●フェイズ91「戦争の総決算」

 1946年8月15日、第二次世界大戦は終了した。
 戦争期間は6年と11ヶ月半。約7年にわたった戦争で、文字通り全世界を舞台にして行われた。戦火が及ばなかったのは、欧州枢軸陣営が遂に手を出すことができなかった太平洋(オセアニア含む)だけで、その太平洋も主にアメリカの物資をアジア極東へと運ぶ船が頻繁に往来している。また太平洋方面は、連合軍の外交の舞台ともなった。

 主要参戦国は、連合国(U.N.)がアメリカ合衆国、ソビエト連邦ロシア、日本帝国、英連邦自由政府、満州帝国になる。他に亡命政府であるフランス救国政府、自由オランダ政府、自由インド政府、自由イタリア政府などもあり、アジアではタイやフィリピンも参戦はした。南米諸国の一部も、途中から参戦した国が幾つかあった。戦争終盤には国際連合(U.N.)加盟の条件として世界中の国に参戦を促したが、多くの国は実質的に何もしなかった。
 欧州枢軸(E.A.)は、ナチス・ドイツ(またはドイツ第三帝国)、イギリス連合王国(イギリス本国)、イタリア王国(ムッソリーニ政権)、フランス共和国(フランス本国)、中華民国(支那)になる。中華民国が含む場合は、単に枢軸国(AXIS)とだけ言われることある。
 欧州枢軸はヨーロッパの全ての国が参加を強要されたが、スペイン(フランコ政権)、ポルトガル王国、スイス連邦、スウェーデン王国とリヒテンシュタインなどごく一部の小国が中立を維持した。スペインの場合はオブザーバー資格だったが、戦争途中からスペイン領が連合軍から攻撃を受けない為の枢軸側の予防措置でもあった。また、ヨーロッパ地域で戦場にならなかったのもこれら中立国だけで、ヨーロッパのほぼ全土が戦場となって多くの地域が大きく荒廃した。
 戦争被害が大きいのは、支那、マレー半島から北アフリカにかけてのアジア地域も同様だった。インドでの戦災も少なくなく、戦後主にアメリカ、日本が多くの支援を各国に行う事になる。
 他に、主に英仏の自治連邦政府のかなりと、実質的に英仏の影響下にあった中東諸国が枢軸陣営として参戦している。
 主要参戦国のうち国土の損害がほとんど無かったのは、アメリカ、日本、満州だけになる。それでもアメリカ、日本共に戦争序盤に若干の本土爆撃を受けて、満州も戦争序盤に国土の東部辺境が戦場になっているので皆無とは言えない。また両陣営は、敵の海上交通網の破壊を熱心に行っているので、船舶の損害という点から見ると主要参戦国以外の被害もかなりに上る。沈められた船の中には、沈没当時中立国の船も多数含まれていた。何しろ通商破壊戦と言われる潜水艦を用いた戦闘では、敵艦船の詳細を見極めるのが非常に難しかった。このため無制限と付けられるほどだ。

 続いて、戦争規模の大きさを再確認しておくために、戦争全体での簡単な統計数字を挙げていくが、第二次世界大戦は人類史上最大規模であり、現時点では空前絶後とすら表現できる。
 第二次世界大戦はまさに総力戦だった。
 戦争に全く関係のない国々人々を含めて全世界の総人口が約20億人の時代に、約1億1000万人の兵士が動員されている。この動員には、人口地帯のアジアの過半が実質的に含まれないし、中米、南米も同様だ。ごく分かりやすく言えば、連合国の主要参戦国で植民地を除いた総人口が約4億5000万人、欧州枢軸はヨーロッパ諸国が約2億、中華民国が5億1000万程度(推計含む)で、合わせて全世界の総人口の60%近くなる。だが、中華民国は近代国家としては非常に未熟で、他国が行ったような総動員は行いたくても行え無かった。兵士の動員率も、実質的には総人口1%にも満たない。他の参戦国だと兵士だけで10%前後が動員されている場合が多い上に、後方でも生産者として総動員されている。その点中華民国は、武器をほぼ他国の供与のみで戦い、動員された兵士以外の民衆は戦争被害者ではあってもほぼ部外者だった。中華民国は前近代的な戦争を行ったが、他国の総力戦の前に叩きつぶされた、とも表現できるかも知れない。
 そして後方での生産力維持のために、主要参戦国では国力のほぼ全てが投入されている。国力を全て戦争に投じなかった主要参戦国はアメリカと日本だけで、それでもどちらも75%〜90%を戦争に投じている。
