●フェイズ85「第二次世界大戦(79)」

 連合軍が「カレー上陸作戦」を決行した日、南フランスの日本軍はツールーズの街へ到達していた。眼前には、ビスケー湾へと注ぐガロンヌ川をいだく平原が広がっており、そこはフランス平原の西の端だった。
 そして平原に出たということは、機甲部隊の出番だった。

 それまで戦線正面が狭いため後方待機だった牛島中将率いる第10方面軍は、ツールーズを包囲しリヨン方面のフランス軍の側面を突くため、オーベルニュの中央高地へ進撃する予定の第11方面軍に進撃路を開けてもらいながら、電撃戦の準備を急いだ。
 既に5月9日には、各師団の機甲捜索連隊が先遣部隊として北へ向けての進撃を開始し、15日には先鋒となる第13軍(軍団)主力も段列を整えた部隊から先に前進を開始する。また、広大な平原を一気に北進するため方面軍を挙げた前進を行うが、それだけでは不足するため総軍予備の第1機甲軍(軍団)が臨時編入され、実質的に1個機甲軍規模として前進の予定だった。これほどの規模の長距離進軍となると、大量の燃料と燃料を運ぶトラックが必要となるが、今まで時間があったので数も量も十分以上に備蓄、準備されていた。さらには、1万両もの輸送トラックを保有する機動輜重旅団までが特別編成されていた。1万両という数字は、1941年6月に欧州枢軸軍がロシア侵攻に用意した輸送連隊の保有車両数より多かった。故に運河地帯を越えてしまえば、全く問題は無かった。しかも全軍を統括するマッカーサー元帥は、前線での補給が不足する場合は大規模な空中補給すら予定していた。
 先遣部隊の前進開始が9日なのは、当然と言うべきかカレー上陸作戦を意識しての事だった。連合軍全体としてはカレー方面の欧州枢軸軍への牽制が目的で、マッカーサー元帥としてはカレー上陸の部隊、より正確にはニミッツ元帥の部隊より先にパリ入城を果たすことが目的だった。連合軍全体の方針としては、ニミッツ元帥配下の部隊はフランドルに進む予定だったが、マッカーサー元帥は信用していなかった。
 故に前進する日本軍機甲部隊は、牽制以外でリヨン方面への攻撃は半ば命令で禁じられていた。表向きは、混乱を避けるための各軍集団の戦区の問題だったが、とにかく先に、そしてパリに進ませるためだった。
 ツールーズからパリまでの距離は、直線距離で600キロ弱。実際は補給路の問題で幹線道路を使い鉄道路線沿いに進むので、比較的真っ直ぐ道が延びているフランスの平原地帯でも、さらに50〜100キロ程度長い距離となる。
 600キロの距離は、1941年初夏にドイツ軍がソ連侵攻時に一度に進んだ距離よりも少し短いし、1940年初夏にドイツ軍がフランス戦終盤に進軍した距離とほぼ同じだった。その距離を、有力な敵のいない状況で進軍するだけで、さらに圧倒的戦力が潤沢な補給を受けながら前進するので、達成は十分可能と判断されていた。最短ならば、約2週間でパリ前面まで到達できるという予測まであった。
 総軍を率いる岡村大将にとっては、1940年の中華戦線以来の大規模突破戦で、直接率いる牛島中将にとっては初となる大規模な機甲突破戦だった。
 牛島中将は、機甲突破戦経験者の岡村大将をはじめ上下を問わず教えを請うて、さらには経験者を優先して進軍の前衛に充てた。もっとも、教育者として評価の高い温厚な紳士と見られていた牛島中将は、前線での指揮は猛将の名に相応しいものだった。各部隊には、脱落者に構わず前進するように命令し、自らと司令部も常に司令部用の装甲車やトラック多数を連ね、先頭を進む軍団の後方すぐに位置していた。このため司令部の位置が、時折不確かになる事があったほどだった。また連絡のために、連合軍でもまだ数の少ないヘリコプターが使われた。
