●フェイズ87「第二次世界大戦(81)」

 1946年4月12日、ポーランド正面のソ連赤軍が一姿勢に動きだした。前年夏の「バグラチオン作戦」以来の大攻勢であり、45年の冬のポーランドと一ヶ月前のハンガリーの攻勢を受けて受け身に回ってばかりだったソ連軍にとっては、結果として鬱憤を晴らすかのような大攻勢となった。
 この時期連合軍はノルウェー作戦を行っており、それが一段落突いたところでの大規模攻勢だったため、タイミング的にもよかった。そして何より、冬の敗北から約三ヶ月経過しており、作戦準備にも十分な時間がかけられていた。

 ・第1バルト方面軍(バルト海方面) 
 ・第2ベラルーシ方面軍(ポーランド正面)
 ・第1ベラルーシ方面軍(ポーランド正面)
 ・第1ウクライナ方面軍(ポーランド南部)

 以上がポーランド方面のソ連軍の主な部隊になる。
 第1バルト方面軍は東プロイセンの旧都と言えるケーニヒスベルグの包囲と攻略を行う他は、全てポーランド縦断を目指した。そればかりか作戦は二段階に分かれており、一気にドイツ本土深く進軍することを目論んでいた。この1年近く時間を奪われ大きく兵力すら奪われたが、後方での兵器と物資の生産は、それを可能とするだけの備蓄を可能としていた。
 対するドイツ軍は、ケーニヒスベルグ防衛軍を含むドイツ中央軍集団が全般的な守備を担っており、冬の戦いでも活躍した第2機甲軍、第5装甲軍など有力部隊も配備されていた。ドイツ最大の戦力も、間違いなく中央軍集団だった。そして実質的に、ドイツを東方の蛮族から祖国を守る最後の盾でもあった。
 しかし敵に対して圧倒的に数が少なかった。
 中央軍集団は、何度も再編成を受けた末に、第2機甲軍、第5装甲軍、第2軍、第9軍、第15軍から編成され、編成表の上では50個師団150万の兵力を有していた。これ以外にも、ケーニヒスベルグ防衛軍(第4軍と第3装甲軍残余の集成部隊)などを含めると紙面上は200万に達する。だが彼らの前には、1000万の大兵団が陣取っていた。1000万という数字はソ連のプロパガンダを多少含む誇張だが、それでも後方を含めて800万の兵力が展開していた。つまり単純な兵力差は4倍。しかもドイツ軍の場合は、実数がさらに下回り編成表上の70%をどうにか満たしている程度だった。さらにその内実も厳しく、国民擲弾兵などが最大で4人に1人も含まれていた。
 「東方の守り」と「春の目覚め」で大きく戦力を消耗しているため、近代戦に不可欠な戦車、装甲車、重砲の数もソ連軍比べるとひどく少なかった。
 決定的に不足しているのが空軍で、航空戦力の数字上での差は1200機対9000機と7倍以上あった。だがこの数字は、ベルリン方面を守る防空戦闘機隊や輸送機など非武装機を含めた数字で、実際は10倍の格差があった。それでもポーランド方面は重視されている方で、ドイツ本国はベルリン以外が300機、連合軍が上陸してきた北フランス方面は実働機が既に100機あるかないかで、東欧南部も3月の攻勢で無理をしたため200機程度しかなかった。しかもジェット機部隊の比率も高かった。つまり、ドイツ空軍全体の半数の戦力がポーランド正面に向けられていた事になる。ただしポーランド正面の空軍部隊は、ソ連空軍の全般的な能力の低さに助けられた形で攻撃機が多かった。無尽蔵のソ連軍を撃破するためでもあるが、撃破されずに済んでいたのでこれだけの数があったと言える。ジェット機部隊の比率が高いのも、撃破されにくかった事が影響していた。
 他の空での戦況は、もはや増援しても絶望的なので、本土防空以外を事実上切り捨てた状態だった。何しろソ連以外の連合軍空軍機の総数は、稼働機で2万機に達する。これに海軍機がさらに5000機以上加わるので、制空権についての勝負はもはやついていた。しかも戦場が実質的にドイツ本土となっているため、安全に新規パイロットの訓練ができる場所がほとんど無くなっており、この事がドイツ空軍の崩壊を早めていた。ドイツ空軍の戦闘力が、1945年夏以後に大きく低下し、1946年春頃に致命的に低くなったのは、訓練不足で新兵が投入できなくなった環境が大きく影響していた。連合軍の精油所に対する執拗な爆撃を理由に挙げる研究者もいるが、少なくとも統計数字上では大きな影響は出ていないというのが大勢だ。ドイツ軍は、空を奪われた事で敗北早めたのだ。
 そして空を失ったと言うことは、全ての戦場を失ったに等しかった。それが各地での敗北の一番の原因であり、1946年初夏のポーランドも例外では無かった。