 単純な戦費で見ていくと、全世界で1兆3000億ドルが戦争に投じられた(※諸説あり)。これは1946年世界の名目GDP(国内総生産)が、5000億ドル程度(※1946年時点の推計値で、戦争前だとこの70〜80%程度の数字でしかない。)の時代においての金額である。つまり戦争において、全世界が1年間に産み出す富の約2年半分が約7年の間に浪費された事になる。しかもこの上に戦争で失われた資産や富が上乗せされるのだから、人類社会が受けた打撃の大きさが少しは分かるだろう。実際ドイツでは、1944年、1945年はGDPを上回る戦費が毎年使われていた。
 具体的な戦費については、連合国はともかく欧州枢軸は統計の仕方、為替の基準値、その他様々な要因のため統計によってかなり違っている。またソ連については、正確な数字を公開しないまま情報の一部が紛失しているため、いまだ推定値しか分かっていない。ただし、連合軍は欧州枢軸の2倍近い戦費を投じていることは間違いない。だかららこそ、ランチェスター・モデル通りに連合軍が最後は圧勝したのだ。

 なおアメリカの戦費は、約3700億ドルとされている(※4000億ドルを超えると計算される場合もある。)。この数字のうち、アメリカは他国に貸与した約550億ドルが含まれている。ドイツの場合は約3000億ドルを費やしたと推計されるが、併合した国や地域の戦費と欧州中から徴収した分、強引な為替相場で実質的に収奪した分が多く含まれている。分かりやすく言えば、ナチスドイツは、ドイツだけでなく全欧州の富の過半を戦争に投じたのだ。しかもドイツは全期間戦争している分だけ、他国より多く戦費を投じている事になる。
 またドイツ、イタリアの戦費は、会計上の数字と為替レートから出された単純な数字で、実質はもう少し減額される場合が多い。しかしドイツの場合は、戦後にソ連があらゆる価値のあるものを奪って持ち帰ったため、戦費以上に多くの資産を失っている。
 ソ連は資料公開が不十分な上に、どれぐらいの富を失ったのか正確な数字が不明のため、正確な数字が分からない場合も多い。それでも推計でアメリカ、ドイツに次ぐ約2000億ドルを費やし、それ以上の戦災を受けたと考えられている。戦後ドイツ全土からあらゆるものを奪ったが、損害を埋めるには全く足りていなかった。
 経済面から見ると、当時ダントツで世界一の経済力を有するアメリカは、世界大戦での尋常ではない生産力を実現することで、飛躍的にGDPを伸ばすことに成功した。このため終戦時のGDPは、全世界の約40%にも及ぶ約2000億ドルに達していた。この対全世界比率は、四大文明勃興以後の有史上で単一国家として最高の数字でもある。
 次に戦費を使ったドイツの場合は、名目上は大戦前の5割り増し程度に伸びているが、国力の限界を大きく超えた戦費を浪費したため、酷い戦災もあって戦後は経済が完全に破綻した。実際は、1945年後半から経済は破綻していたと見られており、戦争終盤の生産の混乱のかなりが連合軍の爆撃などの破壊ではなく、財政上の国家の破綻が原因と考えられている。事実上経済が破綻していたのはソ連も同様で、戦後5年ほどは酷い経済状態に陥った事が後の情報公開の際に判明している。ソ連が戦えたのは、計画経済の社会主義国であり独裁国であったからと、アメリカ、日本からのレンドリースのおかげだった。

 アメリカ同様、戦争中にGDP(国内総生産)を大幅に伸ばしたのは日本と満州だった。特に戦争中も生産力の底上げを続けた日本のGDPの伸びは、産業新興国だった事も重なって最大で年間20%にも達した。アメリカが7年間で200%程度の経済成長だったのに対して、日本は何と300%近くの経済成長を実現している。もちろん名目GNPの伸びなので、国民がそのまま裕福さを実感できないし、生産したもののほとんどが戦争に浪費されていた為、数字ほど豊かになったわけではない。日本のGDPの伸びは、巨大な軍隊を具現化したに過ぎない。
 日本とアメリカは、経済成長の分だけ兵器を作りだしたと言われる所以であり、欧州枢軸が戦前に予測できなかった戦力が戦争後半に出現した理由の一つともなる。
