●フェイズ97「支那戦争(1)」

 日本名「支那動乱」もしくは「支那戦争」(チャイナ・ウォーズ)は、1950年6月25日に勃発したとされる。
 基本的には共産主義の理想実現を掲げた自称「中華人民共和国」が、中華世界の再統一を旗印に始めた戦争だった。

 「中華人民共和国」は、1949年10月に支那奥地の青海の蘭州で林 彪(りん・ぴょう)を主席(国家元首)として成立を宣言した。だが、ソ連や共産主義国、社会主義国しか独立も建国も認めなかった。自由主義陣営としの公式見解では、非合法な武装勢力によって不当に占領された地域に過ぎなかった。
 だが、アメリカを初めとする自由主義陣営も情勢を座視しているわけにもいかず、ゆっくりと進めていた支那の再独立作業を慌てて進めた。そして1950年2月に自分たちの影響力の及ぶ範囲に旧中華民国の主権を返還し、改めて「支那共和国(リパブリック・オブ・チャイナ)」を独立させて対抗する。
 同国は、孫文の息子孫科を大統領とした共和制国家だが、アメリカの望んだ民主選挙ができるような民意はまだまだ育っておらず、当然ながら議会も存在しなかった。戦争中さらにはアメリカ軍の占領統治中に新政府及び中央官僚団作りは進んでいたが、まだまだ未完成で多くが予定表の中だった。当初目指していた連邦化も、地方政府の未熟などを理由に見送られた。
 しかもアメリカが占領中に押しつけた「進歩的な」憲法のおかげで、支那政府はまともな軍備も持てなかった。
 この憲法は、実質的には「占領軍憲法」ながら「平和憲法」と自画自賛され、アメリカ中枢から外された社会主義、共産主義の考えの強い人々の生き残りが関わった事から、ドイツのかつてのワイマール憲法よりも理想主義の側面を強めていた。しかし、半ば傍観者となっていた日本や西欧諸国などは、理想憲法や平和憲法とは言わずに、普通に占領軍憲法と揶揄していた。それは軍備を著しく制限し、警察に毛が生えた程度の軍備しか認めず、憲法上でも国家の自衛権を強く制限していたからだ。その上でアメリカ軍が駐留しているのだから、占領軍憲法以外の何物でもなかった。
 憲法自体は、ソ連が作った「赤いドイツ」の新憲法と体制にも似ていたが、支那共和国憲法は主権国家の根幹の一つである国防権すら大きく制限していた。限定した自衛戦闘しか認めず、装備や編成も非常に制限していた。占領統治していたアメリカとしては、本来は軍備を全く認める気は無かったのだが、地方軍閥の抑え込みと討伐のために最低限のアメリカ軍以外の戦力が必要だった事と、大陸奥地の共産主義勢力への対抗のためだった。また装備と物資を与えても、物資を横領、私物化するのが目に見えていたという点も、軍備を制限した大きな理由だった。そしてこの時期のアメリカは、今までの経験から中華系住民をまったく信用していなかった。
 また、一応独立させたのは、共産主義政権に自分たちこそ正統なチャイナ地域の国家だという主張を退けるためでしかなかった。まさか、すぐにも戦争を吹っ掛けてくるとは想像だにしていなかった。独立させてもアメリカ軍も少数ながら駐留しており、これだけで欧米の政治というものを理解していれば、戦争を自ら仕掛けるはずはないからだ。宗主国のソ連の方でも、アメリカにアジアでプレッシャーをかけられれば十分と考えていた。
 さらには建国から間もなく、支那領域の青海と四川が山脈で分断されたような状態で、軍事的行動を起こすとは考えもしていなかった。
 だが、支那(中華世界)のことしか見ていない、もしくは考えていない人々にとって、欧米の政治理論や駆け引き、さらには軍事的正当性は無用の産物だった。そして中華人民共和国の林彪主席らにとって重要なのは、目の前に血の滴った肉が食べてくれと言わんばかりに転がっている事だった。何しろ林彪は、基本的には政治家ではなく「ゲリラ屋」でしかなかった。攻撃対象があれば襲いかかるのは、もはや本能ですらあった。