 作戦名は「ペルーン」。
 ロシアの神話に出てくる雷の神様の名で、共産主義的ではない名称ではあったが、「祖国解放戦争」ではある程度ロシア正教など共産主義的ではない非科学的、神秘的な古いものの一時的復権が士気高揚のため認められていたが故の命名だった。実際、兵士からの受けは良かった。
 そして雷のようにドイツの奥深くに攻め込むという、ロシア人の強い意志の現れた作戦名でもあった。
 攻勢に直接参加するのは、実に300万人。一気にこれだけの兵力が動くのは先の「バグラチオン作戦」すら上回っており、有史以来最大規模だと宣伝された。そして作戦は、先のバグラチオン作戦が正面突破だったが、今回も一部で採用された。と言うよりも兵力に対して空間(平原)が限られてしまうため、ロシアの平原で行える包囲作戦が取りにくかった。だが主力部隊は、ドイツ人の心理を突いた一種の二重包囲作戦が企てられた。
 ブレスト=リトフスクを起点として、ケーニヒスベルグを海に向けて包囲する第一次包囲網、そしてその救援に出現する機甲部隊をさらに外側から包囲し、一気に東プロイセン西部のドイツ本土奥深くに踏み込んでバルト海まで出てしまう二重包囲網だ。南部ではそのまま貧弱な敵を押しつぶしてしまう予定だが、主力であり平原に位置する主力部隊を壊滅させてしまえば、ドイツ軍の戦線が総崩れになるのが分かっていたが故の作戦だった。
 対するドイツ軍だが、ヒトラーの命令もあるのでケーニヒスベルグとブレスト=リトフスクを結ぶ線、そしてそこから南西部のルブリンを経てヴィスラ川を上流からカルパート山脈に至るラインに戦線を引いていた。そしてバグラチオン作戦のトラウマに近い記憶がまだ鮮明なため、今まで通りの防御戦術に慎重になっていたが、ポーランド東部の広い平原対地では取れる防衛対策も限られているのが実状だった。
 しかも、ソ連軍は100万の兵力を失っても、無尽蔵と言えるほどの生産力とレンドリースによって日々兵力を増強しているのに対して、ドイツ軍の増強は全く進んでいなかった。せめて「春の目覚め作戦」を行っていなければという論は、その当時と後世双方でよく言われる。だが、もしその場合はハンガリーが早く失陥して最後の油田すら失っていた可能性が高く、「戦略」を重視するヒトラー総統が受け入れる余地は無かった。加えて、「東方の守り作戦」の成功で一時的に得たに過ぎたにポーランド東部を予定通り破棄していたとしても、結果論的にどれほどの差があったのかは疑わしいと言われることが多い。そして「東方の守り作戦」をしなければ、という次の論点に流れていくのだが、この論を突き詰めてしまえば戦争を起こした事、最低でも1940年夏に戦争をきっちり終わらせる努力を最大限行わなかった事に突き詰められてしまう。さらに政治、経済に明るい人々が議論に加わると、戦争勃発前のナチスの政策、ヒトラーの政策にまで議論が及び、最終的には第一次世界大戦やドイツの置かれた基本的な状態にまで至ってしまう。
 つまり、強引な結論ではあるが、1946年4月の現状は至るべくして至った結果の一つに過ぎない、と言うことになるのだろう。
 そして次の結果に向けた動きが始まる。

