●フェイズ96「冷戦時代の幕開け」

 1947年3月、イギリス連合王国首相ウィンストン・チャーチルは、アメリカへの外遊中に行った演説で、冷戦時代の幕開けを告げる有名な言葉を残した。
 それが「鉄のカーテン」だ。
 「北海のエムデンから黒海のバマ・ペケまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた」という言葉の一説だが、この頃はまだオーストリアが分割占領中で、ブルガリアは完全に自由主義陣営であり、旧ユーゴスラビア地域は半ばモザイク状態だったため完全に言葉通りではないが、時代を象徴する言葉と言えるだろう。
 そして「鉄のカーテン」を象徴する出来事として1949年のベルリン封鎖、1961年のフランクフルトの壁(もしくはラインの壁)がある。だがヨーロッパでは、鉄のカーテンによって分断された国家は出なかった。旧ユーゴスラビア王国がそうだという意見もあるが、ユーゴスラビア地域は複雑に民族と宗教、言語が絡み合っていたため、むしろ分断と東西対立による恩恵を受けた地域となったと言われることの方が多い。
 一方で、東西冷戦の分断の舞台と言われたのが、3000年以上の悠久の歴史を誇る旧中華地域だった。

 旧中華地域は、かつては清朝(清帝国)と名乗った近世型の巨大国家(準世界帝国)があり、1911年に誕生した中華民国はその正統な後継者といえた。しかし中華民国は近代的統治体制に乏しく、また分裂と混乱、さらには共産主義の跳梁もあり混乱が続いた。その混乱を列強に突かれて、最初はモンゴル、次に満州が切り離された。清朝時代に日本が併合した台湾も同列だろう。そしてその恨みをぶつける形で、日米を裏切る形で枢軸側に与して第二次世界大戦に参戦したが、近代戦争を行うには多くのものが不足していたため、枢軸側で最も早く降伏した国家となった。
 そして戦争中に、連合軍の手で荒っぽく国家の解体と域内の民族分立が図られ、実質的な民族大移動すら行われた。しかも連合軍は、旧時代の大国だった中華民国の占領統治と「近代化」、「民主化」を今後のテストケースとするべく、よく言えば精力的に、悪く言えば荒っぽくいじりまわした。
 その結果が、蒋介石総統の戦争中の処刑など解体した中華民国に対する厳しい審判と、中華帝国の完全解体という国家に対する厳しい処罰だった。これを見た欧州枢軸陣営が、自らもそうされないようにと戦意を新たにしたほど苛烈だった。
 これほど苛烈だったのは、日本、アメリカにとって中華民国は味方と思っていたのが敵に寝返ったので、裏切り者としての感覚が非常に強かったためだ。
 そして連合軍は、蒋介石を中心とする「ファシズム」を厳しく批判し、彼らの掲げた「中華民族」「中華国家」「大中華」という言葉を「ファシズムの象徴」として完全否定した。比較的穏健だった日本の専門家たちも、「古来から歴史的な言葉として中華帝国はあっても、中華民族というものは存在した事が無く、明らかに国家主義的」と断罪した。そして「中華」という文字(漢字)を、国家及び公共団体が国号、公称などでの使用禁止を押しつけた上に、国際法上ですら使用を禁じてしまっている。

 そして中華地域の新たな国家像としては、周辺部を民族自決させた上での多民族国家としての連邦共和制だった。
 しかし中華民国が戦争中に事実上政府機能を喪失し、連合軍が占領しなかった地方は半独立地域として勝手に動き、連合軍占領地域では軍政が実施されるも、民政は地方自治かそれ以下のレベルに落ちていた。このため中央政府を一から作るところから始めなければならず、しかも連合軍が募集で集めた元官僚や経験者などは、中華民国時代の一部の者を除いて近代的統治のノウハウを持っていなかった。連合軍が期待した北京周辺部に住むもと官僚達もあまり役にはたたず、とにかく連合軍が再教育から始めなければならなかった。さらに、地方の前自体的な統治についても順次改めねばならなかった。そして厄介だったのが、連合軍が戦争中に占領しなかった地域の地方自治だった。地方を治めているのは、旧時代的な考えしか持っていない軍事力を持つ豪族や成り上がり者で、酷い場合は大規模な盗賊ややくざ(マフィア)と同じだった。
 そして地方政治においては、過酷であるか荒っぽい統治しかしない場合が多いため、民衆の側も自己防衛策を巡らせて対抗していた。民衆の側は、結社を作ったり自分たちだけで自治をしている場合も数多く見られた。士大夫と呼ばれる伝統的な地主層は、独立独歩の傾向が強かった。
 こうした混沌状態は、周辺部の民族自決政府を作るにはむしろ好都合ではあったが、同時にソ連の手による共産主義国家の建設と、中華地域中央への共産主義浸透も容易としていた。

