●フェイズ95「日本帝国と周辺部の再編」

 1947年1月1日、前年秋の国会の憲法改正の決議を受け、日本の実質的な主権者が今上天皇(昭和天皇(裕仁帝))から国民に移った。しかし憲法上で「日本帝国ハ国民ノ総意ノ元天皇之ヲ統治ス」という第一条により、引き続き天皇が名目君主となるので、在民主権と言っても立憲君主制度が変わるわけではなかった。他にも全面的な改定も実施された。変更のない条文でも大日本帝国は日本帝国に、臣民は国民に変られた。
 この時の全面的と言える大幅な改訂により、これをもって日本の真の民主化が達成されたと言われ、盟友アメリカなどは自国の事のように報道した。
 これに対して日本の報道機関の報道は、近代日本史上に残る政治的大変化にも関わらず思いの外に慎ましやかだった。
 もちろんだが、大きな理由があった。

 第二次世界大戦中、日本国内の報道は大きく乱れた。と言っても、全体主義国家のように報道を国家が厳しく統制したわけではない。
 戦意昂揚という美名のもとで、新聞の発行部数を伸ばすため企業間で激しい競争となったのだ。ロシア戦線の最前線のような危険な場所にも、特派員が送り込まれた。そして多少扇情的ならまだしも、節度を越えた扇動、誇張すら日常茶飯事化していた。中には明らかに嘘も含まれていた。一方で、ロシア戦線に行った従軍記者などは、共産主義のシンパや実質的な活動家が含まれ、日本に向けて共産主義の「宣伝」を行う以上の事を行ったりした。特高の調査で、事実上のスパイ活動も露見した。
 そして日本政府は、悪名も言われる事が多い治安維持法に抵触する場合、情報漏洩を防ぐための検閲以外は、報道の自由を尊重しようとしたのだが、あまりにも行き過ぎているため最初はオフレコで、次いで公に注意を促した。だが公に注意した時点で、報道各社は全体主義(ファシズム)的な「言論統制」、「言論弾圧」だと強く反発。その反面、自らの態度を全く改めず、政府が黙ったのを幸いにむしろ増長を強めた。
 一方で政府は、可能な限り正確な情報を国民に知らせる事に務めた。戦争中に一度嘘を言ったら後戻りが非常に難しいのは、歴史上の事例を見れば明らかなので、例え敗報でも可能な限り正確さを心がけた。幸い戦況は序盤を除けば大敗は無かったので、政府は正確な情報提供を続けることができた。そして広範な情報提供の手段として、政府公報によるニュース映画を主に提供した。正確さを心がけたため地味なものもとなるが、情報に植えていた国民には好評だった。戦意昂揚映画よりも、ニュース映画の方が受けたとすら言われた。これに関しても、新聞各社は政府に「自粛」を求めた。自分たちの「報道」と矛盾する場合があったし、何より売り上げに響くからだ。
 これに業を煮やした政府は、大きな一手をうつ。
 当時唯一のラジオ放送だった日本放送協会(NHK)を、戦時特例として国会で法案を通した上で、公費投入と引き替えに一部(報道部門)を正式に国営としてしまったのだ。ただし、あくまで戦時に限っており、終戦後の1947年には元に戻された。しかし戦後は冷戦時代に対応するべく、別組織として他国同様の目的で「国営放送」が作られており、「東京放送」と揶揄して呼ばれるようになっている。またこの時の影響で、NHK職員の思想調査が厳格に行われるようにもなった。

 NHKへの政府の介入は、当然というべきか既に慢心、増長を強めていた報道各社は政府による「電波の独占」を「言論統制」と悪し様に罵る。だがここで我慢の限度を超えた政府が、戦時という事もあり遂に自らの正統な権力の行使に訴え出た。
 と言っても、治安維持法などを理由に関係者を逮捕した訳ではない。報道に関する法制度をこの時も戦時特例で一気に議決し、報道の中立性、正確性を公正に監視する半民半官の第三者機関「日本公共放送報道委員会」を設立した。
 しかしこれでも報道各社は「統制」、「弾圧」を扇情的に言い立てたため、ついに法律に触れたという点で警察と司法が動き、ほぼ全ての全国規模の新聞社に対して虚偽報道の嫌疑で捜査のメスが入れられた。
 この捜査では、1940年中に原型が作られ1942年に正式発足した「内閣調査室」(※後の情報庁)いわゆるインテリジェンスとしての情報機関が活躍し、海外で諜報活動をする組織が国内でも広く使われた例ともなっている。これは、新聞各社に海外からのスパイ活動もしくは情報漏洩などが見られたからだ。
 そして調査の結果、敵対するファシズム組織ばかりか、ロシア戦線以外でもコミンテルン、共産主義シンパの影が色濃く見えており、特別高等警察までが関わる大事件へと発展する。
 結果、新聞各社、関係者を中心にして多数の逮捕者を出し、戦時中の一大スキャンダルとなった。さらに新聞各社は、社内にスパイがいたばかりか、自らの利益のため嘘を報じていたとして「国賊」「非国民」呼ばわりされ、国民からの信頼を失ってしまう。各新聞の売り上げ、広告収入共に激減し、一部新聞社は事業縮小や合併、統廃合、最悪の場合は倒産した。社名、新聞名を変えた会社も一つや二つではなかった。しかもほとんどの新聞は、自らの誌面の多くを割いて詳細な調査報告と一面での謝罪をする事になり、自分たちが江戸時代の瓦版とさして違わない存在だと言うことをカミング・アウトさせられる。あまりの事態にアメリカの報道各社も行き過ぎだと非難したが、自らに飛び火することを恐れて大きく言い立てることも無かった。
 そして戦争後半には、日本国内の報道は概ね公正さと落ち着きを取り戻すようになった。

