●フェイズ84「第二次世界大戦(78)」

 「フランス大旋回」。軍事史上そう呼ばれる作戦が具体的に計画されたのは、1945年秋の頃だった。

 1945年6月、連合軍はツーロン上陸作戦を実施し成功させた。しかしコートダジュールと呼ばれるフランス南東部地域は、アルプス山脈から伸びる山岳地帯にあった。標高は高くないし峻険さもないが、大軍が展開できる地域では無かった。沿岸部に平地も乏しく、山並みが海岸まで迫っている場所も少なくなかった。だからこそフランスは、この地に地中海唯一と言える軍港を整備したのだ。そして南フランスの地中海沿岸部に上陸する連合軍は、ここ以外の選択肢が無かった。
 西のリヨン湾のローヌ川河口部は、大きな遠浅なので海岸部が低地でも上陸作戦は不可能だったからだ。守るフランス軍も、ツーロンからマルセイユにかけて防衛体制を充実させていた。しかもフランス軍は、戦力差、物量差からマルセイユが守れないことも折り込み済みで、フランス南東部の山岳部、丘陵地帯一帯で非常に大規模で奥の深い縦深防御計画を立てていた。防衛に適した各地に予め陣地が構築され、フランス軍の計画では最大2年戦える予定だった。
 それを現すかのように、ツーロン上陸後にプロバンスの沿岸地域を占領してマルセイユまで進軍するのに、圧倒的優位にある筈の連合軍は2ヶ月も要した。
 そしてそこからが、連合軍にとってさらに問題だった。
 マルセイユはフランス側の思惑で市街戦と市街の破壊は避けられたが、港湾部の設備の多くは破壊するか長期間使用不能とされたからだ。特に港のそこかしこに船が自沈させられていたため、連合軍は最低でも三ヶ月ほど、最大で年内のまともな使用を諦めねばならなかった。マルセイユの20キロほど西のローヌ川河口部にあるポール・サン・ルイも同様だった。状況は先に占領したツーロン軍港も同じで、一部に連合軍が爆撃で沈めた旧式戦艦があるため、マルセイユよりも状況は悪いほどだった。
 そして南フランスの代表的な港がまともに使えないと言う事は、連合軍がいかに膨大な物資を持っていても、それを迅速に揚陸できない事を意味していた。そして物資がなければ、大軍を投入しても補給不足となってしまうので、戦況には逆効果となってしまう。当然だが、補給拠点が作れないので内陸部への大規模な進軍もできなくなる。しかも山岳地帯なので、内陸部への進撃にも向いていない。
 このためクリューガー大将率いる第51軍集団は、4個軍、13個軍団の半数程度しか前線には展開できず、残りは後方待機として地中海各所で過ごさねばならなかった。空軍部隊も同様で、ツーロンなどへの進出は一部防空戦闘機隊しか行えなかった。
 東岸のニース近辺は、フランス軍の抵抗がほとんど無かったのでほぼ無傷で占領されたが、この地域には大きな港湾が無かった。一時は、夏までに呆気なく、ほぼ無抵抗で陥落していたイタリア北東部のジェノバと、そこから伸びる鉄道を主補給路として使わなければならないほどだった。1945年内の南フランスでの連合軍は、補給と物資、兵士の陸揚げを小さな港や、主要港湾の一部を使うか、緊急の場合は戦車揚陸艦で海岸に乗り上げて揚陸するしかなかった。
 イタリアで補給の問題が起きなかったのは、連合軍の進撃が早かったのと主にイタリア軍が、港を破壊しなかったからだった。そしてイタリアでの状況を見たドイツ軍は、カレー方面では躊躇無く港を破壊する事になった。
 一方南仏では、大軍を維持するには物資が不足した。既に弱体なフランス軍に反撃を許すほどではなかったが、大規模かつ強引に進撃できる状況でもなかった。
 結局、1945年の秋のうちは、ローヌ川河口部のアビニョンあたりまで進出したところで、連合軍が止まるという形で緩やかな戦線が形成される事となる。マッカーサー元帥の目論見では150キロ先のリヨンを陥落させて、翌年春までにフランスを独力で解放する予定だったが、その目論見は幻と終わった。いかに優れた戦略や戦術があっても、物資がなければ絵に描いた餅でしかなかった。

