●フェイズ86「第二次世界大戦(80)」

 西欧戦線から話しを少し遡る。
 1945年から46年にかけての冬は、東部戦線のソ連軍にとっては予想外の忍耐の時期となった。
 ドイツ軍の予想外の大規模反攻作戦で、ポーランド東部のブレスト=リトフスク方面で150万もの野戦軍主力が包囲され、最終的に80万人が降伏し約20万人が戦死した。また、建設途上の大規模な兵站拠点も奪われるか壊滅し、戦線はワルシャワから250キロもの後退を余儀なくされた。これが1946年1月23日の事だった。
 しかも戦況は直接繋がるバルト海方面にまで波及し、ドイツ東部の要衝ケーニヒスベルグの半包囲体制も解かねばならなかった。南部でも、ドイツ軍の攻勢のため、12月後半の冬季攻勢で予定していたハンガリー方面での作戦も無条件延期せざるを得なかった。そして2個方面軍の事実上の消滅に伴い、ソ連軍は戦線の大幅な再編成と建て直しを余儀なくされた。このため予定していた2月のドイツ本土侵攻は無くなり、再びポーランド侵攻からやり直さなくてはならなくなる。
 これが互角の戦力の戦いだったら、戦争の帰趨を決していたかもしれないほどの戦いであり、ソ連軍にとって痛い敗北だった。しかし100万の兵を失っても、ソ連軍にはまだ1400万人の兵士がおり、1万2000機の空軍があった。(※兵士の数に空軍兵を含む。)加えて、満州帝国軍120万の兵士と1500機の空軍機も健在だった。さらに言えば、ソ連の戦時生産も連合軍のレンドリースも、無尽蔵な兵器と物資を前線に送り込み続けていた。だからこそ「東方の守り」作戦でのドイツ軍の勝利は「戦争を三ヶ月遅らせただけ」と言われるのだ。しかし、三ヶ月で済むように軌道修正したソ連軍の努力も、並々ならぬものがったことも間違いない。

 1946年1月末から2月にかけてのソ連軍は、大幅な戦力再編が行われた。北ではフィンランドの相手はレニングラード方面軍改め、第2バルト方面軍とされた。今まで第1〜第3バルト方面軍は第1のみに整理され、一部を新設の第2バルト方面軍に編入した他は、残存戦力を加えた上で余剰戦力の全てを第2ベラルーシ方面軍として再編成した。南では、第4ウクライナ方面軍が解体され、こちらも残存戦力などを組み込んで規模を大きくした上で、第1ベラルーシ方面軍が再編成された。
 この結果、スロバキア地方からルーマニア中部に伸びるカルパート山脈より南側のハンガリー方面は、北から順番に満州帝国遣蘇総軍、第2ウクライナ方面軍、第3ウクライナ方面軍だけとなる。
 簡単に方面を分けると、北から順番に以下のようになる。

 ・第2バルト方面軍(フィンランド方面)
 ・第1バルト方面軍(バルト海方面) 
 ・第2ベラルーシ方面軍(ポーランド正面)
 ・第1ベラルーシ方面軍(ポーランド正面)
 ・第1ウクライナ方面軍(ポーランド南部)
 ・満州帝国遣蘇総軍(ハンガリー北部方面)
 ・第2ウクライナ方面軍(ハンガリー南部方面)
 ・第3ウクライナ方面軍(ユーゴ方面)

 一見、1945年の夏頃より方面軍の数が大きく減少しているが、方面軍一つ当たりの戦力は増えているものが多い。各方面軍はほとんどが100万以上の兵力を抱えており、各国標準なら軍集団と同規模だった。今までもドイツ軍の戦闘正面の方面軍は100万以上の兵力を持つことは珍しくなかったが、ここで各方面軍の格差が小さくなっていた。これは戦線が整理されたからでもあるが、戦争が終盤に近づいてソ連軍内での出世競争が戦後を見据えたものになっていたからでもあった。
 戦線はカルパート山脈を挟んで大きく二つに分かれており、ポーランド方面は依然としてコンスタンチン・ロコソフスキー元帥が一番の指揮権を有していた。ロコソフスキー元帥は東方の守りで敗将となったが、手腕が惜しまれ今までの功績により敗北を免除されたため、捲土重来を期しての起用継続だった。ただし大きな失点によって、ソ連軍内での出世は今以上望めないとこの当時から言われていた。南部は少し変則だった。基本的にはフョードル・トルブーヒン元帥が指揮の優越権を与えられていたが、北部での穴埋めで精鋭を引き抜かれた事もあって、実質的に最大級の戦力を持つのが満州帝国遣蘇総軍だったからだ。