 1946年4月12日午前3時、ソ連軍の重厚な重砲段列が一斉に火蓋を切った。砲撃はバルト海からカルパート山脈北部山麓の全線に及び、数千門の野戦重砲、ロケット砲が無限とも思える連続した砲撃を開始した。
 4つの方面軍で合計11もの機甲団が一斉に機甲突破戦闘を仕掛けた事に対して、ドイツ軍には全てを止める手だてが無かった。そして戦闘開始当初は、全ての戦線での正面突破、つまり前年のバグラチオン作戦をさらに拡大した作戦のように見えた。そして前衛に薄く配備された戦力では、どの戦線も敵を止めることは不可能で、前線近くの要塞都市も大海の小石だった。しかも強固に防衛されているブレスト、ルブリンはソ連も迂回前提で、落ち着くまで捨て置く算段だったので、ほとんど意味が無かった。事前にソ連軍占領地では迂回路戦も引かれて、さらに占領地に延長する準備も怠りなかった為だ。
 そうした中でもドイツ軍は懸命な対処を行おうとして、マンシュタイン元帥は独断で機動防御戦を行うための部分後退を行おうとしたが、ヒトラー総統に絶対死守を命じられて強く対立。結果マンシュタイン元帥は罷免され、最も大事な時期にドイツ軍は優秀な指揮官を失うこととなる。そして当然だが、死守命令は裏目に出た。
 ケーニヒスベルグ方面でこそ、大幅な後退を余儀なくされるもケーニヒスベルグの街郊外で敵の進撃を押しとどめることに成功した。だが、防衛担当の第2軍は一連の戦闘で壊滅状態で、大幅な増援が無ければその後持ちこたえることは難しい状態に追い込まれた。
 そしてソ連第2ベラルーシ方面軍が集中攻撃の後に突破に成功して、ケーニヒスベルグの後ろ側に回り込もうとする。これを近在のドイツ軍は、機甲部隊による機動防御戦で突進力を減殺させようと、可能な限りの予備兵力を投入して阻止にかかる。
 だが、ドイツ軍が阻止攻撃にかまけているその時、3日のタイムラグを開けてロコソフスキー元帥指揮の第1ベラルーシ方面軍の本隊が、ブレスト南方での大規模な突破に成功。初期の突破に対する機動防御戦に成功していた当該方面のドイツ軍部隊は、数倍の規模の第二波突破部隊(二重包囲部隊)に飲み込まれ、体制を立て直す間もなく消滅。ソ連軍は一部は正面のワルシャワを目指すが、主力部隊はダンツィヒ、東プロイセンの中心港湾としに向けて突進する。ドイツ軍はこれを阻止できなければ、ケーニヒスベルグを含む東プロイセンは海路以外で孤立してしまう事になる。

 そしてドイツ東部全体の混乱が始まる。
 東プロイセンの全ての住民の疎開と言う名の西方脱出が開始されたからだ。
 それまで軍人以外のドイツ人にとって、戦場は遠く外国で行われるものだった。1944年の後半ぐらいから連合軍の爆撃機がヨーロッパに飛んでくるようになったが、それでもドイツ本土にまで爆撃してくるようになるにはさらに1年以上後だった。そして1945年冬に「東方の守り作戦」が成功した事もあって、ドイツ東部の人々が抱いていた危機感も少し遠のいた。しかもヒトラー総統は、戦線がドイツ本土に迫ると本当の意味での国民の総動員を開始し、戦える者は全て国民擲弾兵などに徴用し、それ以外の国民も郷土防衛などにかり出されるようになった。そしてロシア人に踏み込まれることは遺伝子レベルでの恐怖なので、国民も積極的に協力した。加えて言えば、欧州人全てにとってロシア人の西進は悪夢でしかないので、ドイツ人以外の欧州人も積極的にロシア人との戦争に従事した。そうした状態もあったため、ロシア人の攻勢が始まったとき、疎開はほとんど行われていなかった。東プロイセン東部の前線に近い地域で行われた程度で、他は今までの変わらない日常を過ごしていた。それでも、1945年秋以後になると子供などの疎開と、本格的な疎開準備はある程度進められていたが、何事も軍事優先なため不十分だった。
 そして人づてに最前線が崩壊したと分かると、自主的な疎開が一斉に始まる。西に向かう鉄道は麻痺し、街道は西へと逃げる人々で埋まり、その数は増える一方だった。ドイツ軍、特に一般親衛隊がロシアの大地で行った蛮行の噂が水面下で広がっていたので、自分たちが復讐されることを分かっていた人々の流れは止めようが無かった。そして事ここに至った政府も、可能な限り避難民の疎開に対応した。ケーニヒスベルグやダンツィヒに対しては、海路動員できる限りの艦船を送り込んだりもした。