 なお、有力な敵がいないと言っても戦闘が皆無というわけではなく、仮に見た目に敵がいないとしても警戒しないわけにもいかなかった。また、救国フランス軍やレジスタンスの案内が有ると言っても、道路標識の欺瞞や橋など交通網の破壊など小さな妨害は無数にあり、本当に無抵抗というわけではなかった。
 一日の平均進撃速度は25〜35キロ程度(※日によってかなり違うので、30キロとは表現できない。)。最初の目的地ドルドーニュ地方のリモージュ到達が、先遣隊の進撃開始から10日後の5月19日となった。途中、クロマニョン人、ラスコーの壁画で有名な場所の近くで後続の別働隊(※主力は第31軍(軍団)。)は東側のオーベルニュ地方に入るも、主力はとにかく突進を続けた。そして急激な進撃のため、戦闘が無くても機械的信頼性が抜群に高いアメリカ製の兵器であっても、車両の脱落は相次いだ。これを見越して、特に故障しやすい重戦車の半数は常に鉄道か大型トレーラーで運んだほどだった。また、全軍の先鋒を進む第11軍(軍団)は、敵の存在と戦闘の緊張もあるため将兵も休む暇がなく、戦闘も皆無ではないので車両を十分整備する時間が無かった。
 このため中間目標のリモージュに到達すると、第11軍(軍団)は一旦進撃路を開けて横に逸れさせ、すぐ後を追いかけていた第1機甲軍(軍団)に先鋒を交代させる。こうした進撃は電撃戦では珍しいが、進撃すべき場所が実質的にパリだけで、十分な部隊と支援組織のある連合軍だから選択できる戦法だった。そして何より、広い平原地帯でとにかくほぼ真っ直ぐにパリを目指す進撃だからこそできる荒技だった。1000両近い戦車、1万両近い自動車両を有する第1機甲軍は、道を空けた第11軍の脇をすり抜けてリモージュのすぐ側の農場が広がる平原を大急ぎで通り過ぎていった。
 そして第10方面軍としては、オルレアンから最後のパリへの進撃に、救国フランス軍の第2機甲師団と共に再び第13軍を投入する予定だった。進撃路の占領地が側面から丸裸になるように見える進撃だったが、そこは作戦初期に戦っていた第11方面軍の各部隊が素早く展開して脇を固める段取りになっていた。日本軍は、こうした事前に組み上げられた作戦では、非常にうまく動くことができた。

 ちなみに第1機甲軍(軍団)は、戦争の後半に入って編成された軍(軍団)で、実質的に最後にヨーロッパ方面に派遣された部隊でもあった。ヨーロッパ大陸の広大な平原での戦いを想定した重装備の機甲部隊で、編成は北海道で進められた。本来ならもう少し早く編成される予定だったのだが、当初編入予定の機甲師団(当時は戦車師団)を先に前線に送り込むことになったため編成が遅れた。第4機甲師団はもともとの編成に含まれていたが、本来は派兵予定にはなく本土での総予備の予定だった第6機甲師団を組み込み、ようやく欧州派兵の運びとなった。だが、派兵が遅れた分だけ日本本土で訓練も出来たし、何より新しい装備を最初から多く保有することになった。
 そして進撃の中核となったのが第7師団だった。
 第7師団は、明治の早い時期に北海道の屯田兵を中心にして編成された伝統のある師団だった。北の強兵と言われ、日露戦争では旅順要塞に苦戦を強いられるも、その勇猛さを知られた。第一次世界大戦でも第一陣として西ヨーロッパにまで派兵され、フランスには馴染みも深い部隊でもあった。基本的には北の守りの要なのだが、極東共和国成立後は少し立場が曖昧となった。オホーツク方面でのロシア人の動きに対応する部隊とされるも、基本的には有事の際は満州への増援として派兵する部隊と位置づけられた。そして増援として派兵する切り札的部隊なので、1920年代から重装備師団、重編成師団に改変された。1920年代から戦車連隊を有し、重砲など装備も常に最新のものが支給された。1930年代にはいち早く自動車化師団に改変され、所属の第七戦車連隊も1個中隊増やした増強編成とされ、捜索連隊も完全機械化された上に軽戦車中隊が配備された。
