡に追い落とす事だった。上陸作戦を完全に失敗させなければ、ドイツが勝つ、もしくは生き残る可能性が限りなく小さくなると考えられていたからだ。故に後世の意見は、二つの意味で当時の人々の考えから離れていると言わざるを得ない。
 そして後世の人間にそう考えさせるほど、カレー上陸作戦時の連合軍の戦力は巨大だった。特に1万8000機も用意された航空機による制空権は、どのような抵抗も無意味としていた。実際、ドイツ空軍はカレーでの戦いで、当時出せる限りの500機以上の航空機を動員して出撃させている。しかし上陸作戦が展開されている空域には全く近寄れず、それどころか機体の半数近くは連合軍の初動の艦載機部隊の空襲によって壊滅させられていた。期待の新型ジェット機も、飛行場や滑走路に使える道路がことごとく破壊されたため、ほとんど飛び立つことが出来なかった。
 また、連合軍の作戦発動時にヒトラー総統が睡眠薬で眠っていたため、比較的近くにいた武装親衛隊の装甲師団の移動が移動が出来ず、結果として反撃が大きく遅れたと言う意見もある。しかし、作戦発動前から西方総軍とルントシュテット元帥は厳重な警戒態勢を敷いて対応に当たっており、最初から武装親衛隊を海岸まで突撃させる意志も無かったので的はずれの意見と言える。
 何にせよ、連合軍はカレー上陸に万全を期して当たり、ドイツ軍は連合軍の動きに翻弄されたばかりでなく、総司令部と現地司令部の意図がバラバラだった事が、カレー上陸作戦が大成功に終わった一因と言えるだろう。
 しかし、連合軍の作戦が完璧だったわけではない。
 特に上陸後の兵站に関して、齟齬が付きまとった。

 連合軍も上陸後の補給については、アメリカ東海岸で研究している頃から研究が重ねられていた。また数々の大規模上陸作戦を行いながら、その教訓を反映させていた。
 そしてドーバーを押し渡る上での最大の問題が、上陸を成功させることではなく、上陸後の補給にあるという結論に至っていた。橋頭堡を維持することは、何がどうなろうと問題はないと考えられていた。問題視されていたのは、その後の進撃の為の補給をどうするか、だった。
 その回答の一つが、上陸2日目に連合軍の橋頭堡に姿を見せる。
 人工港「マルベリー」だ。カレー、ブーローニュ、そしてダンケルクなどの港を占領して使用できるようになるまでは、今までのように海岸へ直接揚陸艇や戦車揚陸艦で物資を揚陸するだけでは足りないため用意されたものだった。
 そして連合軍は、湯水のように兵器、補給物資を各所の海岸に湯水のように送り込んだのだが、初日以後のドイツ軍の抵抗が予測以上に激しいため橋頭堡の拡大が遅れ、さらに5月11日には予定通り4個師団、10万の第二波が橋頭堡に到着。その後も続々と増援部隊が送り込まれ、海岸は溢れかえる兵士と物資で大混乱に陥った。しかも上陸3日目に陥落させ、1週間以内に使用可能とする予定だったブーローニュの港は、守備していたドイツ軍が頑健に抵抗した上に、最後に主に親衛隊兵が徹底的に港湾部を破壊した為、数ヶ月は使用できなくなった。事前に爆薬を仕掛けて爆破準備も終えていたため、どれほど占領してもほとんど無意味だった。ドイツ軍は最初から港を破壊する気でいたのだ。
 そしてブーローニュで起きた事は他の港でも同様と考えられ、海軍コマンド、レンジャー部隊など精鋭でカレーの港を占領しようとしたが、やはり失敗した。しかも短期間で陥落させられなかった上に多くの損害を出し、カレーの港も盛大に破壊された。これはダンケルクも同様で、フランス北西部からベルギーにかけての港湾という港湾は、市街を都市要塞化して立てこもって徹底抗戦した上で、ドイツ軍の手によってその都度ドイツ人的几帳面さで破壊されていった。この港湾破壊は、ドイツとフランス間で完全破壊はしないという約束に反していたため、両国の溝を大きくするほどだった。
 現地ドイツ軍、特に親衛隊はヒトラー総統の命令を守ったわけだが、連合軍としては戦後の事を考えないここまでの徹底抗戦は予測しておらず、目算は皮算用と終わった。そしてこうなってしまうと、短期間で200万の大軍を展開し、そして前進させることは不可能だった。前提条件がほとんど無意味になり、根本的な計画の立て直しを図らねばならなかった。連合軍の侵攻計画は、最低でも2ヶ月は遅延したと考えられた。

 しかし、上陸した連合軍の将兵達が補給不足に陥ることは無かった。ドイツ軍の反撃も許さなかった。
 人工港マルベリーは、橋頭堡にひしめく100万程度の当座の兵站を維持するには十分な能力を持っていた。その為に用意されたものだからだ。また、広がった橋頭堡の一角には、予定通りブリテン島から海底パイプラインが伸ばされ、海岸に危険なガソリン(ドラム缶)を積み上げることもなく、ガソリンの供給も円滑化されていた。そして海岸まで行けば、とにかく何でも溢れるほどあった。これは、心配性すぎる連合軍の兵站参謀達が、過剰な見積もりを出し為だった。心配性の兵站参謀達は、海に沈められるとか、ドイツ軍に海岸で破壊されるとか、物資を揚陸しても前線に届く物資は限られていると考えて、異常なほど過剰な見積もりをしていたのだ。おかげで橋頭堡がそれなりに広がり始めると、少なくとも前線での混乱は沈静化していった。とはいえ、連合軍全体のその後の作戦計画の目処が立たない事に変わりは無かった。橋頭堡の維持は問題ないほどの兵站は構築されたが、遠距離に進撃するだけの兵站は本格的な港が再稼働しなければ不可能だからだ。
 このためカレー上陸作戦は、「戦術的大成功、戦略的大失敗」と評される事がある。

 だがそこに、連合軍にとっての朗報、欧州枢軸軍にとっての凶報が全通信帯を駆けめぐった。
 「我、日本陸軍遣欧総軍。現在、ボルドーワインを持って北進中」。
 南仏戦線崩壊の知らせだった。



●フェイズ84「第二次世界大戦(78)」