 ソ連軍の攻勢が始まると、戦闘前まで死守を命令されていたブレストは、もはや何の価値も無くなっていた。それどころか、本来ならワルシャワを跨ぐヴィスラ川に施しておくべき河川防衛線がほとんど準備されていなかった。しかも上流域では、第1ウクライナ方面軍の一部が早々に渡河して北上を開始。ドイツ軍の退路を断つばかりか、友軍の渡河を支援して南部からドイツ軍の戦線崩壊が進んだ。
 そしてワルシャワ北部で呆気なく第1ベラルーシ方面軍が渡河に成功すると、あとは戦線の全面崩壊が待っていた。ドイツ軍は反撃のための集結中に敵先鋒の突進を受けて蹴散らされる有様で、とてもまともな防戦が出来る状態では無かった。しかもソ連軍の意図を初期の段階で読み違えていたため、多くの戦力が敵中に孤立していった。これでドイツ本土の道が開かれたに等しく、ソ連軍は最初の一週間で作戦目的の3分の2以上を達成すると、ドイツ軍が立ち直る間を与えず、一気にドイツ本土へと突進した。
 ヒトラー総統が固執した、ワルシャワからブレストまでの約250キロの縦深などほとんど問題としない進撃速度で、ブレストに拘った事はドイツ軍の前線戦力の分散と孤立、そして崩壊を早めただけだった。
 期待されていた第5装甲軍だが、初期の段階でこそ第1ベラルーシ方面軍と第1ウクライナ方面軍の一部に対して反撃を実施していたが、何かを継続的に行うには何もかもが足りていなかった。だからこそ「東方の守り」作戦を行わずに防戦に徹していればと言う論も出てくるのだが、していなくても程度問題だった可能性も十分にあった。何しろ戦力差が懸絶しており、制空権が得られない場所での機動防御戦は、ほとんどの場合失敗するからだ。
 一方で意外に奮闘したのが第2装甲軍で、一時的ではあるが何とかソ連軍のバルト海突破を阻止し、東プロイセン住民の脱出する時間を稼ぎ出すことに成功していた。しかし一連の戦闘で戦力は枯渇してしまい、ソ連軍が体制を立て直したらしんがりとして後退するより他無かった。
 だがソ連軍は、作戦が一定の成果を挙げると、バルト海突破を後回しにして、無防備となったドイツ本土方面への進撃を開始する。これは最初から作戦に織り込み済みだった作戦で、実質的な第二段階だった。ドイツ人の心理的に東プロイセンが危機に陥れば防衛に力を入れることを前提に、全線戦で攻勢に出て予備兵力を枯渇させ、そしてその隙に一気に西へと進もうというものだった。そして乗せられたドイツ軍に、オーデル川への突進を止める手だては無かった。それよりもオーデル川を突破させないための戦線の再構築を行わざるを得ず、戦線はいよいよドイツ本土へと迫っていった。必然的に多くの地域で疎開、難民が大量に発生して、さらに各地のドイツ軍を混乱させる一因となった。
 そして作戦開始から約三週間後、4月末の時点で、そしてバルト海沿岸部を除いて、新たに固定した戦線はオーデル川からズデーデン山脈山麓となった。ブレスト、ワルシャワ、ルブリン、ポズナニ(ボーゼン)、ドイツ本土のシュレジェン地域のブレスラウなど各都市は、悪夢の前衛芸術のような要塞都市となっているため踏みとどまっているが、大海の中の小石に過ぎなかった。おかげでソ連軍は十分な補給線を伸ばすのが遅れたが、ここまで戦局が悪化すると単なる時間稼ぎでしか無かった。半年前と違って、本当にドイツ人が反撃に出る力は無くなっていた。
 前線のロシア人達が踏みしめる大地は、かつてはドイツ本土東部だった場所だった。だがそこは、もうロシア人のものだった。そして軍靴で踏みつけてきたドイツ人の住んでいた場所では、今までロシアの大地で行われてきた数々の蛮行が、ソ連軍が半ば兵士をけしかける形で行われた。しかも兵士の一部は、ロシア語すらまともに理解できない中央アジアなどの兵士なので、統制が取れないことも多かった。そしてそれでもソ連軍は、ほとんど蛮行を止めることは無かった。それだけの事を、今までドイツ人にされてきたからだ。
 つまりは、勝者の権利というより復讐だったのだ。
 そして戦略的には、ヒトラー総統が中心となっていた、ソ連を押しとどめている間に連合軍と停戦もしくは講和するというドイツの構想は完全に崩壊した。

