●フェイズ89「第二次世界大戦(83)」

 1946年6月4日〜11日、戦後を見据えた首脳会談が開催される。
 戦後の最初の枠組みを決めた「ヤルタ会談」の開催だ。

 連合国首脳による会談は、第二次世界大戦中何度か行われてきた。しかしアメリカ、日本そして自由英首脳による会談の回数が多かった。1941年8月ハワイのホノルルで行われた「太平洋会談」以外にも、サンフランシスコで1942年に日米自由英首脳が集まって、戦争方針を話し合っている。また全体が集まる会議の前にも、日米首脳だけ、米英首脳だけが会う場合もある。日本の山梨首相が、苦境が続く時期のソ連を訪問した事もあった。
 そしてこれまでに日米ソ自由英の首脳が全て集まった唯一の会談が、1943年8月開催の「アンカレッジ会談」だった。その後は、戦局全般が連合軍に有利になった為、首脳レベルでの戦略会議は特に必要とされなかった。だが、戦後を目前にして、まさにその戦後を話し合うための首脳会談の必要性がでてきた。そうした中で行われたのが「ヤルタ会談」だった。
 しかし会談の開催時期については一悶着合った。開催場所は43年がアメリカだったので、ソ連領内のどこかと言うことになった。日本開催という案も出たが、主にソ連が難色を示たため実現しなかった。だが、日本の面子を立てるという事で、近い時期に外相会談が開催されることになり、これは45年11月に廣島会談という形で開催されて、近在の厳島神社での外相達の記念撮影が後世にも残されている。
 会談開催の時期については、1945年12月から1946年のできるだけ早い時期というのが1945年夏の時点で決められた。だが最初の予定は、ドイツ軍のポーランド方面での反撃で日程調整の最中に流れてしまった。そしてソ連としては、雪辱を注ぐまで会議をすることが政治的に出来ず、攻勢予定を考慮して4月後半を指定。だが今度は、連合軍が5月初旬にカレー上陸作戦があるため、最低でも5月中旬以後を求める。しかし遅すぎるとドイツが降伏もしくは全土占領となり、戦争自体が終わって問題が少しややこしくなる可能性もあった。
 また同年4月からは、戦後の国際的枠組みの一つである「国際連合(U.N.)の設立のための会議がアメリカ西海岸のサンフランシスコで開催されており、各国外相などが詰めかけて連日会議をしており、この重要会議を外しての開催が望ましかった。
 結局、5月のカレー上陸作戦成功を受けて、6月4日の開催と決まった。

 「ヤルタ会談」の6月開催を前に、最も精力的に動いていたのは日本の山梨勝之進首相だった。
 戦後の枠組みを決める会議と言っても、基本的にはヨーロッパ情勢を中心とした会議なのが分かっていたので、日本の重要性が低かった。それより日本としては、今まで解放もしくは占領してきた地域の戦後の事の方が気がかりだった。そこで日本としては、独立予定を含めたアジア諸国を一同に集めた国際会議の開催を別に計画する。
 仮称「東亜会議」と呼ばれ外交通の重光葵を担当として進めるも、自由英など連合軍側のヨーロッパ諸国から「待った」の声があがる。会議はアメリカのハル大統領も賛成し、最低でも外相、できれば自らのオブザーバー参加を打診していたので、日本としては安心して会議の開催を進めていた。ハルとしては、国連の準備の一つという気持ちもあったからだ。
 だが、会議参加予定の国や地域のほとんどは、イギリス、フランス、オランダの植民地か衛星国、影響国だった。もちろん日本も、戦争中に連合軍が戦後も植民地として認めた地域の代表を呼ぶ気は無かった。集まるのは、主要参戦国の満州帝国をパートナーとして、主に旧イギリス領のマレー、インド、あとはフィリピン、タイと中東諸国がほとんどだった。インドシナ、インドネシアは最初から除外していた。それでも植民地帝国主義の否定だと印象づけるとして、欧州(の各自由政府)から反対の声が強くあがった。
 結局、各国、地域への個別訪問とされ、3月に2週間近くかけて山梨首相、重光代表がアジア各地を歴訪することになる。そして山梨首相は、5月末にイランなど中東を歴訪した後で黒海沿岸のヤルタへと足を運んだ。このため他国からは、「アジアの総意」を持って会談に臨んでくると見られていた。

