●フェイズ90「第二次世界大戦(84)」

 1946年7月25日、帝都ベルリンがソ連赤軍に包囲されたその日、ドイツ本土を巡る戦いはさらに混沌としてくる。
 ナチスとアドルフ・ヒトラーが作り上げた、ドイツ第三帝国もしくはナチス・ドイツ最後の瞬間の到来だった。

 混沌とした理由の一つは、この段階で連合軍がユトランド(ユラン)半島に上陸したからだった。
 ユトランド半島への上陸作戦は、通常なら行うような軍事作戦ではない。北海に面する半島の西側は、まともに人が住める場所まで沿岸から進んでいくまでが大変だった。東側は東側で地形が複雑だった。古来からも、当地に住んでいるバイキング以外、海からやって来ようと言う物好きはいなかった。ユトランド半島を侵略するなら、1940年春のドイツ軍のように、半島の付け根から陸路で進軍するしかない。どうしても半島に上陸したいのならば、半島付け根のドイツ領に上陸するべきだったが、付け根辺りも状況にあまり変化はない。そもそも北海沿岸全般にわたって、フィヨルドでない限り大きな港湾は作れず、上陸作戦に適した浜辺がない。しかも砂地の遠浅が多かった。
 そこに連合軍は、圧倒的物量と文明の利器の力によって強引に上陸作戦を決行した。

 わざわざ連合軍が上陸作戦の難しい場所に上陸したのは、彼らに与えられた時間が無かったからだ。1945年冬頃、ソ連軍は東からドイツ全土を狙っているのに対して、フランスに上陸した前後の連合軍は、前線での燃料不足などで進撃競争に遅れる可能性が高いと考えられていた。特にドイツ軍の「東方の守り作戦」が成功するまでは、ベネルクス地域ばかりかパリすら解放できるか危ういと考えられていた。そして連合軍としては、ソ連の進撃に物理的な政治的な楔を打ち込む必要性を強く感じていた。
 この懸念は、ドイツ軍の「東方の守り作戦」の成功によって少し遠のいた。この事もあって、不要とも言われたノルウェー作戦が決った。そして作戦準備が進められていたユトランド作戦は、予備作戦に指定されて事実上一時凍結される。
 だが、大成功に終わったと宣伝されたカレー上陸作戦では無傷の港湾確保に失敗し、内陸への進撃時の補給問題が再び強く懸念された。そして5月半ば、ユトランド作戦の決行が緊急で決められる。作戦決行までわずか2ヶ月。その短い期間で準備を行うのは、物量を誇る連合軍と言えども至難の業だった。加えて作戦に参加できる地上部隊の手配、揚陸作戦艦艇の準備など様々な事を極めて短期間で準備しなければならない。このため、ノルウェー作戦などしなければよかったと非難も出たりした。
 上陸作戦に際して何よりも足りないのは、上陸する陸軍部隊だった。何しろ、素早く上陸して最低でもユトランド半島の付け根まで、短期間で進撃しなくてはならない。上陸作戦自体は、既に仕事が無くなっていたノルウェーとカレー近辺の海兵隊を動員すれば事足りるが、迅速な進軍に必要な上陸作戦に慣れた熟練部隊となると、連合軍広しといえど限られていた。しかも、出来れば軍団規模のまとまった戦力が望まれたため、尚更選択肢は限られていた。近在にいる上陸作戦に慣れた部隊のほとんどがフランス領内で作戦行動中で、とてもではないが軍団規模では引き抜けなかった。
 そこで白羽の矢が立ったのが、地中海方面の部隊だった。同方面では、進むべき進撃路をアルプス山脈に阻まれて、しかも戦線を形成できる場所も極めて限られていたため、長らく部隊の多くが半ば待機状態に留め置かれていた。そして5月14日の時点で、アイゼンハワー元帥指揮下の地中海戦域軍所属で、山下大将麾下の日本南欧方面軍(第8方面軍)に属する日本第7軍(軍団)に白羽の矢が立ち、その日のうちにヴェネツィアなど近在の港への移動が開始される。決定があと1日遅ければ、スロベニアが連合軍に寝返って同部隊も進撃を開始していた筈なので、ギリギリのタイミングでの決定だった。そして日本第7軍(軍団)は、友軍が勇躍してスロベニアになだれ込むのを横目で見つつ、命令に従って港へと向かった。