 だが、戦争で経済力が大きく伸びたのは確かで、さらに戦後の伸びもあったため、戦後は戦費を辛うじて健全な財政上で返済することもできた。その日本が使った戦費は、約800億ドルと意外に少ない。これは人的資源面での要求に応えた結果でもあった。陸軍の負担の一部を実質的に満州帝国に肩代わりさせ、兵士の動員を抑制して生産に回した事、そして負担の一部をレンドリースで切り抜けた事が原因していた。また、本国が戦火に襲われることが殆ど無かった点も大きな理由となる。つまり日本は、最前線の軍備にのみ特化して戦費を使い続けたという事になる。だからこそ戦場で活躍が目立ったほどに、戦費を使わずに済んだのだ。
 しかし戦費800億ドルでも、当時の日本にとっては大きな負担だった。1940年度に115億ドルだったGDPは、1946年度に320億ドルを越えた。これを日本円に換算すると、1940年度に380億円が1946年度に1160億円になる。つまり、円=ドルの交換為替レートは、3.3円から3.6円に上昇していた。アメリカ以上にインフレが進んでいたことになり、ここに当時の日本経済の限界と弱体を見ることもできる。そして終戦時の戦費の対年間GDP比は250%になり、戦後不況まで考慮するとこのままでは戦後の日本の戦費返済は、かなりの困難を伴うことを意味していた。使っていないようで、十分に戦費を使っていたのだ。さらにここに、アメリカのレンドリース返済が重くのしかかる。
 だがそれでも、欧州諸国よりは随分マシだった。

 イギリス、フランスは国単位で敵味方に分かれて戦った上に、欧州組はドイツに様々な手段で搾取されていたので、経済上では総力を挙げて戦える状態では無かった。だが逆にそのおかげで、ドイツほど酷い消耗をする事も無かった。しかし欧州枢軸側の英仏は、ドイツによる為替の強引な操作による実質的な搾取、様々な徴収、供与によって膨大な負担を強いられており、戦災も重なって酷く国力を消耗していた。戦争中からイギリスがアジアの植民地を実質的に手放したのも、自由英連邦が戦費の代わりとしただけでなく、またレンドリースの代金が払えないばかりでだけなく、植民地の維持し続けるだけの国力すら消耗していた為だった。(※フランスは基本的に枢軸側として見られた為、実質的な賠償でさらに多くを失っている。)
 中華地域の二国(満州帝国、中華民国)については、生産物の多くを借り物で戦ったため、自前で使った戦費そのものは非常に少なく済んだ。だが満州の場合は、50億ドル以上のレンドリースを貸与されているため、数字以上に戦費自体は使っている事になる。
 アメリカからのレンドリースでは自由英、ソ連、日本も同様で、自由英が260億ドル、ソ連が140億ドル、日本が80億ドルの貸与を受けている。(※その他の国が合計で約20億ドル分。)しかしソ連は、レンドリースをほとんど返還せず、借金を踏み倒している(※戦争中に、主に日本に資源をバーターしたのが返済のほとんど。)。イギリスは金銭での返済が不可能なので、植民地利権の切り売り、一部技術、製品特許の譲渡など出来る限りを行った上でほとんど免除されている。日本と満州は戦後時間をかけて比較的真面目に返済したが、アメリカとの協議により超低利での長期債務扱いとしてしまったため、返済の最後の頃(1970年代)には経済成長のおかげで実質的にたいした金額ではなくなっていた。
 アメリカとしても、レンドリースの返済はあまり期待していなかったので、貸与国に対してあまり文句を言うことも無かった。アメリカにとってのレンドリースは、勝利するための必要経費であり、同盟国に自分たちの代わりに血を流して貰うための代金でもあったからだ。むしろ日本、満州が生真面目に返済することを、意外に感じていたと言われる。

 次に戦争の犠牲者(戦死者、民間人の死者)だが、総数で3500万人から5000万人と推計されている(※一説では最大7000万人を越えるが、殆ど信憑性はない。)。この死者には、強制収容所での虐殺、飢餓による餓死も含まれており、特に民間人の犠牲者数はどうしても推計に頼らざるを得ない。