 満州帝国遣蘇総軍は、ロシアで戦ったほぼ唯一の連合軍部隊で、無視できない戦力を有しており、さらには勝利にも大きく貢献しているため、この時期にはもはや政治的存在となっていた。しかし東欧各地に共産主義政権を作ろうと目論んでいたソ連にとって、立憲君主国家の軍隊が東欧のど真ん中に居ることは不利益も多かった。それでもポーランド正面から外してドイツに攻め込ませないようにした事で、政治的に辛うじて受け入れられる状態だった。
 それと国家やイデオロギーは別として、ロシア人の心情としては、ロシアの大地でロシア人のために血を流した「戦友」を疎かにする気は無かった。このためソ連軍にとっての遣蘇総軍は、ロシアの大地での戦いに決着が付いた以上、そのまま出来るだけ何もせずに戦争を無事終えて故郷に帰ってもらいたかった。しかし連合軍としては、ロシアに撃ち込まれた政治的くさびに等しく、ロシア戦線が東に進むにつれて遠くから遣蘇総軍にあれこれと言うようになっていた。
 こうした情勢に対して当の遣蘇総軍は、既に戦後を見据えて出来る限りロシア人に恩を売る事に腐心した。その上で、満州帝国全体と自分たちの利益になる動きをしようとしていた。

 1945年秋から1946年にかけて、この頃東ヨーロッパ南部の戦線は、カルパート山脈から流れてベオグラードでドナウ川に合流するティサ川から、ハンガリーを横断してクロアチアに伸びてジルナアルプスに至り、そしてアドリア海に繋がっていた。1946年に入ると、バルカン半島付け根辺りのアドリア海沿岸は既に幾つかの場所で連合軍が上陸しており、最も西に進んでいた第3ウクライナ方面軍と握手を交わしている場所も見られた。
 分裂状態の旧ユーゴスラビア王国は、主に北部のクロアチアと南部のセルビアに分かれた状態で、ほとんどを内輪もめと内戦状態で大戦を過ごしていた。このため義勇SS兵以外の兵士は国内にいた。このうちクロアチアが親ナチスで、セルビアが反抗的でドイツにも弾圧されていた。イスラム教徒の多いボスニアも、ドイツから不遇な扱いを受けていた。このため連合軍が東欧に侵攻すると、セルビアは降伏を選んだ。しかし南部のギリシア、ブルガリアにはアメリカ軍、ルーマニアにはソ連軍が入ってきたため、セルビア内で少し混乱が見られた。結局、昔からの大セルビア主義と親スラブ政策に従って、セルビアはソ連軍を招き入れた。そしてマケドニアなど南部は概ね反セルビア感情が強いため、軒並みアメリカ軍を招き入れたのだが、これが後々まで影響を及ぼすことなる。
 一方北部のクロアチアは、親ドイツ、親ナチス政権で支援も多く受けていた事もあり、ソ連軍、連合軍双方に対して徹底攻勢の構えを見せていた。西ではスロベニアに迫る連合軍と山岳地帯で睨み合い、東では他の同盟国と共にソ連軍と対峙していた。
 それ以外だと、一番北のスロベニアは山向こうに連合軍が迫り、ドイツ軍が駆けつけてきたので、仕方なく連合軍と向き合っているといった状態だった。中部のヴォスニア・ヘルツィゴビナは、もともと一番民族や宗教が雑多な地域なのでまとまりに欠けていたが、今まではクロアチアとセルビアに挟まれて身動きが取れず、半ばドイツの占領統治下にあった。そのためドイツ、クロアチアと共にソ連軍と対峙させられていた。
 以上のように1945年秋以後は、旧ユーゴスラビア地域は大きく二分されたような状態だった。そして山岳地帯が多いため、ソ連軍、連合軍も迂闊に攻め込めないでいた。
 とはいえ東ヨーロッパ南部の焦点は、ハンガリー盆地にあった。