 だが、報道機関を必要以上に締め付けてばかりでもなかった。
 NHKの戦時の一部国営化に合わせる形で新たに電波法を整備し、民間もラジオ放送(さらにはテレビ放送)ができる制度が整えられた。この制度は、僅かでも戦費を得ることも理由に権利が競売(オークション)制とされた。しかし競売は公開制が絶対で、報道の独占もしくは寡占、それに伴う偏向した情報の発信を防ぐことを目的としていた。合わせて寡占、独占を防ぐ法制度も整えられた。これも、新聞各社の暴走をから得られた教訓をもとにしていた。ただし、国益に反する場合の条項が存在するなど戦時色の強いものであり、冷戦時代のイデオロギー対立の中でむしろ強化されてしまい、規制緩和が行われるまで強い規制がかけられると同時に事実上の寡占化も進むこととなる。また、当時としては当たり前だったが、外国資本、外国籍を持つ者の参加も厳禁とされた。
 連動して、広告業全般に関しても戦時に大幅に改革が実施された。特に戦時は一カ所に集中した方が効率的なため重宝されたが、戦時中に戦後も独占が続く事が問題視された結果、その根に掬う政治家、財界人の一部を粛正する形で排除するという強硬手段を取った上で、広告業の独占状態を解消し、広告代理店業を複数の会社が並立する競争状態に変更している。
 報道、広告に政府が非常に気が遣ったのは、良くも悪くも報道、広告を広く悪用した全体主義に対するアンチテーゼを国民に示す必要性があると考えての事だった。

 報道、広告の事はさておき、日本は戦争終了とほぼ同時に政治、行政の大改革が一気に断行された。今をおいて他にできる機会がない事と、戦争および戦勝に対する国民への報償を与えるためだった。
 なぜ政治の大改革を国民への報償としたかと言えば、戦争を終えたばかりの日本政府には金が無かったからだ。あったとしても他で使わねばならず、気前よく国民にばらまけるのは「権利」や「自由」ぐらいしか無かった。
 だがそれは、日本という帝国主義国家を根底から変化させたと言われる事が多い。
 なにより最初に書いたように、憲法上の主権者が天皇から国民へと移った。
 これだけでも大きすぎる変化だった。
 そして主権の変化と同時に、大日本帝国憲法の大幅改訂が実施される。
 何よりまずは、主権が国民に移った事から、国号及び憲法から「大」の字を正式に取り除いた。「帝国」も外そうという急進論もあったが、対外的な国号である「エンパイアー・オブ・ジャパン」の名称を変更するのは、極論面倒くさいという事で見送られた。また、満州帝国に配慮したとも一部では言われている。

 政治改革の柱は、「主権委譲」、「憲法改正」、「民主化の促進」、「選挙権の拡大」、「各種社会保障制度の整備及び恒久化」、「経済機構の改革」になる。ほとんど全ての分野に及んでおり、大戦争というカンフル剤を使うことで古いままの日本を根底から作り替え、次の時代を生き抜ける国家に再編成することを大きな目的としていた。
 ただし、改革が断行されたのは、明治維新以来80年近く経過していたので、近代日本自体が組織疲弊を起こしていた事が一番の原因だった。だが、流石に大規模な改革過ぎたので、スタートライン以外は次の内閣に委ねられることになる。
 そして実施されたのが、1947年6月の総選挙だった。
 この総選挙は、国民への報償の一つである「選挙権の拡大」によって、選挙権が20才に下げられると同時に、婦人参政権も認めた点が大きな変化だった。当然ながら、女性が議員なる道も開かれていた。
 さらに、二院制の一つである貴族院の大改革が実施され、議員の半数が選挙によって選ばれる事になった。貴族院の名前も、参議院と名を改めた。参議院議員全員を選挙で選ぶ制度としなかったのは、勅撰議員枠で有識者を入れて政治の中立性を保とうという思惑からだった。選挙で選ばれれば属する政党に左右されやすくなるが、それでは衆議院と大差ない為だ。だが、今まであった皇族、華族などの議員特権は原則として廃止されている。
 そして貴族院の改革にも関わる事だが、民主化の一環として身分制度も改革が行われた。
 明治維新で皇族、華族、士族、平民という新たな身分制度が作られた。このうち士族は既に法的に消えていたが、皇族、華族は法的にも残されていた。国の根幹にも関わる皇族に関しては大きく手を付けることは難しいが、特権を享受しすぎていると国民に見られるようになっていた華族については、この機に一気に法制度の改革が断行された。
 身分制度の改革によって華族は法制度上は名誉称号とされ、貴族院議員など多くの特権が廃止された。また、残される特権に対しての義務も課せられる事になった。それでも制度は完全に廃止はされず、その後も日本の法律上でも残り続けることになる。