 しかしフランス軍が有利だったわけではない。
 本土の戦いなので、確かに地の利はあった。しかし地中海側には、全て合わせても50万の兵力しか配備されていなかった。ロシアで50万、北アフリカで100万の兵士を失ったフランス軍には、もうこれだけしか健常な兵士が残っていなかった。これ以上自前の兵士が欲しければ、ドイツのような根こそぎ動員するしかないのだが、ドイツに様々なものを搾取され、貢いでいる状態のフランスに、根こそぎ動員した兵士を長期間戦わせるだけの金と物資が無かった。イギリス本国からの供与も無くなったので、兵器の不足も厳しかった。
 それでも出来る限りの努力はしていたが、装備も連合軍との差は如何ともし難かった。特に航空戦力の格差は激しく、実質10対1以上もあった。ハインケル社のジェット機も、既に無いよりマシという状態でしかなかった。
 また、ナチスに反感を持つフランス人も少なくない数がおり、共産党系を含めたレジスタンスも活発に活動していた為、地の利が万全だったわけでもなかった。加えてレジスタンス対策のため、後方で多くの人員を割かねばならず、これも前線での兵士不足を大きく助長していた。
 連合軍は、自分たちが補給で苦しめられていて進撃もままならないと思っていたが、フランス軍としてはやっとの思いで進撃を押しとどめているという状態だった。
 秋頃になると、兵力がフランス軍だけでは足りなくなったため、ドイツ軍が援軍を派遣して何とか戦線を維持した。
 リヨン方面の兵力は、フランス軍2個軍20個師団、約31万人と、ドイツ軍の小規模な1個軍(※1個装甲軍団、1個軍団の装甲師団3個、装甲擲弾兵師団1個、歩兵師団3個)、約9万で、地上戦力だと連合軍の三分の一に辛うじて届く程度だった。これ以外に45年の6月以後の戦いで、既に10万以上が撃破されるか捕虜となり、残り6万ほどが西部を守っていた。他にも山岳部や敵が万が一侵攻した場合に備えて配備されている部隊もあるが、師団単位での部隊は他には無かった。また秋以後になると、さらに連合軍の圧力が強まった為ドイツ軍は増援を続けて、さらに10万程度の兵力が戦列に加わっていた。しかもこの時の増援で、防戦に定評のあるモーデル元帥が司令官として赴任していた。
 南フランス方面の欧州枢軸軍としては、1945年秋の時点ですでに薄氷の上といえた。だが、辛うじて連合軍が積極的に動く前に冬を迎える。そして地中海沿岸部とはいえ、山岳部で冬に積極的に戦争するなどロシア人以外はあり得ないので、連合軍も進撃を停滞させざるを得なかった。
 だが連合軍は、何もしなかったわけではない。圧倒的機械力、建設能力を発揮して、破壊したり使用不能とされた港湾の再建を行い、鉄道や街道を修復さらには強化し、年内には円滑な補給体制を構築していった。加えて、敵の隙を見つけては攻撃も行われた。そして時間が経てば経つほど連合軍は強化され、フランス軍は厳冬期以外はジリジリと後退を余儀なくされた。山岳部と言っても、もともとは比較的温暖な地中海沿岸で、さらにローヌ川周辺はある程度平野なので、冬でもある程度の戦闘が可能だった。それでもフランス軍の後退がジリジリ程度で済んでいるのは、大型河川の両側が山岳地帯のため連合軍が大軍を投じて攻められないおかげだった。
 そして、補給体制を整えた中部大西洋戦域軍だったが、予定より半年近く遅延した戦況を打破するべく、大胆な作戦を計画する。