 ハンガリー方面には、東から満州帝国遣蘇総軍が、南からは第2ウクライナ方面軍が迫っていた。第3ウクライナ方面軍はクロアチア方面に思いの外手間取っていたため、ハンガリー方面に戦力を向けられないでいた。これに対して欧州枢軸軍はハンガリー第2軍以外は全てドイツ軍で、ケッセルリンク元帥指揮のもとロンメル将軍の第7軍、フリースナー将軍の第8軍が対峙していた。第7軍が南部、第8軍が東部の担当で、第8軍がティサ川での河川防御陣を張り、第7軍に機甲戦力を多く振り向けていた。当初の攻防戦で守られたデプレツェンも、冬に入るまでに満州軍が物量差で押しつぶす形で陥落させ、ハンガリー東部は連合軍の占領するところとなった。
 11月末頃から戦線が停滞して、その間ソ連軍、満州軍は鉄道幅の変更、道路などの修復、そして物資の集積に時間を費やしていた。だが、ポーランドでの戦況の変化によって冬季攻勢は吹き飛び、不本意な越冬を強いられていた。そして3月になると雪解けが始まり、農地などがロシアほどでないにしても泥で動きにくくなるため攻勢に出るとしても3月後半を待たねばならなかった。
 しかし冬季反抗を延期したのは、ドイツ軍も同様だった。
 ドイツ軍の場合は、ポーランドでの作戦がうまくいった場合、余剰戦力をハンガリー正面に回して大規模な反抗を計画していたが、思いの外損害が大きいことと、予想したよりもポーランド正面のソ連軍が弱体化していないため、すぐに戦力を動かすことができなかった。しかし、ポーランド正面で大規模な包囲殲滅戦を成功させ、その後も占領地を維持したため、中央軍集団は正面だけでなく南側も敵にさらす状態になっていた。そしてそこからカルパート山脈を越えた南側に満州軍遣蘇総軍がいた。
 位置関係を文字で現すと以下のようになる。

   ● 第1バルト方面軍
       第2ベラルーシ方面軍
   ●(中) ● 第1ベラルーシ方面軍
      第1ウクライナ方面軍
    ------カルパート山脈------
(南)● 満州帝国遣蘇総軍  ------
 第2ウクライナ方面軍     ------

 上の黒丸はケーニヒスベルグ、真ん中の左側がワルシャワ、右がブレスト・リトフスク、下がブタペストになる。(中)はドイツ中央軍集団、(南)は南方軍集団。軍集団の数の差は3対1だが、兵力差はおおよそ5対1。軍事的には、防戦に徹しても防ぎきれない格差が開いていた。
 常識的に考えれば、戦線を整理・後退させて大規模河川と山岳地帯を利用した堅固な守勢防御を敷く以外に、ドイツ軍が長期にわたって戦う手段は無かった。ヒトラー総統らドイツ首脳部が考える連合軍との停戦のためにも、それを行うべきだったという後世の意見も多い。そして「東方の守り作戦」で賭けに勝ったのだから、勝った段階で即座に実行するべきだったと言われる。
 しかし、当時のヒトラー総統とドイツ首脳部の心理は、追いつめられ焦った賭博師と同じだった。その証拠に、作戦前は手放す予定だった占領地を保持し続けて、長期的視点では戦略的に不利になっていた。また「東方の守り作戦」のすぐ後で、さらにソ連軍に攻勢を仕掛けなかったのは、そのための兵力や物資が無かったからに過ぎない。だが、数ヶ月が過ぎて自分たちの体制が整ったので、遅ればせながらさらなる戦線の安定化の為の攻勢を画策した。
 それがハンガリー東部方面での「春の目覚め作戦」だった。
 主な作戦目的は、東部戦線唯一の連合軍として比較的孤立している満州軍に総攻撃をかけてカルパート山脈に押しつけて壊滅させ、南部戦線を安定化するというものだ。いまだ有色人種として見下す向きが直らない事もあり、また前年秋の戦闘でロンメル将軍が一矢報いた事もあって、満州軍はソ連軍より与しやすいと見られがちだった。特にこの時期のヒトラー総統はそう考えていたらしく、「劣等人種を滅ぼして戦線に楔を打ち込むのだ」という言葉を、似たような言葉を含めて何度も発している。
 そして攻勢作戦のために、比較的移動距離の短い第6SS装甲軍、第5装甲軍が南部に引き抜かれて移動した。
 攻勢は第6SS装甲軍、第5装甲軍が行い、もとから満州軍と対峙しているフリースナー将軍の第8軍はその支援に当たり、現地の事情に詳しいロンメル将軍の第7軍は部隊の戦力が低いという理由で攻勢には参加せず(※事実戦力は低下していた)、ハンガリー南部の戦線を単独で支えることになる。

