●フェイズ88「第二次世界大戦(82)」

 1946年6月9日パリ解放。同14日ウィーン陥落。
 ヨーロッパ世界を象徴する歴史ある二つの大都市が、続けて連合軍によって「解放」された。戦争が誰の目にも終幕に向かっている事を実感させる出来事だった。
 そしてその少し前、ドイツ中枢では一つの激しい議論がなされた。

 決めるべきは「首都の疎開」。ナチスドイツ帝国を1秒でも長く存続させるため、帝都ベルリンよりも少しでも安全な場所に総統と政府は疎開するべきだという議論だ。
 疎開派は、戦場がドイツ本土に迫ったことで、ドイツ自体を人質に取ることでソ連以外の国との何らかの妥協が得られる可能性が高まったと考えていた。しかしヒトラー総統は、疎開はともかく自らがベルリンを離れることに強く否定的だった。
 最初に疎開が真剣に議論されたのは、1946年4月にソ連軍がオーデル川に迫ったときだった。ベルリンのわずか75キロ東にソ連軍が溢れては、最早ベルリンを守るのは難しいがドイツの西部、南部はまだ大丈夫なので、ドイツの主要地域が健在なうちに疎開して、講和を目指した徹底抗戦の体制を整えるべきだと論陣が張られた。そしてこの段階で、政府組織、行政組織の疎開準備が決定し、準備のみだが進められることとなる。
 次の機会は、連合軍のカレー上陸が阻止できなくなり、南仏戦線が事実上突破された5月中旬頃だった。早晩フランスは降伏して、連合軍がドイツ国境に殺到するので、ヒトラー総統らが構想していた連合軍との停戦プランが完全に瓦解したからだ。この時疎開派は、ドイツ本国と国民を犠牲にしてでもドイツ政府が生き残り続ければ、いずれ連合軍とソ連軍はドイツを巡って争い、そこに生き残りの機会が出来ると考えた。
 そしてこの時ヒトラー総統は、政府組織の疎開を正式に決定する。疎開するのは行政を行う官僚団と民政系の大臣達、一部の将軍らで、自らはベルリンを離れる事はないと頑なだった。そして危険分散の為という理由で、ゲーリング国家元帥、グデーリアン元帥、パウルス上級大将、シュペーア軍需相、ハイドリヒSS元帥など政府中枢の約半数がベルリンを後にして、ドイツ経済の中心地であるフランクフルトへと移る事となった。ただしグデーリアン元帥は、少し前にヒトラー総統と「最後の衝突」を行って事実上全ての職務から退いている。またヒトラー総統は、シュペーア軍需相との間に二人きりで最後の時間を持った。このためシュペーアが次の総統だと周りは見るようになった。
 なおフランクフルトが選ばれたのは、疎開するにしても行政処理を行える建造物と官僚、軍人などの住居があるのが、ドイツ中探してもフランクフルトしかないからだ。それでもヒトラー総統やゲッベルス宣伝相、ヒムラーSS長官などは疎開先にニュルンベルクを推したが、同地は政治都市ではあっても行政を行える都市ではないので、シュペーアらに反対されていた。
 そしてこれで、ナチスドイツ、ドイツ政府の約半分がベルリンを離れることになる。
 この事はドイツ国内でもほとんど秘密にされていたが、どうしても行わなくてはならない連絡などを解読した連合軍も、5月末頃にはドイツの中枢が一部疎開した事を知る。連合軍にとっての問題は、ヒトラーがどこにいるかが分からなくなった事だった。連合軍としては独裁者アドルフ・ヒトラーさえ抹殺するか逮捕できれば、ナチスドイツは瓦解すると考えていた。この点だけは、ドイツ国内で暗殺未遂事件を起こした人々と意見が一部一致している。それほど気にしていなかったのはソ連のスターリン書記長だけと言われる事があり、彼としてはドイツ全土を蹂躙すれば問題の多くは解決すると考えていた。スターリンは、ヒトラーがベルリンから逃げたことに心理的満足を得た上に、逃げた先まで追いかけるという戦争を続ける大義名分を得たと考えていた。だからソ連全軍に進撃速度の向上を求めたのみだった。連合軍としても、ドイツ全土を占領すれば問題は自然に解決するとは考えていたが、そこまで戦争を続けなくてはならないことに若干の忌避感情があり、また戦争がさらに長期化することでの経費、ドイツを蹂躙した後の戦災復興などの経費も大いに気になるところだった。
 そしてここで連合軍にとっての戦争は、ナチス・ドイツの完全打倒に変更はないが、目的としてベルリン攻略が二次的なものに変更された。政府が一部であれ疎開した以上、ナチスの中心であり国家元首であるアドルフ・ヒトラーは、最も安全な場所にいると常識的に考えたからだ。
 そしてそうした考えのもと、戦争の再構築を進めた。