 第二次世界大戦が始まると、当初は日本軍全体の予備兵力に指定されるが、中華戦線での戦いの終盤に投入されて大いに活躍した。そしてその後は、第一機甲軍所属の機械化師団の指定を受けて、日本本土で本格的な機械化師団への改変を実施。さらに重装備師団となった。
 だが、所属予定の第一機甲軍(軍団)の派兵は延び延びとなり、さらに所属する戦車師団が戦争中盤から編成された部隊なので、各方面から兵士を入れて補強するも、どうしても戦力が疑問視された。そこで第7師団のさらなる重武装化が決まり、戦車連隊を2個として師団予備に重戦車中隊を追加。さらに機甲捜索連隊にも中戦車中隊を増強編成で組み込み、対戦車(自走砲)大隊もアメリカ軍供与のオープントップ、旋回砲塔型の自走砲とした。歩兵連隊も「カンガルー」装甲車が大量に配備されるなど、装備がさらに強化された。連隊砲は重砲化され、野戦重砲も全て155mm砲としたし、別に対地奮進砲(ロケット)連隊も有した。これらは日本陸軍の通常の編成からは離れることとなるが、それもその筈で部隊のモデルは満州帝国陸軍が有する重機甲師団だった。同じ日本人将校達が作った部隊の情報を入手して、大陸の大平原での戦いに適応した部隊のテストケースとして第7師団を改変したのだ。この大幅な増強と改変のため、将兵達は「第7機甲師団」もしくは「第7重機甲師団」と呼んだ。そして実質的に、第一機甲軍(軍団)の主力部隊だった。
 また第一機甲軍(軍団)は、軍団直轄として重戦車連隊など各種機甲部隊を有しており、他の日本軍部隊よりも機甲装備の面で優遇されていた。遅れて編成されたため、他の日本軍将兵からは低く見られることの多い部隊だったが、十分な戦力を有していたと言えるだろう。

 第一機甲軍は、ごく微弱な抵抗を文字通り粉砕しつつ強引な前進を実施。先の第11軍(軍団)に匹敵するか越えるペースでの進撃を実現し、リモージュからオルレアン前面までを6日間で踏破。だがそこで、有力なフランス軍と衝突する。
 オルレアン前面で日本軍に立ちはだかったのは、本来は北西部へ増援予定だった第2機甲師団(※救国仏軍の同名部隊とは全く別の部隊。)。カレー方面の北西部上空が連合軍機で溢れているため派兵のタイミングを逸していたところ、日本軍の接近の報を受けて予定を変更。パリを守るため、他の同じような部隊とともに実質的なパリ防衛軍の主力として陣を敷いた。
 オルレアンは、フランス史上では英仏百年戦争で有名な街で、位置的にはパリの約130キロ南西に位置している。ロアール川上流の閑静な街で、ローマ帝国以来の歴史を誇る。そして第二次世界大戦でも、再び歴史上への登場を余儀なくされる事となった。
 なお、フランス軍が立ちはだかったと言っても、街に立て籠もったり街の前面に防衛線を引いたわけではない。平原地帯なので、ほとんど無意味だからだ。街の中心を貫く河川での防衛線は多少有効だが、それも戦力差から時間稼ぎにしかならない。それにフランス軍は、歴史ある街を戦場にする気は無かった。
 戦闘は、あくまで機動戦による遅滞防御が目的だった。確かに一部部隊による街道の封鎖や防御陣地の設置による進撃阻止のための措置は行われたが、あくまで副次的だった。急造の地雷原や陣地で敵の足を一時的に止めるのが最初の目的で、そして動きが鈍ったその横合い、もしくは後方に襲いかかって撃破するのが目的だった。