 日本第7軍(軍団)は、支那戦線初期の上陸作戦以後数多の上陸作戦を経験してきた。支那北部からイタリアまでのアジア戦線、地中海戦線全ての作戦に参加してきた、連合軍で最も戦闘経験の多い軍団だった。麾下には第2機甲師団、第5師団、第18師団などを有する重装備の機械化軍団だが、特に第5師団は渡洋作戦用の専門機材を持ち「陸軍海兵隊(アーミー・マリーン)」と言われるほど上陸作戦に熟練した部隊だった。
 この時の指揮官は根元博将軍(当時中将)。支那通だった事もあり戦争序盤は中華戦線で戦い、中華民国降伏後もしばらくは今村将軍のもとで中華占領軍総司令部に副参謀長として勤務していた。だが、戦場が欧州になると前線での優秀な高級将校不足もあって再び前線勤務に転じ、シチリア島上陸の頃から支那戦線でも属していた同軍(軍団)を指揮していた。
 日本第7軍(軍団)の戦域をまたぐ移動は、まさに連合軍的だった。移動当初こそヴェネツィアで数日間待ちぼうけとなったが、その間将兵は連合軍共通規約に従い与えられた休暇を満喫。そして休暇中に大型の装備運搬船が欧州中から続々と到着し、先に輸送専門の兵士達によって装備の運搬が実施される。兵士達は後から到着した客船型もしくは貨客船型の兵員輸送船に乗って、8万を越える全軍の将兵が殆ど一度にゆうゆうとイギリス本土入り。そこで新装備の受け取りと慣熟訓練を行う。上陸作戦のリハーサルは、ユトランド半島と似た地形のブリテン島の北海側の海岸で実施された。そして先に装備が載せられた指定先の揚陸作戦艦艇に分乗し、第二次世界大戦最後の強襲上陸作戦へと赴くこととなった。
 またこの上陸作戦は、将兵の間でも戦争最後の大規模強襲上陸作戦と見られており、さらにはドイツ本土深くに直接乗り込む作戦と思われていた。しかも、日を追うごとにフランス本土の部隊が燃料不足で進めなくなっているため、過剰な期待が高まっていた。この期待は、マーケット・ガーデン作戦後の連合軍各部隊の停滞も重なって、まるで全連合軍の期待を一身に背負うような有様だったとも言われる。しかも上陸支援には、当時ブリテン島や北海に溢れかえっていた連合軍海軍のうち余剰艦艇の過半が当たるため、その噂がさらに将兵の期待を高まらせていた。噂の中には、強引にバルト海に進軍してベルリンに乗り込むというものまであった。
 とはいえ、ユトランド半島への上陸直後に大規模な進軍が出来る可能性は非常に低いものだし、港湾拠点を素早く無傷で押さえない限り、上陸してから長距離進軍できないのはこの上陸作戦でも変わりなかった。それでも他の戦域での停滞が伝わっていたため、過度の期待へとつながっている。
 なお上陸作戦には 日本第7軍(軍団)以外にはノルウェー作戦を早々に終わらせたアメリカ海兵隊第2遠征軍が参加している。
 段列は以下のようになる。

 ・「ヴァイキング作戦」:総指揮官ヴァンデクリフト大将
本部直轄:日本海軍第一空挺団、他
・日本第7軍(軍団)(根元博中将)
 第2機甲師団、第5師団、第18師団、他
・アメリカ海兵隊第2遠征軍(軍団)(ホランド・スミス中将)
 第2海兵師団、第4海兵師団
・日本海軍陸戦隊第一軍(太田実中将)
 第1特別陸戦旅団、第4特別陸戦旅団

 半島西岸中部には海兵隊と第5師団が上陸作戦を仕掛け、その後第七軍(軍団)は揃った部隊から随時南下を実施し、地上での機動力に劣る海兵隊は半島全域の制圧行う。日本海軍陸戦隊は別働隊となり、東側のスカゲラック海峡、カテガット海峡を抜けて、デンマークの首都コペンハーゲンなどのあるシェラン島など東部の島々へ直接上陸する。一部には、砲台の破壊や橋の確保のため、英本土から飛び立つ空挺部隊も降下予定だった。
 一方、現地ドイツ軍は少数の砲台以外ほとんど無く、戦争中盤までは独立国と言うことで国防はデンマーク政府に任されていた。それでも戦場がヨーロッパになるとドイツ軍部隊が沿岸防備に付くようになったが、砲台以外は形だけの沿岸警備部隊ぐらいだった。しかも1946年初夏になると、ごく僅かな沿岸警備部隊以外は姿を消してしまう。その警備部隊も、戦力価値の低い国民擲弾兵ばかりで有力な兵力はほぼ皆無だった。もはやドイツに、デンマークに兵力を置いておく余裕が皆無となっていた為だ。
 デンマークは、1940年4月の時はほとんど抵抗することなくドイツに降伏し、侵攻したドイツ軍もたいした戦力では攻めなかった。その後デンマークは、表面上は親ドイツ派の国として大戦を過ごした。しかし兵力はほとんど出さないし、ナチスのホロコーストにも協力しないなどの独自性を見せている。国外への派兵も、僅かな数のデンマーク系義勇武装SS部隊(=後の「ノルトランド」の一部)とデンマーク自由師団など、人口規模以上に小規模でしかなかった。だが戦場がヨーロッパになるとドイツの支配が強まり、その反発などからドイツによる軍の解散などが行われ、軍事的な面はドイツに牛耳られるようになる。
 とはいえ、連合軍にとってデンマークでの脅威は、スカゲラック海峡のユトランド半島側に設置された長距離砲ぐらいだった。しかしこの砲台は強力で、海峡封鎖を目的に遠距離射撃ができる海軍砲転用の38.1cm砲が4門も設置されていた。目的は敵の上陸阻止ではなく、海峡を封鎖して的をバルト海に入れないためだが、脅威であることに違いはなかった。
 このため上陸作戦に先立った、これら砲台が空母機動部隊1個群を動員して徹底的に破壊された。それ以外にも、事前偵察で判明した軍事目標も空爆し、「地均し」の方は呆気なく終了している。もはや同地域でのドイツ空軍の活動がほぼ皆無の為、まるで演習のようだったと言われた。連合軍が警戒した、沿岸部での小型潜水艇や魚雷艇の阻止攻撃もほとんど見られなかった。上陸を阻止する障害物や機雷も全く無かった。
 この「最後の上陸作戦」の一番の問題点は、ロシア人がユトランド半島にやってくるまでにどこまで進撃できるかにあった。もしそれ以上有利な状態であるなら、キール運河の占領、ハンブルグ、キール、リューベックの占領も目指されていた。さらにその時点でドイツ側の抵抗が微弱もしくは抵抗がない場合は、進める限り進むことが定められていた。ベルリンを目指せと言う言葉すらあったほどだ。

