●フェイズ92「戦争による変化(1)」

 1946年10月24日、正式に「国際連合(U.N.)」が発足した。
 「国際連合」と「連合国」が英語では「United Nation(ユナイテッド・ネイション)」と同じなのだが、戦争と戦後を分けたいと考えた日本政府および官僚団が考え出した、日本人向けの新たな造語だった。もっとも、「国際連盟」の後継組織という面を強調したかったのが、名称を改めて作った理由だと言われることもある。
 日本の事はともかく「国際連合」は「連合国」であり、戦争中から設立に向けた動きが精力的に行われた。その始まりは、日本の山梨総理も参加した1941年8月の「太平洋会談」で、ここでの「連合国」結成こそが出発点となる。その後いくつかの国際会議を経て、1945年8月の「ダンバートン・オークス会議」で「国連憲章」の原型が姿を見せる。そしてヤルタ会談を経た1946年7月から開催されたサンフランシスコ会議において、全ての連合国が国際連合憲章を採択。晴れて10月24日に正式に「国際連合」は発足した。
 国際連合の基本は各国が参加しての多数決で、多くの事柄は全ての国が参加できる総会で決める事ができる。しかし最も重要な機関として「安全保障理事会」が設置されていた。安全保障理事会は、常任理事国4カ国と非常任理事国8カ国で構成され、最大の特徴として常任理事国には拒否権が与えられていた。この拒否権は大きな権限で、総会での決定も実質的にひっくり返すことができる。設立までに主にソ連が強く求めた権限だったが、その後多数の国が国連に加盟し第三世界ともカテゴライズされる国々が参加するようになると、常任理事国にとって重宝されるようになる。

 だが、常任理事国を決めるまでには一悶着あった。
 常任理事国となる国は、アメリカ合衆国、ソビエト連邦ロシア、日本帝国、英連合王国までは、特に誰も異を唱えなかった。連合国であるのが最低条件なので、ドイツ、中華民国など枢軸陣営の国々が除外されるのは当然だった(※それどころか、現在に至るも敵国条項は削除されていない。)。しかし、4カ国というのは少なすぎ、最低でも加盟国の10%程度の国によって構成されるべきだという意見が、戦争中から数多く出されたこともあり議論が重ねられた。
 フランス(救国フランス政府)は、同じく国を二つに割ったイギリスが認められており、さらに国際的な影響力の大きさを理由として自らの権利を主張した。だがフランスは、一度ドイツに降伏して以後は、本国全てと植民地のほとんどが枢軸側として積極的に戦ってきた経緯から、救国フランス政府及び軍を中心とした亡命政府(自由政府)とその後継政府こそ連合国と認めるも、フランスそのものは連合軍の主要参戦国ではあり得ず、常任理事国の資格はないと考えられていた。
 戦争貢献度、派兵数なら満州帝国に常任理事国の資格があるのだが、満州帝国は日米自身も自らの衛星国と考えていたほどだから、主要参戦国という点を認めても常任理事国としては様々な点で相応しくないと考えられていた。日米以外が、満州を日米の影響下の国と考えるからだ。
 国家規模や人口なら、戦後正式独立を予定しているインドが資格があるが、戦争中盤までは枢軸側の植民地として連合軍と戦っていた事と、独立しても様々なものが不足するため役者不足と考えられていた。
 結局、アメリカ合衆国、ソビエト連邦ロシア、日本帝国、英連合王国の4カ国だけが当初の常任理事国となり、非常任理事国は倍の8カ国に決定した。しかし、多くの国を多少でも納得させるため、今後の改変への含みを持たせる条文が盛り込まれ、10年後(1956年)を目処に再び常任理事国に関する会議を行うこととなった。
 そして戦後からかなりの期間は、非常任理事国となった4カ国中心に動いていく事になるが、最初から波乱含みの幕開けだった。
 地域ごとに順に見ていこう。