 そして戦争中の日本軍による占領統治を順次を引き継いだアメリカは、民心安定化と共産主義の排除、さらにはその後の市場化を目指して、莫大な投資と言える支援を開始する。これにより、既に占領開始から5年以上が経過していた沿岸部の経済はそれなりに息を吹き返した。戦争中の日本軍の統治が行き届いていた事もあり、沿岸部での共産主義の浸透も防がれた。地方の盗賊紛いな政治家、軍閥も、あからさまに賄賂こそ求めるも相応に大人しくなった。
 だが、連合軍全体の取り決めとして、中華地域の復興はあくまで農業国家、原料資源供給地、有り体にいえば「アメリカの市場」「アメリカの経済植民地」としての復興以上を行う予定は当面は無かった。そしてアメリカは、アメリカのドルを浸透させることで、中華地域の通貨を「チャイナ・ドル」に染め上げるまで進めてしまう積もりだった。
 というのも、戦争中の中華民国の紙幣乱発によって中華の貨幣経済は完全に崩壊していた。戦前に日米英など列強が協力してまでして新たに作った「元」の価値は紙幣の重さで計れると言われ、旧来の銀貨(銀両)や銅銭が一般には流通していたほどだった。内陸部の農村部では、物々交換も当たり前だった。
 そしてアメリカは、同じ再建するなら自分たちに都合の良い方を選ぼうとした。そして中華地域の民衆も、通貨が安定するなら何でも受け入れた。しかもその通貨が、世界一強くて安定しているドルと連動するとなれば、拒む理由すら無かった。だが、流石に「チャイナ・ドル」という名称では国際的にも外聞が悪いので、新通貨として「両」が復活した。「元」は生まれて日も浅い通貨で民心も離れている為で、「銀両」から「銀」の文字を外したのはドルが金本位制に根ざすのと、多少は新しい通貨だという体裁を整えるためだった。もっとも長らく「両」は「チャイナ・ドル」や「美両(アメリカ両)」と呼ばれ続けた。
 ただし新たな通貨は戦後に作られ、しかも広めるのに多少の時間を要したため、戦時中はGHQの軍票かドル、円が流通し、特にアメリカのドルが民衆の間に広まって、民衆はアメリカを中心とした連合国の商品を買った。そして戦後数年間も、ドルがまるで正規の通貨のように流通するようになる。世界で最初に信用紙幣を生み出した文明が、最も新しい文明を築きつつある国の紙幣に乗っ取られてしまったのだ。
 なお、産業の再編成は、戦争中に沿岸部にいた中華民族系の資本が、連合軍の手によって戦争中に荒っぽく解体されていたため、農業国家として再建するより他無かったという側面もあった。蒋介石の支持母体だった事もあり、民族資本は厳しい法制度のもとで解体され、僅かな重工業や軍需産業は工場ごと根こそぎ潰され、特に蒋介石と繋がりが深かった宋財閥は取りつぶして解体された。宋一族については一部を除いてそれ以上咎め立てはせず、多くが中立国に亡命した。
 占領政策として、中華地域の農業国家化が決められていた背景には、日米にとっての「裏切り者」への懲罰と、戦争中に中華経済を破壊しすぎていたという側面もあった。一説には「中華の復活」を恐れたためと言われるが、当時の人々にとって中華世界は他の四大文明同様に「過去の文明」に過ぎず、遅れに遅れた非近代世界でしかなかった。
 穏健と言われた日本の中華世界への感情も、「過去の中華文明」や伝統文化、芸術に対する敬意や憧れだけだった。しかしアメリカが進めようとした、「民主的な近代的教育」の普及のため文字を漢字からアルファベットに変更しようとした動きには、日本の学会を中心に地域文化の根底を破壊するとして強い反発が起きたりもしている。
 一方で、漢字の簡略化に関しては同意したのだが、問題が皆無では無かった。満州に導入した日本の漢字(近代漢字)を、成功例としてそのまま旧中華明国地域にも広めていたからだ。これを、文字の文化侵略と言うことがある。また言語に関しては、歴史的影響もあり諸外国が親しみの深い上海語を標準語に制定させた事も、中華地域の南北対立を煽る結果になった。
 