 国別に見ると、誰がどう見てもソ連が格段に多かった。ソ連の死者数は、諸説あるが2000万人を越えている事は間違いない。最大推計では3000万人を越えるという数字もあるが、概ね2200万人から2800万人と見られている。戦前の総人口が約1億9000万人で、広大な国土に多くの非ヨーロッパ系住民が居ることを考えると、ヨーロッパ系ロシア人の15%以上が犠牲になった事になる。特に兵士として従軍した当時20才から25才の犠牲者は非常に多く、現在に至るまで東スラブ系ロシア人の人口構成に大きな影を投げかけている。
 次に死者数が多いのは、自己申告をそのまま信じるならば中華民国になるが、戦争当時から誰も中華民国の言葉は信じないし、勝った連合国は一切中華民国もしくは元中華民国の言葉を公式に認めていない。また、戦争終了以後、虚偽に基づく記録自体を元中華民国にも厳しく禁じている。中華民国の犠牲者数は、推計で150万人を越えることはない。あまりに自己申告が酷いため、民間のロビー活動すら国際条約で禁じたほどだ。(※その後、彼らの主張する第二次世界大戦での死者数は、最大で2400万人にまで増えているが誰も認めていないし、虚偽の歴史の代名詞とされている。)
 しかも、彼らが主張する民間人の死者のほとんどは、中華民国軍によって起きていることも確認されているし、そこでの死者数も餓死を含め多く見積もっても100万人は越えていないと考えられている。自国民に与えた被害では、軍隊が自分たちが逃げるために、大規模河川の堤防を切って大規模な人工的な洪水を起こした事件すらある。
 さらに彼らの主張する軍人350万人、市民1000万人の犠牲者は、その後の混乱による死者と、戦争中に領内からいなくなった人々の数を含んでいる。国外に出た人々のうち軍人110万人、市民300万人が、戦争中と戦後数年の間に主に満州帝国に流れている事が確認されている。
 実質的にソ連の次に戦死者、死者を出したのは、間違いなくドイツだった。ドイツは軍人450万、市民約150万以上が死亡しており、最大推計だと合計900万人が犠牲となっている。さらに戦後の混乱と食糧不足により、300万人以上が死亡していると推計されている。ただし戦後の数字の一部には、統計から漏れた亡命者もかなり含まれている為、正確さにはほど遠いと考えられている。餓死者の数も300万を一応の数字としているだけで、半数以下という説もある。あいまいな餓死者、病死者の中に、ソ連が探していた者がかなりの数含まれているからだ。

 これ以後は、しらばく軍人の戦死者(犠牲者)に絞るが、ソ連とドイツ以外の戦死者数は、この二国に比べると桁が一つ小さくなる。
 特に連合国は少なく、アメリカ31万人、日本21万人、自由英連邦8万人(加、豪含む)、満州帝国13万人、他3万と合わせても100万人に達していない。ただし全土が戦場となったインドは、敵味方双方で軍人20万以上、民間人約150万人が犠牲になっている。連合軍としても、インド戦線では約3万人が戦死している。
 そして英仏などは、枢軸側としてより多くの犠牲者を出している。英本国で37万人、仏本国が26万人で、本国が戦場になった事もあり犠牲者数は連合国側に比べて非常に多い。そして当初から枢軸陣営だったイタリアの戦死者数は29万人で、その多くがロシア戦線で犠牲となっている。イタリア本土での戦いは、短期間で実質的に敗北したため、かえって犠牲も戦災も非常に少なく済んでいた。
 連合国側の戦死者数が少ないのは、海や空で大量の戦死者が発生することが少ない事もあるが、さらに地上戦の推移が影響していた。連合軍は基本的に攻め込む側だが、戦争序盤の一部を除けば十分に準備した上で敵の弱点を突く事で円滑な進軍を続けてきた。またロシア戦線のように大規模な地上戦は中華とインド、戦争終盤のフランスぐらいで、どれもほぼ一方的な戦争展開となった。また、多くの犠牲者が出やすい、孤立した状態で飢餓に陥ることも無かったし、厳冬で凍死することも無かった。連合軍の将兵は、海で、空で、そして陸でも正面から敵と戦って戦死する事がほとんどだった。