 5月25日昼頃、「M4A3E8(イージーエイト)」シャーマン中戦車中隊を臨時に編入した日本軍の第6機甲師団の機甲捜索連隊は、突如重砲や重迫撃砲などによる阻止砲撃を受ける。ほぼ同時に、捜索連隊のさらに先を進んでいた軽装甲車隊、オートバイ偵察隊、さらには空軍部隊などからの情報で、今までにない有力なフランス軍部隊の存在を確認する。
 このまま本隊を待っても良かったが、前進することを第一としていた事もあって、すぐにも戦車中隊を前面に出した威力偵察を開始。航空支援を呼び寄せての攻撃で、まずは必要十分な措置を取った上での進軍だった。
 だが捜索連隊は、予想外の苦戦を強いられる。敵が潜伏すると見られた地域に向けた戦闘で、短時間の間に次々と「M4」中戦車最強と宣伝され事実その通りの筈の「M4A3E8」中戦車が、1000メートル以上の遠距離からの射撃で撃破された。中には分厚い砲塔正面装甲を貫かれた車両もあり、間違いなく有力な対戦車部隊が存在している事を示していた。これを捜索連隊は、前方の敵集団の中にドイツ軍がいると考えた。今までフランス軍は、強力な88mm砲をほとんど保有していた事が無かったからだ。そして砲撃してきたのが森林からだったので、戦場では滅多に出会わないと言われるタイガー重戦車(VI号ティーゲル)ではなく、それよりもはるかに将兵から恐れられていた対戦車砲の可能性が高いとも判断した。戦車よりも遭遇率の高い対戦車砲こそが、連合軍戦車兵最大の敵だったからだ。
 そこで榴弾や後方の迫撃砲による射撃を実施するが効果はなく、さらに進撃したところを砲撃を受けて数両の戦車が撃破される。このため一旦後退することを決意するが、そのタイミングでフランス軍の方が攻勢に討って出てきた。
 森林から出現したのは、「S-44重戦車」の砲塔を一回り大きくした大型の重戦車。「S-45重戦車」、通称「シャールB4」だった。
 シャーシは「S-44重戦車」とほぼ同じだが、砲塔が完全な新規でフランス軍が量産に成功した71口径88mm砲を搭載していた。重量54トン、最大装甲は「S-44重戦車」と同じ110mm。車体の設計も若干洗練化され、エンジンも若干強化されていたので、重量増加分の最低限の機動性も確保されていた。ただし「S-44重戦車」同様に車体の車高が高く、主砲に対して車体幅も十分とは言い難かった。特に細長い車体なので、側面を晒したときは脆かった。
 それでもフランス軍がようやく手にした十分な性能を持った重戦車で、1945年11月に少数ながら量産が開始されたばかりだった。同車両は1946年2月にリヨン方面に投入が開始されていたので、連合軍にとっては全く未知の戦車では無かった。しかし日本軍にとっては初めて相対した敵戦車で、長砲身の3インチ砲を搭載した「M4A3E8」でも、所詮はシャーマンなので分が悪かった。
 この戦闘では、大損害を受けた第6機甲捜索連隊は這々の体で逃げ出すより他無かったが、とにかく前面の敵に有力な敵が存在することが分かったので、本隊の到着を待つこととした。
 しかしこの時点でフランス軍の本隊も動いており、すぐにも第一機甲軍(軍団)の東側を進む、彼らが最初に攻撃した第六機甲師団の側面へと殺到していた。
 フランス軍機甲師団主力は、あくまでフランス製の車両だった。イギリス本国が寝返って供与が止まり、ドイツ軍がほとんど自国車両を供与しないのが原因だが、フランスは自力での生産能力があるだけマシだった。