 マッカーサー元帥を中心とするチャイナGHQによる中華地域の占領統治は、こうして沿岸部の人口密集地帯を中心とした経済の安定化から開始されたと言っても過言ではなかった。
 民衆に一定程度の今日の食事を食べられるようにしなければ、他の事が何も出来なかったからだ。この点、戦争中の日本軍による軍政の方が、現地経済に根ざした経済の自然回復に委ねただけ、むしろ安定していたとも言われる。
 しかし、当時のドルの威力は流石に凄かった。1ドル紙幣に印刷されたアメリカ建国の父ジョージ・ワシントンを新たな皇帝だと勘違いする者が続出したほどで、このままではアメリカ人を皇帝とした新たな中華王朝の誕生を中華の民衆が望んだとすら言われている。マッカーサー元帥も、国王や皇帝を意味する「主上」と俗称された。サングラスにコーンパイプの姿は、新たな支配者のシンボルと捉えられた。
 極論、中華の一般民衆にとっては、天朝(中央政府)が公正で健全な統治をしてくれるのなら、支配者が誰でも構わないのだ。長い歴史を振り返っても、長期王朝の約半分は中華の外の世界に住んでいる蛮族(騎馬民族)だったからだ。
 だが、新たな皇帝もしくは王朝と見られた者達は、統治にこそ一定の努力は傾けるも、中華王朝の統一事業は行わなかった。その逆に、周辺部を次々と切り離して独立させていった。しかしそれも、一部の国粋主義者や帝国主義者、権力に近かった懐古主義者以外にとって重要ではなかった。
 1947年から48年にかけて、東トルキスタン人民共和国、チベット法国、内蒙古王国、ウンナン共和国、コワンシー共和国と成立するも、それらの国から追い出された者以外に民衆からの反発はなかった。ソ連が次の一手としたプリ・モンゴル人民共和国(=東内蒙古)も、中華中央部の人々にとっては、半ばどうでもよい事だった。海南島がアメリカ、日本共同統治の国連委任統治領とされている事も、特に気にはしなかった。中華民国が敵視し続けた満州帝国については、一部で満州軍が強制移住や事実上の民族浄化を行ったにも関わらず、そうされた人や地域は運が悪かっただけとされ、満州は移民したい場所の最有力候補でしかなかった。台湾など、もはや誰もが日本領としか考えていなかったし、こちらも移民したい場所でしかなかった。

 しかし新たな「皇帝」となるアメリカにとっては、徐々に看過できない状態が中華地域に訪れつつあった。
 一つは言葉の統一を目指した事による、北部、中部、南部(※主に北京語、上海語、広東語)の対立だが、この点はアメリカによる経済的な恩恵から、当時はそれほど問題視するほどではなかった。
 だが、奥地で広がる共産主義の浸透は大問題だった。
 1930年代半ばに滅びた中華共産党の残党が、生き延びていた幹部の一人である林彪将軍を中心にソ連の手厚い支援を受けて再編成されつつあり、青海、甘粛を中心とした内陸部の奥深くで勢力を拡大しつつあった。また最後まで中華民国政府が抵抗した四川盆地でも、反米、反連合国機運が高まり、相対的に共産主義の浸透が進んだ。
 加えて、山の奥地に広がる四川盆地は、紀元前の昔から自立心が強く、中華中央部、沿岸部に対して反抗的だった。そこに中華民国最後の抵抗の場所ということで自尊心が高まり、さらには連合軍が草の根すら残さないと揶揄された徹底した爆撃を行うことで、民衆に連合軍への敵愾心を植え付けた。連合軍も気にして、占領統治では四川への援助を厚くしたのだが、あまり効果はなかった。
 そして1949年10月、甘粛の蘭州で林彪を主席とする「中華人民共和国」の建国が宣言されるに至る。そしてそれは、中華地域の長く続く新たな混乱の幕開けに過ぎなかった。
 この後に起こる混乱は後の節に譲り、同時期の別の地域を見ていこう。