 7月25日、連合軍最後の上陸作戦が開始される。
 この作戦では当日以前の事前爆撃も艦砲射撃もなく、当日黎明にいきなり沖合に展開する強大な空母機動部隊と、英本土に展開する遠距離攻撃可能な空軍部隊による空襲によって開始される。空襲は念のためドイツ北西部全域に対しても行われ、約2000機の艦載機を含めて5000機以上が作戦に動員された。
 そして上陸部隊が沖合で手際よく上陸準備を進める少し後ろからは、過剰なほどの戦艦を中核とする艦砲射撃部隊が陣取り、観測機や偵察機からの情報を受けて艦砲射撃を実施した。とはいえ、戦艦多数による艦砲射撃の必要性はほとんど無かった。上陸に不適な場所でもあるため、ドイツ軍も上陸してくるとは考えられていなかった。敵陣地や抵抗拠点などないに等しく、上陸部隊の一番の障害は上陸が非常に難しい地形そのものだった。このため、参加部隊の多くが作戦参加の勲章を得るために押し掛けたとすら言われたほどだ。
 上陸自体も、工作員などによる事前工作によって、地元デンマークの実質的なレジスタンス組織による手引きまでが行われた。僅かな数のドイツ軍部隊の士気も非常に低く、上陸作戦は演習よりもスムーズに行われたと言われた。ドイツ人にとっては、既にベルリンが包囲されるなどロシア人の蹂躙を前に、もはやデンマークどころではなかったからだ。僅かな抵抗は、ヘンシェルの空対艦ミサイルを応用して開発された地上発射型の地対艦ミサイルが、移動式でもあったため上陸地点の後方から一斉に発射され、揚陸船団の一角に一時的な混乱を発生させただけだった。
 この時のドイツ軍の攻撃では、約30発の移動型地対艦ミサイルが沖合の船団に撃ち込まれた(※「Hs 293」空対艦ミサイルの応用型。発射時に上空に打ち上げるブースター付で、誘導は基本無線誘導だがレーダー逆探知装置を利用した型もあり。)。そして海兵隊1個大隊を載せた大型輸送船を沈めるなど、大小10隻近い艦船を撃沈破している。この攻撃は連合軍に小さくない衝撃を与え、戦後になって各国が同種の兵器開発を進める大きな切っ掛けとなってもいる。
 とはいえ現地ドイツ軍の意味のある反撃はそれだけで、連合軍にとっても真の敵はドイツ軍ではなく時間そのものだった。
 早くも上陸作戦初日の遅くには、突進部隊の主力となる第二機甲師団の揚陸が開始されている。さらには、最初に上陸した第五師団の機甲捜索連隊によって、威力偵察と言う名の実質的な進軍も開始されている。時間を惜しんで、上陸に際しての上陸機材の使い捨ても惜しみなく行われた。とにかく早く少しでも多くの物資を揚陸させる事が目指された。しかし半島北部の港湾都市は北東部のオーフスぐらいしかなく、多数動員された戦車揚陸艦、中型揚陸艇など車両を載せたまま海岸に乗り上げられる艦艇が総動員されていた。搭載トラックには、ガソリンなど当座の進撃に必要な物資が予め満載されており、それ以外の船の隙間にもドラム缶が山積みという危険な状態だった。この措置は、とにかく上陸した部隊に当座の燃料と物資を持たせる為だった。このため、この上陸作戦では定数をはるかに上回る数の補給車両が臨時に作戦参加していた。
 半ば強引に日本海軍の空挺旅団が投入されたのも、進撃路を確保するためだった。そして空挺に対してだけでなく、進撃する地上部隊全てに対しての空中補給も、可能な限り大規模に実施される予定だった。ある意味第七軍(軍団)は、全連合軍の支援のもとで進撃するような状態だった。
 そして何を差し置いても、進撃を優先すべき事態が迫っていた。