 カサブランカ上陸から連続して戦ってきている中部大西洋戦域軍は4個軍を擁する大所帯で、フランス南部の要衝リヨンを攻撃するには過剰な戦力だった。ローヌ川中流域の狭い場所を攻めるには、大軍を展開させる余裕が乏しかったからだ。その分戦力密度を上げることができるが、地形の問題から大軍を集中的に投じても簡単に突破できる状況でもなかった。これは補給体制を整えても、大きな変化はなかった。
 そうした中、予定より早く進展したイタリア戦線の影響で、イタリア北部進撃を目的にアジアから移動してきていた日本陸軍の第10方面軍が、実質的に連合軍全体の戦略予備となってしまう。パットン将軍と山下将軍のスタンドプレーといえる快進撃によって、投入すべき戦場が無くなってしまったからだ。
 そこで連合軍最高司令部の間で会議が持たれ、日本陸軍第10方面軍の戦域移動と新たな軍集団の編成が決まる。それが日本陸軍単独によって編成された、日本陸軍遣欧総軍(連合軍第8軍集団)だった。
 連合軍第8軍集団は、麾下に日本第10方面軍、日本第11方面軍の2個軍編成の小振りな軍集団となるが、軍集団直轄に日本第1機甲軍(軍団)、日本陸軍第一空挺団、日本陸軍第一重砲兵師団を持つなど、連合軍視点でも十分な戦力を有していた。
 そして1946年3月までに再編成されたのが以下の編成になる。

  ・第51軍集団(クリューガー大将):
・アメリカ第6軍(デヴァース中将)
・アメリカ第8軍(ウェインライト中将)
・救国フランス第1軍(ド・ゴール大将)
  ・日本陸軍遣欧総軍(連合軍第8軍集団)(岡村大将):
・日本第10方面軍(地中海方面軍)(牛島中将)
・日本第11方面軍(大西洋方面軍)(本間大将)

 南フランスに展開する連合軍は、リヨンを指向する第51軍集団と一見後方で再編成中の第8軍集団(日本陸軍遣欧総軍)に分けられた。この布陣を敵のフランス軍は、大軍すぎて戦力展開ができないのと疲弊したら交代してフランス軍を疲弊させる作戦ではないかと推定した。もちろん西部への突破のための準備ではないかとも疑ったが、疑うにはその時のフランス軍及び欧州枢軸軍は情報が不足していた。航空偵察は自殺行為で、現地のスパイは同胞のレジスタンス活動もあってほとんど阻止されていた。また、ヨーロピアン一般の有色人種への差別感情もあり、「頼りにならない日本軍」をアメリカ軍が下げさせたのではないかとも考えていた。今までの戦争展開や各地での日本軍の活躍を見れば、現代の視点からなら敢えて下げるなどあり得ない予測なのだが、この視点は当時の欧米を考えれば致し方なかった。実際、秋まで前線にいた日本軍部隊は、一旦後方に下げられていた。
 また、最も疑うべき南西部への突破の可能性だが、この点フランス軍はある程度楽観していた。油断していたわけではなく、必要十分な防備体制を整えていたからだ。これは日本軍を蔑視しての十分さではなく、アメリカ軍が本腰を入れても一定期間なら十分守れると考えられていた。