 「ヤルタ会談」には、アメリカ合衆国のコーデル・ハル大統領、ソビエト連邦ロシアのヨシフ・スターリン書記長、日本の山梨勝之進総理、イギリスのウィンストン・チャーチル首相が参加した。チャーチル首相は主要国という枠組みでは参加を危ぶまれたともいう説もあるが、欧州情勢を決めるのに当事者なしでは話しにならないので、この説は陰謀論の一つと言える。一方で救国フランス、満州帝国など準主要参戦国は参加する事は出来なかった。この事が、より一層戦後の強国による戦後秩序の構築にあると考えられた。しかし各国が求めたのは、その戦後秩序の前提となる戦争の終わり方にあった。
 会談の主な議題は、まずはドイツ本土への進撃と占領についてだった。この件に関してすぐに合意を見たのは、戦争終了後の首都ベルリンの4国共同での占領統治だけだった。進撃に関しては、ハル大統領はエルベ川を互いの進撃境界にするべきだと提案したが、スターリン書記長は現状にそぐわないと言って、ドイツ全土のソ連による進撃と戦争直後の一時的な占領を主張した。そこに、ソ連だけがドイツから大きな損害を受けたわけではないので国民が認めないと、チャーチル首相と山梨総理がスターリン書記長に食い下がる。だが進撃状況から考えれば、ソ連がドイツ全土を占領する可能性が一番高かったため、他3国の意見は空回り気味だった。結局、進撃した国による占領を第一とするという東ヨーロッパで一部用いられた方針が、そのままドイツを含めた残る枢軸国占領にも適用する方針とされた。このため、ソ連と連合軍各国のドイツ進撃競争を激しくする大きな一因となった。
 また、占領した国による占領統治という方向性は、現在進行形で進んでいるバルカン半島地域の占領と戦後の独立にもいっそう強い深く影響を及ぼした。ただしこの会議時点で現在進行形で侵攻が目前に迫っていたオーストリアについては、ソ連、アメリカ、日本、満州4カ国の共同占領が決められた。

 次に議案とされたのは、ポーランドをはじめとした東ヨーロッパ各国の独立復帰と占領に関してだった。特にドイツと一時的にソ連に占領されたポーランドが、チャーチル首相主導で問題として議案にされた。そしてポーランド問題では完全に3対1となったため、会談の上でスターリン書記長は3国の主張を認め戦後に総選挙をして政府を決めることになった。しかし良く知られているように、ソ連は約束を全く守らず民主主義者を弾圧して共産主義政権を作り、冷戦対立の切っ掛けの一つとなっていく。
 4カ国が一応納得したのはユーゴスラビア地域で、セルビアはソ連指導、他の地域は日本、アメリカ指導という形で落ち着いた。誰もが、この地域特有の複雑な民族問題を可能な限り触れたくなかったからだった。
 そして中華地域の分割と独立についても、改めて議題とされた。と言うのも、ソ連占領地の東トルキスタン、プリ・モンゴル東部では民主選挙の動きが潰され、独自の共産主義政権の建設が急速に進んでいたからだ。さらに、青海地方の低地地域でも、ソ連の支配が強まっていた。この件に関してスターリン書記長は、逆に他の地域で共産主義勢力への弾圧が行われていることを非難し、選挙に向けて努力を惜しまないと言う事で問題が有耶無耶とされた。正直なところ、現時点では日本以外は中華情勢よりもヨーロッパの最終的決着の方に3人の関心が高かった証拠だった。そしてアジア問題について、山梨首相は特に議題を提示しなかったと言われている。もっとも、日米の間では中華利権はアメリカが戦後手にする事になっていたので、この時点でアメリカの動きが低調なのは、アメリカとソ連との何らかの裏取引があったのではないかと陰謀論で語られる事も多い。
 だが、会談自体が「四大国による利害調整の場」と言われるように、各国首脳がも言わなかったとは考えられていない。アジアの問題に関しては、他の小さな議題、問題と共に話されたと考えられている。それでも各国が日本に対して強く出ることもなく、山梨首相のアジア歴訪の狙いも、アジア問題で何も言わせない事そのものにあったと見られている。また、アジア世界を代表して反共産主義姿勢を示したことで、一応の成果が得られたとも見られている。アメリカが中華問題で強く言っていないのは、日米の間での事前の話し合いがあったからだと見るべきだろう。
 そして最後に、ドイツが完全に打倒されてから、出来るだけ早い時期に再び集まることを約束して会談は終了した。