 まずはヨーロッパ。
 第二次世界大戦で最後の主戦場となり、大きくはライン川とドナウ川を境として、アメリカを中心とする自由主義陣営と、ソ連を中心とする社会主義陣営(もしくは共産主義陣営)に占領された。
 この分割状態は、「ローマ・ライン」もしくは「カエサル・ライン」と冷戦時代に呼ばれる。なぜかといえば、かつて栄えたローマ帝国の東の境界線が、概ねライン川とドナウ川に沿っていたためだ。もちろんだが、この時もきれいに線引きされたわけでもないし、納得し合ったわけでもなかった。また、ハンガリー、セルビアが社会主義陣営なので、正確にはドナウ川で分割されてもいない。
 バルカン半島西部、旧ユーゴスラビア王国地域は、アメリカ、ソ連共に嫌気が差すほど国家のモザイク状になってしまい、アメリカは多くの負担をヨーロッパ情勢での部外者である日本に様々な文物とのバーターで押しつけて、半ば「見ないこと」にしたほどだった。日本に任せる点は、バルカン半島での戦後の混乱を嫌ったソ連ですら概ね受け入れたほどだった。しかし、最初に線引きされて以後は、結局極端な混乱や対立も起きなかった。また戦後しばらくは、日本が「バルカン半島の一時管理人」と呼ばれたりしたほどだが、ここでの日本は外交的に相応に苦労を強いられた事が、この後の冷戦の準備期間として多くの教訓として活きる事になった。
 旧ユーゴスラビア王国の両陣営の境界は、セルビアだけがソ連の陣営に与して、残りはそれぞれ地域ごとに独立した上で、半ば中立状態ながら自由主義陣営として戦後を歩んでいくことになる。セルビアはソ連の占領下となったのが直接の理由だが、もともと伝統的にロシア寄りだったし、ユーゴスラビア地域の他の地域から嫌われていた事が一番の原因だった。

 東ヨーロッパ地域で唯一問題を起こしたのは、意外と言うべきかブルガリアだった。
 ブルガリアは、オスマン朝トルコから独立した時期に拡張政策を行って勢力拡大を行い、近隣各地との問題を幾つも起こした。そして歴史的経緯から、トルコとの関係が非常に悪かった(※加えてギリシアとの関係も悪かった。)。このため、戦後すぐは連合軍占領下だった関係で自由主義陣営に属するも、東西冷戦構造の対立の象徴の一つとなる「北大西洋条約機構(NATO)」が成立して、1952年にトルコが加わると猛烈に反発した。極端に言えば、トルコが加わるなら脱退するばかりか敵対して共産主義陣営に加わると言い立てたのだ。
 実際ブルガリアはNATOを脱退し、以後自由主義国家で資本主義体制ながら、陣営としては半ば共産主義陣営として過ごすことになる。政治的立ち位置としては、自主的にフィンランドに近くなった形だ。自由主義陣営も、地理的にブルガリアよりトルコの方が重要なので、これを半ば唖然としながら受け入れた。そしてブルガリアが半ば中立化してしまうことは、少なくとも冷戦時代において東ヨーロッパ地域での東西対立を遠ざけ、この地域の多くを任された形の日本の負担を大きく下げるという副産物を産むことになる。
 北欧は、フィンランドが資本主義のままながら、半ばソ連の政治的影響下に置かれた。だが意外にしたたかで、経済面、技術面で資本主義陣営と共産主義陣営の橋渡しを行うことで、政治的な安定を図るばかりか経済的な発展も実現した。スウェーデンは伝統的な中立を維持したが、こちらも戦後の勢力境界線の影響で、どちらかと言えばソ連寄りの政治姿勢を示さざるを得なかった。デンマークは何かが出来る国力は無かったが、アメリカが基地を置くことでどちらの陣地かが明確に示された。