 連合軍がユトランド半島に上陸した翌日、ソ連軍の先鋒部隊で早くもドイツ中部を流れるエルベ川に到達した部隊が現れた。さらにその二日後には、ハンブルグ東部郊外に姿を見せた。エルベ川の渡河には早くても2日かかっていたが、先を急ぐソ連軍はドイツ軍の微弱な抵抗を排除し、東プロイセンで見せた暴力的な軍以外への蹂躙もせずに突進を重ねた。その様は、1940年6月半ば頃にフランス戦線のドイツ軍によく似ていた。
 ドイツ軍の防衛体制は、すでに東部戦線では崩壊状態に近く、前線を支えるよりも国民の西への脱出のために戦ったり、とにかくソ連兵から国民を守る戦いに移行しつつあった。東部戦線に配備されていた部隊も、半数はどこかで包囲されるか孤立しており、残る半数のうちのさらに半数は撃破されたか、撃破されつつあった。そして残る4分の1が、西へ逃げるドイツ市民を守っていた。
 もはや戦争とは言えない状態だが、完全に包囲されたベルリンからはアドルフ・ヒトラー総統の名で徹底抗戦が強く命令され続けていた。肉声のラジオ放送が、この時期でも行われていたという情報もあるほどだ。
 だが、既にベルリンからまともな命令系統を維持することは不可能で、7月25日以後の戦いはフランクフルトから命令が出されることが多くなった。しかしベルリンが陥落していないし、国家元首のヒトラー総統が健在で徹底抗戦を命じている以上、ドイツ軍は戦い続けなくてはならなかった。国家、民族がどのような事態に陥ろうとも、命令に従うのが軍隊だからだ。
 そしてこの事態に困っていたのが、欧州西部に陣取る連合軍だった。
 進撃を急ぎたい連合軍の前には、戦力が大きく低下したとは言えドイツ軍が立ちはだかっていた。そしてこの段階で、ドイツ軍内で最も大きく組織だった戦力を有していたのが、西部戦線のドイツ軍部隊だった。合わせて40万以上の有力な兵力を抱え、特に連合軍のアルンヘム占領で河川防御が機能しなくなったオランダ国境には、周辺で最も有力なドイツ軍部隊がドイツ本土、ルール工業地帯に連合軍を進ませまいと陣取っていた。それ以外の地域では、連合軍はついにドイツ国境を越えてライン川西岸のラインラントに進みつつあった。
 だが、この年の初夏頃からライン川各地にかかるあらゆる橋の爆破準備がドイツ人的几帳面さで進められており、連合軍の姿が見えると次々に機械的に破壊されていった。このため連合軍は、せっかくライン川に到達しても、少し後方から追いかけている大規模な渡河機材を持った工兵部隊が到着し、そして架橋を行うまで川面を眺めているしかなかった。
 大規模空挺作戦で一気にライン川を越えたオランダ東部でも、運河、河川にかかるあらゆる橋がドイツ軍の撤退時に爆破され、しかも爆破はアルンヘム陥落の頃から行われていた。このため、補給状況を多少は改善した連合軍ではあったが、こちらも一つ一つ架橋しなければ東に進むことは出来なかった。幅数メートルの運河ですら、1秒が惜しいこの時は重大な地形障害だった。
 連合軍としては、もはや打つ手無しだった。
 もちろん多少の時間があれば架橋して進軍できるが、もはやその「多少の時間」がなかった。しかもドイツ政府、軍が降伏しない限り、目の前のドイツ軍も撃破しなければならないが、撃破する時間もなかった。そして戦後のことを考えると、ソ連に多くを渡すことは出来る限り避けたかった。だがこれは表向きの理由で、真の理由は戦争の最大の貢献国がアメリカではなくソ連になることを危惧したと言われる。
 そしてここで、連合軍総司令部ではなくアメリカ合衆国政府は、一つの重大な決断に至る。だれが勝利に貢献したかを世界中に見せるため、開発されたばかりの新世代の兵器、原子爆弾の実戦使用へのゴーサインだ。

 最初の原子爆弾は、1946年8月6日にドイツ中部の都市ニュルンベルクに投下された。使われたのはウラニウム型と言われるタイプで、一定量の不安定なウラニウム(ウラン235)を合わせることで臨界量に持ち込み爆発させる。
 そして「最初の」と書いたとおり、8月9日には2発目が今度はドイツ西部の都市ケルンに投下された。こちらに投下されたのはプルトニウム型と言われるタイプで、一定量のプルトニウムを爆縮という形で臨界点に達しさせて爆発させる。
 異なるタイプが使われたのは、理由の一つは実戦結果を得るためだった。投下した都市は比較用に違う地形が良かったが、ドイツには異なった地形でなおかつ投下して意味のある場所が少ないため特に拘られなかった。ただし落とした場所(都市)には意味があった。ニュルンベルクはナチスの宣伝都市であり、ある意味ナチスを象徴する都市だったからだ。またソ連軍が目前に迫っていた事から、ソ連に対する強い政治的メッセージを含んだものだったと言われることが多い。実際、遠くからだが原子爆弾のキノコ雲を見たソ連兵が多数いた。しかしこれは、すぐにニュルンベルク進軍を果たしたソ連軍により原爆の被害が世界中に暴露された事で、アメリカに対する世界の風当たりを強くするなどマイナス面の方が多かったと言われることが多い。
 また、ヒトラーがニュルンベルクに居るという情報をアメリカが得た為だと言われる説もあるが、いまだ詳細は明らかになっていない。
 ケルンに落とされたのは、そこがドイツを代表する都市の一つ、古くはローマ帝国の時代にまで遡るという表向きの理由ではなく、確実に連合軍わけてもアメリカ軍が占領できるからだった。未知の兵器のため、爆発させた結果がどうなるかの情報を得るのが目的だったのだ。
 爆発威力はケルンに投下された方が若干大きかったが、どちらも市街中心部は全滅した。爆心地(爆発地点)から半径2キロの範囲は完全に壊滅し、3キロ辺りまで酷い被害が出た。どちらも10万人以上の一般市民が死亡し、さらにその後は放射線に関連する後遺症によって多くの人の命を奪うことになる。
 爆発の結果二つの都市は一瞬で壊滅し、そのどちらもが街の再建を諦めて別の場所に再建しようと考えられた。事実ニュルンベルクでは、市民が未知の病気(放射線関連の病気)を恐れた事と、ソ連が爆発結果を研究するため、市街を少しずれた場所に再建している。一方のケルンは、投下時の目標としたケルンの大聖堂が、恐らくは原爆が直上で炸裂したため奇跡的に原型をとどめる形で残存し、それが市民を勇気づけて旧来のままの場所での街の再建へとつながっている。大聖堂も、一部を戦災の記念として残すも、完全に再建された。