 同地域は、リヨン方面から南西部へと伸びているセベンヌ山脈が「壁」となり、さらにフランスの最も西部はスペイン国境のピレネー山脈の裾野が広がっていた。故に谷間の重要拠点を必要十分な山岳防御に徹してしまえば、大軍を投じても短期間での突破は難しかった。唯一、一定程度の大軍が展開可能なのは、ミディ運河沿いの地域だった。そして同地域も平野部ではなく、山脈と山脈の間の細長い谷間上の低地だった。そして17世紀の頃建設されたミディ運河の工事が難工事だったように、平坦な道ではなかった。
 そして地の利を知り尽くしているフランス軍は、ここに2個軍団(※1個師団の規模が小さいうえに定数割れのため総数7万人程度。)を展開させていた。ただし予定していた2線、3線に兵力を配置する余裕が殆ど無かった。それでも山岳防御に近い地形なので、万が一連合軍が大軍を投じても一定期間、半年以上は押しとどめることが出来ると目算していた。加えて言えば、ロシア人とのドイツへの進撃競争を行っている状態の連合軍は、最初から進撃し直さねばならない上に、迂回突破による距離に伴う時間の浪費を嫌うと考えられていた。
 また一方では、リヨン方面の連合軍の圧力が強すぎるため、南西部に兵力を回す余裕が無かったという点も見逃せないだろう。防衛を楽観していたのも、あえて見て見ぬ振りをしていたと言えなくもない。もう、全てを守ることがフランスには不可能だったのだ。リヨン方面が保っているのも、ドイツ軍の増援とモーデル元帥の優れた防戦指揮があったおかげだった。そして連合軍の意図も、リヨン方面での圧力を強めて他の兵力を減らすことにあった。そのままリヨン方面から突破できればよいが、次善の策も用意できるところが連合軍の余裕とも言えただろう。
 そして停滞する戦線を前にして連合軍の意志は迂回突破へと傾き、西部のフランス軍の前には静かに日本軍が攻撃準備を整えつつあった。
 まずはその陣容を見てみよう。

  ・日本陸軍遣欧総軍(連合軍第8軍集団)(岡村大将):
・直轄
 ・日本第1機甲軍(軍団):第4機甲師団、第6機甲師団、第7師団
 ・第1空挺団、第1重砲兵師団、第2機動連隊(特殊部隊)、特設第1工兵旅団、機動輜重旅団、他

・地中海方面軍(第10方面軍):牛島中将
 ・日本第10軍(軍団):第1機甲師団、近衛第2師団、第4師団
 ・日本第13軍(軍団):第3機甲師団、第8師団、第38師団
 ・日本第31軍(軍団):第16師団、第17師団、第19師団

・大西洋方面軍(第11方面軍):本間大将
 直轄:第13師団、他
 ・日本第6軍(軍団):第3師団★、第12師団、第16師団★
 ・日本第9軍(軍団):第5機甲師団、第10師団★、第11師団★
 ・日本第11軍(軍団):第14師団★、第21師団★、第23師団

 師団総数21個あり、これは日本陸軍が編成した1つの戦闘単位としては過去最大級だった。各方面軍の布陣に変化はないが、直轄部隊には日本陸軍がヨーロッパに持ち込んでいた部隊の全てが所属していた。
 そして各方面軍の詳細に少し触れるが、第10方面軍と第11方面軍はそれぞれ特徴を有していた。第10方面軍は広い平野での突破戦闘に有利な師団が多く、第11方面は複雑な地形での戦闘、特に山岳戦に向いた部隊が出来る限り編成に組み込まれていた。マッカーサー元帥の求めで、本間大将と共にアメリカを経由してヨーロッパに着た第11方面だったが、南フランス上陸とその後の戦闘では当面は山岳戦となるための措置だった。
 開けた地形での戦闘ならば、極端な話し機械化率の高いアメリカ軍に任せてしまえばよく、自分たちは国土に適した装備と編成を持つ部隊で側面を固める事で存在感を示そうという日本陸軍の意図もあった。
 上記の「★」印のついた師団は、編成された地域が(日本の)山間部を含んでおり、特にその地域からの兵士を多く含むように編成していた。さらにフランス派兵が内示された頃から、日本本土に一度戻った再編成の折りに山岳訓練も実施していた。さらに各師団には、日本各地から選抜された山岳兵も組み込まれていた。ドイツ軍など欧州枢軸側の本格的な山岳師団には及ばないが、十分に山岳戦に対応できる部隊となっていた。しかも師団の基本は自動車化師団のため、通常の地形での戦闘にも十分対応できた。戦後の日本で登山ブームが起きたのは、この時の部隊編成が影響していると言われるほどだ。
 装備としての特徴は、移動しやすくするため軽量の重砲(※日本軍の旧式山砲や米軍の軽量な75mm砲など)を多く装備したり、四式奮進砲、四式臼砲など移動の簡単で威力の高い砲(ロケット弾)も多かった。また重火力の不足を補うため、歩兵火力が通常の師団や機械化師団より強化されていた。軽機関銃、短機関銃、擲弾筒、軽迫撃砲、簡易奮進弾などは、米軍の師団よりも多く装備されていた。師団所属の戦車隊など重装備部隊も、出来る限り軽量化していた。
 印のない一般師団は、自動車化師団より重装備の機械化師団だった。特に一桁番号の師団は全てが重装備の機械化師団で、近衛第2師団と第38師団も同様で、第11軍(軍団)、第13軍(軍団)は機械化軍団という事になる。対して第11方面軍には機械化軍団編成はなく、重装備師団は山岳戦では支援する立場となる予定だった。また機会を捉えて空挺部隊を投入することで、突破戦闘を有利にする作戦も準備されていた。
 そして日本軍が南西部のミディ運河の防衛線となっている、カルカソンヌの街前面に敷かれたフランス軍の防衛線に対して仕掛けた戦いが、浸透戦術だった。