 北東アジアが、日本、アメリカにとって予想外に混乱の予兆を見せる頃、ソビエト連邦ロシア及び共産主義陣営との対決の決戦場と目されていたヨーロッパも、両陣営による対立構造が日に日に激化していた。
 ヨーロッパでの東西冷戦構造の幕開けは、1949年の「ベルリン封鎖」と言われる。
 しかしアメリカによる共産主義封じ込め政策の「トルーマン・ドクトリン」、ヨーロッパ復興計画の「マーシャル・プラン」、そして「北大西洋条約機構(NATO)」結成は、全て共産主義陣営との対決の為に行われた事だ。
(※1948年のアメリカ大統領選挙では、ハルは自らの老齢を理由に出馬せず、民主党は副大統領だったトルーマンが出馬して、候補を絞れなかった共和党に勝利している。)
 また、ギリシア内戦では日米英が王党派を支援し、共産主義勢力に勝利している。このギリシア内戦では、共産主義勢力が勝利してギリシアが共産主義国家になっていたら、自由主義陣営のヨーロッパ戦略は根底から崩壊していたとすら言われる事も多い。
 そして勢力拡大が著しいソビエト連邦ロシア率いる共産主義陣営は、東ヨーロッパ各地に共産主義国家を成立させると、1949年に「経済相互援助会議(COMECON)」、「ワルシャワ条約機構」を作り、そして1955年のドイツ再独立(※ドイツ民主共和国成立。)によってヨーロッパでの共産主義陣営の完成を見ている。この中でバルカン半島南部のアルバニアの去就が注目されたが、アルバニアは自由主義陣営からも一歩身を引いて最終的には鎖国という形で中立化していく事になる。
 そして「ベルリン封鎖」によるベルリンからの連合軍追い出しの成功は、真の道に目覚めたドイツ人民をはじめとする共産主義陣営の勝利として高らかに宣伝された。自由主義陣営はフランクフルトを維持したことで勝利を宣言したが、この時点での実質的な敗北を認めざるを得なかった。
 そしてこれ以上後退できない事もあり、ライン川西岸地区、「連合軍ラインラント地区」の「占領」を継続した。

 主にアメリカ軍とソ連軍によるヨーロッパ占領は、1949年のオーストリア独立復帰で形だけは終了した。
 しかしドイツは、占領継続が国連上でも定められた。ドイツ占領とそれに伴う産業国家としてのドイツ解体にはアメリカや西欧諸国なども賛成したが、ソ連軍によるドイツの農業国家化は歴史的悪行と後世言われている。だがその裏で、ソ連軍は「次の戦争」に備えた準備を怠りなく行った。このため連合軍というよりアメリカは、フランス及びベネルクス三国への大規模な軍の駐留を続けざるを得なかった。ロンドンにはヨーロッパ方面軍総司令部が置かれ、最初期で各地の占領軍とあわせて1個軍集団規模を、情勢が落ち着いてからもフランス全軍に匹敵すると言われた増強1個軍を駐留させた。
 1980年代になると、3個軍団6個師団を中核とする重装備部隊を駐留させ続けていた。さらに1970年代以後は、アメリカ本国にもほぼ同規模の戦力を短期間で移動可能な状態で待機させていた。加えてアメリカ軍は、中華地域での軍団規模での駐留もあるため、それ以上ヨーロッパに軍備が置けなくなっていた。
 そこで同盟国を頼る。一番は近在のイギリスだが、戦争から十年程度のイギリスに本土以外に大軍を置く余裕は無かった。国民を十分食べさせることすら難しいほど国力が疲弊しており、占領軍としての任務の間ですらアメリカの支援が必要なため、イギリス陸軍のフランス駐留は1960年代までアメリカの資金で実施された。

 そして主要戦勝国である日本も、相応に負担を負わねばならなかった。
 日本の担当は最も危険度の高いライン西岸やフランス正面ではなく、多少は日本とヨーロッパの距離を考慮した地中海方面だった。こちらに必要十分な海空戦力を展開できる体制を整え、最低限の地上戦力を配備する事が求められた。
 これには日本政府は主に経済面で苦慮したが、駐留費についてはNATO諸国が一定程度を分担し、とりわけアメリカが支援することで日本も首を縦に振らざるを得なかった。このため補給のかなりがアメリカ頼りとなり、兵器を含めた装備品がアメリカとの規格共通になる大きな切っ掛けとなった。第二次世界大戦でも可能な限り国産兵器を使っていた日本が、「NATO規格」を導入するのは欧州駐留の為でもあった。
 そしてこの経緯から、ヨーロッパ駐留の日本軍は「NATOの傭兵」と言われるようになる。特に共産主義陣営は、NATOと日本を小馬鹿にするときにこの表現を好んで使った。もっとも当の日本兵達は傭兵という表現を妙に気に入り、1954年公開の映画「七人の侍」にちなんで「侍傭兵」などと言ったりもした。一部の部隊旗にも映画で使われた旗をモチーフにしたものがあったり、侍や武士に関連する部隊章やエンブレムも多かった。陸軍将校などは、軍服を着用した勤務では敢えてすでに日本陸軍内でも正式装備としては廃止されていた軍刀(日本刀)を腰に下げたりもした。
 在南欧日本軍の駐留場所は、海軍がフランスのツーロン軍港。海軍から派生した戦略空軍が、イタリア半島南部とギリシアのクレタ島に分かれて駐留する事となった。そして人数的にも最も多い陸軍は、最終的にイタリア北西部に1個軍団(機甲師団1個、機械化師団2個基幹)が駐留することになる。バルカン半島方面には有力な陸軍部隊はあえて置かれず、少数の海軍陸戦隊がギリシア(クレタ島)に駐留するに止まっている。
 しかしこの駐留には、当初問題があった。