 1950年6月25日黎明、甘粛の蘭州と四川盆地の二つの方向から、かつて長安と呼ばれた西安目指して、中華人民共和国の人民解放軍約50万の大軍が、一斉に侵攻を開始した。
 北部奥地には、支那共和国軍の主力部隊の一つに当たる約10万の兵力があったが、象徴的な軽戦車(山岳戦に向いたM24)部隊と僅かな航空機(レシプロ機のみ)、重砲(75mm級)以外、重装備をほとんど保有していなかった。しかもアメリカ軍は、万が一共産党軍が機械化部隊を全面に押し立てて攻めてきても、バズーカ砲(小型の簡易ロケットランチャー)で十分対処できると楽観視していた。
 だが、第二次世界大戦後半に活躍した「T-34/85」戦車部隊を前面に押し立てた人民解放軍の前に、一応はアメリカ式訓練を施された支那共和国軍は、ほとんど歯が立たなかった。しかも中華地域の兵士の常として、負けると簡単に戦場を放棄したり、その場で降伏していった。軽装備とは言え米軍供与の武器と相応の弾薬も配備されていたので、装備面では人民解放軍を上回るほどだったのだが、兵士の多くが軍服すら脱ぎ捨てて逃走した。
 満州軍が厳重に行った忠告と対策マニュアルは、アメリカ軍及び支那共和国軍にはほとんど無視され役に立たなかった。この時の支那共和国軍の惨状を、当時の満州帝国軍統合参謀本部長だった牟田口元帥は、「当然の結果」と冷淡に評している。
 このため主戦線は3日で崩壊し、200キロの距離を人民解放軍はわずか10日で踏破。西安の街は、共和国軍兵士の敗残兵による掠奪の後に、呆気なくほぼ無血陥落した。
 人民解放軍がこれほど精強で水際立った進撃が出来たのは、早くは大戦中から東トルキスタンなどソ連の占領地域もしくは影響圏内で、部隊の編成と訓練に明け暮れていたからだ。また、共産主義的訓練と厳しい軍律で鍛え上げられていた。さらには規律が厳しく、中華地域の伝統とすら言える掠奪ともほぼ無縁で、侵攻した先々の民心もすぐに得た。

 国家主席となった林彪は、1934年の中華共産党壊滅の時に行方不明となって以後、しばらくは少数の仲間と共に盗賊状態で流浪していたが、1941年に東トルキスタンに進軍してきたソ連軍に接触。以後、その軍事的才覚を見込まれて、中華共産党軍(人民解放軍)の中心的存在となって頭角を現し、ソ連の勧めにより国家主席となった。しかし、林彪は政治力には疑問の多い人物で、権力欲が強く御しやすいためソ連が主席に据えたというのが定説だ。実際、同じ人民解放軍からの圧倒的支持を受けていたが、中華人民共和国の政府要人、政治家からはあまり人気が無かった。
 だが、彼を非難する者も、彼の軍事的手腕、特にゲリラ的な戦闘手腕を非難する者はいなかった。初戦の勝利は、間違いなく林彪指導だからこそもたらされた勝利だった。
 とは言え、機械化率が低く歩兵主体の軍隊では、進軍速度には限界があった。それに人民解放軍の初期の目的は、西安を制圧して四川と青海の連絡線を太くすることだった。それまでは険しい山間の細い道しか使えなかったので、戦略的にも格段の変化だった。しかもこれで、四川方面に青海方面にあったソ連から供与されていた重武装と物資が大量に送り込めるようになり、四川方面の軍事力が飛躍的に向上する事になる。そして四川から揚子江中流域やウンナン共和国へも進軍できる体制が整えられ、支那共和国の防衛負担は非常に重くなった。

 アメリカも手をこまねいていたわけではない。
 6月27日に開催された国連の安全保障理事会では、中華人民共和国並びに人民解放軍を侵略者と認定。この際ソ連は棄権することで、自分たちがそそのかしたのではない事を示したとされるが、黙認はアジアでの混乱の間にヨーロッパでより優位な状況を作る時間と考えての事だった。またアメリカを、チャイナの「人の海」もしくは「泥沼」に放り込む事を目的としていたと言われる。