 なお、アメリカでの原子爆弾開発は、1943年11月に「マンハッタン計画」として発足。20億ドルもの予算と、連合軍各国の頭脳を結集して開発が行われた。
 当時、世界で最初の原子爆弾は、ドイツが開発するだろうと言われていた。日本もドイツより早いぐらいに原子炉の開発を始めていたが、爆弾としての開発は戦争が開始されて一定期間過ぎてからだった。そしてアメリカでは、開発を始めるまで小規模な研究に留め置かれていた。ドイツの危険性を指摘する科学者の言葉にも、ほとんど耳を貸さなかったと言われている。ホワイトハウスを始めとしたアメリカ政府および軍のほとんどは、様々な理由から不要と判断していたのだ。
 開発しない理由は、通常兵器でも勝てるという予測が出ていた事と、開発にかかる予算を他に振り向けたかったからだ。さらには、「無駄遣い」と映ったためとも言われる。
 だが1943年8月のアンカレジ会談で、日本から極めて強く開発を求められた事を切っ掛けとして、すぐにも開発が開始されている。しかしこの説には異説があり、アメリカが日本での開発に焦った為だとも言われている。つまりは、戦争中よりも戦後を見据えての開発と言えるだろう。
 しかし僅か2年半で実証実験を成功させるには、アメリカだけの力では無理だった。確かにアメリカでは、日本が製造に2万年かかると考えたウラニウム型原子爆弾を、実質1年で製造してしまう。アメリカはウラニウム濃縮に必要な遠心分離器を、1基ではなく2万基用意して不可能を可能にしてしまったのだ。この話を聞いた日本人達は、アメリカという国家の凄まじさを改めて実感したと言う。だがプルトニウム型となると、日本に一日の長があった。原子炉を稼働させることでプルトニウムが精製できるからだ。

 アメリカが原子爆弾開発を本格化するまでに、日本では廣島の呉、日本海軍の本拠地にほど近い瀬戸内海の「とある島」に秘密裏に実験施設を建設し、そこで小型の原子炉が建造されていた。ここには日本海軍の技術者だけでなく、仁科芳雄、湯川秀樹、朝永振一郎など日本の物理学、数学の最高峰の頭脳が集められた。中には日本人以外もいた。
 省庁も海軍だけでなく、陸軍、軍需省、商工省など関連しそうな全てが関わっていた。開発自体も、途中からは日本海軍よりは理化学研究所が中心となっていた。ただし学閥的には、従来の東大中心ではなく京大中心となったのは、開発場所が西日本地域だったからだった。
 これが日本での原子炉開発計画である「ゲ号計画」だった。周辺の住民達は、近寄ることすら禁じられた場所での大規模な実験に対して、国が何かの秘密兵器を作っているのは気付いていたが、それが何なのかは全く知らなかった。このため様々な憶測が飛び交い、巨大ロボットなどSF的な新兵器が開発されているという噂も飛び交っていた。余談になるが、漫画「鉄人28号」の名も、この研究場所の「29号実験施設」という秘匿名称に由来している。
 少し話しが逸れたが、一日でも早くドイツよりも早く原子爆弾を実用化するため、研究資料、図面など一切合切がアメリカに極秘に有償供与され、さらには日米共同で原子爆弾の開発を行うことになる。このため戦争後半は、日本本土での原子爆弾開発は非常に停滞している(※原子炉開発、原子力潜水艦開発はそのまま進んでいる)。仁科や湯川らもアメリカへと飛び、ロスアラモスなどで原子爆弾開発に従事する事となる。またアメリカより早く完成した原子炉で精製されたプルトニウムも、一部がアメリカへと移送されている。
 こうした経緯があるため、「ヒロシマからロスアラモスへ」という言葉も生まれた。だが本当は、「ロスアラモスからニュルンベルクへ」とするべきだろう。
 そうして7月16日にトリニティ実験が実施され、人類史に「原子爆弾」が登場する。