 なお、この会議で主導権を握ったのは、国力と軍事力、そしてイデオロギー面からアメリカのハル大統領とソ連のスターリン書記長だった。だが個人的に信頼されたのは、今回も日本の山梨総理だった。山梨総理はスターリン書記長、チャーチル首相とは旧知で、再開を祝して親交を暖めた。チャーチル首相とは何度も会っていて真の戦友という感覚も強く、スターリン書記長は山梨総理を最も信頼できた国外の政治家の筆頭にあげていたほどだった。そして新参となるハル大統領は孤立しがちだったのだが、山梨総理がよくサポートしてもり立てたと言われている。
 また、戦後最も有名な写真の一つとなった4人が並んで座っている写真では、見た目左からチャーチル、ハル、スターリン、山梨と一見山梨総理が少し孤立しているように見えるが、その時撮られた写真の多くでは、スターリンと山梨がにこやかに談笑している。日本への帰路も、予定を変更してソ連上空をソ連空軍の案内付きで帰ってもいる。このため日本がソ連寄りなのではという説まであったが、山梨総理は個人の関係と国家の関係について混同することはなかった。しかし山梨としては、戦後起きるソ連とアメリカの対立を、少しでも緩和できればと言う想いからの行動だったと言われる。
 そして会議の最中にパリとウィーンが解放され、連合国各国はドイツ打倒へと最後の努力を傾けていく。

 1946年7月は、特に半ば以後に歴史的な事件が立て続けに起きたため、非常に慌ただしかった。
 まずは7月16日。この日は歴史的な一日の一つとなった。
 この日は、ソ連軍がベルリン侵攻を実質的に開始した日で、同時にアメリカが原子爆弾の開発に成功した日でもあったからだ。どちらも戦後を決める大きな事件で、どちらも一ヶ月遅れていれば戦後情勢が大きく変化したと言われる事が多い。
 またこの日から約一ヶ月先まで、ほぼ毎日のように大きな事件がドイツ地域を中心に起きている。この日から一ヶ月は、まさに歴史を決めた一ヶ月だった。

 ポーランド方面のソ連軍は、1946年4月24日にオーデル川に到達してからは、補給と整備、休養に入った。そしてあまりにも大部隊のため物資の備蓄・集積に時間がかかり、短期間で進撃を再開することは難しかった。しかも敗北したドイツ軍も、オーデル川で踏みとどまって防衛体制を整えていた。さらにケーニヒスベルグからオーデル川にかけてのバルト海沿岸地域では、主に西へと逃げる難民救援を主目的としたようなドイツ軍がしばらく踏ん張り、この方面での掃討にも一定の時間が取られたため、スターリン書記長が望んだ早期の進撃はなかなか出来なかった。
 ソ連軍が最初に求めた、ベルリン及びドイツ全土に対する大規模な電撃戦の開始時期に対しても、当初の7月後半から8月初旬に対して日が経つにつれて前倒しされ、最終的に7月半ば作戦発動を絶対命令とした。
 と言うのも、ドイツ東部以外の戦況が目まぐるしく動いていたからだ。上記したように6月9日にパリが解放され、14日にはウィーンも陥落した。さらに25日には連合軍が一大空挺作戦を決行し、一気にオランダまで雪崩れ込んだ。そしてさらに作戦発動の直前の7月13日までに、連合軍はアルザス・ロレーヌ地域に進軍し、フランス全土の解放に成功している。
 そこで連合軍は、前線での酷い燃料不足により、最低でも半月、大部隊を動かすのなら一ヶ月以上は進撃どころでは無かったが、逆を言えばソ連がドイツ全土を占領する時間は、半月もしくは一ヶ月程度しか無かった。このため悠長に補給物資を溜めている場合では無かった。
 しかもここにきて、連合軍のレンドリースが思ったほど届かなくなっていた。基本的には、ロシア領内を抜けた鉄道路線の変更の影響で、前線への補給が滞っていた。だが後方でも、ウラジオストクや大連に陸揚げされている量そのものが減っていた。連合軍は、天候による輸送船の遅延や各国本土での生産の混乱などを理由にしていたが、本当の理由は明らかだった。
 ソ連より早くドイツに踏み込むためだと、ソ連首脳部は理解していた。ただレンドリースの減少は、オーストリアにまで進んでいた満州帝国軍も同様だったので、ソ連の満州への憎悪には繋がらず、前線では今までの経緯もあって奇妙な連帯感があった。その事を少し後で知った満州帝国皇帝溥儀も、連合国の結束を乱すような行為を柔らかく抗議する文書を、主に日本に向けて出したりもしている。
 ドイツ正面の補給に関しては、様々な要素で迅速な進撃が難しい南部方面の補給や補充を減らして北部のドイツ正面に回すことで対処された。同時に、南部方面にいた輸送トラックのかなりも北部に回された。これで南部は迅速な進撃は出来なくなるが、南部は主に政治的理由で迅速な進撃どころではないので、思い切りよく切り捨てれたと言えるだろう。