 そしてアメリカは、人民解放軍の進軍開始から僅か3日後の6月28日には、北京に移動していた極東軍のマッカーサー元帥が、西安方面の前線視察を実施。マッカーサー将軍からの報告を受けたアメリカは、支那政府への全面的な支援と「国連軍」として自らの軍隊の派遣を決定する。
 支那共和国軍は、アメリカ軍の指導のもとで四川、西安それぞれの平野部に出るまでにある黄河、揚子江の狭隘な地形に防御陣地を構築し、敵の侵攻を防ぐように泥縄式ではあるが手だてを講じていった。
 だが、人民解放軍の方が一枚上手だった。
 ウンナン共和国には、国際的に見て多国間戦争となると政治的不利が多いため、国境に多少の軍隊を並て威嚇するだけで、それ以上の強い行動を取る事はしなかった。だが、まともな軍備のないウンナン共和国の悲鳴を無視するわけにもいかないので、アメリカ軍は少なくない戦力と努力を割かねばならなかった。
 青海から南に伸びるルートの先にはチベット地域があるが、こちらも無視するわけにはいかず、ヒマラヤ山脈を挟んだインドへの影響力が強い日本が支援して、武器や物資が急ぎ空輸で送り込まれた。この支援では、インド最強のグルガ傭兵が急遽多数雇用され、以後チベットの防衛の重要な一翼を担うようになる。
 揚子江方面では、四川から武漢方面への攻撃こそ行われたが、あくまで牽制だった。四川に物資が流れるようになってから時間も短かったせいもあるが、人民解放軍の本命は北部にあったからだ。
 主力は黄河流域に殺到し、しかも主要街道を主力部隊が進むも、小さな道を通って少数の部隊が平野部目指して浸透し、防衛体制の整わない支那共和国軍を得意のゲリラ戦術で翻弄した。
 そして黄河を下った主力部隊は、初めてアメリカ軍と激突するが、慌てて配備されたアメリカ軍は平時編制に近い1個大隊を基幹とした小規模な支隊だった。しかも小口径のバズーカや小型の無反動砲などしか持たない軽装備部隊だったこともあり、アメリカ軍部隊はT-34/85戦車と「人民の海」に押しつぶされた。
 アメリカとしては、アメリカ軍の旗を見せることで敵の牽制を目的としていたとしているが、あまりにも現状認識が甘かったと言えるだろう。相手はそうした政治的要素を、最初から無視してきていた。

 当時アメリカ軍は、第二次世界大戦の最盛時に1200万人を数えた兵士のうち90%近い動員解除を行い、各地に配備されている兵力の多くも平時編制だった。特に陸軍の縮小は大規模に行われ、まともな部隊は準戦時編制のままの西ヨーロッパのライン川正面だけだった。当時アメリカ陸軍は18個師団を基幹とし、実働部隊の主力(約1個軍)をフランス、ベネルクス地域に置いていた。
 アジア、というより中華地域には、華北を中心に4個師団と1個連隊戦闘団を駐留させていた。ほとんどが中華地域に駐留していたが、広大な中華地域に対して兵力が少なすぎた。しかも3個師団を主力とする第8軍団は、北京の北西部でモンゴルを挟んでソ連軍と向かい合うように配備されていた。残る1個師団も不安定なウンナン地域に配備され、他は上海近辺に連隊戦闘団、海南島に海兵隊の1個連隊がいるだけだった。しかも各連隊は平時編制で、3個あるうちの2個しか大隊の兵士はいなかった。さらに現地に空軍も駐留していたが、数は少なくジェット機も無かった。
 北には満州帝国が、海を挟んで日本帝国があるとはいえ、戦争をするにはいかにも当座の兵力が少なかった。そして兵力不足を補う支那共和国軍は、数だけは50万人近くいたが、地方を押さえ付けたり共産ゲリラを討伐するため分散しており、しかも任務続きのため訓練不足の部隊が多かった。さらに言えば、軍の多くも地方軍閥出身の未熟で統制の取れない兵士が多く、様々な面で問題を抱えている場合がほとどだった。