 1946年の5月半ば以後、連合軍の関心は自分たちがどこまで攻め込めるかにあった。そしてその事が戦後の世界政治にも大きな影響を与えると確信していたため、無理をしてでもより大きな成果を求めた。
 ソ連と言うよりスターリンの第一の目的は、ドイツ全土を占領してしまうこと。さらにデンマーク、オランダの占領も、1946年5月頃に明確に命令を下している。デンマークを占領することでバルト海から北海に抜けるルートを確保し、オランダを占領することでライン川の単独利用を可能とする。この二つにより、中部ヨーロッパを完全に制御下に置くと同時に、西ヨーロッパに対して非常に大きなプレッシャーをかけることができる。そして戦争半ばで地中海に出ることを諦めなくてはならなかったので、なおさら北海進出に強い意欲を燃やしていた。
 連合軍というよりアメリカの目的は、1歩でも東に進むこと。最低でもライン川西岸、可能ならばドイツ西部もしくは南部への侵攻を目指していた。だが、諜報活動などによりソ連の目的を知った事もあり、デンマークに関しては予防的な作戦が急ぎ準備される事になっていた。
 そうした中、ドーバー海峡を押し渡った連合軍は、6月18日にベルギーの主要港の一つアントワープに到達する。ほぼ同時期、地中海から押し上がってきたマッカーサー元帥の部隊が、アルザス・ロレーヌ地方まで進んだ。そしてそこで、全ての連合軍は足止めを余儀なくされる。
 前線での燃料不足のためだ。
 総数10万両以上と言われる車両が使う燃料が特に前線で枯渇してしまい、酷い場合はその日の戦闘にすら事欠く状態に陥って、進撃するどころかその場のドイツ軍とまともに戦うことすら難しくなってしまう。
 おかげで後退するドイツ軍の追撃が中途半端に終わるばかりか、ドイツ軍に各所で防衛体制を整える時間を与えてしまい、戦線は一気に膠着状態に陥った。反撃を受けて廃退した部隊も、一つや二つでは無かった。
 このため補給線を整えるまで大軍による進撃は不可能で、補給線を万全に整えるには3ヶ月、最低でも2ヶ月は必要だった。ドイツ軍の抵抗が殆ど無いとしても、軍隊が進むための物資を備蓄するだけで1ヶ月は必要だった。南部は少しましだが、南部は平原を進むわけではないので、進撃速度自体を早くするのが難しかった。迅速な進撃は、北部平原地帯をどれだけ早く進めるかにかかっていた。
 だがこの時期の連合軍に、2ヶ月、3ヶ月の時間を待つことは許されなかった。そんなに待っていたら、動き出す前に対岸にロシア人達がやって来ると考えられていたからだ。
 そこで、動員可能な戦力とその戦力で可能な作戦が急ぎ立案される。
 それが「オペレーション・マーケット・ガーデン」だった。

 「オペレーション・マーケット・ガーデン」の準備は、早くは1945年秋の時点で構想されていた。
 当初の計画では、46年春から初夏にドーバー海峡を押し渡り、2週間で周辺地域を制圧。さらに1週間でパリを解放。一ヶ月以内にベルギーまで進んでいる予定だった。そして間髪入れずオランダへと電撃的に進んで、5ヶ月以内に最低でもドイツ中央部を流れるエルベ川西岸に至る予定だった。
 だが、予想以上のドイツ軍の激しい抵抗と、なりふり構わない港湾破壊によって、予定は大きく遅れていた。しかも、やっと到着したアントワープ以外のベルギー西部各地の港は、ことごとく破壊されていた。中には逃げ遅れたドイツ軍が籠もった末、自爆じみた港湾破壊を行った場所もあった。幸いアントワープは、連合軍の進撃がドイツ軍の予測を遙かに越えて迅速だった為、ドイツ軍がほぼ唯一破壊しそこねた港湾となった。
 だがアントワープは、海に面せず河川を少し遡ったところにあり、北海に抜ける河口部は機雷で幾重にも封鎖され、対岸や河口部の多くがドイツ軍の占領下のため港湾として使えなかった。作戦の主な目的は、オランダに一気に攻め込んでオランダの港湾を利用することにあるのだが、既に有している場所の活用を図る事の方が今回は重視された。
 オランダの港湾を占領して体制を整える時間が惜しまれたし、運良く無傷もしくは利用可能な状態で利用できる可能性も低かったからだ。連合軍は、早期に兵站を整えて、ロシア人に先んじてドイツ本土に進まなければならなかった

 なお、この時期ライン川西部の両軍は、ドイツ軍が西方軍集団改め、ルントシュテット元帥のA軍軍集団、モーデル元帥のB軍軍集団に分かれていた。A軍軍集団が北部、B軍軍集団が南部の防衛担当だ。これに対して連合軍は、フランスの南北から進撃した部隊が合流し、一つの戦線を形成するようになっていた。
 北から順番に大きく以下のように並んでいた。