 ・

 ドイツ東部が急速に軍人以外で無人化しきった頃、その南の戦線も大きく動いていた。
 主戦戦が崩壊した状態で、東欧南部のドイツ軍にソ連軍と満州軍を押しとどめる力は無かった。それどころか、西から圧迫している連合軍を止める手段も尽きていた。一方で、連合軍がモザイク上に展開することとなり、その事はドイツ軍の延命に繋がった。
 順番見ていこう。

 1945年秋、パットン将軍と山下将軍率いる連合軍は、迅速な侵攻で一気にイタリア北東部からスロベニア地域に進撃しようとした。だが、11月のドイツ軍の限定的反撃で進撃速度を鈍らされ、その間にドイツ軍が山岳地帯での防衛体制の構築に成功して、パットン将軍らはその場での越冬を余儀なくされた。しかし、黙って指をくわえている彼らではなかった。クロアチア地域のアドリア海沿岸に海上から攻撃をしかけて、一部では占領に成功してすらいた。とは言え、上陸したところで山岳地帯なので内陸に進撃することは難しかった。現地クロアチア軍も果敢に反撃したため、進むことはほとんどできなかった。それでも戦線を揺らがせる事はできて、ドイツ軍は防衛密度の低下を余儀なくされた。しかも現地のドイツ軍は、スロベニアの山岳地帯での防衛戦よりも難易度が遙かに高い、ハンガリー盆地での防衛に一番力を入れなくてはいけなかった。
 また、イタリア北東端からスロベニアに至る攻勢正面では、砲列を敷いての陣地突破と嫌がらせ(ハラスメント)目的の間断のない砲撃、全ての移動物に対する空襲、そしてレンジャー部隊や熟練兵選抜による山岳部への浸透、少数の空挺部隊によるスロベニア地域での攪乱、現地レジスタンスへの支援の強化など、出来る限りの事を行った。冬のジルナアルプスでの戦闘も、本当に少しずつではあったがジリジリと連合軍は進んでいった。こうした地味な戦いでは、機甲戦が得意な米軍のパットン将軍より日本の山下将軍と日本軍が活躍した。
 加えて、直線距離ではドイツへの最短距離のイタリア北東部のアルプス山脈地域(ドロミティアアルプス)に対する圧迫と限定的な攻撃も手抜かり無く行い、ドイツ軍に兵力分散を強いていた。しかもこの時期になると、イタリアはほぼ全てが連合軍側になっていたため、山奥のボルツァーノに臨時政府が疎開したムッソリーニを名目上の首相としたサロ政権にはほとんど何の力も無かった。ドイツ軍とサロ政権側は、「裏切り」により地の利すら怪しくなり、連合軍は地味ながら着実に前進し、ホッジズ将軍はパットン将軍のウィーン進軍より先に、チロルを越えてドイツ本土に進むのではないか、とすら言われていた。

 一方でハンガリー戦線は、1946年3月に行われたドイツ軍の攻勢が損害だけ積み上げて敢えなく失敗してから、約1ヶ月戦線は動かなかった。だがそれは、ドイツ軍など欧州枢軸軍が満州軍やソ連軍を押しとどめていたというよりは、連合軍が侵攻を行わなかっただけだった。
 そして4月半ばに入ると、ポーランド方面に呼応する形で攻勢が開始される。
 主な目的は、ハンガリーを完全に攻略して、ウィーン、そしてドイツ本土南部への進撃路を切り開くこと。
 以下が、北から順番での両軍の部隊配置となる。