 一方で、ドイツ方面での対立構造は戦争中に始まり、戦後対立を日に日に激化させていく。
 大戦の結果、旧ドイツのほとんどをソ連が軍事占領した。例外はライン川西岸のラインラント地域、キール運河北部のシュレスヴィッヒ・ホルシュタインの北部地域だけだった。また戦後すぐに、連合国内の取り決めに従って、首都ベルリンと軍事裁判を行うフランクフルトが、米ソ日英4カ国の共同占領とされた。
 この結果、ソ連は2つの都市以外のソ連によるドイツ単独占領を求め、アメリカ、日本、イギリスはドイツ全土の4カ国による分割占領を求めた。しかし、条件は米日英が極めて不利だった。ベルリンとフランクフルトの共同占領のために、デンマーク領と定められた地域を除くシュレスヴィッヒ・ホルシュタインをソ連に明け渡さなければならなかったほどだ。
 そしてこの段階でも、すでに対立の芽が生まれていた。というのも、ソ連の掠奪を恐れたドイツ人が多数シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン北部に逃れていたが、ソ連への引き渡しまでに戦争犯罪者を除く全員が、デンマークもしくは他の連合軍占領地域に実質的に亡命してしまっていた。しかもドイツ人の国外脱出と亡命は、戦争終末期から大規模に始まっており、ドイツ本土を占領できないと分かった米日英など連合国軍も、積極的に亡命者を受け入れるようになった。
 終戦時、戦争をなんとか生き延びたドイツ人の総数は約6000万人。このうち戦争中を含めて1年以内に「赤いドイツ」の外に逃れたドイツ人の数は、概算で800万人にも達していた。多くが共産主義者から弾圧される事を恐れた資産家、中産階級、貴族、富農、企業家など伝統階級の人々だった。ソ連の復讐を恐れた軍人も多かった。また、戦争中に東プロイセンなどから国内疎開で逃れた人々のかなりも、既に帰る場所がないため、そのまま国外へと逃れている場合も多かった。他にも、食糧不足から餓死を恐れてドイツを後にした者も少なくない。
 そしてソ連は、ドイツの全ての富を奪った上で、捕虜もしくは労働力としてドイツ人を骨の髄までこき使うつもりでいたので、強い調子でドイツ人の強制帰国を各国に求めた。これに対して連合国各国は、ドイツをソ連に牛耳られた腹いせもあって、自由意志に基づく個人による亡命や移民を強制帰国させる事は出来ないと断固とした態度で謝絶。ただし、ソ連が求めた戦争犯罪者、政治家、軍人のかなりの引き渡しには応じた。
 そしてその後も、ドイツ各所の国境と連合軍占領地のあるベルリン、フランクフルトからドイツを逃れる人々の流れは尽きなかった。国境を越える人々も多かった。
 ソ連の掠奪と共産主義的統治が大きな理由だったが、アメリカのモーゲンソー財務長官のプランを行うかのように、ソ連がドイツから根こそぎ価値のあるものを奪い去った為、ドイツでは多くのものが欠乏した影響でもあった。戦災と戦後の掠奪で、多くの工場などが実質的に消えて無くなったため、職を失いドイツで暮らすことができなくなった人々が、ドイツの外に活路を見いだすしかなかったのだ。また、多くの伝統工業に従事する人々も、自らの作るものが贅沢品だとして作ることを禁じられた為、ドイツを出て行かざるを得なかった。これにはソ連も後で失敗を感じ、慌てて一部産業の再開許可と一部の施設や資産をドイツに戻すなど行ったが、一度出来てしまった流れを止めることは非常に難しかった。
 ロシア人が占領する戦後の赤いドイツの国土は、全ての可能性が失われたと多くのドイツ人達が感じたのだ。特に経済的に発展していた北西部を中心とした大都市で顕著で、比較的連合軍占領地に行きやすかった事もあり、多くの人々が生まれ故郷のドイツを後にした。
 そしてこれに業を煮やした形のソ連は、ベルリン、フランクフルトの連合軍に難癖を付けて退去するように仕向けた。これが1949年の「ベルリン封鎖」につながっている。同時に行われた「フランクフルト封鎖」が言われなかったのは、フランクフルトが連合軍占領地域から近すぎて、連合軍の空輸による輸送作戦の前に、封鎖とそれに連動した物資欠乏による各市民の「共産主義的蜂起」が全く機能しなかったからだ。
 だがベルリンは、最も近い連合軍の占領地でもデンマークかオーストリアで、連合軍が保有する全ての輸送機を世界中から集めても、主に距離の問題からベルリンの連合軍統治地区を支えることは無理だった。
 このため連合軍とソ連の間に、実質的な封鎖3日目には協議が開始され、一週間後にはベルリン封鎖は解除される。もちろんだが、名目上の「ドイツ独立復帰に向けた第一歩」のため、複雑な統治体制を解消するという連合軍側の政治的逃げ道を僅かに残した上での事だったが、冷戦時代を通じてソ連の勝利、アメリカの敗北の象徴の一つとされていく事になる。
 だが、逆にフランクフルトに連合軍は居座り続け、以後フランクフルトは東西対立の象徴としての道を歩んでいく事になる。このためアメリカは、「痛み分け」と考えていた。
 そしてもう一つの東西対立の象徴が、ライン川西岸のラインラントだった。