 浸透戦術は、第一次世界大戦のロシア軍が考案してドイツ軍が完成させたと言われ、主に塹壕で形成された戦線を突破する際に編み出された。
 基本的には、小規模の精鋭部隊で敵戦線の弱い部分を突破し、そしてそのまま敵戦線の後ろ側に回って敵戦線を破壊する。第二次世界大戦の電撃戦とも似ているが、第一次世界大戦ではこれを歩兵だけで行った。砲撃で穴だらけの戦線なので、当時の貧弱な自動車では前線への投入も難しかったからだ。そして歩兵のみの戦術なので、人としての限界が前進できる限界だった。体力と手持ちの弾薬が尽きると、前進できなくなってしまう。
 第一次世界大戦の西部戦線で苦戦を強いられた日本陸軍も、同大戦中に同じ戦術を他国同様に取り入れた。そして戦後も戦術を磨くことに力を入れる。これは日本自体が他の列強に比べて陸軍の機械化が遅れていた為で、1930年代まで日本陸軍の常套戦術の一つとなっていた。しかし急速な機械化、第二次世界大戦の大規模化で、戦術は自動車両などを用いた機械化戦が主流となった。このため歩兵は戦場までトラックなどで運ばれ、戦場でのみ歩く(走る)のが一般的となる。日本軍も例外ではなくなり、兵士達は日本製またはアメリカ製のトラックやジープに揺られながらユーラシア大陸を横断してきた。しかし相手が山岳地帯となると話しも違ってくる。自動車、装甲車両が完全に使えないわけではないが、歩兵が歩かなくては戦えない戦場だった。そして歩いて攻める事こそが、日本陸軍の本領だった。そして第11方面軍は、そのために編成された旧来の日本陸軍らしい軍団だった。マッカーサー将軍の日本軍への信頼も、アメリカ軍にはないこうした少し「古くさい点」だったと考えられている。
 しかも1946年の日本軍は極度に重武装化され、十分な砲兵と航空機の支援が得られた。複雑な地形での突破戦闘はほぼ歩兵のみで行わねばならないが、進撃するすぐ後ろからは不整地や斜面にも強い完全装軌式の装甲車やハーフトラックによる増援や補給も容易だった。地形が許せば、戦闘に戦車や装甲車、兵員輸送車も投入できる。特にこの戦闘では、軽量ながら一定の戦闘力が期待できる「M24」軽戦車が多数準備され、突破戦闘を仕掛ける各師団に配備されていた。またすぐ後ろを進撃する部隊には、ある程度の山岳地帯や荒れ地でも活動可能な、完全装軌式のM7などの自走重砲(と砲弾運搬車)も集められるだけ集められた。
 また、前線突破は陣地戦にもなるため、特に最初の突破戦闘を行う部隊は多めの爆薬、擲弾、軽機関銃、短機関銃、簡易奮進砲、そして火炎放射器を装備したり専門兵を配置した。臨時にドイツ軍で言うところの戦闘工兵的な部隊となっていたのだ。
 本来なら第11方面軍は、リヨン方面の山岳地帯突破で重要な役割を果たす予定だった。実際、マルセイユ攻略までは現地連合軍の重要な一翼を担っていた。その後も、秋口まではローヌ側下流域の山岳地帯寄りの戦闘に加わっていた。しかし戦場が内陸部に移り始めると、同方面のフランス軍が予測以上の重厚な縦深防衛線を構築しているため、浸透戦術はあまり通じなかった。第一線突破はできてもその次の戦線突破、さらにその先となると防衛線を強化されてしまい、第一次世界大戦の1918年春のドイツ軍と似たような状態に陥った。このため一旦浸透戦術は中止され、損害も受けていた事から前線からも下がったところで、連合軍全体での方針変更となった。