 そしてソ連、ドイツ、中華民国、インド以外での民間人の犠牲者だが、戦災による犠牲は流通網の破綻による餓死者がほとんどながら約300万人に達している。しかし主要参戦国のアメリカ、日本での民間人の犠牲者は、船舶に乗り合わせていた者を除くと、戦争初期の空襲による犠牲者がほぼ全てで、それぞれ100名に満たない。

 また、犠牲者として忘れてはいけないのが、ナチス・ドイツの強制収容と虐殺政策によって犠牲となった人々だ。ユダヤ人、ポーランド人、ロマ(ジプシー)が主なところとして有名だが、共産主義者、同性愛者も多くが強制収容されている。加えてドイツ国内外を問わず、反ナチス的として逮捕ではなく収容された人も少なくない。
 国家としての被害はポーランドが抜きん出て大きく、国土の大半が凄惨な戦場となった事も重なって、犠牲者の総数は最低でも440万人、最大で580万人にも達する。当時の総人口が約2300万人のポーランドは、ソ連を上回る人口比率で人的損失を受けた事になるが、この事実は意外に知られていない。
 そしてより悲劇的だったのが、国を持たない民族ユダヤ人だった。ナチスの政策に従い、全ヨーロッパで強制収容と強制労働、強制追放、そして悪名高い絶滅政策が実施された。イギリス本国、デンマーク、ノルウェーなどごく限られた地域では実質的に絶滅政策は行われなかったが、当時ヨーロッパ(ソ連のドイツ占領地含む)で約900万人いたユダヤ人のうち約500万人(※諸説有り)が犠牲になったと推計されている。
 さらに強制労働の労働力として役に立たない女性と子供、老人合わせて約110万人が、戦争中盤のナチスの強制追放政策に従ってヨーロッパから追放され、不毛の大地のパレスチナ地域へとほぼ何の準備もなく追いやられた。
 幸いパレスチナ地域のユダヤ人は、絶滅政策が実行される前に進軍してきた連合軍によって解放・救出されたが、それまでの飢えと寒さ、周辺住民からの攻撃によって約20万人が犠牲になった。そしてヨーロッパに残された健康な男性を中心とする約500万人は、戦争末期まで強制収容所に収容されながら強制労働に従事させられた。そして戦争後半になると、大量虐殺の犠牲となった。
 ただし、ユダヤ人の絶滅の実行に関しては、特に戦争末期及び戦争終了初期は、ドイツ、ポーランドなどを占領したソ連から報告されたものばかりで一部信憑性に欠けている。実際、戦後かなりの時間が経ってからの調査では、強制収容所の痕跡が報告と大きく違っていたり、報告通りの虐殺を行う事が物理的に不可能な条件が多かったりするなどしている。死因のほとんどが、虐殺ではなくドイツ全体での流通途絶による餓死という説も根強い。
 だが、ナチスドイツがユダヤ人から全ての財産を奪って強制収容したり追放したのは動かぬ事実で、あらゆる面で決して許されない事だ。
 なお、戦争の犠牲者として最初に餓死者もいると紹介していたが、世界規模の戦争による物流の大混乱によって、間接的に犠牲となった人々の数は、世界全体でさらに数百万から数千万人に及んでいる可能性も高いと推定されている。また、疫病の流行でも少なくない犠牲者が出ていて、これらも間接的には戦争の犠牲者と言える。この事も忘れてはいけないだろう。

 続いて戦後について順に見ていくが、終戦時点から波乱の予兆が色濃く見えていた。というのも、ソ連とそれ以外の連合国の対立が早くも始まっていたからだ。
 ソ連はドイツのほぼ全土と、東ヨーロッパの半分以上を占領下に置いていた。そしてドイツ以外では、戦争中から自分たちに忠実な共産党政権もしくは社会党政権による新政府を作ろうと画策する。ソ連の動きは、自由選挙による民主化を求めるアメリカ、日本などの反発を招き、互いに占領した場所にお互いを入れない状態となっていた。
 だが、ドイツとオーストリアについてはそうもいかず、ドイツの首都ベルリンと商都フランクフルトは、ソ連、アメリカ、日本、イギリスの4カ国占領とされ、オーストリア全土もソ連、アメリカ、日本、満州による分割占領下に置かれた。
 そしてドイツ全土の占領だが、連合国はライン川西岸地区、いわゆるラインラントしか占領することができず(※他はキール運河以北の小さな地域)、ドイツ全土はソ連軍が軍政下に置いた。