 また選挙だけでなく、首相(内閣総理大臣)を公選制にするかどうかの審判が国民に問われた。これは日本初の国民投票であり、この直前に国民投票の法制度が作られ、そして実例を作る意味もあってただちに実施された。そして国民投票は、その後も憲法改正の際に一般的に使用されるようになり、日本帝国憲法、刑法、民法は時代に応じて随時変更されるようになる。
 そしてこの国民投票の結果、戦前の一時期の政党間の政治の私物化や不安定さに嫌悪感を強めていた国民は、投票者の3分の2以上が自分たちの手で首相を選ぶ事を選択する。
 この結果、次の首相(内閣総理大臣)から有権者全ての直接選挙によって選ばれる事が決まる。任期は1期3年で、最大3期まで務めることができた。そして参議院議員選挙と同時に首相選挙を行うが、これにより参議院の権威も高められる事にもなった。また、主権の委譲にも連動して総理大臣の権限も大幅に強化され、今までの不安定さからの決別も大いに期待された。総理の権限が強められた事で、今までの調整役としての側面は弱まり、トップダウン型の欧米各国の首相に多少なりとも近い立ち位置に変更された。
 次の参議院議員選挙は1950年。これ以後、日本の総理は国民の手で直接選ばれるようになる。

 なお、1947年の総選挙の結果、戦時中の長期政権を続けた山梨内閣の退陣後に誕生したのは、衆議院議員選挙で大勝した政友会(後の自由党)の吉田茂率いる内閣だった。吉田茂は、日本憲政史上で間接的に選出された最後の内閣総理大臣となった。退いた山梨勝之進は、その後は政治に極力関わることは無くなり、海軍の後援会に属する他は、学習院の名誉学長を務める以外、ほぼ完全に隠居した。しかし戦争中の激務と心労の為、頭髪は真っ白となり、退陣の頃は健康もかなり損なわれていたと言われる。また、完全に隠居したわけではなく、戦争中の交友関係から時折外交を中心に大きな存在感を示すことになった。ソ連のスターリン書記長死去の際にも、西側陣営としては珍しく個人名で弔意を送っている。
 新たに総理となった吉田茂は、戦争中はアメリカ全権大使として奔走し、戦争中の国際報道のおかげもあって国民にも高い知名度を有していた。戦争中は、山梨首相の次に有名な政治家となったほどだ。
 この選挙は、山梨が海軍出身だったため陸軍大臣だった永田鉄山元帥が、軍を退役する形で民政党(後の民主党)総裁として総裁選に出るのではと言われていた。だが永田は、陸軍及び兵部省の設立及び改革に力を入れることを選んだ。そして民政党は、戦後すぐの濱口雄幸(1870年生まれ)の政界引退を受けて、鳩山一郎を総裁として選挙に臨んで政友会に破れている。
 逆に海軍の山本五十六元帥、堀悌吉元帥の双方は軍を退役し(※元帥号は生涯保持されるが、事実上「名誉元帥」扱いとなる。)、民政党所属で衆議院議員選挙に当選したが、野党議員になる事で大臣職になる事を避ける結果になった。世相も、戦争が終わったので軍人には勲章と恩賞をあげるのは当然だが、政治からは一度身を引くべきだと感じていた。軍人達もそうした世相を見て目立つ動きは避け結果、国民からの支持を集めた吉田が首相の座を射止めることになったのだ。