 そしてアメリカは、取りあえずは準備の出来た自軍の部隊を小出しに逐次投入することで時間を稼がざるを得なかった。逐次投入は愚策であり兵力の無駄遣いでしかないが、何もしなければ逃げ散るだけの支那共和国軍が敵に進撃路を提供するだけなので仕方なかった。
 当然、同盟国の日本、満州に「国連軍」としての援軍が依頼されたが、何の戦争準備もしていないのは日本、満州も同様だった。しかも満州のソ連国境ではソ連軍が活発な活動を開始しており、満州軍は当面は身動きが取れなかった。日本軍は、有事の際にヨーロッパに送るために待機していた戦略空軍の部隊を、緊急輸送で中華地域に進出させようとはしたのだが、受け入れ体制が整っていないため進みたくてもできなかった。それでも何もしなかった訳ではなく、日本本土からは物資を詰め込んだ輸送機が飛び、まずは現地の受け入れ体制を整え始める。
 また、直接日本本土を飛びたった重爆撃機2個中隊(※大戦中の「連山」爆撃機の改良型「連山改」を装備)は、山間の狭い街道を大勢で進む人民解放軍に対して、第二次世界大戦を彷彿とさせるような超低空からの戦術爆撃を実施し、それなりの時間を稼ぐ事に成功していた。人民解放軍は、この時点での敵のまとまった空襲を予測していなかったからだ。
 しかし日本軍が当座に出来たことと言えば、その程度だった。予算不足から平時の弾薬の備蓄も少ないので、一瞬だけアメリカ軍が期待した戦術用の重爆撃機も、取りあえず日本中から爆弾を九州などの基地に集めなければならなかった。当時の日本軍は、アメリカ軍以上に緊縮財政下に置かれ、兵力の動員体制はもちろん備蓄物資、弾薬もアメリカ以上に少なかった。あるものも多くは欧州の駐留部隊に割り当てられていた。しかも弾薬の一部は、検査を通過しているとはいえ先の大戦での余りものだった。
 また日本海軍は、中華沿岸ギリギリまで空母を寄せて、増槽付きの艦載機を放つことで、当時空軍力が大きく劣っていた状況を限定的に緩和させている。これで戦場が海から近ければ、空母の戦略価値ははるかに高かっただろう。そして空母も、当座の弾薬と燃料しかないため、継続した支援が不可能だった。
 陸軍部隊については、有事の際にはすぐにも1個軍団が満州帝国か極東共和国に援軍として渡ることになっていたが、それも情勢が逼迫してから一定の準備期間を見越しての事だった。冷戦最盛時のアメリカ軍の緊急展開軍(RDF)ように、すぐに本国の港を抜錨できるという状態では無かった。陸軍部隊の空輸についても似たようなもので、状況はある意味アメリカ陸軍より酷かった。と言うよりも、戦後すぐの空軍設立で空軍(防空空軍)となったかつての日本陸軍航空隊には、この時期の平時に少数の空挺部隊以上の兵力を空輸する能力が無かった。戦略性の高い大型輸送機は基本的に戦略空軍が装備していたが、戦略空軍は有事、平時を問わずに、兵士の輸送はともかく空挺降下や空挺兵の輸送は任務外だった。
 この輸送力と兵力移動体制の不備は、その後兵部省全体でも問題視され、その後軍全体で大きく改善されることになるのだが、それはこの時期には存在しないものだった。
 しかし日本軍による一回限りの爆撃は、米軍に別の攻撃手段を思い出させてしまう。日本軍は戦術爆撃が得意だったが、自分たちにも爆撃という手段があると。

 開戦から2ヶ月半が経過した。
 人民解放軍は進撃を続け、洛陽、鄭州を次々に陥落させて北部の平原地帯へと広がりつつあった。当座の目標は黄河下流にある済南と、少し内陸の石家荘。戦略目標が首都北京なのは明白だった。そして支那共和国軍は、戦線を支えることが出来ずにズルズルと後退し、人民解放軍の占領下となった地域では寝返る元軍閥も多かった。そればかりか、戦っているその場で寝返ることすらあった。戦線が崩壊しなかったのは、ソ連の圧力を半ば無視して北部から転進してきたアメリカ陸軍第8軍団が、不十分な体制ながらも戦闘加入したからだった。だがそれも、膨大な兵力を擁し人の海となった人民解放軍の北京進撃を遅らせるのが精一杯だった。