 ドイツに対する原子爆弾(原爆)の使用は、政治的に大きな影響を及ぼした。都市が一瞬で壊滅した情報は、寸断されてもなお維持されていたドイツの情報網を駆けめぐる。そしてまだ蹂躙されていないドイツ人達に、ロシア人以外の連合軍もドイツに対して容赦ない事を実感させた。特にケルンへの投下は、すぐにも周辺のドイツ軍に情報が拡散して、停戦や連合軍への投降どころか抗戦継続に繋がったていた。だが、西に逃げても同じだと分かると、逃げるのを止めてしまう人々が大勢出た。そして無抵抗と分かると、ソ連軍も掠奪(と強姦)は相応に行うが無意味な殺戮は自然と控えるようになった。この事は時間と共に広がり、結果として生き残ったドイツ人は逃げ続けたよりもずっと多かったと言われることが多い。
 そして西部戦線、ライン川東岸に配備されていたドイツ軍部隊は、東からソ連軍が突進してきた時点で東西から挟み撃ちとなり、降伏を選ばざるを得なかった。しかもソ連軍はライン川が近づいてくると、同方面のドイツ軍に対して殲滅ではなく通常の戦争ルールに則った降伏を促し、ドイツ軍の徹底抗戦を回避して占領地を稼いでいた。
 そしてソ連軍は順次ライン川に到達していくのだが、連合軍との感動の握手とはいかなかった。別に敵対したのではなく、橋が全て落とされていたため架橋できるまで握手したくてもできなかったからだ。このため最初の両軍の最初の交換は、手旗信号や発煙弾、またはマイクとスピーカーを用いるという、少し締まらない終わり方となってしまっている。(※一部では交歓の為に船舶が用いられた。)

 一方で握手が交わされたのが、ドイツ南部のバイエルン地域においてだった。
 ベルリンが包囲された時点で、イタリアのアルプス山脈に逼塞していたイタリア・サロ政権は事実上霧散した。しかも名目上は代表(※国際法上で元首とは表現されない)のムッソリーニは、連合軍の先鋒として進んできたイタリア王国軍に捕らえられ、その後厳しい軍事裁判に晒される事となる。
 この時点で、イタリアでの戦いは完全に終わった。しかし連合軍にとっては、降伏した日時が問題だった。ムッソリーニの逮捕は、ヒトラーの死亡が発表された翌日の8月7日。降伏調印、武装解除などで1日取られ、連合軍のアルプス越えは9日から開始される。
 イタリアのアルプス山麓には、アイゼンハワー元帥麾下、ホッジス将軍指揮下のアメリカ第1軍が長らく展開していた。そして彼らは戦争の最終段階を予期して、一気にアルプス山脈を越える準備を長い時間かけて行っていた。山脈に籠もった敵の撃破も行われたが、相手が山に籠もっているので戦いの終わりが見えないが故の次善の策だった。そしてイタリアの降伏、ドイツの瓦解の始まりを号砲として一気に動き始める。
 軽装備の快速部隊、訓練された歩兵部隊が捕虜を取るのもそこそこに、まずはオーストリア西部のチロル地方に侵攻。同地域はオーストリアの中でも独自性、地域性が強いのだが、オーストリアとしてドイツに併合されて以後はドイツに対する相応の義理を感じていた。また当時の彼らはオーストリアが併合されていたのでドイツ軍になるため、命令がない限り戦い続ける義務があった。このためドイツが降伏するまで連合軍に対して抵抗に出た。そしてアルプスの深い山間の谷間の道を閉ざされてしまうと、連合軍に打つ手は無かった。時間をかければ進撃もできるが、もう時間切れだった。
 それでもようやくオーストリアを越えてドイツ国境に至ると、そこには既にソ連兵がいた。ソ連兵達は笑顔で握手を求めてきたが、それは勝者の余裕でしかなかった。アメリカ軍は引きつり笑いをして握手するしかなく、アメリカ軍はソ連とのドイツ進撃競争に負けた事を痛感させられた。
 状態はオーストリアの東部を強引に進んだパットン将軍の部隊も同様で、彼の配下もドイツ国境でソ連兵と握手して戦争を終わっている。
 結局、アメリカ軍内部でのドイツ進撃競争は、勝者のないまま終わりを告げた。ニミッツ元帥、マッカーサー元帥、アイゼンハワー元帥の誰もがドイツ領内にまともに進軍できず、ドイツ西端のラインラント地方のみを占領するだけで戦争を終えなければならなかった。しかしかつての欧州の都とも言えるウィーンを占領した事で、アイゼンハワー元帥が勝者と見る向きもある。実際問題、戦後の占領統治ではアイゼンハワー元帥がヨーロッパ方面の総司令官になっている。