 対して、ドイツ軍の主攻勢面に立たされることになった満州帝国遣蘇総軍だが、この頃はティサ川渡河の準備を完了するも、ソ連軍との攻勢のタイミングを計っているところだった。ティサ川の渡河自体はそれほど難易度は高くないし、渡河後はハンガリー盆地という広い平原での突破戦になるので、準備さえ十分整えれば特に問題のない攻勢になるだろうと予測されていた。何しろ自分たちの前には、多少の機甲部隊を含むとは言え1個軍しかいないからだ。
 だが2月初旬くらいから、後方のブタペスト方面に北部から大量のドイツ軍部隊が移動しつつあるという戦略情報が連合軍を静かに駆けめぐる。一見、ハンガリー方面の防備強化であり、それだけなら非常に妥当な判断だった。しかし彼らが移動してきた元の場所が問題だった。どう考えても、ブレストやワルシャワ方面から移動してきているからだ。主戦線がポーランド方面で、ハンガリー方面は重要度の低い戦線なのに主力部隊を移動させるのは、いったいどういう理由なのか。合理的に考えると答えは出なかった。
 それでも予測して連合軍として出した回答は、ポーランド方面でソ連軍が大攻勢に転じるまで1ヶ月以上あるので、その間に局所攻勢を行ってハンガリー方面の戦線の安定化を図り来るべき決戦に備える、というものだった。そして各種偵察情報、諜報情報から、ドイツ軍が局所攻勢に出ようとしているのは確実で、その相手が満州軍だという結論が出た。それが1946年2月末の事だった。
 ここで連合軍というより満州軍は、迎撃戦の準備を俄に進めることになる。またハンガリー方面の連合軍としては、敵が攻勢限界に達して崩れたところで総反抗に出る計画を立てる。

 満州軍の迎撃計画は、急ではあるが十分なものだった。
 迎撃の基本は臨時の「パック・フロント」を何重にも設けて敵をすり減らし、攻勢限界に達した時点で機甲部隊を押し出して一気に押し返すという形になる。このため満州軍第1機甲軍は、急いで戦線後方に移動し、残る第2軍、第3軍を入れ替わりに戦線を張り直して、敵が攻勢に出る場所に急ぎ対戦車陣地帯を作り始めた。しかも、可能な限り秘密裏に行い、散発的なドイツ軍偵察機などの動きは神経質なほど警戒した。
 陣地構築は遣蘇総軍所属の工兵などだけではなく、陣地構築には周辺のソ連軍も総力を挙げて動員され、さらには後方の兵站拠点にいた満州帝国の東鉄関係者も軍属として動員された。この時期になると陣地構築は完全に土木機械で行うため、もう人海戦術での陣地構築は過去のものとなっていた。そして膨大な数の戦力を展開する当時のソ連ならば、事前に分かってさえいれば必要なだけの機械と作業員を数日で持ってくることも難しくは無かった。さらには、持ち込める限りの対戦車障害物、地雷、対戦車兵器が持ち込まれた。
 そして直近でドイツ軍に酷い目に合ったばかりなので、そうした緊急対応の準備が行える体制が強まっていた。
 加えて、ロシア人の心情的に「また」満州軍を矢面に立たせることに心苦しいものがあり、出来る限りの配慮がなされたと言われている。実際、短期間とは思えないほどの物資と人員の手当が行われ、どこからともなく必要な武器弾薬も運ばれてきた。用もないのに激励に来る将軍や兵士も後を絶たず、多くが何らかの手助けをしていった。