 主力は「S-41H」中戦車。「S-41D」の改良型だが、エンジン、装甲を強化したほぼ別物の戦車で、「M4」や「四式中戦車」と互角に戦うことができた。それ以外だと、フランス軍にも突撃砲、自走砲が増えていた。旧式戦車は自国製、他国製を問わず、ほとんどが改造されていた。中でも「S-41D」の車体を利用して88mm(こちらは56口径型)砲を搭載した「S-41K」は火砲が強力なので、リヨン戦線では45年冬頃から活躍していた。オルレアンのフランス軍も対戦車中隊が装備しており、戦車用に掘り下げた陣地に籠もったりして待ち伏せていた。

 しかしこの時の戦いはフランス軍が攻勢に出る側で、予想外の攻撃で奇襲を受けたような状態に陥った日本軍は混乱した。熟練兵が少なく実戦経験のない第六機甲師団だから混乱したと言われることも多いが、この場合は日本軍全体が奇襲を受けたに等しいので、他の師団でも状況はあまり変化無かっただろう。中央で先鋒の第七師団でも、混乱しないまでも動きは停滞していた。
 だが、日本軍は混乱して後退を余儀なくされるも、火力と装備の差、さらには航空支援の有無で徐々に混乱から回復し、隣にいた第7師団が適切な間接支援を行うことで、後方を突破されるという最悪の事態は避けることができた。攻勢防御戦にでたフランス軍も、1個機械化軍団の後方を遮断できるとまでは考えていなかったので、まずは十分な戦果を挙げたと判断し、無理押しをせずに夕闇とともに後退した。何よりこの時のフランス軍の目的は、連合軍の進撃を一時でも停止させて時間を稼ぐ事だった。そしてその目論見は、一定程度の成功を見た。その後日本軍は慎重になり、後続する部隊が追いついて体制が十分整うまでオルレアンの包囲もしくは通過を待った。
 対するフランス軍、欧州枢軸軍は、一週間ほど待てば一定程度の援軍が期待できた。北大西洋側では、依然として連合軍の大軍は狭い橋頭堡で補給不足に喘ぎながら、戦線突破ができないでいた。そこにはドイツ軍が軍集団規模の大軍で陣取っており、現時点なら多少は予備兵力を南部に回す余裕があった。と言うよりも、せっかくカレー方面で連合軍を効果的に足止めしているのに、パリが呆気なく陥落してカレー方面のドイツ軍の後ろに別の連合軍が進撃してくるなど悪い冗談でしか無かった。故にパリを守るためというよりも、カレー方面の戦線を支えるために日本軍を防ぎ、そのために増援を送り込まざるを得なかった。
 しかし日本軍の快進撃によって、欧州枢軸軍の戦略は瓦解しつつあった。

 日本軍のオルレアン到達で、早くもリヨン方面でのフランス軍の動揺が広がり、しかもオーベルニュ方面からの日本軍の側面攻撃を受けて戦線が瓦解しつつあった。こうなってはリヨン方面のフランス軍35万、ドイツ軍20万は、いかに犠牲を少なくパリ方面に後退できるかが問題だった。一年弱に及んだ連合軍1個軍集団の足止めは戦略的にもう意味は小さかった。もっとも、南部全域から攻め込まれている現状で、パリだけ守っても仕方ないのも事実で、フランス自体の戦いは終わりを迎えつつあった。オルレアンでフランス軍が防戦に出たのは、ほとんど自分たちの名誉を守るためだったと言われることが多いのはこのためだ。
 そうした状況下で、5月27日にオルレアン前面の日本軍第一機甲軍(軍団)が攻勢に打って出る。3個師団全てを動員した上に重戦車連隊を先頭に立てた密度の高い機甲突破戦スタイルでの前進で、短時間での突破を目論んだものだった。航空支援も十分に充てられており、フランス軍の師団が小振りなことを考えれば十分な攻撃だった。
 この攻勢を成功させることで、ドイツ軍はともかくフランス軍全体の士気を心をへし折るのが目的だった。