 ラインラントは、南北約370キロ、東西約100キロの紡錘状の地域で、ライン川とドイツ西部にある西欧諸国に挟まれた地域だった。ドイツ人にとっては、唯一のドイツ原産のワインであるモーゼルワインが非常に重要で、東西対立が確定的になるとモーゼルワインの為に亡命する者が後を絶たなかったとすら言われる。
 ケルン(主要部)などライン川西岸にも重要な都市がかなりあり、地域全体がドイツばかりでなく西ヨーロッパにとっての経済、産業の中心地に含まれている。しかしそれは、ライン川が自由で安全に使えるという条件があってこそであり、また東岸地域、さらにはドイツなど欧州中部、東部と経済的に結びついてこそだった。
 このためソ連は、戦後経済を有利に運ぶためにラインラントを欲し、さらに全ドイツの占領のためにもこの地を欲した。このため最初は交渉で連合軍からラインラントを得ようとするが、ソ連の強欲さに当初から嫌気が差していた連合国側は、ドイツ全土の分割統治をソ連が受け入れない限り決して渡す気は無かった。結局話しは平行線となり、ライン川に掛け直された橋の両側には、お互いの兵士が立つことになってしまう。
 しかもソ連は、ライン川河口部のオランダに対しても強い圧力をかけたため、連合軍としてもアメリカ軍を中心としてオランダに有力な軍事力を置き続けざるを得なかった。このラインラント情勢に若干安心したのはフランスとベルギーだが、共産主義と直接向き合うのがほんの少しばかり減ったからと言って、状況が非常に悪化したことに変化はなかった。
 何より西ヨーロッパ全体にとって最悪だったのは、イデオロギー対立によってライン川とヨーロッパ世界のどちらもが分断された事だった。
 ライン川は、戦後も一応の国際条約によって国際河川とされたが、不測の事態を避け、不用意に対立状態を作らないため、ライン川の軍事利用は協議の結果厳禁とされた。1949年以後は、沿岸から3キロメートルが非武装地帯に設定された。相互視察までもが、条約を設けた上で実施された。
 おかげで川を直接挟んで軍隊(兵士)が睨み合う情景は、幾つかの「国境の橋」の両端以外では見られなくなったが、ライン川の経済的価値、戦略的価値は激減した。
 また共産主義陣営にとって、ライン川河口部のオランダが自分たちの陣営に属していない以上、ライン川を使えないも同然だった。通常の貿易ひとつ見ても、国際河川と言ってもドイツとオランダの間に自由貿易協定などの国際条約がない限り、通過の際の税関などが避けられないからだ。このためライン川東岸、わけてもルール工業地帯の港は、冷戦時代は非常に寂れてしまう。両陣営の対立もあって、ライン川東岸地域の物流網も鉄道と道路を中心に東に向けて組み直さざるを得なくなり、西ヨーロッパ経済と分断された事と合わせて、ドイツ及び共産主義陣営が受けた経済的損失は計り知れなかった。
 だが、経済的に大打撃を受けたのは、西ヨーロッパも同じだった。オランダは東西対立の最前線となったばかりか、港湾都市は取扱量が激減して半ば開店休業となり、商業、工業を中心とした産業は大きく停滞した。そしてライン川東部地域との経済的繋がりが絶たれた事そのものが、経済的に大打撃を与えた。西ヨーロッパ全体も産業、物流網の再構築を行わねばならず、経済的損失は計り知れなかった。
 ライン川の実質的断絶と途絶は、「西ヨーロッパ経済を絞め殺した」とか「金の卵を産むガチョウを殺すに等しい」と言われたほどで、以後長らくヨーロッパ経済ばかりか世界経済にまで悪影響を及ぼし続けることになる。
 連合軍のラインラントの占領継続だけが影響したわけではないが、占領継続無くしてこれほどの影響も無かった。
 しかし、ライン川がイデオロギー対立の最前線となった以上、アメリカは引き下がるわけにはいかなかった。そして経済的損失の代替として、必要以上に西ヨーロッパ経済の復興に力を入れなくてはならなくなり、他の地域への影響力低下にまで影響した。全盛期のアメリカをしてもなお、ライン川分断による経済的損失は大きすぎたのだ。
 その後のラインラントは、以後長らく「連合軍管理地区」として過ごすことになる。ソ連の過剰反応を避けるため独立国が立てられることもなく、アメリカ、イギリス、日本による軍政と現地住民による民政による統治が続く。国家ではないため、連合軍の総司令官が名目上の統治者となった。
 それでも自由主義、民主主義が保たれたドイツ唯一の地域と言うことで(※西フランクフルトは都市でしかない)、戦後は「赤いドイツ」を脱出した多くのドイツ人がこの地に流れてくる。多くは亡命者で一から生活を立て直さなければならないが、ドイツ人は持ち前の勤勉さを発揮して、この狭い「ドイツ」を発展させていく。狭く平地も少ない地域ながら最大で800万人が居住し、一度は原爆で壊滅したケルン(西岸)も100万を越える大都市として再生した。そして冷戦時代を通じて、冷戦の象徴として過ごす事になる。