 このため連合国は、ソ連に対してドイツ全土の分割占領を何度も強く申し入れた。しかし、進撃競争という実質的な勝負の決着は付いていたし、現状では戦中に約束したベルリン共同占領もソ連の人質に取られた状態だった。そして連合国としては、何としても自国軍によるベルリン占領だけは行わなくては自国民に対して言い訳が立たないため、ソ連によるドイツ占領を受け入れざるを得なかった。だが逆に、進軍した軍隊による占領という建前に従い、ドイツ全土の占領を求めたソ連に対して自らの小さな占領地を明け渡すことも無かった。
 そして終戦直後より若干緊張した空気の中、アメリカ軍、イギリス軍、日本軍から選ばれた部隊がライン川を越えて進んでベルリンへと入った。ほぼ同時に、国際軍事裁判が開催される予定のフランクフルトにも、アメリカ軍、イギリス軍、日本軍の部隊が入り、それぞれ四カ国による共同占領が開始される。
 ドイツ、オーストリア以外だと、西ヨーロッパ、北ヨーロッパはほぼ全てが連合国の占領下もしくは解放下に置かれた。だが、東ヨーロッパは、特に南部が入り乱れていた。連合国側はギリシア、ブルガリア、アルバニア、ボスニア、クロアチア、スロベニア、マケドニアを占領した。またチェコスロバキアのチェコ地域は、満州帝国が占領した。そして旧ロシア帝国地域、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、スロバキア、セルビアがソ連の占領下となる。しかし満州帝国は、主に占領維持費を理由に占領統治をする予定はほとんどなく、チェコ地域をソ連軍に引き継ぐと「土産物」を抱えて早々に帰国し、若干の部隊がオーストリア占領に従事するに止まっている。これは満州帝国軍の兵員及び人種構成も関わっているため、他国も非難したり強く言うことは無かった。だが、チェコにある工場をラインごと持ち帰るなど、かなりの掠奪を実施しての帰国だった。
 しかし完全に軍事占領されるのはドイツ、オーストリア地域だけで、他の国々は連合軍総司令部を置いた上での間接統治もしくは完全な独立復帰とされていた。だが、1940年夏の欧州枢軸結成で、ヨーロッパのほとんどの国が連合国と敵対した事になるため、例え交戦記録が無くても連合軍の進駐は一度は行われている。
 扱いが微妙だったのは、自由政府を立ててそれなりの自由軍を連合軍として戦場に送り込んだ国々だった。だが、イタリア王国はともかくフランス共和国も連合国(国際連合)への参加は認められたが、参戦国ではあっても戦勝国に含まれることは無かった。この事は、救国フランス政府・軍を率いたド・ゴール将軍を酷く憤慨させた。だが、フランス本国が枢軸として果たした役割と連合軍に与えた損害を考えると、致し方のない事だった。このためド・ゴール将軍の怒りは、枢軸軍として奮闘したフランス軍に向けられたとも言われている。

 そしてそうした欧州、特にドイツの戦後処理を決めるため、1946年10月に再び連合国首脳が集まった。
 集まった場所は、ドイツの首都ベルリン郊外のポツダムにあるツェツィーリエンホーフ宮殿。郊外にあるため破壊を免れ、さらにはソ連が会議を見越して保護した事もあり瀟洒な宮殿を用いての会談となった。
 集まったのは、アメリカ、ソ連、日本、イギリスの首脳と外相、駐米、駐ソ大使そしてアメリカは多くの軍人も連れていた。日本も軍人を連れて行くか国内で協議されたが、陸海軍の大臣だけがアドバイザーを兼ねてポツダム入りしている。
 首脳の顔ぶれはヤルタ会談と同じで、アメリカ合衆国のコーデル・ハル大統領、ソビエト連邦ロシアのヨシフ・スターリン書記長、日本の山梨勝之進総理、イギリスのウィンストン・チャーチル首相が並んで座った写真が今に残されている。
 それ以外では、文官としてアメリカのバーンズ外相、ソ連のモロトフ外相、日本の幣原外相、イギリスのイーデン外相がいて、さらにアメリカ駐ソ大使のハリマン、ソ連駐米大使のグロムイコ、駐米全権大使吉田茂がいた。武官は日米だけだが、アメリカ陸軍長官のマーシャル元帥、海軍長官のキング元帥、日本陸軍大臣の永田元帥、海軍大臣の堀元帥が会議に出席していた。