 ドイツ軍の攻勢は1946年3月6日に開始された。
 しかし先の「東方の守り作戦」と比べると、作戦のために用意できた航空機の数は非常に少なかった。輸送機を含めても300機に届かなかった。これは、「東方の守り作戦」での消耗から回復できていないのと、2月末頃からソ連空軍がポーランド正面での空襲を一時的に強化していた影響だった。ドイツ軍が攻勢に出るのが分かっているのだから、事前に空軍戦力を減殺し、さらには敵の攻勢正面に回せないようにという意図からの攻勢だった。そしてこのソ連空軍の動きを受けて、ドイツ軍内部でも作戦が漏洩している事が懸念され、一度は作戦中止もしくは延期を求める訴えも行われた。しかし時機を逸したら、二度とハンガリー方面での攻勢には出られないという事もあって、そのまま作戦は実施された。

 そしてドイツ軍が攻勢に出てみると、連合軍というより満州空軍の動きは予測よりも低調だった。これをドイツ軍では、満州空軍もポーランド方面での航空攻勢にかり出された影響だと判断した。でなければ、自分たちが攻勢を受けけたら全力で防戦を行うのが常道だからだ。しかしこの時の満州空軍は、全軍の後手の一撃のための戦力温存戦術に出ていたため、ドイツ軍の空襲阻止以外では消極的行動に止まったに過ぎなかった。だが、あまりに消極的すぎるとドイツ軍に動きを察知されてしまうため、相応の戦力が対応した。
 なお、この時期の満州空軍第一航空軍は、稼働機1600機とさらに陣容が分厚くなっていた。年を増すごとに、本国で養成されたパイロットが増えていたからだ。機体なら連合軍が幾らでもレンドリースしてくれるので、パイロットと整備兵の確保だけが満州空軍のネックだったので、増えたパイロットの数だけ部隊を増やすことができた。後先考えなければ、後方で再編成と休養をしている500機近い部隊も投入可能だった。
 そしてこの時期の主力は、主にアメリカと日本の陸軍航空隊が使う新鋭機になっていた。ただし、本当の最新鋭で扱いも難しいジェット戦闘機は供与されておらず、この点がこの時期の満州空軍の弱点とされていた。反面、レンドリースなら何でも使う為、攻撃力は非常に高まっていた。急降下爆撃機の主力も、日本海軍の「流星」攻撃機に置き換えられていた。戦闘機の主力は「P-51H」、「烈風」で「P-47N」をはじめとする「P-47」系の戦闘機は、元々価格が高いと言うことで徐々に数を減らしていた。その代わり「F-4U」系列の機体が戦闘爆撃機枠でさらに増えていた。こうした機体配備状況のため、「半」海軍航空隊だと言われたりもした。
 中型攻撃機は依然として安価な「B-25」系列のため、ソ連軍の供与機も増えていた。もっとも当面は制空戦闘と爆撃阻止のため、出番は戦闘機だった。そして既に熟練者揃いとなっていたので、数の優位もあるためドイツ空軍機を圧倒する場面が多かった。例外はごくたまに出現するジェット機だが、出会ったら運が悪かったと逃げるに任せていたと言われる。