 日本海軍は地中海艦隊を設立して、常時航空戦隊1個を中核とする空母機動部隊などを駐留させる予定だった。だが、当時の地中海には、全長300メートル近く、満載排水量5万トンを越える当時の大型空母を、ドック入りさせる軍港施設がなかった。あるのは日本とアメリカだけで、イギリスですら無理だった。皮肉な事にヨーロッパで日本の大型空母が入れる軍用ドックは、赤いドイツにしかなかった(※かつてのフリードリッヒ級用のみ。また民間の超大型客船用の整備ドックは軍事機密の面で使えない。)。
 このため現地での整備などでのドック入りの際は、アメリカ東海岸にまで赴かねばならず、単に移動の際の効率が悪いだけでなく、最悪防衛体制に空白を作ることになってしまう。このためかなりの期間は、艦隊丸ごとが日本本土から入れ替わりで来る体制が敷かれたほどだ。
 そして経費面を憂慮した日米は、NATO共同出資の形でフランス南部のツーロン軍港を大改修し、将来を見越して満載10万トン級の超大型戦闘艦でも入渠できるヨーロッパ随一の巨大ドックを3年がかりで建設した(※建設には日本の水野組(五洋建設)も関わる。)。他にも、当時のフランス海軍だけでは不要な施設も合わせて作られ、フランス海軍、日本海軍ばかりか、アメリカの大型空母も時折入渠するようになる。そしてツーロン軍港は、戦時の破壊を遙かに上回る大改修により、見違えるほどの大軍港として蘇ることになった。
 超大型入渠ドックについては、イタリアのタラントやナポリに建設するという案もあったし、イギリスも名乗りを挙げた。だが、イタリアは敵に近すぎ、イギリスでは日本にとってアメリカ東海岸に行くのとあまり変わらないので、最終的に南フランスが選ばれた。日本軍は、何かと南フランスと縁があるという事なのだろう。しかしツーロン近辺、特に東部沿岸の方は西欧の保養地として有名なため、艦隊が立ち寄ると観光気分になって士気が落ちると言われた。同じく陸軍も、駐留地から最も近い大都市が観光地として非常に有名なヴェネツィアなため、似たような愚痴が聞かれたと言われる。

 なお、南欧駐留に対する日本軍人達の反応だが、他国が首を傾げたほど非常に積極的だった。なぜなら、日本海軍はカムチャッカ半島やオホーツク海の奥に逼塞するソ連海軍ぐらいしか直接相対する敵がいなくなり、陸軍は満州で実質的にお役ご免となっていたからだ。このため予算獲得と組織維持のためにも、敵と直接向かい合える場所への部隊配備を望み、そしてNATOが一部を出費すると言うことで日本政府も南欧への大軍駐留に首を縦に振ったという経緯がある。
 また南欧駐留では、NATOの指揮下に入ると同時に、日本軍内でも一定規模の現地司令部を作る必要性に迫られた。また、本国から今までとは比較にならない遠隔地での長期駐留となるため、陸海空軍が密接に協力する必要性も生まれた。そこで兵部省が音頭をとる形で、王都ローマに日本軍独自の司令部として「日本軍ヨーロッパ方面総司令部」が設置される。ここでは陸海空軍が一人の総司令官(大将相当官)のもと統合的に運用され、戦後日本軍の有るべき姿のまたとないテストケースとなっていく。