 フランス大旋回の序章となるミディ運河突破作戦が開始されたのは、1946年4月29日だった。この日は「天長節」。日本帝国で重要な日である今上天皇(昭和天皇)の生誕日であり国民の祝日だった。そして日本軍はこの日は戦いを休むのが慣例で、欧州枢軸側も日本軍は動かないと考えるようになっていた。
 この時期になるとフランス軍(欧州枢軸軍)は、ミディ運河のカルカソンヌの街正面に日本軍が移動してきていることを掴んでいたが、それまで小競り合い以上は起きていない事もあって、休暇配置や二線級配置と考えていた。しかも前線からの偵察情報からは、連合軍のお家芸である重装備師団ではなく、軽装備部隊と言うことも判明していた。
 また4月25日頃から、リヨン方面の連合軍が大規模な攻勢を仕掛けており、欧州枢軸軍全体の関心もリヨン方面に集中していた。
 それら心理的間隙を突くように、日本軍による総攻撃が開始される。
 作戦は4月29日の日付が変わってすぐに開始された。
 連合軍としては珍しく事前爆撃は一切無かったが、ここで一つの懐かしい戦法が実施された。坑道爆破戦法だ。
 坑道爆破は、第一次世界大戦の塹壕でがんじがらめにされた西部戦線で、両軍共に大攻勢の始まりとして多用された。敵塹壕線の真下まで地下を掘り進み、大量の爆薬を仕掛けて敵前線を文字通り木っ端微塵に吹き飛ばしてしてしまう戦法だ。このある種懐かしい戦法を、日本軍は4ヶ月かけて地道に準備を進めた。第二次世界大戦では珍しく、全く動きのない戦線だからこそできた戦法だった。

 午前零時、フランス軍の陣地、トーチカ、塹壕付近で、一斉に火山の噴火を思わせたと言われる巨大な爆発が発生し、周辺に大きな音を響かせた。地下坑道の各所に10トン単位で仕掛けられた高性能火薬が一斉に点火されたのだ。
 爆心地では大量の土砂が吹き飛ばされ、大きなクレーターのような穴を作った。爆発が収まり日本兵が進むまで少しの時間があったが、爆発と共に一斉に周辺に配備されていた全ての重砲が火を噴く。特に1発当たりの投射弾量の大きい九八式臼砲、四式臼砲、四式奮進砲が、他の無数のロケット弾と共に一斉に数千発が発射され、重巡洋艦や戦艦クラスの砲弾並の破壊力を振りまいた。一見兵器には見えない簡便な多連装ロケットランチャーの姿も、もはやお馴染みになっていた。他にも、第一重砲兵師団が有する30センチ砲から15センチ砲に至る、日本陸軍が保有していたありとあらゆる野戦重砲が火を噴いた。濃密な火力戦は連合軍のお家芸となっていたが、今回は特に事前の航空支援なしで攻勢を開始することから、重砲火力が重視されていた。また航空支援は、攻撃開始のゼロアワーから開始されており、攻勢に際しての航空支援も十分に行われていた。
 そして戦線全域で今までにない重砲射撃を受けた事から、少し後方に位置していた現地フランス軍の司令部は、坑道爆破に気付くのが遅れた。そして敵兵が吹き飛ばされた場所では、既に敵最前線の目と鼻の先まで音を立てずに進んできた日本兵達が、敵兵がいない限り静かに夜の闇の中を進んでいった。最初の浸透では、ロシア戦線でも満州帝国軍として活躍していた特殊部隊の「機動連隊」が先陣を切っていた。