 日本軍の攻勢は、勝利が見えている連合軍の攻撃だと考えると非常に積極果敢だった。犠牲を省みないという程では無かったが、単なる物量戦を仕掛けているのではなかった。戦力の出し惜しみもなく、500両以上の戦車を中心とした戦力が一気に攻めかかっていた。
 フランス軍の「S-41H」は、日本軍の機甲師団用装備とされている「四式中戦車」とも互角に近い戦いを演じたが、やはりもとが20トン級と30トン級の戦車の差は埋めがたく、しかも数やその他の戦力の差などもあって2日前のようには戦えなかった。加えて言えば、フランス軍の機甲師団の規模は当時のドイツ軍並に小さく、戦車も定数で100両程度しか無かった。立ちふさがった第2機甲師団は、重戦車隊などの増援部隊により多少は規模が大きかったが、連合軍基準でも重編成の1個機甲軍団を前にしては程度問題の戦力差だった。
 各所で機動力を駆使したロシアの平原で戦われるような戦車戦が展開されたが、フランス軍は最初から劣勢を強いられた。そうした中で、戦闘初期に日本軍に痛打を与えた「S-45重戦車」と、それに対抗するべく前線に出てきた「三式重戦車改」の対決が見られた。火砲の威力はほぼ同じ。だが、火力はタングステン弾を用いる「三式重戦車改」が有利だった。またお互い正面からだと防御力はほぼ互角だが、砲塔正面面積は「S-45重戦車」の方が大きく若干不利だった。これだけだとほぼ五分の戦いとなりそうだが、機動性の差はかなりの開きがあり、加えて砲のジャイロスタビライザーを装備する「三式重戦車改」が有利だった。とはいえ共に重戦車なので「S-45重戦車」も寡兵ながら善戦し、互いに簡単に撃破されることもなかった。「三式重戦車改」が3両がかりで「S-45重戦車」を側面から撃破するという光景も見られた。
 結局、勝敗を決したのは、機械的な信頼性の高さと戦闘全体の趨勢だった。
 正面からの戦闘では完全撃破が難しい重戦車は、負けて後退する時に損失もしくは喪失しやすかった。勝っていれば、回収して修理することが出来るからだ。この時のフランス軍も、機動性の不足から側面や後背に回られて撃破されるよりも、砲撃を受けるなどで故障したため戦場に取り残され、味方によって自爆させるか、さらにはその時間もないので破棄されていった。対して日本軍重戦車は、アメリカ製の部品(もしくはライセンス生産品)を多用している事もあり機械的信頼性が高く、その後も追撃戦にまで参加する車両も多かった。

 オルレアン第一線での単純な戦いそのものは日本軍の勝利で、最初の激突で不利を悟ったフランス軍は強引な阻止戦闘をそれ以上継続せず、その後は後退しながらねばり強く戦う方向へと向かった。このため戦闘に明確な結果は出ず、戦いは第二線での戦いに移るかに見えたが、そうはならなかった。
 5月28日、日本軍の後発となっていた第11方面軍の一部が、より西部を無人の野を進むように突破戦闘を行い、オルレアンの南西にあるツールの街を越えてロアール川も渡河し、その先のルマンに向かいつつあるという報が両軍の間を駆けめぐったからだ。
 この方面での戦闘は、日本軍(連合軍)は把握していたがフランス軍(欧州枢軸軍)は、兵力をほとんど配置できていなかった事と、レジスタンスの妨害により正確な情報を持っていなかった。このため戦略的には奇襲的な情報となり、オルレアン方面のフランス軍残存部隊はパリにまで引き下がるより他無かった。
 ツール方面はほぼ無防備で、同方面の日本軍はわずか2日後に無血開城でルマンを落としたあと、ノルマンディー半島付け根の辺りまで直進するかルマンで進路を東に変えてパリを突く事のどちらもできた。