 6月14日のウィーン陥落以後、ウィーン周辺にはソ連軍、アメリカ軍、満州軍、さらには一部日本軍も進撃してきていた。別に米ソの同士討ちや反目が起きたわけではないが、ウィーン以後の進撃に関しては誰もが八方ふさがりだった。
 ウィーンからドナウ川沿いにオーストリア領内を抜ければ、そこはドイツ南部だった。ドナウ川の源流近くまで行けば、ナチスの宣伝都市として有名なニュルンベルクがあった。だが、ドイツに至るまでの主要な進撃路は、ほぼ1つしかない。そこに3個軍集団もの大軍が進める道は無かった。しかも米ソの補給路を二重に被せることは、政治的ばかりか物理的にも不可能だった。このため周辺で一番北側にいた満州帝国遣蘇総軍は、ごく一部を占領のためウィーンに残すと進撃路を北西部に設定し、一路チェコスロバキアの首都プラハに向ける事とした。この事は、チェコ領内以上には進撃しない事を条件として米ソ双方の連合軍内でも了承され、チェコ主要部の開放はほぼ満州帝国軍だけに委ねられることになる。彼らはウィーンこそが終着駅と思って進撃してきたが、政治的思惑からさらに西へと進むことになった。そしてこれにより、満州帝国は旧オーストリア帝国の主要都市三つ(ウィーン、ブタペスト、プラハ)を陥落させる役割を担う事にもなった。
 同地域には、ハンガリーから後退していたフリースナー将軍の第8軍と、東プロイセンのシュレジェン方面から後退してきていた第15軍の一部がいて、泥縄式にA軍集団に再編成されていた。
 指揮はヒトラー総統の指名でシェルナー元帥とされた。彼は戦争終盤の行動から「ヒトラーの最も冷酷な元帥」と呼ばれ、ヒトラー総統のお気に入りだった。そして東プロイセンでの戦闘では、避難民を西に逃すも多くの兵士や国民擲弾兵に自殺的な戦闘をさせるなど冷酷な戦闘を行った。これはチェコ方面の指揮権を握っても変わらず、しかもチェコ住民の事も考えない戦闘を行ったため、ドイツ東部に次ぐとも言われる凄惨な戦闘となった。
 このため満州帝国軍遣蘇総軍では、ロシア領内でのナチス一般親衛隊の悪行よりも、チェコでの戦いを「大戦中最も陰気な戦い」と公式に記録した。そして満州軍の将兵に人道重視の戦いを自発的にさせると同時に、ウィーン進軍の勝利に酔っていた兵士達の士気を大きく下げさせた。しかもシェルナー元帥は単身逃走を図るまで、全ドイツ軍の中で最後まで戦い続けた。このため遣蘇総軍は、終戦を過ぎて現地ドイツ軍が降伏することで、ようやくプラハ入りしている。戦後軍を退役して仏門入りした日本人将校が増えたのも、ロシア戦線での凄惨な戦いに加えて最後の戦いが影響したと言われる。また、戦争終盤の満州軍の士気が低かったという話しのかなりも、チェコでの最後の戦いの「不甲斐なさ」が後世伝わったためと見られている。
 なお、連合軍というよりアメリカは、満州軍の「独断専行」を強く期待してチェコを越えてベルリンに進むことをけしかけたと言われる。だがその目論見は、「ヒトラーの最も冷酷な元帥」の行動によって阻止されたと言えるかもしれない。副司令官の石原将軍も、戦後に「ヤンキーの嫌らしい意図は分かっていたが、そんな気は吹き飛んでいた」と証言している。