 そこでアメリカ軍というよりアメリカ政府は、一つの命令にゴーサインを出す。
 原子爆弾の実戦使用だ。

 原子爆弾は第二次世界大戦の最後、1946年8月6日、9日にドイツのニュルンベルクとケルンに投下され、合わせて20万人以上の市民を虐殺した大量破壊兵器だ。その威力と残虐性は今日は良く知られているが、当時はそれほど知られていなかった。ニュルンベルクを占領したソ連は、原爆の残虐性、非人道性についてプロパガンダに務めていたが、当時の自由主義陣営はプロパガンダであるだけに信憑性は低いと見ていた。ケルンの被害については、アメリカ軍が情報の一部を軍機として非公開にしていた事や、「悪逆なナチスドイツ」の都市に落としたということもあり、あまり深刻には考えられていなかった。アメリカ軍の原爆に対する一般認識も、一発で都市や重要拠点の破壊、もしくは集結している軍隊を壊滅できる「大きな爆弾」でしかなかった。
 そして1950年9月の段階では、核兵器は唯一アメリカだけが保有していた。
 ソ連での急速な開発は噂されていたし、当時は日本での開発も最終段階に入っていた。イギリスも、アメリカ、日本から技術支援を受けて開発していた。だが、この時点では唯一アメリカだけが保有する兵器で、使用するための手段となる重爆撃機(戦略爆撃機)も大量に保有していた。第二次世界大戦で今ひとつ活躍できなかった重爆撃機は、原爆誕生のおかげで戦後も生き残るばかりか、さらなる開発と発展、そして大量配備すら許された兵器だった。
 また、アメリカ国内の急進派の中には、この時期に全ての敵を原爆で吹き飛ばしてしまうべきだったと言う者もいたほどだ。そしてこの言葉は、アメリカがかなりの数の原爆を既に保有していた事を如実に示していた。しかもアメリカでの原爆の開発と発展は急速で、既に大型原爆の第一線配備が始まり、さらには水爆(水素爆弾)の一段階前でもある強化原爆の実験も始まっていた。水爆すら、すでに実験に向けた開発が行われていた。
 それでも第二次世界大戦での使用に対して世論の反発もあり、実戦使用には多少のためらいもあった。だが、支那戦争での戦況から、使用もやむを得ないとの判断が下る。アメリカ市民や自由主義陣営各国に対しても、人民解放軍の非人道性と残虐性、戦争で受けたアメリカの損害を残酷な写真と共に広める事で、使用のハードルを下げる努力が行われた。
 と言っても、原爆を都市に落とすわけではない。それに落とす都市といったら、悠久の歴史を誇る西安と洛陽も含まれてしまうが、万が一落とした場合の支那民衆の反米感情が憂慮された。殲滅戦争をするわけではないので、初っぱなから交渉相手を吹き飛ばすわけにもいかず、首都蘭州に落とす事もできない。それにこの時点での人民解放軍は、都市部にはほとんどいなかった。いるのは前線か兵站拠点の中継地だけで、兵站拠点ですら郊外の畑などに作っていた。そして原爆の標的も、前線の集結地点とその兵站拠点だった。前線だけでなく後方も狙ったのは、物資がなければ進むことができず、前線の敵を叩くよりも効果的に戦線を安定させる事ができるからだ。

 1950年9月15日、約4年ぶりに原子爆弾が人の上に投下された。
 落とされたのは、かつての15キロトンから20キロトン型ではなく、より大型の50キロトン型だった。しかも1発、2発ではなく、一度に6発、300キロトン分も投下された。全て人民解放軍の兵站拠点か、前線で兵力を集中していた集結地点が選ばれた。