 なお戦争中でも、日本の政党政治は維持されていた。1944年には衆院議員総選挙も実施されており、山梨内閣は任期内に二度内閣を組織している。二度目の組閣には、大臣の一部も変わっていた。
 そして日本の政党と言えば、いわゆる大正デモクラシーの頃から政友会と民政党が二大政党を形成していた。一時期綻びも見えたが、何とか維持された。そして戦後最初の総選挙に際しても、「日本自由党」と改めた政友会系と「日本民主党」に改めた民政党が政権の座を争った。しかし政友会の勢力が大きすぎたため、民政党は主に戦争中から軍(及びその家族)との関係を強めて勢力拡大を図っていた。このため戦後日本の政治は、保守しかないと言われる事が多い。経済保守の自由党と、軍事保守の民主党と言う構図だ。
 それ以外だと、戦後すぐに誕生した小規模政党と、戦前から細々と活動している無産政党系の日本社会党(旧社会大衆党)があったが、社会党は治安維持法もあるため社会党強硬派や共産党系思想を持つ者が合流できず、党自体も過激な事が出来ず、主に下層労働者の受け皿として細々と続いていた。
 党の勢力で言えば、自由党55、民主党35、社会党・他10程度になる。このため無党派層が民主党を支持すると、民主党政権が誕生するようになる。
 当然だが、共産主義者、共産党の政治活動は厳しく禁じられているので、共産党は選挙に出るどころか日本で政治活動する事すらできない。この点はソ連など共産主義国ばかりか戦後しばらくはアメリカまでもが非難しているが、日本政府は全く聞き入れる気は無かった。日本憲政上で共産党が合法化されるのは、冷戦構造の崩壊を待たねばならなかった。しかし冷戦中は、日本国外に日本共産党が活動しているので、日本共産党自体は自らの歴史が断絶されたことはないと言い続けている。

 総理就任後の吉田は、山梨からバトンを託される形で政治の大改革と戦後政治の基盤作りを精力的に行っていった。
 軍の大改革も吉田内閣時代に完成しており、合わせて大規模な省庁の細分化と統廃合、名称の変更もこの時一斉に行われている。

 外務省 → 外務省
 内務省 → 内務省(警察庁)
     → 建設省 ★
 大蔵省 → 大蔵省
 陸軍省
 海軍省 → 兵部省
 軍需省
 司法省 → 法務府
 文部省 → 文部省
     → 科学技術庁 ★
 農林省 → 農林省(水産庁) ★ ※その後農林水産省
 商工省 → 通商産業省 ★
 通信相 → 郵政省
     → 電気通信省 ★
 鉄道省 → 運輸省 ★
 拓務省 → (開発庁) ★
 宮内省 → 宮内省
 厚生省 → 厚生省
     → 労働省
 台湾総督 → (廃止・台湾道)
 南洋総督 → (南洋自治区)

 ※:★は関西(大阪)移転

 以上が戦中から戦後の大改革での変化で、主に内務省のさらなる分割と軍の統合が中心となっている。新たな省庁のかなりが、当面は今までの庁舎で業務を行うが、順次新たに建設が進む大阪への移転が行われる事になっていた。
 また、後で触れるが、日本本土以外についても大幅な変更があったため、省庁が変化している。他にも、ここでは書いていないが、枢密院は時代にそぐわないと言う事で廃止されている。元老と呼ばれる人もいなくなっていた。当時まだ存命だった犬養毅(1855年生まれ)、高橋是清(1854年生まれ)らも、流石に老齢のため隠居していた。
 なお、陸海軍の総指揮官に当たる陸軍参謀総長、海軍軍令部総長は軍令参謀本部総長(通称「総長」。元帥相当官)に統合された上で、軍の最高司令官となる首相(内閣総理大臣)の下に置かれ、さらに兵部大臣の設置に伴う形で完全に任務が軍務のみに限定されるようになった。
 しかし初代総長には一悶着あり、陸海軍の間で陸軍出身という政治決着を見たのだが、陸軍内で永田・東条派といえる内地派と、梅津、前田など戦地派が対立。一時は千日手になりいっそ海軍出身者という話しに派兵派が持っていくと内地派も折れ、初代総長には戦地派が強く推した山下奉文が就任した。これは山下将軍が永田・東条らから嫌われていた事に対する戦地派の意趣返しであり、以後陸軍内で戦地派が主流となった事の大きな象徴でもあった。
 また兵部省設立、空軍設置などに組織の大幅改変に連動して、軍の方も首都など大都市圏からの大規模な引っ越しが行われた。この引っ越しに関連して、陸軍の中心部であった市ヶ谷が大規模な施設建設の後に兵部省の本拠地とされた。ここで永田町、霞ヶ関にあった陸軍省、海軍省の主要施設が問題視されたが、どちらも巨大化した軍の官僚組織を置くには手狭な為、兵部省の出先場所程度の扱いを経た上で、各省庁に「貸し」を作る形で引き払って譲っている。そしてその時、歴史的価値の高い旧海軍省を保存のため完全移築した。

 「各種社会保障制度の恒久化」については、戦争中に実施された労働賃金や小作料などの法令が恒久化され、さらにこれからの時代に対応した法制度に改められた。さらにそれらを内包する形で「労働基準法」が制定され、各種関連法案も順次制定する事が定められた。また、連動して「労働組合法」が社会主義、共産主義活動の罰則規定と抱き合わせで制定され、労働者の立場が強化される事が定められた。しかも制定から数年後には、社会主義、共産主義運動の激化から、禁止項目や罰則はさらに強化される事になる。
 また、戦争中の女性の社会進出と技術の発展に伴う家事負担の軽減、何より戦争の報償として、女性の社会進出に関連する法令が数多く制定され、民法も大幅に改訂される事になった。教育に関しても、完全に男女同権とされた。この事が、日本の戦後改革で主権委譲の次に大きな変革だと言われるほどだった。
 労働や賃金面以外でも、戦争中に実施された国民の健康を守る制度が定められ、さらには「国民健康保険制度」が整備されていく事になる。ただし、公的年金制度については次の課題とされて、この時は先送りされている。