 一方で連合軍がオーストリアから南ドイツに進軍するには、取り逃がしたドイツ軍南方軍集団主力を撃破しなければならなかった。ドイツ軍はケッセルリンク元帥麾下に、第6SS装甲軍(ディートリヒ将軍)、第7軍(ロンメル将軍)が属しており、いまだ総兵力は30万近くを維持し、ハンガリーで無為な戦いで消耗したとはいえ戦力自体も侮れなかった。戦車部隊も定数の20%〜30%程度を維持しており、第6SS装甲軍の持つ優秀な重戦車部隊に防戦に徹せられると非常に厄介だった。何よりロンメル将軍の変化自在な戦い方は、時間の浪費を嫌う連合軍にとって厄介だった。また国境近くには、例の「マウス・トーチカ」が狭い場所に効果的に設置されており、空襲で破壊されるまで神話に出てくるゴーレムのように立ちはだかり続けた。
 それでもわずか2個軍だけで、対する連合軍は米ソ2個軍集団なのだから、本来ならまともな戦いにもならない戦力差だった。だが先述したような政治状況のため、誰もが進みたくても進めなかった。
 ここで地中海戦域軍総司令官のアイゼンハワー元帥は、イタリア北部のホッジス将軍のアメリカ第1軍にアルプス越えの進撃を命令した。そして彼らはイタリア最北部、アルプスの中にあるボルツァーノでムッソリーニらサロ政権の降伏を受け入れ、多くが無抵抗となった北イタリアのドイツ軍の降伏を受け入れつつ、急ぎ足でドイツ本土目指して北上していった。
 そして第3軍のパットン将軍だが、ウィーンへの進撃時から別ルートで北を目指すルートでの進撃も行っていたが、ウィーン入城後は同方面での攻勢を強化する。敵が抵抗するオーストリア・アルプスの東の端の谷間を抜けるので進撃は容易ではなかったが、既に現地ドイツ軍の抵抗はかなり弱まっており、現地オーストリア人の一部がドイツを見限って反ナチスでレジスタンスを始めていた事もあって、意外に順調に進撃することができた。だが、それでも山間部を抜けるのは簡単ではなく、ドイツの降伏によってようやくオーストリア縦断に成功している。そしてオーストリア北部のリンツへ最初に到達し、連合軍がヒトラー総統が逃げ込むかもしれないと考えた場所の一つの占領に成功している。
 そしてウィーンから南ドイツに伸びるルートでは、北側をソ連軍、南側をアメリカ軍が並んで進む事になるが、これが正式に決まるまでウィーン入城から1ヶ月以上浪費してしまう。実際進撃を開始したのは8月に入ってからとなり、こちらも終戦までドイツ本土に進むことが出来なかった。そして最後まで奮闘したケッセルリンク元帥、ロンメル上級大将、ディートリヒ上級大将らドイツ軍将兵のほとんどが、場所が許す限りアメリカ軍もしくは少数の日本軍に降伏して彼らの戦争を終えている。
 なお、同方面に進んだ山下将軍麾下の日本軍主力(第8方面軍)は、進撃路の関係もあって主にクロアチア方面に進んで、旧ユーゴスラビア中部の各所でソ連軍と握手して戦争を終えることになる。山下将軍もウィーンに進軍したと誤解されることもあるが、彼が入城したのはクロアチアの首都ザグレブで、ウィーンには戦後になってから入っている。