 そして空襲の開始と共にドイツ軍の攻勢も開始されたが、1月末まで続いたポーランド東部での戦いの影響で、ドイツ軍には十分な弾薬の備蓄が無かった。このため重砲弾幕は迫力に欠けていたし、「V-2」ミサイルどころか「V-1」ミサイルの姿すら無かった。既に各地の戦場でお馴染みとなっている無誘導ロケット弾の弾幕射撃も、攻勢初期にこそ派手に撃ち込まれたが、それっきりだった。
 だが、進撃してきた戦車は、ポーランド東部の戦いと同様に強力だった。移動の手間と整備の問題から過剰気味の性能を与えられた重戦車の数は少なかったが、十分な数の「V号G型中戦車 パンター」、「V号H型中戦車 パンターII」は非常に脅威だった。「IV号突撃砲 ラング」の群れも、「M4」系列の戦車を主力としている満州軍にとっては出会いたくない敵だった。
 とはいえ、当面は急造のパックフロントでの防戦と遅滞防御戦を行えばよかった。
 当初からパックフロントを用いた防御戦術に、進撃したドイツ軍では攻勢初期から懸念が渦巻いた。重厚な厚みを持つパックフロントは短期間で建設できる陣地ではなく、敵が随分前から攻勢を察知していたと考えられるからだ。ドイツ軍では、少なくとも半月以上前、恐らくは一ヶ月以上前から敵が攻勢を予測していたと考えられた。
 だが一度前進を始めた以上、もはや止まることは出来なかった。しかもこの攻勢作戦では、総指揮権は方面軍指揮官のケッセルリンク元帥にはなく、ディートリヒSS上級大将など前線指揮官に委ねられていた。これはヒトラー総統が攻勢をコントロールしようとした結果だが、司令部が遠いことが尚更現地での指揮を硬直化させていた。
 そして防戦だが、かつてと違って対戦車砲と言えば自走砲だった。満州軍も例外ではなく、しかも直前に大量に装備が臨時供与されているため、通常よりも多数の対戦車自走砲、突撃砲が各陣地に配備されていた。
 数の主力はソ連軍の「SU-76」だが、この時の戦いでは同じソ連軍の「SU-100」の姿を見ることも出来る。またアメリカ製の「M-10」もかなりの数があった。さらに満州国内での旧式戦車の改造型も非常に増えており、「M-4」改造の各種突撃砲は満州軍で一般的に見られた。そうした中で最も活躍したのは「四式砲戦車」だった。
 「四式砲戦車」は名目上は日本軍の開発だが、実質的には満州軍独自の車両だった。1944年初夏に登場し、日本海軍の127mm両用砲を改造した48口径127mm対戦車砲を搭載した対戦車自走砲で、火力は列強屈指だった。デビュー戦のクルスクの戦いでは数も少なく活躍の場はほとんど無かったが、時間と共に数も増えて戦場でも見かけられるようになっていた。この時多かったのは、現地改造でさらに前面に25mmのタイル状の増加装甲を張り付けたタイプで、陣地に伏せて遠距離からの正確な射撃で敵を数多く撃破していた。合わせて100mmを越えるやや傾斜した前面装甲となるので、敵の戦車、突撃砲の攻撃をある程度凌ぎつつでも多くの敵をアウトレンジで撃破できた。
 そして陣地防衛の要が対戦車自走砲や突撃砲なので、突進するドイツ軍は榴弾での敵撃破が難しく、徹甲弾を用いても簡単には撃破出来ない車両が少なくなかった。そして基本的に重砲から小銃に至るまで、ドイツ軍の最精鋭部隊でも満州軍に装備数で劣るようになっていた。しかも相対するのが同じ2個軍同士と言っても、兵員数でも師団数でも満州軍の方がほぼ50%増しもあった。攻勢側30万に対して、防戦側は防御部隊だけで60万もいた。
 このため陣地に依った徹底した遅滞防御戦をされてしまうと、簡単には前進できなかった。しかもこの時期は、現地の雪解けの季節なので地面が深くぬかるみ、さらに雨でも降ると泥まみれとなる。この時も攻勢3日目の3月8日にまとまった雨が降って、進撃速度はさらに低下した。そして問題なのは、3日経っても敵のパックフロントを抜けられていないと言うことだった。
 パックフロントは1つ1つはそれほど重厚ではないが、幾つも予備陣地が作られている上に、敵が基本的に遅滞防御戦、下がりながら防御戦を展開するため戦線突破が非常に難しかった。それでもドイツ軍はねばり強く前進を続けたが、3月12日には実質的に前進が止まってしまう。それでもドイツ軍は攻勢を続けたが、攻勢開始から40キロ進んだところで一歩も進めなくなる。
 これは満州軍が縦深50キロを防御線として設定し、実質40キロの辺りを防戦の限界ラインに設定していたためでもあった。実際12日辺りから、満州軍はその場に踏みとどまって激しく抵抗するようになる。そして満州軍としては、このままドイツ軍を押さえ続けておけば、戦略的な勝利は掴んだも同然だった。
 だが、本来なら限界ラインに達した時点で攻勢をかける予定だった、ハンガリー南方のトルブーヒン元帥の第2ウクライナ方面軍は、ロンメル将軍の巧みな牽制攻撃に乗ってしまい、前線が混乱してすぐには攻勢に出られなくなっていた。これは支援攻撃を行ったロンメル上級大将の戦術手腕の勝利であり、ロンメル将軍は地味ながら側面支援の任務をよく果たしたと言えるだろう。しかし彼の手元戦力は限られ航空支援もほとんどないため、一時的に相手を翻弄するのが限界だった。そしてそれは、当時のドイツの限界でもあった。
 しかしこの結果、現地連合軍は実質的に遣蘇総軍だけでの反抗を行わなくてはならなくなっていた。そして反抗の準備と、出来る限りドイツ軍を消耗させるため、防御限界ラインでの戦闘を長引かせることとなった。この防戦では、第三軍を率いる「猛将」牟田口はこの時も陣頭指揮に出ており、さらに彼の戦場伝説を強める活躍を示していた。従軍記者曰く「猛将は防戦においても猛将であった」と。