・連合軍
 ・満州帝国遣蘇総軍(マ元帥)
 ・第2ウクライナ方面軍(トルブーヒン元帥)
 ・第3ウクライナ方面軍(マリノフスキー元帥)

・欧州枢軸軍
 ・第6SS装甲軍(ディートリヒ将軍)
 ・第8軍(フリースナー将軍)(+ハンガリー第1軍)
 ・第7軍(ロンメル将軍)(+ハンガリー第2軍)
 ・クロアチア軍

 欧州枢軸軍が合わせて1個軍集団程度の編成なのに対して、連合軍は3つの軍全てが軍集団の規模を有していた。しかも、兵員数、兵器の数、補給状況、そして空軍戦力、どれをとっても連合軍が圧倒的という以上に優越しており、戦力差は5対1程度あった。
 出来ることは遅滞防御戦以外ないが、本当に守りに徹するならばハンガリーとスロバキアを切り捨てて後退し、山岳地帯での持久体制を整えるべきだった。この場合、ウィーン保持に固執することも出来なくなるが、ドイツ本土を守るためには必要な措置だった。しかしヒトラー総統ら総統大本営は、ハンガリー方面での防衛を重視していた。だからこそ3月に攻勢作戦を行ったのであり、いまだ固執し続けているのだった。特にヒトラー総統は、最後の油田となるハンガリー西部にある小規模な油田に強いこだわりを見せており、そのために第6SS装甲軍をハンガリーに留め置き、さらには当初東部に展開していたのを西部へと移動させていた。
 この結果、ドイツの各軍は連合軍の各方面軍と向き合う形になったが、どこも手薄になっていた。特に広い平原が広がる東部は戦線が薄く伸びた形になってしまい、遣蘇総軍は自軍を広く展開させた機甲突破戦がしやすくなり、ドイツ軍の防衛線は薄く細くなった。そして連合軍が攻勢を開始すると、一番に第8軍(+ハンガリー第1軍)が守備するハンガリー東部が後退するより他無くなる。南部南西部が持ちこたえていても、あまり意味がなかった。しかも遣蘇総軍の進撃する先にこそ、ハンガリーの首都ブタペストがあった。
 この状況を前にして、現地司令部は防衛に向いた地形のハンガリー北西部のバトラン湖辺りまで後退して戦線を立て直すことを求めたが、ヒトラー総統は相変わらず死守を命令。特に油田を守るよう厳命。そのために増援を他方面から送ると約束したが、全ての戦線が総崩れの様相を見せている中で、まともな増援となる兵力はどこにも見あたらなかった。辛うじて送り込まれてきたのは、以前よりさらに装備が貧弱になっていた国民擲弾兵だったが、後方での限定した任務以外では、敵の足止めにすらならなかった。

 ドイツ軍にとって何の利益もない戦いが続く中、5月14日にブタペストが陥落。牟田口将軍率いる遣蘇総軍第3軍がブタペストを「解放」し、ハンガリーは事実上枢軸陣営から脱落した。
 そしてこのタイミングで事件が起きる。
 スロベニア政府が連合軍に寝返ったのだ。
 もともとスロベニアは、ユーゴスラビア域内の問題もあってどの国に対しても宣戦布告していなかった。主に治安維持のため、クロアチアに付き合う形でボスニアなどの治安維持にあたっていた。義勇SS兵として連合軍と戦った者もあったが、あくまでドイツ軍として戦っただけだった。当然、連合軍とも戦争状態には無く、連合軍が山向こうに迫ってきても、宣戦布告もないまま有耶無耶の政治状態を維持していた。そしてドイツ軍が本格的に踏み込んできて勝手に連合軍を押しとどめている状態となったが、それ以後の戦争の推移は、スロベニアにとって最も辛い時期となった。当時の総人口は100万人程度で、産業にも乏しいため近代的な戦争ができる国では無かった。そもそも1941年にドイツによってユーゴスラビア王国が実質的に解体されてから仮に独立したに過ぎず、事実上ドイツの保護国だった。それでも一応政府を作ったが、作ったと言う以上ではなかった。
 だが連合軍が迫ってきて、あの手この手とスロベニアに攻め込もうと攻撃を行い、ドイツ軍は防衛のためと物資や労働力の拠出を強要した。この結果スロベニア地域は一気に疲弊し、もともとそれほど豊かではないため戦争どころか生存すら危うくなっていった。そして連合軍の密使がスロベニア政府に接触し、そして寝返る提案、その後の優遇について密約を交わして「その時」を待った。
 その時とはブタペスト陥落だった。