 ちなみに日本海軍の地中海配備は、意外なところから批判が出た。というのも、日本海軍の艦艇は日本本土近海の荒い海で行動することを前提にしているため、北大西洋及び北海の荒い海での運用にも向いていた。翻ってアメリカ海軍の艦艇は、広い海域に展開する合理的な汎用性を求めているため、極端な環境での運用には限界があった。事実、第二次世界大戦中でも、特に冬の北大西洋北部海域、北海では日本海軍の艦艇が優先的に投入されていた。
 当時の映像でも、日本の《高雄型》戦艦が荒波を押しつぶすように安定して進んでいるのに対して、より大型のアメリカの《アイオワ級》戦艦は前甲板を波に大きく洗われ翻弄されるように航行している。
 このためイギリス海軍などからは、日本海軍とアメリカ海軍の配置を変える要請が、主に水面下ではあったが再三出されていた。合同演習時などで漏れるイギリス海軍のアメリカ海軍への愚痴や皮肉も、一度や二度では無かった。
 しかし日本海軍としては、いくら金を積まれても拝まれても、これ以上遠くに駐留する気はなかった。地中海での常駐ですら、日本海軍の感覚で言えば限界を遙かに超えているのだ。しかも日本海軍が戦力を展開するのは地中海だけでなく、駐留規模こそ小さいがインド洋全域も担当しなければならなかった。主にアメリカの担当とされた中東に対しても、気は抜けなかった。当然だが、東アジア、日本本土近海を疎かにすることも出来ない。
 日本は、歴史に残る派手な戦勝と引き替えに、その後終わり無き苦行のような大規模な軍事力の展開、パワープロジェクションを延々と続けることになる。それも冷戦がもたらした、日本にとっての大きな変化だった。

 一方ソ連を中心とする共産主義陣営だが、戦後しばらくはヨーロッパ正面でも軍事的に何もできないも同然だった。戦争でソ連の国家経済が、破綻寸前にまで追い込まれていたからだ(※資本主義国なら破綻していたとも言われる。)。そのため、占領したドイツや東ヨーロッパから価値のあるものを全て奪い取り、ドイツ人を大量に強制労働に駆り出した。強制労働の労働力としては、自らが占領した中華大陸内陸部からもドイツ人よりはるかに多い数を連れ去り、そしてソ連の復興とシベリア開発に強制的に長期間従事させた。そしてロシア人も白人であるだけに、ドイツ人に対しては敵愾心や復讐心はあっても、一部軍人や反抗的な者以外は「人」として扱った。対して中華地域から連れてきた者達については、アジア人の統治に慣れていたロシア人ではあったが、やはり奴隷や農奴のように「物」として考えがちだった。必然的に中華系は過酷な扱いを受け、数百万、一節には一千万人以上がシベリアや中央アジアの土になったと言われている。中華地域が言い立てる第二次世界大戦の死者数も、俗に言う「シベリア連行」での死者を上乗せしたうえで言われる事が多い。
 だが、それだけしても、ソ連の復興はままならなかった。それだけ死者、戦死者の数が多く、さらにドイツが攻めるときより退くときに手当たり次第に破壊していったからだった。
 そして国内の復興も道半ばでも、新たに世界を二分する一方の盟主として自らが定めた敵に対抗しなければならなかった。
 幸いドイツ占領という目標はほぼ達成できたし、戦後もベルリンから新たな敵を追い出す事にも成功した。ドイツ西部を占領した事で、念願の不凍港を手に入れることもできた。
 ドイツからは、終戦時に自沈した艦艇すら浮上して持ち帰ったほどで、自沈しそこねた巡洋戦艦《グナイゼナウ》、空母《グラーフ・ツェペリン》など、連合軍の言葉も聞かず全て持ち帰った。戦利品として連合軍がドイツから得た艦艇は、最大でも駆逐艦までだった。そして旧ドイツ軍艦艇は、名前と一部装備を変更した上で、そのまま戦後のソ連海軍の主力艦艇となった。しかし連合軍が得た艦艇のうち、最新鋭の潜水艦など技術的に見るべき兵器も少なくなかった。
 またソ連がドイツから奪ったのは、何よりもまず軍事技術か軍事技術に応用可能な先端技術だった。民生技術はおざなりで、その多くはドイツを脱出した人々や企業によって自由主義陣営の手に渡り、主にアメリカの技術として活用される事になる。ドイツが持っていた特許も、多くが西側の手に渡った。またロシア人と一緒に東からやってきた満州帝国(正確には東鉄職員)も、ロシア人の案内すら受けながらドイツや東欧の民生技術を集めてまわったていた。
 これを、ソ連は経済的な大魚を逃がしたと言われることもあるが、ソ連の場合は手にしたところで多くのものが経済面で折り合いの付く生産まで持っていける技術や基盤がないため、手に入れたところで「絵に描いた餅」にしかならないため、仕方のない側面があった。