 一方で、ほとんどのドイツ地域は、東プロイセンやシュレジェン地域が東部をソ連に割譲したポーランドに併合され、約33万平方キロメートルと日本列島より少し狭い領土の国家として再建が進められ、約9年間の占領統治を経てドイツ民主共和国(1955年成立)として共産主義陣営の最前線の国として過ごしていく事になる。1955年まで再独立が延びたのは、ラインラント問題が尾を引いたのと、基本的に占領地のままでもソ連が問題ないと考えていたためだった。逆に再独立させたのは、占領統治の間に余りにもドイツ地域の経済力が衰退してソ連が慌てた為でもあった。
 ドイツと違って、連合国側で自由主義、民主共和制国家として再建されたのがオーストリアだった。占領直後のソ連の思惑としては、「戦友」だった満州帝国を抱き込んだ上でオーストリアの分断もしくは東側国家として成立させることを目論んだ。だが、満州帝国はごく順当に宗主国といえるアメリカ、日本の側に立つこと選んだ。そしてその他の要因も絡んだ結果、ソ連はオーストリア再独立と共に去っていった。
 それに当時のソ連は、ドイツのほぼ全土を得たことで心理的な満足感も高く、またドイツの占領に力を入れなければいけないため、オーストリアへの関心が薄かった。