 しかも爆撃は、一部で陽動や欺瞞を兼ねて通常爆撃も交えた大規模な爆撃を行うも、投下地点に対しては高々度偵察を装って近づき、戦術的にも奇襲に近い形で一斉に投下された。このため攻勢などのため密集していた兵士は、塹壕や半地下陣地に待避する間もなく爆発に巻き込まれた。
 この爆撃により約23万の兵士が即死もしくは短時間で死亡し、さらにほぼ同数の兵士が負傷し、そのうち約半数が短期間のうちに死亡した。被爆者はさらに多く、周辺の一般市民を含めると60万人を越えていたと推定されている。ドイツでの被害を上回る数字だった。人的被害はアメリカ軍の予測よりも多かったが、これは人民解放軍が「人の海」の戦術のため前線での兵力を密集させていた事と、物資の運搬を機械力に頼らず多数の兵士、徴用した民間人を動員した人海戦術で行っていたからだ。またその後方拠点で、多数の周辺住民が強制的に駆り出されていた事も影響していた。
 しかも国連軍は、原爆に呼応して通常爆撃も強化して行い、さらに多くの戦果を挙げた。通常爆撃には、アメリカ軍だけでなくある程度の体制を整えた日本軍、満州軍も参加していた。
 人民解放軍が北京方面に進軍する為に準備されていた物資も、焼き払うか爆風で吹き飛ばされた。同時に、今まで進撃を支えていた人民解放軍の主力部隊が壊滅し、多くの人民解放軍指揮官も戦死するか負傷した。
 そしてアメリカ軍、国連軍は貴重な時間を稼ぐことに成功するばかりか、それまで防戦一方だったアメリカ軍のターンへと移る。
 アメリカ軍による原爆使用自体は、当初はほとんど誰も問題視しなかった。第二次世界大戦とは違って軍隊に対する使用なので、むしろ正しい使い方だと考えられた。国連軍では、これほどの威力と効果があるのなら、なぜもっと早く使わなかったのかという意見の方が多かったほどだ。前線でも「ビック・ボム」、「マッシュルーム・ボム」と大絶賛だった。
 そしてアメリカ軍は、その後も原爆を躊躇わずに使用した。原爆使用は戦況を有利し友軍の損害(犠牲)を減らすための有効な戦術と判断され、そしてアメリカだけが保有している兵器であることが使用の際の政治的、軍事的、そして心理的ハードルを大きく押し下げていた。
 ソ連は、国連などあらゆる手段でアメリカの原爆使用を非人道だと非常に強く非難したが、この時点でソ連が単なる非難に止めると言うことは、ソ連が原爆を非常に恐れている事の何よりの現れと考えられた。事実、最新鋭のジェット戦略爆撃機を用いれば、アメリカ軍は世界のどこにでも原爆を自由に投下する事が可能だった。
 その後も、アメリカ軍の原爆使用は、週に1回程度の頻度で続いた。新開発の5キロトン級の小型原爆を戦術核と呼んで、敵の集団を包囲するように同時に3発投下して、一瞬で数万人の軍団を爆風の相乗効果で吹き飛ばすなど、もはや戦争とは言えない状態だった。やっている事は、後世において戦場での原爆実験に近いとすら言われた。実際、多くのデータが集まった。

 10月になると、人民解放軍は大きく戦線を後退させるしか無かった。もはや短期間での北京攻略は、物理的に不可能だった。しかも兵力と物資の双方を失いすぎたため、北京攻略は二度と不可能でもあった。
 だが、人民解放軍は戦法を少人数単位でのゲリラ戦に転換し、しかも一般民衆の中に紛れることで、アメリカ軍が簡単には原爆を使えないようにした。
 これで戦況は停滞し、大規模戦闘、原爆の大量使用の次は、アメリカ軍が不得意とする不正規戦へとなだれ込んでしまう。
 そしてその頃になると、体制を整えた日本軍、満州軍の地上部隊が本格的に中華北部の前線へと到着するようになる。日本列島で有事に備えて待機していた日本陸軍第2軍団、中原で増援用の予備兵力として配備されていた満州陸軍第3軍団の合わせて5個師団で、装備と後方支援体制を合わせて考えれば、正面からの戦闘ならば同数の人民解放軍の5倍以上の戦力があると考えられた。アメリカ軍も、国内の動員体制を整えて続々と部隊を送り込んでいだ。東アジアと縁の深い、第1騎兵師団、第7師団などがやってきて、今まで戦線を支えていた第8軍団の第2機械化師団、第24機械化師団などに合流した。