 そしてソ連軍の本命となるオーデル川方面だが、同方面には北から順番に第2ベラルーシ方面軍、第1ベラルーシ方面軍、第1ウクライナ方面軍が布陣していた。突進する実戦部隊だけで250万人を越える大軍で、所属部隊のほとんどが高い機動性を有しているのが特徴だった。しかも後続として、歩兵部隊を中心としたほぼ同数の大軍が控えていた。これ以外では第1バルト方面軍が、今や完全に孤立していたケーニヒスベルグを包囲して、歴史ある街を更地に帰すような激しい市街戦を展開していた。
 第1ウクライナ方面軍のすぐ南には、形の上では満州帝国遣蘇総軍が展開しているがチェコで完全に引っかかっていたので、進もうと思えば第1ウクライナ方面軍がズデーデンの北部を越えてプラハを占領できた。だがオーデル川方面の目標は、あくまでドイツ本土への進撃だった。前線指揮官も、休養としてロコソフスキー元帥を後方に下げさせると、総司令官のジェーコフ元帥と総参謀長のヴァシレフスキー元帥が第2ベラルーシ方面軍と第1ベラルーシ方面軍を直接指揮していた。また、もう一つの第1ウクライナ方面軍は、ジェーコフ元帥の子飼いといえるコーネフ元帥が指揮に当たっており、ソ連軍の布陣としては万全に近かった。
 ただ、総司令官、総参謀長が前線に出てきているのは、作戦のためと言うよりもソ連軍内での戦後を見据えての事であり、特にジェーコフ元帥の力の入れようは大きかったと言われる。何しろさらなる功績を挙げて、戦後閑職に追いやられたり左遷されないようにしなければ、独裁者が君臨する赤い帝国では政治的に生き残れないからだ。戦争終盤で敗北したロコソフスキー元帥がこの時前線を外され、戦後も閑職であるポーランド方面の総司令官となったのも、彼がポーランド系だったからではなく出世競争から脱落して事実上左遷されたためだった。

 対するドイツ軍は、既に軍全体が敗戦目前の末期状態だった。
 第2機甲軍、第5装甲軍、第2軍、第4軍、第9軍などが、北のヴァイクセル軍集団と中央軍集団に分かれてオーデル川沿いに守備していた。指揮官は中央軍集団がハインリツィ元帥、ヴァイクセル軍集団がハイドリヒSS副長官からシュトゥデント将軍に交代していた。なお、ハイドリヒSS副長官はこの時の臨時指揮のため、半ば便宜上だがSS元帥も兼任している。このためハイドリヒは、武装SSと勘違いされる事がある。彼はヒムラー長官の身代わりとされて、この時軍隊の指揮を形式上行ったに過ぎない。また彼は、ここでの臨時任務を終えるとベルリンを半ば素通りして、フランクフルト入りしている。
 ドイツ軍の兵員数は、4月末の時点で戦える兵士の数は合わせて60万人程度。これでは到底ベルリン、そしてドイツ本土を守れないので、30万人以上の国民擲弾兵やヒトラーユーゲントの少年が動員されていた。さらに6月になると、北フランスからドイツ本土方面に後退して結果として戦線が整理された西部からは、10個師団以上の精鋭部隊が急ぎオーデル川へと移動している。合わせると100万人以上の兵力となる。
 そして攻者三倍の原則に従えば、数字の上ではソ連軍は300万人の大軍を揃えなくてはならない。しかし国民擲弾兵、ヒトラー・ユーゲントは、1941年冬のソ連兵よりも質が低かった。しかも兵器生産の混乱のため、装備が劣悪な部隊、兵士が多かった。昨年の冬頃に備蓄されていた兵器の多くも、46年の春頃にはほぼ枯渇し、6月のカレーでの戦いで完全に尽きていた。このためベルリンでの戦いでは、試作兵器すらが戦場に投入されたりもしている。
 頼みの綱は要塞都市などの防御陣地や一部の強固な陣地、マウス・トーチカだが、要塞都市の多くは(戦場になっても一向に構わない)ポーランドに建設されていて、オーデル川辺りにはほとんど無かった。そして新しく作るだけの資材がもう無かった。それ以前の問題として、最終防衛線のキュストリン落とされてしまうと、ベルリンまで遮るべき壁はオーデル川しか無くなっていた。
 もはやベルリンを守る術は無きに等しく、民族もしくはナチスの意地をかけた戦いをするより他無かった。この時点でもヒトラー総統及びナチスに降伏の二文字はなかった。それを示すかのように、いまだ健在なベルリン国立歌劇場では、ドイツ第三帝国最後の歌劇としてリヒャルト・ワーグナーの「ニーベルンゲンの指輪」から「神々の黄昏」の演奏会が催され人々は聴き入った。
 ナチスの支配者達は、敗北よりも滅亡を選んだのだ。