 なお、戦争末期から冷戦時代を通じて、ドイツから逃れたドイツ人の総数は、ラインラントを除いて1000万人に達する。
 このうち約3分の1がフランス、ベネルクス、イギリスに移住し、一部がドイツ語が通じるためスイス、オーストリアを選んだ。それでも、全体の半数以上(約500万人)が新たな可能性を求めてアメリカへと移住した。また少数は、自作農になるためだったり技術者として、英連邦地域のカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、さらには満州帝国に渡ったりもしている。戦前にドイツ移民が比較的多いと言うことで、アルゼンチンを目指す者も少なくなかった。
 流民の流れは、1961年に完成した亡命を阻止する「フランクフルトの壁」建設と、国境監視の強化で大幅に減少したが、戦後長らくドイツの人口減少を大幅に促進することになった。このため戦後すぐ6000万人だったドイツの人口は、再独立時の1955年には4500万人近くにまで激減していた。この頃までに西側に逃れた者の総数より人口が減少しているのは、ラインラントに止まった者が多かった事もあるが、ソ連の強制労働に連行されたまま帰らなかった者が多数いた事を示している。

 再独立以後は、人口激減に対して大きな危機感が持たれ、「赤いドイツ」政府は自国と東側諸国の農業振興を積極的に行って食糧確保をしつつ、共産主義的ではあるが精力的な人口増加政策が実施されることになる。また戦後の「赤いドイツ」が工業国、商業国として再建されず、どちらかと言えば農業国として再建が進められた事が、それまで工業先進国だった事を原因とする人口停滞を逆転させたとも言われている。
 この結果、再独立から約30年後の1980年代半ばまでに人口は約二倍(約9000万人)に膨れあがり、戦前の水準すら大きく上回るまでに増加している。しかも産業的停滞も(強制的)に続いた事から、他の共産圏からの人口流入もなかった。むしろ、ソ連などへの農業移民が100万人以上も出ていたほどだ。そしてドイツがある程度の工業国、産業国家として再生するのは、ソ連の支配体制が傾き始める1970年代を待たねばならなかった。
 一方で、ドイツを逃れたドイツ人移民、亡命者も人口を150%以上増やしており(約2800万人)、逃れた先の経済発展にも大きく寄与する結果を生んでいる。このためドイツは、戦争に敗北したことで民族的な人口拡大にはむしろ成功したと評価されることがある。

 ドイツ以外のヨーロッパは、ほぼ戦後のソ連の占領地域とそれ以外で別れ、西側では自由主義、民主主義の国として再建が進み、1948年の「マーシャル・プラン」などアメリカの手厚い保護政策もあって、急速に復興が進むことになる。そしてライン川で経済が分断されたことで、残された西ヨーロッパ経済は大きな転換を強いられることになる。というのも、多くの西ヨーロッパ諸国が、ドイツに食糧を輸出して高度な工業製品を買うのが今までの状態だったが、その経済モデルが全く成立しなくなったからだ。このためフランスとベネルクス三国は、ドイツからの難民を積極的に受け入れて、アメリカの援助のもとで今まで以上の工業化、産業の高度化を進める事となる。
 またフランスは、第二次世界大戦での国力及び兵力不足の原因が、人口増加率の大きな停滞にあると強く考えたため、余剰となる国内の食糧生産力を活かす政策もかねて、その後世界のモデルプランにもなる強力な多産政策を実施するようになる。一種の富国強兵政策であり、アメリカも自らの負担軽減につながることから、冷戦時代全般を通じてフランスの政策を強く後押しした。また赤いドイツでの多産政策も、フランスの政策を外的に強く後押しした。しかも東欧各国の多くでも、あまり計画性のない人口増加政策が行われた。ヨーロッパの大規模な人口増加は、東西対立がもたらしたと言われるほどだ。
 もっともフランスの場合は、政策開始から5年ほどして旧植民地地域(主に北アフリカ)から移民を入れた方が、はるかに安上がりにかつ即物的に人口と国力の拡大ができる事に気付いたが、既に大規模な政策が動いていたので安易な方を選択する事もできなくなっていた。しかも自国への流入を阻止するべく、むしろ植民地、旧植民地地域での人口抑止策すら行うようになっている。
 アメリカの支援対象としては、主要参戦国となったイギリスも例外ではなかった。本土の戦災は比較的少なかったが、戦争で酷く国力を疲弊していたため、戦後の経済復興に非常に苦労することになる。そのためイギリスでも、フランスの後を追う形で多産政策が実施され、さらに「揺りかごから墓場まで」の言葉で有名な社会保障政策とともに力が入れられることになる。しかも多産政策と手厚い社会保障制度は、北欧、西欧各国にも波及していく。