 「経済機構の改革」については、必要に迫られたと言うよりは国民へのガス抜きのために実施されたと言える。と言うのも、古くは1929年の世界大恐慌以後の経済の混乱で、財閥と言われる巨大企業体が経済を独占するようになった。そして第二次世界大戦で、一部産業の独占体制はさらに強まった。しかし国としては、国家、民族としての競争力維持のためにも、超急進派が言うような「財閥の解体」は論外だった。このため法制度を整備することで、今後の企業間競争の健全化を図る事とされた。その代表が「独占禁止法」だ。しかし法自体が強いものではなく、また抜け穴もあったため、当初はあまり実行力はなかった。このため後に国民から不満が出て改訂、強化されていった。
 一方財閥側は、労働者、国民の不満をかわす名目で、財閥一族、超大株主を経営の第一線から退ける向きを強め、合わせて経営の合理化を進めていくようになる。さらに、定年制度を用いるなどして、経営陣など多くの面での若返りも促進された。世代の若返りについては、アメリカをはじめとした世界の企業と競争するため、必要と認識されるようになっていた事も大きく影響していた。

 また、以前から富の偏在に関して国民の不満が強まっていたので、税制も大きく改定された。法人税が強化され、何より個人の累進課税、相続税が大きく変更または新設された。しかも華族特権も限られており、「税制の民主化」「税制の平等化」が大幅に断行された。それでも十分とは言えず、その後も改訂を重ねていく事になる。
 そしてもう一つ問題とされたのが、不在地主対策だ。
 当時の日本の農地は、半分近くが小作地で多くの農民が地主から農地を借りて耕していた。しかも搾取する地主も少なくないため、小作農は貧しい生活を強いられる事が多かった。そして地主の一部は自らの農地の近くには住まず、大都市で優雅な生活を営む者も少なくなかった(※もちろん真面目な篤実家や、熱心な経営者も多数いた)。
 特に問題視されたのは、こうした実質的に農業に従事しない層だが、この問題については1930年代から大きく変化しつつあった。
 と言うのも、各種工業の発達、土木建設業の拡大により、小作農たちがより多くの収入を求めて職業を転向していったからだ。しかも戦争が始まると若者は兵士となり、それ以外の者も軍需生産の計数的と言われる拡大によって軍需工場に吸収されていった。工場の集中する地域(主に都市部)への出稼ぎも、異常なほど増えた。女性も軍需工場や男性のいなくなった職場に必要とされ、農村に残されたのは老人と子供(+一家の長もしくは長男)だけという有様の場合も少なくなかった。このため農業生産の大幅な減少が起きたが、小作にだけ頼っていた農地は耕す者がいなくなって、酷い場合荒れ地に近い有様にまでなってしまう。農業生産の激減は政府が危惧したほどで、慌てて軍需生産の一部を割いてでも耕耘機、小型トラクターなどを生産して農村に配ったほどだ。
 それでもかなりの数の地主は、戦争が終われば小作者は戻ってくると考えていたが、兵士や工場に行った者のかなりが農村には戻ってこなかった。それどころか、家族を自分たちのものとに呼んで、故郷の農村から小作が姿を消す方が多かった。兵士となった者は村以外の「世界」を知り、工場に勤めた者は自分たちがいかに虐げられていたかを知った。厳しいと言われた軍需工場での労働の方が、一部の小作農業よりましだったのだ。
 そしてさらに地主達の状況を悪化させたのが、政府が戦後不況を回避するため膨大な公共事業費を予算計上し、日本中で大規模な土木工事を行った事だった。除隊した復員兵と事業縮小する軍需工場からあぶれた労働者の多くが、農村に帰らず公共事業に吸収されていった。また、産業、所得の拡大に伴い必然的に発展・拡大した第三次産業にも多くが吸収され、人々は農村から離れる傾向を強めた。