 ・第21軍集団(モントゴメリー大将):英2個軍、米1個軍
 ・第12軍集団(クラーク大将)   :米2個軍、英1個軍
 ・第8軍集団(岡村大将)      :日2個軍
 ・第51軍集団(クリューガー大将) :米2個軍、仏1個軍

 各軍は10個師団程度有しており、師団数は総数で110個師団に達していた。前衛戦力だけで250万、後方を含めると400万にもなり、これだけでドイツを打倒できる戦力だった。
 しかしこの時の連合軍には、前線の100個師団を動かす燃料が届いていなかった。積極的に動かせるのは、せいぜい10個師団。燃料を食う機甲師団だと、半分も動かせたらいいほうだった。追撃がベルギーやアルザスで止まったのも、前線での燃料不足が原因だった。そして前線に最低限の燃料が届く頃にはドイツ軍が守りを固めてしまい、安易に進めなくなってしまう。
 そうした中で、燃料問題とは例外の部隊があった。それこそが空挺師団だ。
 空挺師団は、降下して短期間の任務をこなして他の部隊にそこを任せると、たいていは拠点としている後方の飛行場かその周辺の駐屯地に後退して次の任務に備える。一度作戦を行えばグライダーなど消耗する兵器も多いし、危険な任務がほぼ全てのため兵員の消耗が激しいことも多く、補給と再編成のためにも後方に下がらねばならなかった。ドイツ軍のように一般の歩兵部隊のように使うのは、致し方ない面があるにしても邪道でしかない。
 そして連合軍には空挺部隊が沢山あり、その殆どが当面の作戦を終えてイギリス南東部の基地に集まっていた。また連合軍は、ノースアイルランド作戦が具体化した頃から、最低でも3回の大規模空挺作戦を計画しており、そのために必要な輸送機と特に消耗品のグライダーの生産計画を立てて実行していた。そして英本土南東部の飛行場の外れには、次の作戦のためのグライダーも十分に備蓄されていた。(※ブリテン本島とドーバーでの大規模空挺作戦を最低予定していた。)
 以下が1946年6月頃の連合軍の空挺部隊になる。

 ・英本土待機
・米第82空挺師団 ・米第101空挺師団 ・米第11空挺師団、
・日陸軍第1空挺団(旅団) ・日海軍第1空挺団(旅団)
・英第1空挺旅団
・救国フランス第1空挺旅団
・自由ポーランド空挺旅団
・自由オランダ空挺団(大隊規模)
・自由ポーランド空挺旅団

 ・任務中
・日陸軍第2空挺団(旅団)(イタリア北部駐留)
・イタリア第1空挺団(大隊規模)(イタリア北部駐留)

 見て分かるとおり、方面軍を問わず殆どの空挺部隊が英本土に集められていた。
 そして英本土南東部に集められていた空挺部隊は、アメリカ軍のマシュー・リッジウェイ将軍(当時中将)のもとで、連合軍第1空挺軍団を再編成していた。空挺兵総数5万という空前の規模の大空挺部隊であり、何より連合軍的なのは最大で3万名以上の空挺兵を一度に降下させるだけの航空機とグライダーが存在する事だった。
 この頃連合軍の空挺作戦用の輸送機の数は、英本土に約2500機が集中されていた。主力はC-47(ダグラス DC-3)輸送機で、約1万2000機が生産され各地の戦場で大活躍していた。同輸送機は、6000ポンド(2.7トン)の貨物か乗員を除く28名の武装した兵士を運ぶことができた。日本もライセンス生産を行い、アメリカとは別に2000機近く量産している。他にもC-46などの輸送機があるが、人員輸送や貨物輸送のため空挺用には2500機の準備が限界だった。しかし空挺作戦用には各種グライダーがあり、今までも多用されてきた。主力はカナダで集中的に生産されたハミルカーで、積載量は7トンもあった。大型機で曳航するためそれほど長距離の移動は出来ないが、ヨーロッパならどこにでも行くことが出来た。これ以外だと日本軍の四式特型輸送機があり、23トンという破格の積載量を誇っていた。グライダーの総生産数はハミルカーが約500機、四式特型輸送機は本家ドイツを上回る200機が生産されている。他にも各種200機程度が生産されている。そしてグライダーは使い捨てが多いが、それでも再利用もされている場合も多いため、この時の作戦でも総数500機以上が準備されていた。他にも旧式の重爆撃機を改造した輸送機もかなりの数あり、総数3000機程度の機体を一度の空挺作戦に使用できた。この数字は、一度に1万トン以上を空輸できる量になる。
 これらで兵員5万名と多くの装備を運ぶが、激しい抵抗が予測されたため可能な限り重装備が運ばれる予定だった。このため空挺部隊の約半数程度が後日の降下に回され、装備の降下の方が重視された。今まで何度も大規模空挺作戦行われた経験から、兵士を増やすよりも重装備を増やす方が、作戦成功率が上がる上に人的損害が低くなることが分かっていたからだ。
 事実上の空挺戦車としては、「M-18 ヘルキャット」 駆逐戦車と「M-24 チャーフィー」軽戦車が有名だが、四式特型輸送機の数が限られているため、この作戦でも「M-22 ローカスト」空挺戦車が実戦投入されている。「M-22」は重量7トン程度の軽戦車で南仏上陸作戦から戦線に投入されているが、四式特型輸送機で20トン級の有力車両が送り込めるようになったため初陣から日陰者だった。空挺部隊でも偵察車両として使われ、これを運ぶぐらいなら他の有力な物資や兵器を運ぶ方が効率が優れていると考えられていた。それでもこの作戦では火力と装甲を可能な限り与えなければならないと考えられたため、そしてこの次の大規模空挺作戦はもうないだろうという予測もあったため、あるだけの車両を乗せられるだけハミルカー・グライダーに載せる事となった。
 「M-22」を載せたハミルカーは34機。加えて四式特型輸送機も40機近く(38機)投入され、さらに輸送機型の四式特型輸送機も20機準備され、92両もの装甲車両が空挺作戦に投入されることとなる。しかも「M-18」の一部は、増加試作された90mm砲搭載の改良型のため、待ち伏せ戦法なら相手が「パンサー(パンター)」でもある程度戦えるようになっていた。
 戦車以外にも、迫撃砲や多数の簡易ロケットランチャーなど可能な限り重装備が運ばれることになっており、並の歩兵部隊程度には十分対抗できる火力を与えられていた。しかし空挺部隊が戦力を維持できるのは通常3〜4日程度なので、降下後の空中補給も重視されていた。このため相手が歩兵師団なら最大で1週間は自力で抗戦可能と判定されていた。