 イタリアは、アルプス山脈と新たに乱立した中立国のお陰で、共産主義の脅威から少しばかり安全だった。だが、基本的にイタリア自身が欧州枢軸陣営であり敗北者側だった。辛うじて国連の敵国条項からは外されたが、あまり喜べる状況でもなかった。(※敵国条項適応国はドイツ、チャイナの二国)
 そうした中途半端な状態で、イタリア国内では戦後すぐに王政を維持するかどうかの国民投票が実施された。
 当時は、大戦中からサヴォイア王家のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が王位にあった。そしてエマヌエーレ3世は、戦後ファシストに協力したとして、社会主義系、共産主義系の政党や団体を中心に強く非難された。また、自立心の強い北部からも支持は低かった。そうした国内情勢での国民投票だったが、結果は王政維持だった。大勢を決した主な理由は、連合軍が攻めてきたときに国王が玉座(ローマ)に止まり続けた事。これは特に南部から高い支持を得た。そして何より、共産主義の脅威があまりにも近くまで迫った危機感から、イタリア国内の団結を維持する方便として王政が支持されたのだ。また、王政に反対したのが社会主義者、共産主義者など左派が中心だった事が、王政廃止こそがイタリア弱体化もしくは共産主義革命に繋がるという世論が形成されたことも、王政維持が支持された大きな要因となった。
 イタリアで共産主義への敵対心を煽ったのは、長らくイタリアに駐留していた連合軍の情報組織とされ、特に戦後も駐留した日本軍が関わっていると噂されている。しかし、戦争中の国王の行動がイタリア国民に評価された事も間違いない事実だった。
 だが、戦前のままという訳にはいかず、戦後のイタリアは政治の大改革が実施される。国王の実質的権限はほとんど無くなり、国旗からもサヴォイア王家の「盾十字」の紋章が外される事になった。貴族の特権もほとんど無くなった。
 そして多少は身をきれいにしたイタリアは、日米から支援を受けながらも、自分たちの権利を守るためにも自由主義陣営の一角としての戦後を歩み始める事になる。

 復興と発展は、境界線が半ばギザギザになった東ヨーロッパも例外ではなく、地中海(厳密にはアドリア海)沿岸の西側諸国は相応に復興、発展が進んだ。ただし、オーストリア、スロベニア、クロアチアは順次永世中立国を宣言し、スイスと合わせて「中立国の壁」を作り上げることになる。これはアメリカなど西側諸国ばかりかソ連と東側諸国も半ば暗黙の上で認めたため、イタリアの政治的安定性を高めることにもなった。米ソを含め誰もが、この地域でのまともな対立を主に面倒くささから嫌ったからだ。
 しかし東ヨーロッパの民族問題については、ソ連が極めて強引な解決を図ったことが問題を少なくしたことは間違いない。
 ソ連は、占領下の各地で歴史的経緯からモザイク状態だった民族構成を、強引な強制移住によって完全に塗り替えてしまい、全ての国を強引に民族国家に作り替えてしまったのだ。この結果、ドイツとポーランド、ハンガリーとルーマニアの長年の対立は強制的に解消されている。そして反対に、以前のままモザイク状態となったアドリア海沿岸部は、むしろ民族対立が残されたままと言われ、実際不安定さを残したままとなった。