 そしてゲリラ戦の様相を呈する前線の状況を打破して、洛陽、西安を奪回する作戦が実施される。それが俗に言う「クリスマス攻勢」だ。
 同作戦名は「スレッジ・ハンマー」で、クリスマスに発動されたと誤解される事も多いが、実際はクリスマスまでに作戦を終えることを目的としていた。要するに「クリスマスまでに戦争が終わる」というフレーズで始まった作戦の一つだった。
 連合軍としては冬が本格化する前に、西安方面と四川の主要交通網を寸断し、戦前の状態に持ち込むことで戦略的優位を得ようと言う作戦だった。だが、それは容易では無かった。前線の兵力数は、人民解放軍の方が依然として多かった。人民解放軍は原爆を警戒して大部隊の密集こそ避けるようになっていたが、その分厄介さを増していた。
 そこでこの時国連軍で取られた作戦が、各個包囲と包囲の締め上げ、そして包囲下の敵軍への徹底した火力集中だ。
 これにより人民解放軍に得意のゲリラ戦を行わせず、尚かつ局所的な兵力の優位を作り上げ、さらに国連軍の優位な点である火力を活用する事ができる。作戦の発案はマッカーサー元帥がした事になっているが、実際は長い間共産ゲリラに悩まされていた満州帝国軍、わけても関東軍時代から旧日本陸軍に属していた軍人達によるものだと言われている。
 なぜそう言われるかと言えば、包囲を行う際に熟練した歩兵部隊を多用して、完全に制圧が確認されるまで同じ場所から歩兵を移動させないという、日本陸軍、満州帝国軍が長年やってきた戦術が基本となっているからだ。そして国連軍内の兵力の総数ではアメリカ軍、支那共和国軍の方が多いのにこの作戦が採られたのは、これ以上有効な戦術が無かったからでもあった。
 しかも前線では、歩兵を支援するために豊富な火力が投入されており、まだ全軍に配備が終わっていない日本軍の「六式戦車」もしくは「六式改戦車」(※戦後「重戦車」表記を変更。改良型も当時は90mm砲搭載型のみ。)、米軍の「M26 中戦車」、「M29-typeII 重戦車」なども投入され、ソ連が供与していた「T-34/85」を完全に圧倒した。
 なお、この時の日本軍戦車隊は、第二次世界大戦でも勇名を馳せた島田少将、西大佐などが率いていた。加えて、後に総理となる福田定一(PN:司馬遼太郎)も少佐から中佐として従軍し、戦車隊指揮官として活躍している。そして福田は、この時新聞や報道に取り上げられインタビューなどを受けたことが、この後の執筆活動とさらにその後の政界進出につながっている。
(※福田は、この頃から同人誌活動として執筆を開始している。戦争中の手記をまとめた従軍記の「中原の乱」は、最初は同人誌として書かれた。ペンネームも、この戦争での中華地域での体験が大きく影響していた。)

 11月14日に開始された国連軍の作戦は順調に推移し、包囲の輪が十分締め上げられた地域では、並べた重砲、ロケットランチャーによる絶え間ない弾幕射撃、爆撃機、戦闘攻撃機による濃密な戦術爆撃や絨毯爆撃よって、人民解放軍を包囲した地域ごと粉砕していった。包囲下に民間人がいる場合も、最低限の時間の脱出の誘導と保護を行うだけで、軍事上は敵の協力者もしくは軍属と判断して容赦なく行われた。原爆を使用しないだけ人道的とも言われたが、非常に過酷な戦術を取ったことは間違いないだろう。とはいえ国連軍も可能な限り配慮したので、無辜の民間人が巻き込まれたケースは少なかったと言われている。
 そして最終局面での火力を用いる戦い方は、アメリカ軍が最も得意とする戦い方だった。
 一見、国連軍の勝利は確かなように思えた。


●フェイズ98「支那戦争(2)」