 そしてこの巨大な空挺部隊で、ベルギーからオランダ西部のライン川河口部の小さな河川や河川を結ぶ運河にかかる橋を一気に占領し、そして前線から機甲部隊を強引に前進させて占領地として完全に確保するのが戦術的な目標となる。
 攻勢発起点は、ベルギー南西部のネールベルト。最終作戦目標は、オランダ南部のアルンヘム。アルンヘムまで占領して橋を全て確保できれば、その先に大きな地形障害はなかった。あとは補給さえ整えてしまえば、ドイツ北西部に簡単に攻め込むことができた。
 そして作戦には、4個師団規模の空挺軍団と、地上を突進するイギリス第2軍所属の機甲軍団が参加する。
 機甲軍団は第30軍団で、カレーには上陸第1陣として上陸した旧イギリス本土軍系の部隊だった。歴戦の英第50師団と「ホバート将軍の愉快な仲間達」こと英第79機甲師団を基幹として、さらに1個歩兵師団(自動車化師団)と機甲旅団を加えて編成されていた。カレー橋頭堡の戦いでも奮闘した部隊で、西側に上陸してそのまま進軍したため、この時もベルギー方面では最も前進している地域の戦区を担当していた。同部隊は、以前にも書いたとおり特殊な装甲車両を多数保有するので渡河作戦も得意だった。小さな河川や運河ならば、チャレンジャー歩兵戦車を改造した自走架橋を使い、短時間で渡ることもできた。臨時編入された第7機甲旅団は、「センチュリオン重巡航戦車」装備の近衛戦車連隊を基幹としており、非常に強力な陣容を持っていた。2つの歩兵師団も先鋒を任されるだけあってほぼ機械化師団編成で、自前の戦車部隊や自走砲部隊も持っていた。戦車は最低でも17ポンド砲装備の「チーフテン」(クロムウェルの改造型)で、第50師団は77mm砲装備の新型の「コメート巡航戦車」を装備していた。