 だが一方で先端技術については、捕虜としたドイツ人科学者、技術者から最優先で奪い、そして学んだ。特にロケット技術、ジェット機技術、その他航空技術、艦艇技術、戦車の技術、様々な軍事技術と先端技術がソ連の手に入り、ソ連の手によって花開いた物も少なくなかった。ドイツの建造施設では、ソ連の為の巨大戦艦の建造が行われたりもした。
 そうした中でソ連を落胆させたのが、ドイツの原爆開発技術だった。
 ドイツは科学技術先進国であり、戦争中は世界で最初に原子爆弾を実用化すると言われていた。だが実際は、解明できていない技術的な壁もあり、実用化には到底及んでいなかった。しかもドイツは戦争中に開発を諦めており、既に実用化したアメリカとは大きな格差が出ていた。ドイツの技術は、一番最初に核関連技術の開発を本格的にスタートさせた日本にすら劣るほどで、核開発でアメリカばかりか日本にすら劣るソ連の焦りは強かった。
 一方でソ連は、核開発の最先端を半ば独走するアメリカから、協力者やスパイを通じて技術を得ることに力を注いだ。そして戦争中は、同盟関係にあることも幸いして、かなりの技術がソ連の手に渡る。しかしその戦争中に、アメリカが秘密裏に進めていた核開発の中にいた共産主義のシンパなどの存在が露見し、戦争中に技術漏洩に対して徹底的な対策が取られるようになった。
 スパイがばれたのは半ば偶然で、アメリカでの開発にソ連を除く連合軍の頭脳が集結していた事ことが原因していた。と言うのも、当時世界一共産主義対策が厳しかった日本から来た科学者、技術者の一部が、スパイをしている科学者や技術者の存在にちょっとした事から気付いたからだ。
 そしてスパイ発覚後は、まずは核開発の現場と人材が厳重に管理されるようになり、ソ連が核関連技術を非合法で手に入れることが非常に難しくなる。しかもその後のアメリカでは、戦争が終わるとすぐにも実質的な共産主義者への監視が厳しくなり、最終的には「レッド・パージ」へと発展していく事になる。
 そして早期のスパイ発覚により、ソ連の核開発は最低でも2年、最大で5年は遅れたと言われている。ただしアメリカでも、スパイをしていた科学者や技術者の逮捕や追放、情報管理の徹底などで開発が遅延し、開発は最低でも3ヶ月、最大で半年遅れたと言われている。
 そしてソ連にとって、アメリカに政治的に対抗できる核技術が開発されるまで、そして自国経済が最低限復興できるまでは、積極的に動くべきではないと考えていた。
 だが、世界が二つ大国の思惑だけで動くわけではなかった。
 その象徴として「第一次中東戦争」が勃発する。