 なお、不意の雨は遣蘇総軍の将校の間で静かな恐怖を呼んでいた。数日間耐えなければならない戦況とあっては尚更だった。
 話しが少し逸れるが、満州軍の数の上で主力を占める中華系(漢族系)兵士達は、最低でも一日一回は温かい食事を与えないと、すぐに士気が低下してしまった。中華地域の多くで、食事は温かいものだからだ(※下層階級除く)。
 これを回避するため、戦時中に懸賞を出して前線で食べられる簡便な温かい野戦食の開発が精力的に計られた。それまでは、皮の分厚い水餃子のスープや、パンに何かしらのスープを付けるという形で前線で配給された。また、煮沸した飲料水という建前で、お湯の配給も3食心がけられた(※3食全てという点で非常に珍しい。)。こうした面では、東鉄など前線近くまで来ていた満州系、日系企業の存在は非常に大きかった。また世界中の軍隊の中で、イタリア軍、アメリカ軍についで食事が充実している軍隊という評判が生まれたりもした。
 そして1943年頃になると、お湯やスープが温かいまま一定時間保存できる魔法瓶の配給すら始まるようになる。ただし、今日のようにステンレス製ではないため、携帯するには重く嵩張り、さらには構造的にも脆いため、流石に最前線の兵士にまでは普及しなかった。そして魔法瓶よりも、簡易固形燃料と簡易コンロの方が将兵には配給され、満州軍将校達を悩ませた「温かい食事」の問題を緩和させている。寒冷地対策の個人用もしくは少人数用の簡易ストーブも、食事によく使われたと言われる。装備品外の中華鍋を常備する「猛者」も少なくなかったという。
 しかし、全将兵に対して流石に強い火力を必要とするいわゆる今日的な中華料理にまでは手が回らず、将兵の不満が完全に解消されることも無かった。その代わりに、当時の一派的中華系兵士が食べることが非常に少なかった肉食を増やすことで、不満の解消が図られた。甘味の配給も、食の不安解消に大いに役立った。酒類の配給も、寒冷地という理由で配給が強化されている。
 また一方で、お湯と合わせて食べられる簡易食料の研究も熱心に行われ、戦後に登場する「インスタントラーメン」などの大きなヒントになったと言われている。戦後にインスタントラーメンを発明した人物も、戦争中の将兵の食事の様子を見たのが発明の大きな動機になったという逸話を残している。