 対して、フランスからドイツ本土方面に後退していった西部戦線のドイツ軍だが、状況は非常に不利だった。
 そもそも1946年6月後半の時点で、東部戦線ではソ連軍がいつベルリン総攻撃を開始してもおかしくない状態だった。南東部でもウィーンが陥落し、防備の薄い南部が丸裸になる恐れが出ていた。北イタリアからのアルプス越えの可能性も、相対的な兵力差次第と言われていた。
 そうした状況で、フランス方面のドイツ軍は、フランス軍が多少の時間を稼いでくれた事もあって、何とか全面崩壊することなく後退し、オランダからアルザスにかけてのラインで戦線を再構築することができた。そして西の連合軍が2〜3ヶ月ほど燃料切れで大きく動けない事が分かると、後退した部隊の多くがさらに東に進んで、そのままオーデル川など帝都ベルリンとドイツ東部を守るために再配置されていった。西部から東部への兵力引き抜きは、早くは5月中頃から少しずつ行われていたほどだ。
 このため後退当初は50個師団以上いたドイツ軍部隊は(※国民擲弾兵部隊、東方大隊含む)、10個師団以上がそのまま東部戦線に引き抜かれた。しかも装甲師団を中心に有力な部隊の多くが引き抜かれており、西部戦線は防御戦以外が難しいほどやせ細った。
 なお西部戦線の連合軍が110個師団で、ドイツ軍が40個師団なので、攻者三倍の原則に当てはめれば、一見ドイツ軍の西部戦線は守れるように見える。だが制空権がほぼゼロで、師団数ではなく総兵力数では3倍から4倍の格差があった。しかも戦車、重砲などの数的差は5倍以上に及んでおり、いかにドイツ軍戦車が優れているとは言っても、長期間の防衛は不可能な戦力差だった。連合軍が本気で攻勢を再開すれば、多少の時間をかければほぼ確実に突破されてしまう戦力差だった。とはいえ、東部に兵力が引き抜かれなかったとしても戦線を支えきれる戦力差ではないし、何より東部戦線の地上戦力の格差は西部戦線の比ではないほど悪かった。しかも東部戦線は既にドイツ本土に攻め込まれており、首都ベルリンは風前の灯火だった。どちらを優先するのかは、明らかな状況だった。
 だが連合軍は敵で、ドイツ本土に攻め込ませてよいわけないので、可能な限り戦線の強化が行われていた。そうした中で、オランダ方面はドイツ本土では無いことが問題視されていた。もちろん、ルール工業地帯やドイツ北西部の平原地帯を守るためには必要だが、そこはドイツでは無かった。連合軍が短期間でも攻めてこないのであれば、多少手抜きをしても問題ない場所と見られていた。ドイツ軍にとってオランダ方面で注意するべきは、自分たちも1940年5月に行った空挺部隊と快速部隊による電撃戦。これならば戦力も燃料もそれほど必要としないので、連合軍が行う可能性があった。しかも一週間もあれば地図を塗り替えることができた。
 そこでドイツ軍は、自分たちの懐具合と相談して、空挺部隊の降下を阻止するための歩兵部隊をオランダの運河地帯へと配備した。もっとも、オランダに置かれたのは、ドイツ軍の兵力不足から国民擲弾兵部隊やカレーで消耗した部隊がかなりを占めており、有力な部隊の配置はほとんど行え無かった。警報装置代わりに、頼りにならない東方大隊が置かれた場所もあった。本来なら対空挺部隊用の装甲軍団の配備が常道なのだが、装備が優秀な事もあって随分前から東部戦線でばかり活動していた。ドイツ軍の空挺作戦の大家でもあるシュトゥデント将軍を転属させる計画も、東方の守り作戦で東部戦線に引き抜かれたままのため叶わなかった。彼の配下だった空挺兵も運河地帯では活躍できたが、最後の精兵はノルウェーの僻地で戦い続けていた。このためオランダ運河地帯の防衛に関して、ドイツ軍にもかなりの不安があつた。それでも近くの前線から予備兵力がすぐにも回せるように手配してあるなど、取れる限りの対策は取られていた。
 しかし、敵の空挺部隊を警戒すると言うことは、少し後方に配置すると言うことで、既に前線の維持すら難しいドイツ軍の台所事情から考えれば仕方のない事だった。ドイツはもはや戦争自体を失おうとしているのだから、形だけでも守る姿勢を作れたことの方がこの際は評価するべきだろう。

 連合軍の作戦は、早くも6月25日に開始される。
 しかしアントワープ陥落から僅か1週間の作戦のため、作戦自体に緻密さは欠けていた。それでも英本土南東部の飛行場には、空挺用の輸送機、グライダーと空挺部隊が集結した。地上の攻勢発起点となるネールベルトにはイギリス軍第30軍団が集結し、集められる限りの燃料と弾薬が預けられた。この辺りの準備能力は、流石連合軍だった。
 また牽制作戦として、燃料に若干の余裕のある最も南に位置するクリューガー将軍の第51軍集団麾下の第8軍が、ストラスブール方面への擬装攻勢を2日早く開始した。これでアルザス方面のドイツB軍集団は動けなくなったが、A軍集団は戦線全体での警戒を強めるに止め、予備兵力が南に移動することも無かった。加えて連合軍が前線で活発に移動していることを掴んでいたので、可能な限り対応できるよう警戒態勢は敷いていた。
 だが連合軍の作戦は、ドイツ軍の予測を上回っていた。今までも何度も空挺作戦を行ってきた連合軍だが、この時の作戦が今次大戦で最大規模だったからだ。
 連合軍空挺部隊は、西から順にアイントホーフェンに米空挺第11師団、フラーフェに米空挺第101師団、ナイメーヘンに英第1空挺旅団と日陸軍第1空挺団(旅団)、そして目標のアルンヘムには米第82空挺師団が降下した。降下は日中に行われ、それぞれの空には数千のパラシュートが咲き乱れることとなった。そして時間差をあけてグライダー部隊も降下していった。
 一度に降下したのは約3万名。予定では、48時間以内に全ての空挺部隊と装備が降下予定だった。そしてこの時の空挺降下作戦は、非常に高い成功を収めた。気象条件も良く、ドイツ軍の妨害もほぼ皆無で、降下地点にもドイツ軍の姿はほとんど無かった。奇襲は完全といえる成功を収めた。