 5月15日、スロベニア各地で一斉蜂起が勃発。連合軍の空中投下や山岳部からの細々とした補給で流れ込んだ武器を手に、スロベニア人達が一斉にドイツ軍に反旗を翻した。
 スロベニア西部には1個軍団以上のドイツ軍が、現地スロベニア軍と共に連合軍と対峙していたが、こちらでもスロベニア軍が裏切ってドイツ軍に銃を向け、そして連合軍を一気に引き入れた。
 突然の事態に現地ドイツ軍は為す術もなく、ルーマニアでの戦い同様にほとんど何もできないままその場で降伏するか、逃げるより他無かった。
 しかも連合軍は、手持ちの空挺部隊(第11空挺師団)を要所に降下させ、手引きしたスロベニア軍などと合流し、スロベニア全土の掌握とスロベニアに通じる全ての交通網を封鎖。半年以上に渡って進撃できないでいた連合軍は、一気にスロベニアへと濁流のようになだれ込んだ。
 国境を越えた連合軍は、スロベニア軍の案内のもと僅か48時間で約200キロ離れたスロベニアの東端にまで至り、先遣隊の一部はクロアチアやオーストリア、ハンガリーに向かった。
 それでも連合軍と対峙していたドイツ軍は、侵攻してきた連合軍に反撃したが、それも粉砕されていた。
 この時連合軍というよりパットン将軍は、進撃に際して最新鋭戦車を固めて投入していた。そしてそれは、今まで苦杯をなめ続けてきたアメリカ軍戦車の鬱憤を晴らすものとなった。
 と言うのも、今まで突破戦時の戦車部隊の主力は今まで日本製の「Type-3」系列だったが、この時は主力がドイツ軍のパンターを上回る性能を有する「M26 パーシング」中戦車で、さらに突破のための先陣を切ったのが「T29 ミード」だったからだ。
 「T29」が「M29」でないのは、同時期に「M29」の名を持つ装甲車両が開発されていたことと、「T29」が試作重戦車だったためだ。そして試作名のまま実用化されたという点に、アメリカ軍の急ぎようを見て取ることも出来る。(※ただし、戦後にM29の名称を譲られる形で命名している。)
 アメリカ陸軍の本国は、ドイツ軍を舐めていた。日本陸軍が身の丈を越えるような重戦車開発に狂奔しているのにも、戦争経済や戦略を知らないと冷笑していた。だが、アメリカのM4は撃破される戦車の代表とされてしまい、対して日本軍の重戦車は連合軍を代表する重戦車となった。このためアメリカ陸軍は、沽券に賭けて自前の重戦車の開発を決意し、ドイツ軍のあらゆる戦車を凌駕する重戦車を急ぎ開発しようとする。
 だが、時間がなく要求が過剰だったため開発は難航した。
 それでも1945年冬には増加試作の段階で量産化が実施され、その増加試作の量産型第一号が大西洋を渡る。そして戦争全期間を通じてドイツ軍戦車に苦戦を強いられ続けたパットン将軍が、スタンドプレーで最初に取得する。そして最初の前線配備が終わったのが、1946年5月だった。
 総重量64トンと、第二次世界大戦中でドイツ軍の「マウス」、「VII号重戦車 ティーゲルII」の次に重い戦車で、主砲がT5 105mm砲と旋回砲塔搭載の主砲として大口径の砲を搭載している。砲塔前面装甲も最大で279mmという破格の分厚さを誇っていた。
 そしてこの時の最初の突破戦闘では、ドイツ軍のあらゆる火砲をものともせずに前進し、突破口を開けることに貢献している。とはいえ鈍足な重戦車のため、最初の突破戦闘が終わると後方に置いていかれてしまい、事実上最初で最後の活躍となってしまっていた。重すぎるため、トレーラーでの運搬も難しかったので、ウィーン進駐にも間に合わなかった。