 話しが少し逸れたが、遣蘇総軍の反抗は3月16日に一斉に開始された。
 まずは、今まで遅滞防御戦に徹していた第2軍、第3軍が、予備兵力を投入して一斉に激しい攻撃を仕掛ける。同時に、空軍も全力出撃を開始し、制空権を握ると共に全ての敵を吹き飛ばしていった。航空攻勢は近在のソ連空軍も総力を挙げて参加しており、ハンガリー東部の狭い空に一時的に5000機もの連合軍機が溢れることとなる。
 そしてドイツ軍最強の称号を得たばかりの第6SS装甲軍、第5装甲軍は、攻勢のため隠れるところも少ない平原で空からの攻撃をまともに浴びることとなった。こうなっては僅かな遮蔽物や簡易壕の底に逃げるより他無く、連合軍将兵を恐れさせた重戦車も鷹に怯える子猫同然だった。
 制空権が怪しくなって以後のドイツ軍では、野戦部隊にも高射砲を充実させ、機甲部隊には対空戦車、対空ハーフトラックを可能な限り配備するようになっていた。だが、88mm砲であろうが37mm砲や20mm砲であろうが、数を揃えてこその対空戦闘だ。そして敵が航空飽和攻撃を仕掛けてくると、一定数の対空砲があってもあまり意味は無かった。1機や2機落としても、1小隊や1中隊を追い払っても、次から次へと敵が空襲してくる状態では、対空戦を行うよりも分散して隠れてしまう方が、はるかに生残率は高かった。
 かくして「ドゥーリットルの草刈り」とも言われる殲滅戦が実施され、ドイツ軍が損害に耐えかねて後退を開始する寸前に満州帝国軍遣蘇総軍の総反抗が開始される。
 この総反抗には、遣蘇総軍以外にもソ連軍が増援で派遣した1個戦車軍団が反攻作戦に参加しており、これだけで攻勢に出たソ連軍を50%上回る戦力だった。二つの戦車部隊は、防戦する部隊のそれぞれ外側から攻勢に転じて、敵を一気に包囲殲滅しようと試みた。
 そして以前ならば勇壮な戦車戦が各所で演じられただろうが、この時のドイツ軍は空から航空機に狩られるだけの存在だった。連合軍機甲部隊の反撃は、残敵掃討と追撃、そして降伏した捕虜の処理が主な任務だったと言われる。それでも士気の高い第6SS装甲軍の一部が、反撃に転じた敵地上部隊との戦闘を行ったが、もはや数ヶ月前の面影はなかった。パックフロントへの攻勢で疲れ切り、空襲で細切れにされつつある機甲部隊の残骸に過ぎなかったからだ。
 それでもドイツ軍は部隊規模全体が大きいので、一旦後退に転じると今度は満州軍も攻めあぐねた。一気に包囲殲滅とはいかず、熟練した部隊に出来る動きでドイツ軍は秩序を保って後退していった。
 そして損害に蒼くなったドイツの総統大本営も、作戦の中止と攻勢発起点までの後退、そしてヒトラー総統の何よりの命令であるハンガリー国内にある油田防衛のための体制を取るように命令する。このおかげで第6SS装甲軍、第5装甲軍共に何とか攻勢発起点まで後退することができた。そして攻勢発起点での防備を固め、さらに余剰戦力をハンガリー各所やスロベニア方面に配置していった。最初からそうしていれば、もっと長期間敵を足止めできたであろう賢明な動きだった。
 一方、一連の戦闘で攻勢の阻止を作戦目的としていた満州帝国軍は、ティサ川までの追撃しか行えなかった。防戦のため、今まで行っていた渡河準備も後退できる物以外は破棄していたので、準備から再構築しなければならなかった。そして敵の攻勢を受けて物資を消耗したため、ハンガリー方面での攻勢もさらなる延期を余儀なくされてしまう。物資の消耗の少ない南部からの攻勢は可能だったが、一方向からだけだと例え平原の戦いでも不利は免れず、またソ連政府及び軍の総司令部からも独断での攻勢は基本的に禁じられていた。
 だが、この攻勢によるドイツ軍の消耗は非常に大きかった。第6SS装甲軍、第5装甲軍は戦力の半分以上を喪失し、以前のような力が二度と戻ることはなかった。しかも第5装甲軍は、すぐにもポーランド方面への移動が行われたため、ハンガリー方面の戦力は希薄となった。故に、翌月に入ってソ連軍、満州軍が体制を立て直して攻勢に転じると、消極的な遅滞防御戦が精一杯となり、二度と押しとどめるだけの力は無くなっていた。

 そして一連の戦闘の結果、ドイツはせっかく稼いだ時間の半分を失ったと言われることが多い。


●フェイズ87「第二次世界大戦(81)」