 さっそく各所で連合軍空挺兵とドイツ軍の交戦が始まったが、連合軍の絶対的といえる制空権もあってドイツ軍は苦戦を強いられた。作戦初日の連合軍は、誤爆を警戒して空挺兵から無線連絡があった場合を除いて空襲を厳禁していたが、空からの偵察情報は刻々と空挺部隊の司令部に送られていた。そして各空挺師団、旅団には最低2両の複数の用途に使える本格的無線機を搭載した車両と、歩兵携帯型の4台の無線機を装備しており、上空の友軍と十分に連絡を取ることができた。しかも今までの教訓を反映して作戦に臨んでいるため、国ごとの仕様や暗号の違いなどもなく、地上の空挺部隊同士の連絡もつつがなく行われていた。
 一方のドイツ軍には、有力な機甲部隊もなく空挺作戦に詳しい者もほとんどいなかった。また兵士が未熟か無知なので、対応が後手後手にまわった。一部で突撃砲や自走砲装備の部隊が、火力に任せて空挺兵を蹴散らそうと試みたが、多くの場所では連合軍の方が対戦車火力で勝っており、「M-18」や「M-24」に撃破されるか、勇敢な空挺兵のロケットランチャーの餌食となった。また、降下した兵士達が呼び寄せた空軍機により撃破された。しかも空挺兵は、特に作戦初期の段階で火力の出し惜しみをせずに、大量に持ち込んだ簡易ロケットランチャーで、ドイツ軍が臨時に作った家屋改造のトーチカなどを強引に粉砕して前進した。
 全ての橋は、作戦初日の夕方までに連合軍の占領するところとなった。後は空挺兵が現場で粘っている間に、イギリス軍機甲部隊が進軍して進撃路を「点」から「線」にするだけだった。

 前線から突進するイギリス第30軍団だが、最初で躓いていた。
 ドイツ軍は後方警備は最低限としていたが、前線にはそれなりの戦力が配備されており、装甲部隊も含まれていたからだ。
 それでも連合軍は、前日からの空爆と短時間の事前砲撃で前面のドイツ軍を吹き飛ばしていたのだが、空爆の後に送り込まれた装甲部隊がイギリス軍の前に立ちはだかっていた。
 ドイツ軍の主力は「V号H型 パンターII」の戦車大隊を中心とした部隊で、この地域の装甲部隊としては最も有力だった。さらに進撃路には対戦車砲、自走砲もかなり生き残っていた。
 このため先遣の機甲偵察部隊は先に進めず、早々に切り札と助っ人を前線に送り出すこととなる。切り札とは、まだ前線に十分配備されていない「センチュリオン重巡航戦車」だった。機動性と高い火力そして重装甲を誇る同戦車ならば、相手が「パンターII」でも十分に戦えた。助っ人は日本から供与されていた「三号重戦車改 ジカ」だった。同車両ならば、前面又は前側面のどこに当たっても、遠距離からの対戦車砲に最も耐えることができた。
 イギリス軍は、正面を「三号重戦車改」戦車中隊で強引に前進し、その迎撃に出現するであろう「パンターII」は「センチュリオン」で撃破しようとした。
 そして車体前面などに20mmの追加装甲板をボルト留めしたイギリス軍の独自改造型の「ジカ」は、相手が88mm砲でも構わず前進し、自らの発砲で位置を暴露させた対戦車砲、もしくは少数の突撃砲を撃破していった。ドイツ軍には長砲身の88mm砲も対戦車砲、自走砲双方で幾らかあったため撃破される車両も出たが、10数両の重戦車の突進を止めることは不可能だった。このため側面を狙って「パンターII」戦車大隊が機動防御戦を仕掛けるが、それはイギリス軍戦車連隊の思惑通りだった。ドイツ側指揮官がもう少し熟練していれば状況は違っていたかも知れないが、ドイツ軍戦車隊はそのまま戦車戦になだれ込んでしまう。
 第二次世界大戦初の「主力戦車同士の対決」と言われた戦いは、ほぼ互角だった。砲塔正面だとセンチュリオンに軍配があがり、火力でも若干センチュリオンが勝ると言われる事が多い。しかしセンチュリオンはまだ生まれて時間が経っておらず、対して「パンターII」は原型の「パンター」が誕生してから既に3年が経過して技術的にも成熟している戦車の一つだった。しかも火力、装甲、機動力は高いレベルで達成されていた。ドイツ軍戦車の難点は整備性の悪さだが、短時間の戦闘ならそれも関係はなかった。
 そして戦場を左右するのは指揮官や将兵になるが、この時はイギリス軍の方が上回り、さらに戦力でもイギリス軍が上回っていた。しかも戦線正面の「ジカ」は、そのまま歩兵などを連れて戦線を突破してしまい、そこで両者の戦闘も幕引きとなった。さらにその直後、イギリス軍別働隊が別の場所から渡河し、一気に崩壊状態のドイツ軍戦線を抜けて進軍する事に成功する。これで前線のドイツ軍も後退せざるを得なくなり、戦闘初日は実質的に幕が降りた。