 ソ連赤軍によるドイツ本土への総攻撃は、7月16日に開始された。
 まずはドイツ軍を引きつける意味でも、ベルリン正面に陣取る第1白ロシア方面軍が総攻撃を開始する。そして包囲される危険を承知で、ドイツ軍も頑健に抵抗した。正面からの攻撃でベルリンへの道を通してしまっては矜持も示せないし、全軍の士気にも影響するからだ。そしてドイツ軍は善戦し、兵数だけで10倍いるソ連軍は正面を突破するために4日間も要することになる。500両あまりのドイツ軍戦車部隊は、3000両以上のソ連赤軍の精鋭機甲部隊に対して奮闘した。効果的に設置されていたマウスやパンターの砲塔を流用したトーチカも、強引に突進してくるソ連軍を効果的に迎え撃った。
 このため南部を進む第1ウクライナ方面軍に属する2個戦車軍が、ベルリンの南側を大きく迂回する進撃路を取る。これでベルリンは南北双方から包囲される形になり、それを止めるだけの戦力はドイツ軍には無かった。ドイツ軍に出来ることと言えば、ベルリン市民の西への脱出支援ぐらいだが、その目論見も半ば虚しかった。この時期のドイツ軍には、もはや何もかもが不足していた。無敵のトーチカも、蟷螂の斧でしかなかった。
 だがソ連軍も、ドイツ本土に踏み込んで意外に困っていた。それはドイツ中部の都市はほぼ無傷のままのため、迂闊に市街戦に突入できないからだ。ポーランドや東プロイセンの都市で、要塞化された都市戦を強いられて何度も痛い目をみていたためだ。
 そしてドイツ本国で都市が激しく破壊されているのは、北西部沿岸の工業都市と南部の大都市の一部ぐらいで、ドイツ中枢だったエルベ川からオーデル川の一帯は、破壊らしい破壊にさらされていなかった。大戦末期から行われた連合軍やソ連軍の爆撃も、工業生産施設か軍事施設に対するものが多く、徹底した爆撃は行われていなかった。
 東プロイセンもほぼ同様だったが、東プロイセンは大都市が限られていたので殆ど問題にならなかった。手こずったのは、一部の要塞都市にたいしてだった。一方でチェコ北部と隣接するシュレジェン地域は、大都市は中部のブレスラウぐらいだが、ドイツ辺境に当たる南東部のオーヴァー・シュレジェンは工業地帯であり、この地域での市街戦には苦労させられていた。そして今後ドイツ本土に進むとなると、同様の事態が容易に予測された。
 しかしソ連軍には、都市に攻め込んで財を奪い、破壊し、住民を蹂躙する贅沢を長々と味わっている時間が無かった。西と南、さらに北から連合軍が迫っていたからだ。そしてスターリンの目標は、最低でもドイツ全土をソ連独力で蹂躙して占領することで、そのためにも時間のかかる市街戦は可能な限り避けるべきだった。かといって、士気を上げるためにも兵士達への戦場での「報償」を与えないわけにもいかないので、都市の蹂躙をしてはならないとは命じられかった。また、ロシアの大地でナチスが行った蛮行の仕返しも十倍返しでしなければならないので、都市の蹂躙を止めるようなことも無かった。その代わり西への進撃を最優先とする命令を出し、不要に進撃が遅れた場合は厳しく罰し、一番早く遠くに進撃した者達への報償と名誉を約束した。また西への進撃には、進軍命令を聞かざるを得ない部隊を優先して前衛とした。
 そうした中で、進軍のための補給路として不要な都市は当面は包囲もしくは無視され、機甲部隊が前進を急ぐ姿が各地で見られた。ドイツ軍がいても無視したほどだ。西に逃れる避難民の群れも、道路脇にどかせただけという場面すら見られた。
 北ドイツ平原の大規模な機甲部隊の進軍に向いた地域を突進したヴァシレフスキー元帥麾下の第2ベラルーシ方面軍は、エルベ川寄りのバルト海への大規模な突進と旋回運動によって、ドイツ軍のヴァイクセル軍集団主力の第2機甲軍と第4軍をベルリンから完全に切り離すと共に、海を背にした包囲下に置くことに成功する。しかも彼らの西には、有力なドイツ軍もいなくなった。そして最も北側を目指した先鋒部隊には、そのままエルベ川河口に広がるハンブルグ市、さらにはオランダ国境、デンマークへの突進を行わせた。
 そしてベルリンの西側ではエルベ川に到達するが早いか、早々に西岸への渡河作戦を開始する。進撃が急速すぎたため、一部では無傷で機甲部隊が使える橋も確保され、散発的な抵抗を粉砕しつつドイツ西部へと突進した。そして我先にエルベ川を越えたのは、ベルリンを包囲している筈の第1ベラルーシ方面軍、第1ウクライナ方面軍も同様だった。彼らの当面の目標はライン川到達。わけてもルール工業地帯とフランクフルトだった。
 では、ベルリンはどうなったのか。