 29日の夜が明ける頃、日本軍はフランス軍の前線を実質的に突破していた。フランス軍は日本軍の攻勢の実状を掴み切れておらず、対応が後手後手にまわった。予備兵力は少ないながら用意されていたが、当初はどこに投入するのか決定できなかったほどだった。そして歩兵主体で、さらに濃密な歩兵火力で押してくる日本軍相手に、敵が機械化部隊主体の戦いを想定していたフランス軍は、予想外の苦戦を強いられた。慌てて他方面からの増援を要請するも、リヨンまで200キロ以上離れていた。それ以外の南フランスの戦力となると、年寄りばかりの民兵を除けば、反対側のビスケー湾に薄く配備されている自力の移動力がない歩兵師団ぐらいしかなかった。北部からは兵力は動かせないし、中部に配備されているように見える幾つかの部隊は、激戦を経て再編成中のボロボロの部隊がほとんどだった。つまり、何としても現有戦力で食い止めるしかなかった。それでも兵力が不足するのは確実視されていたので、リヨン方面予備部隊の一部を急ぎミディ運河方面に派遣した。近在のセベンヌ山脈に少数だけ配備されていた部隊も、回せる限り回された。
 そして日本軍とフランス軍の間に激戦が展開されたが、数で勝る日本軍が現地レジスタンスや救国フランス軍の地の利に明るい者の助けを借りながら巧みな前進を続けた。フランス軍は最初の一線が複数箇所で突破された時点で、最も堅い防備が施された地点から後退せざるを得ず、準備されていた二線、三線の防衛戦は資材不足、労力不足で不完全なうえに既に兵力不足も甚だしいため苦戦を強いられた。
 そして各所では、歩兵対歩兵という古来からの戦いが展開されたのだが、再訓練までした歴戦の兵士が非常に多い日本軍に対して、一部を除いて訓練も未熟で実戦経験に乏しい兵士が多いフランス軍は踏ん張りがきかなかった。いまだ軍刀を携えるごく少数の日本軍将校の姿は、心理的には悪魔のように映ったとも言われる。
 それでもフランス軍はここを破られると後がないため、日本軍が予測した以上の粘りを見せた。山岳戦に近い戦いのため、少数の熟練兵に率いられた僅かな兵士達だけで、1個連隊を止めるというリヨン方面でもよく見られた状況もあった。ここでの歩兵同士の戦いは、ごく短時間行われただけだったが「侍と騎士の戦い」と賞賛されるほどの激戦となった。
 しかし山を越える訓練も施された日本の熟練兵は、現地に詳しい連合軍兵の助けと、少数で敵の後方に降下した空挺兵の助けを借りながら着実に前進を続け、3日後の5月1日午後遅く遂にフランス軍戦線の突破に成功する。まだミディ運河とその周辺に広がる山間の狭い地形は続くのだが、運河の中継点に当たるツールーズまでフランス軍にまともな部隊はなかった。カルカソンヌ周辺のフランス軍主力は、後続で戦闘加入した第5機甲師団など重装備部隊によって山間部へと押し込まれており、戦いの帰趨は完全に決した。
 だが、狭い進撃路となるため、後退に成功した一部のフランス軍は、少数の部隊で度々進撃する日本軍を足止めした。それでも限定的な遅滞防御戦を展開するのが精一杯で、日本軍の進撃を止めるだけの力は残されていなかった。

 そして日本軍が突破した先には、遠くロシアまで続く欧州大陸北部の大平原が無防備な姿を晒していた。

●フェイズ85「第二次世界大戦(79)」