 こうして、1920年代は全体の4分の1を占めた小作農と、自作地だけでは食べていけない半小作農の従事者は、1948年の時点で激減していた。小作農は半減し、半小作農を含めても全体の半数を切っていた。このため農政改革の急進派や一部の社会主義者が求める改革の必要性が、大幅に低下しているのが実状だった。
 それでも不在地主は問題視され、土地から完全に離れている事業者に対して法的拘束力のある勧告を実施し、政府による安価での農地買い上げか、支援を受けての大規模自作農への転向を指導した。この結果やる気のある地主は、大型トラクターを導入するなどして大規模自作農へと転向する向きを強め、そうでない場合も農業の企業化(法人化)で対応した。そして企業化した場合、各種の労働者に対する法制度が整備されてしまったため、今までのように小作者を不当に扱うわけにもいかず、小作者も正統な賃金での雇用関係へと変化していった。
 もっとも地主、旧名主とは、古来から日本の農村を支えてきたという自負を持つ伝統階級のため、積極的に新たな農業に挑む者の方が圧倒的に多かった。またそうした者の所には、戦後ちゃんと人々も戻っていた。
 そして農業(大規模農家)の企業化が戦後のブームになるのだが、この影響で政府が小作の救済対策や農作物の価格安定化の一助として考えていた、「農業協同組合(仮称)」というやや社会主義的な組織作りについては、やる気のある地主達の反対もあって立ち消えとなった。その代わり、一般的な労働組合組織などが作られていった。
 こうして地主は、相対的に経済力と社会的威信を低下させるも、その後も生き残り続ける事になる。また改革は農業に限られており、森林の保有や経営に関してはこの時ほとんど手付かずだったため、広大な山林を保有する「山地主」に関しては、その後も長らく古いまま残り続けることになる。しかし安易な改革で短期的利益を求めた杉の営林などにならず、多くの場所で昔ながらの混合樹林が維持された事は、自然保護や景観維持に大きく貢献していると言われることが多い。

 なお、小作問題を半ば放置した事については、日本での共産主義の温床になると強い警鐘を鳴らす者もいたが、多くの者は強く問題視していなかった。戦勝に伴う恩赦で、治安維持法による逮捕者もかなりが釈放されたが、戦争中に犯罪者を戦場に動員した事で多くの共産主義者、社会主義者が文字通りいなくなっており、頑迷な者の生き残りのかなりも実質的に国外逃亡状態となったからだ。戦後の政治家を見ても、左派の少なさは明らかだ。
 また、潜在的な左派の温床といわれた陸軍将校も、戦地と内地で二分させた上に満州帝国への従軍によって3つに分けてしまい、価値観や感覚を変化させることで内的連携を取れなくしていた。戦後の陸軍将校が大人しくなったのも、多くは満州帝国への大量移籍が原因していると言われるが、戦地組と内地組の対立も見逃せないだろう。しかも戦後は、彼らの供給源の農村が大きく変化したため、戦後世代の将校以外はいわゆる根無し草になり、陸軍内で燻っていた潜在的な共産主義運動の脅威は大きく低下していた。
 同様に、農村の変化で学生(大学生)が左派になる事も大幅に緩和されたため、教育の場での同様の脅威は大きく低下していた。

 こうして多くの改革が次々に実施されたが、他にもまだまだ改革、変化が訪れた。最大のものは、戦中、戦後の国際環境の激変に伴う日本の領土、領域に関する変化だ。
 戦前日本の領土は、「本土」や「内地」と言われる日清戦争以前の日本列島を中心とした領域以外に、沖縄や南樺太も内地と呼ばれるようになっていた。さらに台湾島とその周辺部、南洋諸島、ビスマーク諸島(通称「鉄血諸島」)を領有した。また租借ながら、関東州とも言われる遼東半島の一部も実質的に領有した。朝鮮王国についても、保護国という建前ながら実質的には植民地とした。
 しかも第二次世界大戦では、連合国各国と連携して広大な地域を占領した。占領地の多くはすぐに手放すが、それでも世界の戦後秩序維持のために、主に国連委任統治領という形で日本が統治し続けなければならない場所も少なくなかった。
 そして連合国もしくは国連の中枢国として、植民地や不当な海外領土を抱えることがタブーとなり、日本政府は切り離したり国民投票を行うことで国際世論と言うよりアメリカを納得させる行動に出ざるを得なかった。

 まずは朝鮮王国が、戦争中の約束に従い「韓王国」として主権を回復させて独立した。しかしこれは、日本人の多くにとってもはや厄介払いの感覚が強かったと言われる。というのも、朝鮮王室と政府、実質的には貴族の世襲官僚(両班)が、まともに国家の近代化に手を付けず、民が無学なままを望んだからだ。おかげで保護している日本の借金が増えている有様で、さらには日本や満州に貧しい朝鮮半島から流れる流民が後を絶たなかった。
 それを独立により、ほとんど解決できるのだから、「錦の御旗」を得たこの時点でやらない手は無かった。
 これ以後日本にとっての「韓王国」は、共産主義革命が起きなければそれでいいだけの場所と考えられるようになった。日本または満州に流れていた朝鮮系の流民についても、国が別になったという事で簡単に強制送還できるようになった。国境の監視も厳重に行われるようになった。
 だが、借金の担保として押さえた朝鮮半島内の利権(※主に炭坑、鉱山など)については、基礎的な社会資本を韓王国に売却した以外は、そのまま保持された。このため韓王国は、保護国時代よりも借金を上積みするばかりか、借金返済に困る状況が続くことになる。根本的に解決するには、国土開発と公教育(義務教育)の普及を柱とする近代化以外あり得ないのだが、それは特権階級の没落もしくは壊滅を意味するため、ほとんど実施されなかった。日本が支援したのは共産主義化阻止に必要な装備と経験だけで、あとは中枢部を「飼い慣らす」ための支援という名の賄賂を贈るだけになる。していることは、アメリカが一部の中南米諸国にしているのと似ていた。
 こうして「韓王国」は、自らの選択により世界最貧国としてかなりの期間を過ごすことになる。