 既に米ソの対立が見えている中での会談で、議題は沢山あったが成果は少なかった。
 「外相理事会」、「ドイツ占領統治問題」、「ポーランド問題」、「賠償問題」、「ドイツ以外の旧枢軸国政府問題」、「中華問題」が主なところとなる。
 特に問題なく決まったのは、事前に根回しが済んでいた外相理事会の開催に関してだけだった。ドイツ占領統治問題では、ベルリンの共同占領、ドイツの完全な非軍事化と非ナチス化については完全な合意が得られたが、民主化については実質的な占領国のソ連は今は軍事占領を進める段階で、その段階ではないと強く否定的だった。また、改めて各国均等のドイツ占領統治については、ソ連側が強く否定した。ただしソ連が求めた東プロイセン東部などの実質的なポーランドへの併合については各国も了承している。だがそのポーランド問題となると、主にソ連とイギリスの意見が真っ向から対立した。しかし、アメリカに亡命していた自由ポーランド政府が、国民を人質に取られた事もありソ連寄りの姿勢を見せたこともあって、ポーランド共産化の未来はほぼ確定した。
 賠償問題については、ヤルタ会談でも一応の数字は決められたが、ソ連がドイツのほぼ全土を占領したことで、ほとんど有名無実化していた。ソ連は占領当初からドイツから根こそぎ持ち出せるものを持ち出し、さらには強制労働に駆り出すための「人狩り」まで行っていた。これを各国はやり過ぎだと非難したが、ドイツはソ連にこれ以上の被害を与えたとして抗議に応じなかった。
 ドイツ以外の旧枢軸国政府問題については、ソ連が東欧各国で共産主義政権建設を進めていることを非難したが、ソ連はイタリア、フランスを既に連合国として認めていることを改めて非難して矛先をかわし、結局問題が先送りされ両者の対立構造を強める結果しか残さなかった。
 そして新たな陣営の線引き問題として、中華問題が再び取り上げられた。ソ連が、東トルキスタンだけでなく、内蒙古(プリモンゴル)東部でも勝手に共産主義政権設立を進め、さらに近在の青海地域の共産化も進めている事が問題視された。加えて、それらの地域で旧中華共産党の再編成が進められている疑惑も、日本の山梨から提示された。他にも、ソ連軍占領地からは、次々に住民が消えており、ソ連軍がシベリアや中央アジアでの強制労働に従事させていることが、満州帝国からの報告を受けた日本、アメリカが指摘している。
 これらに関してスターリンは、労働力としての徴用は戦勝国としての正統な権利でしかないと、問題にすらしなかった。政治的な動きについては、全て現地住民の求めに従っているにすぎず、逆に日米が進める内蒙古東部、雲南、広西での漢族の「強制移住」と強引な境界線(国境線)の設定を非難した。こちらも議論に出口はなく、お互いに自らの新たな陣営固めと境界線の強化を進める事となる。そして数千年の歴史を誇る中華地域は、大国間のゲーム版の一つでしかなかった。
 結局、会談自体は失敗と考えられる向きが強く、戦後のいわゆる「冷戦」の始まりだとする意見も多い。会談自体は終始和やかな雰囲気に包まれていたが、それだけ成果に乏しく以後開催するに値しない首脳会談だったと言えるだろう。
 このため「ポツダム会談こそが冷戦の始まり」と歴史的に言われる事も多い。
 だが、戦争の後始末はまだ道半ばだった。
 連合国が勝者としてナチスを裁かねば、戦争は終わったことにはならないからだ。このため、「フランクフルト国際軍事裁判」が開催される。
 
 「フランクフルト国際軍事裁判」は、1947年2月20日からその後約1年かけて行われた。
 開催場所はその名の通りフランクフルト。同市はドイツ西部の重要都市で、ナチス・ドイツ滅亡以後は過去で語らねばならないが、ドイツ経済ばかりか西ヨーロッパ経済における金融業の中心地だった。
 終戦時に戦災は少なく、歴史的価値のあるものを含めた建造物はほとんど残っていた。そして戦争末期にドイツ政府の一部が疎開したように、政府機能を移転できるほどの建造物や設備、施設が準備できるだけの都市でもあった。また連合国にとっては、ベルリン以外で唯一四カ国共同の占領地であり、自分たちの占領地から近いというのも大きな魅力だった。軍事裁判が、ソ連軍の監視下で行われる可能性が低いからだ。