 その後、イギリス軍第30軍団を遮る有力な部隊は現れなかったが、国民擲弾兵すら持つ簡易ロケットランチャーは脅威であり、100メートルを切る超近接距離なら防御自慢の「センチュリオン」「ジカ」すら撃破された。また、少数の兵士のこうしたゲリラ的な攻撃は、進撃速度が何よりも大事な戦闘では一番厄介だった。それでも当初から装備を固めて進軍を開始していたので、極端に大きな問題となることも無かった。
 しかし「マーケット・ガーデン」作戦は、基本的に空挺部隊に無理を強いる作戦だった。最も遠いアルンヘムに降りた空挺部隊は、最大で4日間も敵中で孤立して戦わなくてはならなかった。
 しかも地上部隊の進撃は、初日で大きな遅れを見せていた。当初の予定では1日目の夕方にはアイントホーフェンまで進軍している予定だった。だが道半ばで初日を終えねばならず、夜間戦闘や夜間進軍は行わなかったため、機甲部隊の前進は翌日に持ち越されることとなった。
 しかし作戦2日目、周辺に有力なドイツ軍部隊がいなかった事もあり、空挺の増援と補給を受け取っていた米空挺第11師団は橋ばかりか周辺部の制圧にも成功。第30軍団も一気に進軍し、その日のうちに米空挺101師団が占領するフラーフェまで一気に進軍した。この日最後の進軍は、夕方に一番北まで進んでいた第101師団の兵士に第30軍団先鋒が接触できたため、予定を変更して一部は夜間の進軍まで行って一気にフラーフェまで進んでいる。なおこの進軍は、すんでの所で間に合った進軍となった。翌日に持ち越していたら、第101師団は増援に駆けつけたドイツ軍の有力な装甲部隊の攻撃に独力で立ち向かわなければならないところだった。
 ちなみに、この日の進軍がうまくいったのは、第30軍団の第79機甲師団が持ってきていた渡洋兵器が役に立ったからだ。カレー上陸でも使った水陸両用車両、装甲車なども大型トラックに載せるなどして強引に持ち込んできていたのだが、それを用いて一部の運河や橋を渡ってドイツ軍の裏をかくなどして進撃速度を上げていたのだ。
 3日目は、集まってきたドイツ軍予備兵力の前に、第30軍団の進撃もはかばかしくなかった。しかも第30軍団が進軍してきた場所に、ドイツ軍が補給線分断を狙って攻撃したため、第30軍団の後続部隊はその撃退に時間を取られ、全体としても進軍する事ができなくなった。当然、予定していた地点まで前進できず、ナイメーヘン、アルンヘムの連合軍空挺部隊は孤立したままだった。

 そのアルンヘムの連合軍空挺部隊だが、この時点で予定していた全ての空挺部隊が降下し、空挺師団2個師団以上の部隊、2万5000名もの空挺兵が橋とその周辺に陣取っていた。しかも空中補給地点も十分に確保されていたため、補給なしで戦い続けるという最悪の事態も回避されていた。空軍部隊も分厚い支援を提供し、近づこうとするドイツ軍部隊を攻撃し続けた。
 そして4日目、第30軍団の主力が前線にようやく到着し、後方も後続部隊の投入を何とか前倒しすることで補給線及び戦線も確保し、そして一気にナイメーヘンまで進軍する。ここでも渡河車両が活躍し、カレーの沿岸よりも火力のないドイツ軍を蹴散らして一気に対岸へ渡った。強引に渡河する車両の中には、フロート付きの水陸両用戦車やアムタンクの姿まであった。
 あともう一つの川を渡れば、米第82空挺師団が待つアルンヘムだった。
 5日目、この日はナイメーヘンとアルンヘムの間の河川で、中州状になった場所で激戦が繰り広げられた。だが、夕方までに第30軍団の戦車隊など先鋒部隊が第82空挺師団が確保する橋を渡ることに成功し、連合軍の賭博性の高い作戦は一応の達成を見ることになる。
 しかし、周辺にはドイツ軍が集まっており、ドイツ本土から、より正確には近在のルール工業地帯辺りからできたての戦車に乗ったドイツ軍が送り込まれつつもあった。