 そしてドイツと東ヨーロッパ主要部には、共産主義政権による国家が各民族ごとに成立していった。1949年の「経済相互援助会議COMECON)」の成立、「ワルシャワ条約機構」の成立、そして1955年のドイツ再独立(※ドイツ民主共和国成立。)によって一定の完成を見る。
 だが、ヨーロッパの中心とも言えるドイツの経済的復興、特に重工業の復興は進まなかった。戦後すぐのソ連による国家規模の大掠奪、西側世界への難民の流出が続いた事、それに連動したソ連がほとんど関心を示さなかった民生技術、特許の膨大な西側への流出などが大きな理由でもあったが、一番の理由はソ連がドイツでの重工業復興を禁止、阻害し続けたからだった。
 ソ連(ロシア人)は「ドイツ復活」を恐れていたが故に、重工業の「ドイツのための復興」を限定的にしか許さず、独立復帰後の軍の再建でも制限を設け続けた。航空機、戦車、装甲車両、潜水艦、大型艦艇は、戦後の一時期に自分たちのものを作らせた後、技術を含めて全て奪った上で自主開発を全面禁止した。このため、ドイツに残って国営企業となった多くの軍需系企業、航空産業は技術の継承という面で、後に「世界的損失」と言われるほど壊滅してしまう。
 このドイツの無力化は、1960年代まで厳格に守られたほどだった。そして工業の本格的再生は、かつての技術者達が年老いた頃の1970年代にようやく始まっている。
 軍事の事はともかく、とにかく戦後のドイツには経済的な制約が多すぎた。しかも共産主義体制、社会主義体制であるため、戦前のような健全な経済の発展はあり得なかった。しかも共産ドイツ自身が、「シュタージ」と呼ばれる秘密警察による巨大で厳密な国内監視体制を作り上げ、国内ばかりか世界中のドイツ人を監視し、そして弾圧し続けた。
 なお、この秘密警察組織には、戦争末期に行方不明となったナチス親衛隊のラインハルト・ハイドリヒの影が付きまとっている。と言うのも、彼(とヒムラー長官)しか知り得ないと言われるナチス時代の機密情報、一般SSや秘密警察(ゲシュタポ)などが集めた膨大な情報がシュタージに引き継がれていたためだ。この情報のため西側に逃れるも東側のスパイとなったり、亡命などで帰国するドイツ人が数多く出たりもしている。この情報は「ハイドリヒ情報」や「ハイドリヒ・ファイル」と呼ばれ、西側世界、自由主義陣営を水面下で悩ませることになる。
 終戦前後に行方不明となったハイドリヒ自身の生存も囁かれ続け、シュタージもしくは「赤いドイツ」をどこからから支配し続けたという噂が、どの時代においても尽きることは無かった。戦前の素性に不明点の多い有力人物が、徹底的に整形したハイドリヒだと言われた事も一度や二度ではない。結局、彼がその名で表舞台に姿を見せることは無かったが、人々に生存を信じられるほど彼が持っていた情報の影響が強かった証拠と言えるだろう。

 話しが少し逸れたが、とにかくソ連はドイツ産業を復活させる事を長らく否定し、主に農業国としての発展こそ促すも、二流の工業国として過ごさせる政策を続けた。このためソ連、わけてもスターリン書記長が望んだほど共産主義陣営の経済的強化にはつながらず、ソ連は共産主義陣営の強大化とドイツ復活の阻止という二律背反に頭を悩ませ続ける事になる。ドイツの方針が変更されるのは、ソ連のブレジネフ時代を待たねばならなかった。
 だが、共産主義陣営の最前線がライン川になった効果は非常に大きかった。フランス、ベネルクス諸国の受ける軍事的、政治的圧迫は尋常ではなく、アメリカは大軍をフランスなどに駐留させ続けなければならなかった。また、永世中立国のスイスも共産主義陣営からの圧迫を免れることができず、ヨーロッパの政治、経済に悪影響を与え続けることになる。
 そしてアメリカが西ヨーロッパ正面に異常なほど力を入れなければならないため、それ以外の地域での日本の役割は非常に重要になっていかざるを得なかった。



●フェイズ93「戦争による変化(2)」