 しかし同裁判は、多くがいわゆる「事後法」で裁いており、後世から批判を受けることもある。だが特に当時は、ナチス・ドイツの残虐行為に対する非難は強く、裁判を行う事は戦争目的の一つとして認識されていた。
 裁判は主要参戦国の、アメリカ、ソ連、日本、英(自由英)の4カ国によって行われ、オブザーバーや証人以外で他の国の参加はできなかった。判事についても、これら4カ国から選ばれている。準主要参戦国といえる満州帝国は、人材の不足を理由にオブザーバーに止まっていた。そして満州が辞退している事もあり、救国フランスなどが参加することもできなかった。
 裁判の被告には24名が選ばれたが、すでに総統アドルフ・ヒトラー、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルス、SS長官ハインリッヒ・ヒムラーは死亡し、ナチス官房長マルティン・ボルマン、SS副長官ラインハルト・ハイドリヒは行方不明のため、最も重要な被告人を欠く状態だった。
 そして被告は、用意された被告席の数から最初から24名と決まっていたため、ボルマン、ハイドリヒが欠席裁判の形で起訴されたため、2名が起訴を免れていた事が後年判明していた。また、戦争中盤以後の作戦部長だったフリードリヒ・パウルスの起訴は、二つの理由で波紋を投げかけた。初期の作戦部長アルフレート・ヨードルが起訴されなかった事と、軍人として命令に服しただけの人物を犯罪者として起訴した事についてだ。
 裁判自体がドイツを「悪」とするための「儀式」や「政治ショー」でしかないことが、これらの事からも十分に分かる。
 だが、戦争中に中華民国に対する戦争軍事裁判が既に開催され、これが国際的にも承認されていたため、今更裁判自体の「法的根拠」について強く追求する声は起きなかった。中華民国に対する1944年4月に行われた「上海国際軍事裁判」では、既に「戦争を起こした罪」が適用され、蒋介石など政府要人の死刑が実施されているからだ。
 なお、フランクフルト裁判が復讐でしかないことは、裁判中のソ連の起訴者へ死刑を求める声の強さからも簡単に分かる。しかもソ連は、ドイツのほぼ全土を占領したのをよい事に、ドイツ中で「戦争犯罪者」狩りに狂奔し、多数の無実の人々までも死刑をはじめとした刑罰に処したり、ソ連領内での長期間の強制労働の従事や服役させている。かと思えば、有罪で然るべき人物が逮捕すらされない例も見られており、これらの人々は何かしらの裏取引で莫大な賄賂、重要な情報をソ連を中心に連合国側に渡したと考えられている。
 裁判自体は、「共謀謀議への参加」、「平和に対する罪」、「人道に反する罪」、そして「通例の戦争犯罪」に従ってそれぞれ起訴され、裁判が行われた。だが、裁判の中立性には著しく欠けていたことは疑いようがない。また、戦勝国が行った「通例の戦争犯罪」ですら免責されており、この点でも公平性欠けるのは明らかだった。
 加えて、後に明らかになったが、冤罪であった事件、事例がいくつも見られた。これもソ連がポーランド、ドイツのほぼ全土を占領したことが強く影響していた。ポーランド将校を大量虐殺した「カティンの森事件」はソ連が行った事だったし、ソ連が告発した絶滅収容所のいくつかは存在すらしていなかった。また絶滅政策でのねつ造も酷く、存在しないガス室ばかりでなく、有名なアウシュビッツ収容所の犠牲者数の誇張や、人間石けんの捏造などがある。

 様々な問題もあったが、フランクフルトでの裁判は1年近くかけて行われ、その後に起訴された人々のかなりが、死刑となるか指定された刑期に服した。そして世界的には、「平和に対する罪」、「人道に反する罪」がその後の戦争に対しても適用される事例が作られたばかりでなく、国連において明文化された点が非常に重要だろう。
 しかし裁判一つで、戦後を総決算する事は出来なかった。第二次世界大戦は、第一次世界大戦よりも多くの変化を世界に強要していたからだ。



●フェイズ92「戦争による変化(1)」