 ドイツ第三帝国の首都ベルリンは早々に陥落したのではなく、当初は包囲されると半ばそのまま捨て置かれてしまっていた。包囲自体は後続してきた歩兵部隊、砲兵部隊に委ねられ、前衛の機甲部隊はそのままドイツ西部へと突進していったのだ。このためベルリンから命令が発せられたベルリン救援に赴くべき部隊は、さらに西を目指すソ連軍精鋭部隊と戦わねばならずベルリン救援どころではなかった。
 早い部隊では7月26日にエルベ川に達し、そしてさらに西を目指した。「ラインを目指せ」が、この時のソ連全軍の合い言葉だった。
 ではなぜベルリンが、一時的であれ包囲で留め置かれたのか。
 理由は、破壊されていない大都市での市街戦を、ソ連軍が嫌ったからではなかった。むしろソ連は、他の都市はともかくベルリンだけは一度徹底的に破壊する気でいた。わざわざそのために、大型の重砲を多数ベルリンに向けていた。復讐はもちろんだが、これからの占領統治、戦後政治のため、首都を破壊してドイツ人の心をへし折らねばならないからだ。
 このため後続の砲兵隊には非常に力を入れており、包囲する前後から徹底した砲撃戦を展開している。では、砲撃戦で廃墟にするために包囲に留め置いたのか。これも違っている。戦術的には正しいのだが、戦略的そして政治的理由で包囲に留め置かれていたのだった。
 その大きな理由は、ヒトラーがベルリンにいた場合と居なかった場合の双方が関係していた。
 ヒトラーがベルリンに居た場合、ベルリン陥落の前にヒトラーは捕らえるか殺害または自殺すると予測されていた。そしてそのどれであっても、その前に権力の委譲が行われる可能性があった。そしてドイツで新たに権力を握った者は、余程の愚か者でない限りドイツの降伏手続きをとる筈だった。そうなっては戦争は終わり、無抵抗となったドイツ軍を押しのけて、西から連合軍がドイツ本土に押し入ってくる可能性が極めて高かった。何しろ連合軍の一部は既にフランス国境まで迫り、オランダ方面では既にライン川すら越えているのだ。そしてただ進むだけなら、燃料不足も気にする必要はない。
 ヒトラーがベルリンにいない場合は、ベルリンを破壊すること以外にベルリンに大きな価値はなく、ヒトラーをソ連赤軍の手で捕らえるか殺すためにもドイツ全土を蹂躙する必要性があると考えられていた。
 そしてドイツが政府機能の一部をフランクフルトに移動していたため、なおさら早期のベルリン占領の価値を低下させていた。ソ連赤軍が目指すべきは、ベルリンではなくフランクフルトと考えられていた。ヒトラーがベルリンにいる可能性も、かなり低いと見られていた。独裁者とは、自らの保身を第一に考えるのが常識だからだ。
 しかもベルリンが包囲された噂(当然真実だった)がドイツ人の間に広まると、抵抗を止めて降伏する動きが自然発生的に広がっていった。明確な命令を必要とする軍隊は西の国境でも戦い続けていたが、それもいつまで続くか分からなかった。
 あらゆる意味においても、ベルリンを早期に陥落させることよりも、一歩でも西に進むことの方が優先されるべきだった。

 そしてフランクフルトに進まねばならないと考えているのは、連合軍も同様だった。



●フェイズ90「第二次世界大戦(84)」