 朝鮮とは真逆に、台湾島に関しては真剣な議論が連日日本政府内で行われた。
 従軍、戦時生産共に戦争にも大いに貢献を果たした事から、最低でも自治権の拡大は必要だと考えられた。場合によっては、独立も視野に入れられていた。だが、世界の趨勢から民意を問わないわけにもいかないので、まずは総選挙の折りに台湾全土での住民投票が実施される。そしてその結果、台湾の大勢は植民地ではなく日本本土と同じ扱いになることを望んでいた事が判明する。もちろん日本への反発もあったし、台湾独立を支持する声もあった。僅かだが、支那本土への復帰を求める声すらあった。
 しかし総意は、植民地から日本の地方になる事だった。
 このため台湾は、従軍への報償という意味合いを持たせた上で本土(内地)への格上げと、対外的には日本への完全併合が実施された。同時に日本国民としての権利と義務に関しても完全に同じ扱いとされ、台湾は日本の一地方とされた。名称も「台湾道」に改められた。ただし、義務教育に地方語の扱いで中華系言語、先住民族(高砂族)の言語も残されるなど、地域性は重視されて完全に同じとはされなかった。
 そしてこの結果、日本の総人口は数字の上で一気に10%近く増加している。
 南樺太は、1920年代の極東共和国との国境確定の際に、国際的、国内的にも日本本土の一部とされていた。そしてその後は、極東共和国との間の主に石油の輸入に関連した産業が発展した事もあって人口も拡大。当時としては大規模な精油所が建設されるなどもあって、総人口は一時滞在を含めて50万人程度いた。しかし独立した行政単位にするには不足する面も多いため、そのまま北海道に属し続ける事となる。
 南洋諸島とビスマーク諸島は、第一次世界大戦で委任統治領の形で得た海外領土で、実質的に「外地」といえば大陸を除けば太平洋上の島々のことを差すほどだった。南洋諸島は小さな島々だが、ビスマーク諸島は一定規模の島々で、サトウキビ、天然ゴム、キャッサバ(タピオカ)の栽培など開発も進められた。ビスマーク諸島は合わせて4万5000平方キロメートル以上の面積があり、土地面積だけなら九州や台湾よりも広かった。だが、赤道直下で熱帯ジャングルに覆われた島々のため、開発や移民は比較的低調だった。また、旧来の政庁が置かれたラバウル近辺に活火山があり、1937年の噴火を契機として政庁の移転が実施され、ガビエンが新たな政庁とされている。
 戦前はあわせて南洋総督と南洋庁が置かれていたが、これを南洋自治区と南洋開発庁に変更している。国際的な扱いは、国際連盟の委任統治領から国際連合の委任統治領へと変更されたに止まっている。国際的にはゆくゆくは独立を予定するとされていたが、少なくともこの時代は日本領のまま留め置かれた。統治も日本的なものが色濃く実施され、公教育の影響もあって年を経るごとに日本の一地域のようになっていった。

 そして戦争中の占領を経て、戦後の日本及びアメリカなど自由主義連合の安全保障のために、さらに遠隔地の島の一部が国連委任の形で日本の統治下となる。(※他にもマレー半島など、日本が軍政を敷く地域が幾つかあった。)
 マレー半島先端部にあるシンガポール島と、インド洋に浮かぶアッズ環礁(アッドゥ環礁)がそれで、それぞれに国連委任統治領という名目の実質的な総督府となる行政庁が設置された。どちらも軍の海外展開に必要な中継拠点として確保された場所で、日本本土周辺を合わせてアジアの海を日本の軍事勢力圏とする非常に重要な場所となる。
 しかしアッズ環礁は、戦後も発展を続ける航空機に対して、飛行場を置くには陸地が狭かった。そこでイギリスに依頼が行われ、イギリスが日本の支援で無理矢理無人化したディエゴ・ガルシア島へと軍の施設を移動させている。
 シンガポールは、その後国連委任の形で日本領として過ごすが、マレー半島と同時に1963年に独立。その後日本は、シンガポールから基地を借りる契約を結び、こちらも日本の海外領土としての時代を比較的短期間で終えている。しかも技術の発展に伴い日本軍にとってのシンガポールの重要性が低下したため、軍港地区を含めたほとんどの場所の権利が返還されている。
 また、ボルネオ島のブルネイ藩国は、永らく日本の信託委任統治領とされている。同地には豊富で良質な石油資源があり、以前はイギリスがわざわざ他と分けて植民地状態にしていたが、それを日本が引き継いだ形だ。一時サラワク王国に統治を引き継ぐという案もあったが、その後も日本領として過ごして、ようやく1980年に独立している。
 他にも、旧中華民国の海南島がアメリカとの共同の国連委任統治領だが、基本的にはアメリカのものと認識され、日本はあくまで手助けや手伝い程度しか行わなかった。この海南島は、その後香港、マカオを連動する形で、一種の自主独立地域のような地域を形成していく事になる。
 なお、1940年代末には、日本に北大西洋の無人の島を幾つか国連委任する話しが出ていた。色々と表向きの理由はあるが、日本を「北大西洋条約機構(NATO)」に加盟させる言い訳にするためだというのが通説になっている。しかし、あまりにも馬鹿馬鹿しい話しであり、実際日本はヨーロッパや北大西洋、地中海に領土を持つことなくNATOに加盟している。そしてソ連すらも、特に文句は付けなかった。このためヨタ話と考えらていたが、2000年代初頭の各国での外交文書の公開によって、日本の北大西洋領有がNATOで真剣に検討されていたことが判明している。