 一方ユトランド半島の付け根では、日本軍とソ連軍の握手が行われた。
 7月25日にユトランド半島中部に上陸した連合軍のうち、南下してドイツ本土を目指したのは日本陸軍第七軍(軍団)だった。
 同軍団は歴戦の機械化部隊で、特に第二機甲師団は日本陸軍最精鋭を謳われていた。同戦車部隊には数々のタンクエースが所属しており、戦争後半以後だが自らの著書で日本製の重戦車を絶賛した福田定一も所属していた。
 しかし機甲部隊は進撃速度は速いのだが、上陸してから進撃するまではどうしても時間が必要だった。にも関わらず、彼らは最低でも150キロ前進しなければならなかった。でなければロシア人が東からやって来て、強引に握手を求めるからだ。
 幸いと言うべきか、ドイツ北部を進撃するソ連赤軍に対して、ドイツ軍の抵抗はかなり激しかった。何しろソ連赤軍の目標は、ドイツ随一の港湾都市ハンブルグがあったからだ。このため25日にベルリンを包囲するも、そこから10日経ってもハンブルグの完全占領に至っていなかった。それまでに半島付けの東側にあるリューベクは陥落していたが、さらにその先のキールにまでは至っていなかった。ただしソ連軍は大都市を迂回して進撃していたので、ヒトラー総統死亡が発表されるまでに、さらに西のブレーメンすら越えていた。これらの戦況のため、連合軍としてはドイツ北部港湾都市の占領は諦めなくてはならなかったが、最低でもユトランド半島の単独占領が目指された。
 そして上陸当初はほぼ無抵抗だったが、連合軍上陸の情報がドイツ軍に伝わると、ドイツ軍としてもドイツ領内に入られる事は阻止しなければならず、シュレースヴィヒ地方の国境の町フレンスブルク北方で「まともな戦闘」となってしまう。
 この時日本軍の先頭を進んでいたのは、第二機甲師団の特別編成の機甲旅団(※島田大佐を臨時指揮官とした島田挺身団)だった。日本陸軍でも機甲戦に長けた重見師団長(当時中将)は、ドイツ軍の抵抗があったとしても小規模だと看破し、少数精鋭での突進を行った。そうすることで前線での物資不足を可能な限り回避し、さらには連合軍によるドイツ本土占領を少しでも「既成事実」として達成しようとした。
 そうして起きた戦いは、第二次世界大戦最後の機甲戦とも言われることになる。他の戦線でも激しい戦いは行われたが、圧倒的という以上の物量の連合軍またはソ連軍に対して、既にドイツ軍の多くが陣地固守や遅滞防御以外でまともな戦闘ができないためだ。だが、互いの戦力が少ないフレンスブルク前面では、僅か数日ではあるが互いの戦力が比較的拮抗したため、大戦最後の「まともな機甲戦」が成立したのだ。

 この時ドイツ軍には、1個中隊の「V号戦車H型 パンターII」と「IV号突撃砲ラング」、「III号突撃砲(後期型)」の混成中隊がおり、歩兵などその他戦力を合わせて、辛うじて旅団程度の戦力を維持していた。「VII号重戦車 ティーゲルII」が数両いたという説もあるが、砲塔形状が似ている「パンターII」の見間違いというのが現在での定説だ。しかし1両だけ「V号重戦車 ティーゲルI」がいたのは確からしい。
 ドイツ軍の各戦車部隊は、定数の半数程度しか無かった。これらの戦力は、大戦終末期にあっても比較的戦力のあったオランダ国境方面から急ぎ回されたもので、本来はソ連軍に立ち向かうため東に移動中だった戦力の一部が、連合軍上陸の報を聞いて急ぎ北方に回されたものだった。
 ドイツ軍が俄作りの対戦車陣地で待ちかまえているのに対して、島田大佐率いる日本軍機甲部隊は時間もないことから正面突破を図った。まずは空母機動部隊から呼び寄せた戦爆連合による短時間の激しい空襲を行い、さらには上空には追加の艦載機(ゼー・ヤーボ)を滞空させ、後方からも追随してきていた機甲砲兵大隊の155mm自走榴弾砲部隊とロケット弾部隊による重砲弾幕も交えていたので、まずは連合軍としての定石通りの攻撃だった。そして砲爆撃の前進に合わせて、戦車と装甲車による機甲突破挺団が突進していった。
 この時ドイツ軍は、日本軍が爆炎の中から現れた瞬間を狙って、先鋒の装甲車両に対して集中射撃を実施する。戦争全期間中連合軍を苦しめた88mm砲は(ほぼ)持たない部隊だったが、距離1000メートルまで引きつけての砲撃なので、連合軍の中戦車(M4または日本の中戦車)相手なら十分撃破できた。だが日本軍部隊は、止まることなく前進を継続。その姿を最後のドイツ軍機甲部隊の前に晒す。
 日本軍の先陣を任されいたのは「六式重戦車 ジレ(G-Re)」。「三式重戦車改」のさらなる発展型で、幾つかの試作型を経て多くの面で改良、変更されているため新たな名称が贈られていた。
 最大の特徴は、各国の重戦車のように完全鋳造砲塔を持つ事だった。強固な鋳造砲塔の生産は、他国に比べて冶金技術に劣る日本産業のネックの一つだったが、大戦中の大量生産の中で急速に技術を蓄積して「六式重戦車」に間に合わせたのだ。その他の改良点は、足回りのさらなる強化、エンジンの換装、各部装甲厚の見直しなどになる。
 重量は「三式改」よりほんの少し軽くなって約53トン。エンジンと足回りの強化・変更もあって、機動性が向上していた。このためイギリス本国の「センチュリオン」と共に、主力戦車(MBT)第一世代の車両として位置づけられている。ただし「センチュリオン」のような発展余裕がないため、「センチュリオン」ほど兵器としての息は長くなかった。それでも最終的には105mm砲を搭載するなど、かなりの改良は施されて1960年頃まで日本陸軍でも現役を務めている。
 登場当時の火力は「三式改」と同様の90mm砲(強装薬型のT8砲)だが、相手が「ティーゲルII」などの化け物でないかぎり十分以上の火力だった。装薬を増やした支那産のタングステンを豊富に用いた徹甲弾は、距離1000メートルで十分以上の破壊力を有していた。
 しかし、この時前線に届けられていたのは、増加試作の一部から急ぎ送り込まれた24両だけ。それを一部を予備車両として、1個中隊に第二師団所属の重戦車中隊に配備され、この時の戦闘となった。しかもこの時の戦闘では交代で強引な突破戦をしていたため、5両1個小隊が戦闘に当たっただけだった。日本軍の他の戦車は「四式中戦車」などで、戦力的に十分とは言えなかった。
 最初の激突では、「六式重戦車」を侮って機動防御戦をしかけた「パンターII」中隊が半数近く撃破されるも、防御陣地の優位を活かしたドイツ軍の守り勝ちに終わり、日本軍は一旦後退して後続部隊を待たねばならなかった。日本陸軍自慢の新鋭戦車は、撃破されることもなく十分な活躍を示したが、流石に数で劣っての突破戦は難しかった。
 そして翌日、「六式重戦車」を含めて初日の二倍以上の戦力で正面から総攻撃した日本軍に対して、当初ドイツ軍はよく防戦した。だが日本軍は、強引な正面突破戦でドイツ軍の気を引いている間に、別働隊による迂回突破を図って戦線突破に成功している。別働隊の突破正面には戦力貧弱な国民擲弾兵しかおらず、日本軍は正面のドイツ軍の数が少ないと見抜いての作戦だった。
 だがこの戦闘で、日本軍は隊列の建て直しなどで3日を浪費してしまい、最終的にはキール運河で進軍してきたソ連軍と握手する事になる。そして日本軍と戦っていたドイツ軍も、多くが日本軍に投降して自らの戦争を終えていた。
 根元将軍とジェーコブ元帥が握手する写真も、戦争の最後の瞬間の一コマとして後世に伝えられている。