 突如、後背に敵の大軍が出現したことで、ハンガリーのドイツ軍は大混乱に陥った。それでも総指揮官のケッセルリンク元帥は冷静さを失わず、直ちにオーストリア方面への後退を命令。だがこの命令は独断であり、ヒトラー総統の激怒するところとなった。しかもヒトラー総統が固執した油田の一部も既にパットン将軍の部隊が占領したため、この奪回を厳命。それでもケッセルリンク元帥は、自らの方針を変えることなく可能な限り遅滞防御戦を行いつつ、戦線の後退と建て直しを行った。
 この行いに、ヒトラー総統は大激怒してケッセルリンク元帥を罷免してしまう。だが、ディートリヒ将軍、ロンメル将軍らの嘆願と、ケッセルリンク元帥以外に同方面での防戦を任せられる人材がいない事もあって、罷免の数日後には無かったことにした。その後、ケッセルリンク元帥の指揮のもと、ドイツ軍はねばり強く遅滞防御戦を後退しながら続けた為、同方面の連合軍が一気にウィーンを攻略することは叶わなかった。
 そしてここに、連合軍の非常に珍しい戦線が形成されていく事になる。
 東から満州軍、ソ連軍、アメリカ軍、日本軍が並んでしまうと言う情景だ。(※ただし、山下将軍の日本軍の主力は、5月の間はクロアチア方面にいた。)ある歴史家は、連合軍の理想的情景と絶賛したが、これ以後同方面は軍事よりも政治を優先した戦いの舞台となってしまい、今までのように自由な戦いが難しくなってしまう。ドイツ軍が遅滞防御戦をねばり強くできた背景にも、そうした一面が強く影響していた。
 それでも6月14日にウィーンは陥落した。

 ウィーンには、ドナウ川北岸のスロバキアの平原を一気に横断した遣蘇総軍第1機甲軍が最初に入城を果たした。そして二番手は、アメリカ軍のパットン将軍麾下の第7軍団所属の第2機甲師団で、最後に散々ドイツ軍に邪魔されたソ連軍が入った。
 パットン将軍は、ソ連軍に邪魔されないオーストリアの山岳部にすら主力の一部を割いてウィーン進撃に固執した事が功を奏した形だった。
 そしてある種面白い事に、ウィーン入城を競った一番先を進んでいたのが実質的に日本人と言うことだった。
 満州軍には満州軍籍の日本兵が沢山いたのは周知だが、この時のウィーン競争でパットン将軍は、山岳部突破のために山下将軍から山に慣れた兵士を借り受けており、さらに自分が連れてきた日本軍部隊(第109師団)に機甲部隊の不慣れな場所を進ませていたからだ(※第109師団には、台湾の険しい山岳地帯出身の兵士が多かった。)。
 そしてドイツ軍が機甲部隊に気を取られているスキに、軽装備の日本軍部隊が山岳地帯を抜けてウィーン南方から進軍したのだが、彼らがウィーンで目にしたのは満州軍の五色旗と黒い枠が施された派手やかな皇帝旗、さらに小さな日の丸だった。
 そして、さらにその後の友軍の出迎えでは好対照を示した。満州軍は遅れて入城したソ連兵をねぎらい、自分たちが先に入城したことを詫びすらした。そしてソ連軍は、アメリカ軍に先を越されるよりはと満州軍を称えた。お互いにとって、同じ苦労を共にしてきた戦友同士だったからだ。
 対してアメリカ軍は、「ようこそ、連合軍占領地のウィーンへ!」という即席の横断幕を街の入り口にかかげた。
 この情景が、後の冷戦時代の一側面を捉えていると言われることもあるが、流石にこの時期のアメリカとソ連の関係は悪くはなく、アメリカ兵にしてみれば友軍にもしていることを、からかい半分の親しみを込めてソ連軍にもしただけだった。
 しかし、どのような戦争をソ連とアメリカがしてきたのかを象徴する一面だったことは間違いないだろう。また、ソ連軍が最後に入城したことで、ウィーンの街での掠奪や暴行は最低限で済んだと言われる事が多い。そしてドイツ兵も、それを知っていたから最後までソ連軍の進撃を邪魔したのだった。

 そしてウィーン陥落頃のドイツは、前線の将兵にそうしたことを自発的に行わせるほど状況が悪化していた。



●フェイズ88「第二次世界大戦(82)」