 6日目、この日が連合軍にとって正念場だった。
 既にアルンヘム側には第30軍団のかなりが渡り、周辺に防御のための配置につきつつあった。第30軍団が進撃してきた進路上も、空挺兵と後続部隊によって戦線の安定化がはかられつつあった。さらには、取りあえず届いた燃料を用いて、他の部隊も周辺部への攻撃及び進軍を開始していた。
 6日目の6月30日、アルンヘムの橋の奪回もしくは破壊のため、周辺に集まったドイツ軍の反撃が始まる。
 ドイツ軍の反撃の先鋒には、第501重戦車大隊が当たった。同大隊は、カレーの戦闘で一度壊滅するも、今し方ルールで十分な装備の補充を受けて、兵士をかき集めて再編成されたばかりだった。装備車両は、カレーと同様に「VII号重戦車 ティーゲルII」。45両の定数ほぼ一杯を装備しており、編成表にはあるが配備されることが珍しい対空戦車まで持っていた。ドイツ軍の反撃に装甲師団は居なかったが、再編成中とはいえ装甲擲弾兵師団はおり侮れない戦力だった。しかも、連合軍が最も恐れる重戦車部隊を先頭にして攻撃を仕掛けた。
 だが反撃に転じたドイツ軍は、当然と言うべきか、まずは連合軍空軍機の洗礼を受けなくてはならなかった。ドイツ軍が必死ならば、この時は連合軍も必死だった。この作戦が失敗に終われば、ソ連とのドイツ進撃競争に完全に敗北してしまうからだ。
 故に最強と言われる爆撃隊、攻撃隊が幾つも支援に充てられた。大戦後半を代表する「地上襲撃機」として有名になった日本海軍の「連山」部隊が最も多数投入されたのも、この戦場においてだった。支援は空軍だけでなく、北海に陣取っている空母機動部隊も進路をオランダ沖に向け、沖合すぐからも攻撃隊が大挙送り込まれた。既にドイツ空軍、海軍が半死半生だからこそ出来る事でもあるが、それにしても贅沢な支援だった。
 連合軍の空襲は非常に激しく、「連山」部隊が緊密な編隊を組みつつ超低空絨毯襲撃を敢行し、日米の空母艦載機が何度も何度も急降下爆撃を行って、反撃に転じた重戦車を先頭にしたドイツ軍部隊を仕留めた。
 ドイツ軍戦車に最も多くの打撃を与えた空襲での銃撃は、30mm機関砲によるものだった。機銃とはいえ30mmもあれば重戦車相手でも上面装甲を貫ける場合があるし、機銃なので何発も目標地点にミシン目のように打ち込めるので命中率も高かったからだ。こうした30mm砲の多くは、もともとは欧州枢軸側の戦略爆撃に備えて開発されたものだったが、戦争後半になって地上襲撃に非常に高い効果を発揮している。
 そして連合軍の激しい空襲を抜けてようやく地上戦となるが、ドイツ軍重戦車にとっての難敵が臨時の陣地で待ちかまえていた。
 「三式重戦車改」は総合的には「VII号重戦車」に劣るが、正面から簡単に撃破できる相手では無かった。正面から撃ち合っているうちに、数の多い連合軍車両に側面に回られて撃破されるというケースも一度や二度では無かった。また、重戦車としては高機動が一つの売りの「センチュリオン」だが、この時も正面を「三式重戦車改」に任せて機動戦を挑んでいた。砲塔正面なら長砲身88mm砲相手でも対抗可能だし、「パンターII」にもこの戦法で十分に通用したからだ。
 橋の奪回を狙うドイツ軍は、正面を守る部隊と機動戦を挑む部隊に挟まれる形となり、思うように戦えなかった。そもそも重戦車は機動戦には不向きだし、簡単に撃破できない目標が多数いると持ち前の突破力も十分発揮できなかった。さらに言えば、部隊こそ最精鋭だったが、既に熟練兵は僅かで寄せ集めの部隊では、熟練した指揮や個々の戦車の洗練された戦闘は望むべくもなかった。戦車エースなどごく僅かにいた戦史に名を残すような超熟練兵も、数倍の高性能戦車の連携された攻撃の前に1両また1両と撃破されていった。

 激闘は丸一日続いたが、その日の夕方にはドイツ軍が後退を始める。もともと反撃は短時間でないと成功しない戦力だったからで、精鋭の重戦車部隊が通用しないとなると後退するより他無かった。しかも時間が経てば経つほど連合軍の数は増えており、周辺の戦線でも攻勢を強めて前線を押し上げていた。
 そして連合軍にアルンヘムを越えられた以上、オランダ全域の失陥は時間の問題で、ドイツ軍としてはドイツ北西部、わけてもルール工業地帯を守るための行動を少しでも早く取らざるを得なかった。
 翌7月1日、連合軍は「マーケット・ガーデン作戦」の成功を宣言。オランダ及びドイツ北西部への進撃路を確保に成功する。ただし一連の戦闘で、ただでさえ不足する燃料を本当に使い切ってしまった。このためライン川河口部の完全制圧と機雷の除去が済み、アントワープが機能するまでの半月は大きく動けなくなる。

 賭博性の高い連合軍の作戦は成功したが、それでも連合軍に残された時間は僅かしか無かった。



●フェイズ89「第二次世界大戦(83)」