 連合軍とソ連軍が各地で握手したり対面している頃、ドイツ第三帝国も終焉の時を迎えていた。
 ソ連軍による破壊するための戦闘により廃墟となったベルリンの陥落は、包囲されてから約2週間にもわたる戦闘を経た8月9日だった。そして、大方の予想を裏切り遂にベルリンを脱出しなかったアドルフ・ヒトラーの死亡は、その3日前の6日。そして6日にヒトラー死亡がベルリンから発表された時点で、事前の取り決め通りにフランクフルトではドイツ降伏の工作が開始される。その3日後にベルリン防衛を任されていたヴァイトリンク将軍の降伏で終わったが、ベルリン陥落は一つの通過点に過ぎなかった。
 僅かな間のドイツ大統領には、ヒトラー総統から強い信任と個人的信頼を寄せられていた軍需省のアルベルト・シュペーアが指名されていた。この指名は、フランクフルトへの政府疎開がなければ実現しなかったとも言われており、シュペーア自身は「ベルリンを離れる時点でヒトラーとは実質的に決別しており、ヒトラーの側にいたら固辞していた。引き受けたのは、公人としての義務を果たすためだ」と証言している。
 ちなみに、シュペーアが「二代目総統」と間違えられる事も多いが、これは事実に反している。ナチスでの総統はアドルフ・ヒトラーただ一人しかいない。
 また、内務大臣に指名されていた親衛隊のラインハルト・ハイドリヒは、8月5日からニュルンベルクに出張しており、そのまま原爆投下にあったと考えられこの時点で連絡も取れなくなっていたため、「最後の内閣」で内務大臣は空席のままとなった。またハイドリヒの移動を、アメリカ軍がヒトラーの移動と判断して、ニュルンベルクに原爆を投下したという説もある。

 8月12日には、フランクフルトの臨時政府は降伏交渉を開始し、進軍してきたソ連軍に対して15日に降伏文書に調印。同日遅くに、船でライン川を越えてきた連合軍に対しても降伏文書に調印。
 しかしソ連軍、アメリカ軍共に調印そっちのけで、町中を探し回る。ベルリンからの放送はブラフで、ヒトラーがどこかに潜伏していると考えたからだ。またソ連は、ドイツ全土の占領を行いつつ、同様にヒトラーの行方を血眼になって探した。ベルリンでも、廃墟の中をソ連軍兵士がヒトラーの姿を追い求めた。廃墟となったニュルンベルクも逃亡先の一つと考えられたリンツも、別荘のイーグルネストも、アルプスの麓の地下工場や巨大防空壕も全て探した。
 しかしヒトラーの姿はどこにもなく、結局ベルリンの総統地下壕付近の砲弾後に不完全に焼却された状態で発見された。この遺体は医学的にヒトラーだと判断されたが、ベルリン陥落前後の混乱から影武者説も多かった。このため戦後、ヒトラー生存説が半ばオカルトとして流布することにもなった。
 だがアドルフ・ヒトラーがその後姿を現すことはなく、フランクフルトでのドイツ降伏調印を以て戦争状態は終了する。

 1939年9月1日に勃発した第二次世界大戦は、ドイツの滅亡という形で約7年も続いてようやく幕を閉じたのだ。


●フェイズ91「戦争の総決算」