 そして戦闘地域がパリ周辺になれば、パリとリヨン方面の主交通路が遮断されるに等しく、連合軍が壮大な包囲殲滅戦をするまでもなく、リヨンからフランス軍が撤退することで、リヨンは陥落したも同然だった。
 さらにリヨン方面からフランス軍が大幅に後退すれば、その北部に広がるブルゴーニュ地方に連合軍が入り込み、どこにでも進撃できるようになってしまう。パリを目指すか、シャンパーニュを経由して一気にベネルクス方面に突進するか、はたまたアルザス方面へと進みドイツ本土へと迫るか、どこに向かうにしても欧州枢軸軍は希薄であり、無防備同然だった。
 要するにフランス全土が総崩れだった。

 カレー方面のドイツ軍を中心とする欧州枢軸軍は、5月9日に上陸した連合軍を三週間を経ても、海岸から30キロ付近で足止めしていた。だが、連合軍が南からパリを越え、マルヌ川を越え、マルヌ=ライン運河を越えたら、海と陸からの挟み撃ちだった。それでもベルギー、オランダ方面への後退は可能だが、もはや連合軍をカレーに押し込めるため激戦を繰り広げている場合では無かった。ドイツ軍としては次の戦い、つまりドイツ本土戦に備えなければならなかった。
 そこでドイツ総統大本営は、次善の策として移動可能な全欧州枢軸軍のベルギー方面及びライン川西岸方面への後退を命じる。流石のヒトラー総統も、死守命令は出さなかった。だがこの命令には、同じ欧州枢軸陣営のフランス軍も従わねばならなかった。しかもヒトラー総統は、進撃してくる連合軍に何も渡さない為、パリにいて実質的にフランス政府とフランス軍を監視している少数のドイツ軍部隊と一般親衛隊に対して、各橋梁、鉄道、幹線道路などを中心とした、パリの破壊を密かに命じていた。パリだけでなく、それ以外の重要な建造物、交通網、港湾なども破壊できる限り破壊するよう命令を下していた。命令自体は焦土戦術に近いが、それを同盟国でやろうという事だった。
 しかし、事ここに至って、欧州枢軸として戦っていたフランス人達は、自分たちの戦争が終わった事を実感していた。同盟国としてのドイツへの義理も十分以上に果たしたし、自分たちの矜持も示すことが出来たし、これ以上戦うことはフランスという国家と民族を不要に損なうことになると考えた。これは政府や軍も同様で、フランス人個々人においても同様だった。このため、連合軍パリ迫るの報が6月1日に駆けめぐると、各所で白旗を掲げるフランス軍人達が続出。ドイツ軍と共にカレー方面にいたフランス軍も、ドイツ軍からの命令を振り切って、場合によっては友軍に銃を突きつける事までして「ドイツへの後退」を否定し、その場に止まるかパリ方面へと後退していった。現場のドイツ兵も、一般親衛隊のごく一部以外はフランス人を止めることはなく、ドイツ兵の多くもフランス人の戦争が実質的に終わったことを実感した。
 そしてヒトラーによって破壊命令の出たパリだが、一般親衛隊の不穏な動きはフランス政府、軍に行動を抑え込まれた。ドイツ国防軍の現地司令官などは、ドイツ本国からの命令をことごとく無視して、司令官は司令部としていたホテルで連合軍の代表が来るまで待って、そのまま降伏してしまった。また、パリのドイツ軍司令部に不審を抱いた一部のドイツ軍部隊がパリに入ろうとしたが、その動きはフランス軍によって阻止された。
 また一方で、主にパリでのレジスタンス活動も、フランス政府、軍によってほぼ抑え込まれた。特に政権転覆と連合軍に先駆けたパリ制圧を目指していた共産党系レジスタンスは徹底して弾圧、逮捕された。共産党系レジスタンスに対しては、敵味方に分かれていた二つのフランス軍が共同で戦ったほどだった。
 そしてあとは「どうフランスが降伏するか」だった。