 日本の領土問題で避けて通れないのが、満州に関連する歴史的な流れと実際の租借地になる。
 関東州は、1997年までの契約で租借されていた。東鉄の鉄道租借地は1930年に満州帝国に返還されていたが、関東州は日本が保持し続けていた。だが、戦後日本が大陸から軍(=実戦部隊)を引き揚げるのと連動する形で、関東州は1949年に正式に満州帝国に返還されている。関東州の住人も、自らの意志でどちらの国に属するかを決めて、日本とは直接関わりのない地域となった。
 そして満州帝国だが、第二次世界大戦が始まるまでは、実質的に日本とアメリカ共同経営の形の経済植民地だった。大量の日本軍が駐留し、さらに戦争中も延べ10万人以上の日本軍人が一時移籍の形で満州帝国軍として戦うなど、日本人から見たら自らの国も同然だった。世界的に見ると、英連邦に近いかもしれない。
 日本から満州への移民は、約40年間の累計で200万人を越えていた。1946年の満州帝国の日本人、日系人居住者の総数は、混血を含めて450万人と同国の約11%に達している。戦争でも約40万人が軍人、軍属として満州軍に従軍している。当時の日本人の感覚からしたら、新しい北海道のようなものだった。
 また戦後の日本で満州移民ブームが起きて、数年間の間に50万人以上が新たに移民している。この時の移民では、戦争中に満州軍として従軍していた軍人とその家族の移民が中心で、さらに戦後復員してきた兵士とその家族が続いている。満州帝国軍の石原完爾元帥などは戦争中に完全帰化していたが、日本陸軍から満州陸軍に移籍して戦った酒井将軍、牟田口将軍らが満州に完全帰化したのは戦後になってからだった。辻政信(終戦時少将)などは、戦争中に帰化した上に戦後すぐに軍を退役し、満州帝国の国会議員になったりもしている。
 また移民という点では、アメリカからの移民も同様に順調に増加していた。数としては丁度日本の半分程度で、終戦時には現地生まれと合わせて約200万人が満州国籍を有していた。他のヨーロッパ系(主にロシア系とユダヤ系)と合わせると、欧米系移民はさらに50万人ほど増える。「赤いドイツ」から亡命したドイツ人も少なくなかった。
 そして日系と合わせて、彼らが戦争中だけでなく戦後の満州帝国軍の中核の一つとなっていく事となる。また帰化後に軍を退役して満州の企業に再就職した将校も少なくなく、満州帝国は一気に多くの人材の確保に成功した事になる。
 そして満州帝国自身は、国家としても第二次世界大戦で主要参戦国に準じる扱いを受け、軍事力、重工業力を中心に急速に力を付けると、もう衛星国や経済植民地のままでは置けなくなる。しかもソ連に難癖をつけられないようにするためにも、完全な独立と自立を図らなくてはならなかった。
 このため満州在住の日本人には、戦後にどちらに帰属するかの選択を行わせるなど、日本とは完全に別の国という扱いを行った。戦後日本での満州移民ブームを誘発した発端だが、大量の日本人、アメリカ人が満州に完全帰化する事にもなり、戦後の満州での日本人、アメリカ人の影響力をかえって高めたと言われることも多い。この一例として、満州を実質的に本拠地とする日本企業も少なくなかった。

 そして国内の大改革を断行し、国土を再編成した「日本帝国」だったが、世界は急速に二つの陣営分かれた対立を深めていくようになる。
 日本が自ら大きく変化しなければならなかったのも、二度目の世界大戦で世界を見て実感したからだけではなく、新たな時代、新たな対立構造に対応するためだった。



●フェイズ96「冷戦時代の幕開け」