 「第一次中東戦争」は、1949年5月のイスラエル建国が直接的な原因だった。
 独立当時、パレスチナには250万人を越えるユダヤ人が居住していた。これに対してアラブ系住民の数は、ナチスや欧州枢軸軍の弾圧や追放によって戦後に戻ってきた数を含めてもユダヤ人の3分の1程度で、人口面で大きく劣るようになっていた。しかも一度追放されているため、地盤も失っていた。このため連合軍及び国連は、このまま既成事実が固定化することで、大きな問題、特に戦争は起きないと楽観していた。
 現地の占領統治は、当初は日本軍とアメリカ軍がいたが、戦争中の時点で数を減らして、戦争終了頃になると日本軍の姿はほとんど見られなくなっていた。本来ならイギリス軍が統治するべきだが、この時点でのイギリスにその余力はなく、統治はアメリカ軍によって行われた。
 そしてアメリカは、世界で最もユダヤ人が住んでいる国であり、しかも主に経済的に非常に大きな影響力を有していた。必然的に、アメリカから現地ユダヤ人への「援助」が行われる。だがアメリカでもユダヤ人に対する反発は強いため、国家としてのアメリカは問題を国連に預けてしまう。そして国連を通じて、ユダヤ人とアラブ人の分割統治を進める。ソ連がアメリカの片棒を担いだのは、戦後石油資源が豊かなアラブ地域を不安定化させて不要な力を持たせないためなど様々な説があるが、ソ連としても自国内のユダヤ人問題が絡んでいた。ソ連にもユダヤ人は多数居住していたからだ。
 そして国連決議により、パレスチナはユダヤ人、アラブ人、そしてエルサレムの国連管理地区に分けることが決まる。
 だが、誰もが決議に反発して内乱状態に陥る。そして既に現地にアメリカ軍の姿はほとんどなく、内乱は放置状態となってしまう。
 そしてこの問題に対して、不利なパレスチナ住民を支援するため、周辺のアラブ諸国が他地域の国々からの声を無視して積極的に介入し、当然さらなるユダヤ人の反発を呼んで、ついには1949年5月にイスラエル建国が宣言される。
 「第一次中東戦争」の始まりだ。
 戦争は、当初は軍隊(国家の軍事力)を持つことを禁じられていたイスラエルの不利で進むが、イスラエルは世界中から中古武器を集めるなどして辛うじて持ちこたえる。人口と勢力圏の多さも、ユダヤ人の有利に働いた。世界の誰もが戦争になればイスラエルが負けると考えていたので、非常に大きな番狂わせだった。
 そして一度目の休戦の間にイスラエル国防軍が編成され、世界中のユダヤ人達が名目上スクラップとした戦車を含めた武器をかき集めて体制を整える。兵器の中には、彼らを弾圧した旧ドイツの兵器も少なくなかった。対してアラブ側は、せっかくアラブ連盟を作ったのに主導権争いに明け暮れて統一がとれず、圧倒的な国力、兵力の差を活かすことが出来なかった。アラブ陣営の敗北を、イランが戦列に参加しなかったからだと言う事もあるが、そもそも他国の宗派の違いがある上に、当時のイランは日本が厳しく指導している最中で、戦争には全ての面で参加できる状態ではなかった。
 結局1950年2月に停戦が成立し、イスラエルは存続していく事になる。

 一方でアラブ連盟だが、最初のアラブ連盟にはエジプト、サウジアラビアなど殆どの国が加わっていた。加盟していないのはトルコ、イランぐらいだが、ただしトルコの場合は、自らをイスラム国ではあってもアラブとは考えていなかった事も考慮に入れるべきだろう。
 イランは他のアラブ国家と宗派が違うため(※スンニ派とシーア派)加わらなかったというのもあるが、政治的に民主化、共和制化が精力的に進んでいたことも、他のアラブ諸国から嫌がられた大きな理由だった。民主共和制のトルコがアラブ連盟に加盟していないのと、ほぼ同じ理由だ。
 しかもそのイランは、1951年に日本政府との間に協定を成立させ、アラブ世界で先駆けて一部ではあるが国内油田の利権回復を実現する。一見日本に不利な協定に見えるが、採掘する企業は若干の英国資本を除けば日本資本であり、日本としては国際価格で安定して石油が得られれば十分な成果と見ていた。当時の日本にとってイランは遠隔地すぎて、衛星国や経済植民地のような強い影響力下に置く事が難しかったからだ。また、日本には他国を援助する財政的ゆとりに乏しい為、その代替手段として用いられたという側面も強かった。
 そして戦後の日本は、自らが背負わねばならない大国としての義務に対して途方に暮れていた。だが、義務を果たさない訳にもいかないため、目先の利益よりも長期的な視野で物事を捉える傾向が強くなり、これを当時の欧米諸国は「日本的視野」や「アジア的視野」と呼んだりもした。
 しかし日本がイランに肩入れしすぎた為、日本と他のアラブ諸国との関係は希薄にならざるを得ず、その後も日本の影響はペルシャ湾岸でに止まるようになる。このためパレスチナ問題、イスラエル問題ではせいぜいオブザーバーの地位となり、問題は国連を介してアメリカが背負い込むことになった。
 そして最初に問題の種をばらまいたイギリスは、戦争で色々失った事で、逆に巧く逃れることに成功していた。
 もっともイスラエルの問題は、自由主義陣営と共産主義陣営の対立ではないため、泥沼化したのと引き替えに国際的な重要度は低くする事にもなった。
 しかも第一次中東戦争が終わってすぐにも、両陣営の最初の激突が起きたため、国際的には尚更問題が希薄化されてしまった。
 その最初の激突こそが「支那戦争」だった。



●フェイズ97「支那戦争(1)」