 「連合軍パリに迫る」。この報告で、小さな混乱が連合軍を駆けめぐった。6月1日の時点で、フランス政府はすでに連合軍と水面下で接触を行い、フランス政府の降伏と救国フランス政府への合流を打診していた。このため基本的には、事態は軍事から政治に大きく傾いていた。既に最もパリに近づいていた日本軍は、オルレアンとルマンの両方面から迫りつつあった。連合軍の問題は、誰がパリに入るかだった。
 日本軍の進撃には、救国フランス軍の第2機甲師団が同行していた。戦闘はほとんどしていなかったが、彼らは大義名分そのものなのでそれでよかった。パリに一番に入るのも、フランス政府を降伏させるのも彼らで問題なかった。だが、連合軍としてパリを占領するには、1個師団では不足だった。しかも第2機甲師団は、歩兵の少ない機甲師団な上に、連合軍の編成としては小振りな部隊で兵員数も1万2000名程度しかいなかった。これでは降伏するフランス政府にパリの治安を任せねばならないが、例え一時でも連合軍として全てを掌握するべきだと考えられた。
 しかし向こう1週間以内だと、使える戦力は日本軍しか無かった。日本軍部隊が所属するマッカーサー元帥の兵士達は、ようやくリヨンを解放して先遣隊が北上を開始したばかりだった。比較的近いカレー方面の連合軍は、ベルギー方面への後退を始めていたドイツ軍を追撃しないといけなかった。それでもカレー方面の救国フランス軍はパリに向かわせる事が決まり、それに合わせてパリ入城とフランス降伏調印の日時が決まる。
 フランス降伏は1946年6月6日。
 パリ中心部は救国フランス軍が入り、それ以外は数が多い日本軍が担当する事となった。だがそこに横やりが入る。パリに進軍する日本軍を指揮下に持つマッカーサー元帥が、日本軍も一部をパリ中心部に入れるべきだと各方面に訴えたのだ。
 曰く、パリ進撃の直接の功労者を除外するような事をしては、連合軍全体の士気に関わる。さらに有色人種蔑視とも見られかねず、連合軍の大儀にも反する。また、パリ解放は連合軍が行った事であり、救国フランス軍だけが行ったように見られる可能性もある、と。
 結局、救国フランス側が譲らざるを得ず、救国フランス軍を先頭としつつも、実質的には日本軍を中核としたパリ入城が実施される。そして入城してきたのが、重厚な戦車を先頭にした車両の大群だったため、パリ市民の度肝を抜くと同時に、自分たちがどんな敵と戦ってきたのかを実感させたと言われる。
 なお、ド・ゴール将軍など救国フランス政府が懸念した有色人種を中心としたパリ解放だったが、パリ市民は特に落胆しなかった。日本を知る者は政府、軍を除けばごく一部の時代なので、救国フランス軍に続いて大量の黄色人種の部隊がやって来ても、海外のフランス植民地の兵士(※インドシナ兵)だと勘違いした者がほとんどだったからだ。こうした大きな意識の差こそが、連合軍と欧州枢軸軍の差だったとも言えるだろう。
 しかしド・ゴール将軍らにとっては大きな屈辱だったらしく、その後のフランスの日本の関係に影を落としたと言われることが多い。また、マッカーサー元帥が日本軍をパリ入城に深く関わらせたのは、自らの配下の部隊をパリで行進させたかったからだと言われる。そしてマッカーサー元帥の場合は、自分の配下であればアメリカ人でも日本人でもあまり気にしていなかった。ただ、パリ入城したのが牛島将軍の部隊で本間将軍の部隊で無かった事については、後に本間将軍への謝罪に近い言葉を残している。

 なお、連合軍が1日も早いフランス降伏に拘ったのには、当然ながら当時の戦況が関係していた。



●フェイズ86「第二次世界大戦(80)」