●フェイズ98「支那戦争(2)」

 1950年も年の瀬、支那戦争が始まってから約半年が経過した。
 アメリカ、日本(+満州)は第二次世界大戦後に解体した軍隊の多くを慌てて再動員し、その多くを中華北部の内陸部へと注ぎ込んだ。そして主要戦勝国である日米両国の軍事力は、ようやく本領を発揮できるようになった。

 「クリスマスまでに戦争が終わる」とされた国連軍の「スレッジ・ハンマー作戦」に対して、人民解放軍も果敢に反撃した。
 しかし、国連軍の原爆使用を警戒して兵力集中ができないにも関わらず、国連軍が包囲戦のため兵力を集中している場所を攻撃しなければならず、しかも国連軍も包囲の外からの反撃はゲリラ戦も含めて折り込み済みで十分に対策を立てていた。
 加えて人民解放軍には、そもそも国連軍の包囲を破るだけの機甲戦力、機動戦力、火力に欠けていた。開戦当初は圧倒的だった戦車戦も、日米が本気を出してからはもはや話しにもならなかった。日米の重戦車は、ソ連が供与した歩兵用の簡易ロケットランチャーでは余程近づかなければ撃破できず、スカートなどロケットランチャー対策も取っていた。しかも、戦車以外の装甲車や重武装の歩兵に守られているため、近寄ることは自殺に等しかった。このため地雷ぐらいしか止める手段が無かったのだが、その地雷も殆ど無かった。事実上の自殺攻撃も行われたが、すぐにも歩兵の支援が分厚くされたため、初期の頃に少し成功しただけに終わった。
 人民解放軍は、裏から支援しているソ連に最新鋭と言わないまでも強力な戦車の供与を再三求めたが、アメリカとの全面戦争を警戒して過度の介入を嫌ったソ連指導部が首を縦に振ることはなかった。しかしソ連も、東側陣営の盟主として同盟国に何も支援しないわけにもいかないので支援が実施されたが、すぐに効果を発揮するわけではなかった。また、別の支援準備も進めていたのだが、まだ時期が到来していないとして、東トルキスタンやモンゴルなどで留め置かれていた。
 当然、人民解放軍の反撃はうまくはいかず、仕方なく兵力を集中して局所的に国連軍を押しつぶして攻勢をとん挫させようとする。地下要塞陣地に籠もる以外だと、敵の予測を上回る飽和攻撃以外に勝機が無くなったからだ。当然ながらアメリカ軍の原爆攻撃(ニューク・アタック)を覚悟しなければならないが、ギリギリまで分散して進んでから一気に敵と戦線を混ざり合ってしまえば、原爆投下は阻止できると考えられた、と言われている。
 実際そのように、人民解放軍は大規模な攻勢を実施した。

 またこの反撃では、初めて赤い星を付けたソ連製の「Mig-15」ジェット戦闘機が、国連軍の「B-29」や「連山改」に牙をむく。人民空軍の建設は建国前から開始され、ソ連からのジェット機の供与は戦争開始すぐにはじまったのだが、ソフト(パイロット、整備兵など)面でようやく実戦投入可能となったものだった。
 ジェット戦闘機の前に旧式の重爆撃機は脆く、また初期は人民解放軍のジェット機投入を予測できなかったため、かなりの損害を出すことになる。特に奥地の爆撃では護衛の戦闘機が付けられないため、西安や蘭州などへの爆撃では被害が多発した。
 この時の被害を教訓として「B-36 ピースキーパー」には、腹に小型のジェット機を抱えて戦場で切り離して空中戦を行い、そして戦闘後に収容するというシステムが考案されたりもしている。(※恐ろしい事に機体の試作と運用試験まで実施された。)
 ただし低空では、当時のジェット戦闘機では性能が大きく低下してしまい、攻撃側も重爆撃機と戦闘爆撃機が連携して行動している場合が多かった。このため、3000馬力級レシプロエンジンへ換装した「連山改」は、その脅威の高さにも関わらず低空を高速で飛ぶため多くの場合無視されていた。このため黄河地域用の黄色い低空迷彩を施した「連山改」は、チャイナ奥地の空でも恐れられた。また日本海軍生まれの「流星」も、アメリカのAH-1を参考に大幅に改良されたタイプ(流星改)が、この戦争ではガンポッドやロケットランチャーを装備して地上攻撃機として活躍していた。
 またアメリカ軍も大戦中から実戦投入し、そしてさらに発展した各種ジェット機があった。特に、最新鋭の「F-86 セイバー」は、「Mig-15」と同等かそれ以上の性能があった。しかもパイロットの熟練度が全然違っている事もあって、対戦闘機戦闘では一方的戦果を挙げることができた。「F-86 セイバー」は、戦争終盤に開発が始まり、日本からの技術支援(主に後退翼のデータ)とドイツ人亡命者から得た技術情報を元に完成させた機体で、結果として高性能な機体に仕上がった。
 ジェット戦闘機を支那戦争に投入したのは日本軍も同様で、戦略空軍は海軍と共同開発した三菱の「九式艦上戦闘機 閃光」(海軍型「閃風」)を、防空空軍は中島の「十式戦闘機 狗鷲」を競うように投入した。満州帝国空軍もソ連国境のマンチュウリ方面から精鋭部隊を引き抜き、急ぎコンペを行って採用された日本の川崎製の「五〇式殲機 飛狐」を中華中原に持ち込んだ。どれも大きな後退翼を持った、「F-86 」「Mig-15」に匹敵する新時代のジェット戦闘機だった。
 そして国連軍が大量にジェット戦闘機を投入してきたため、ソ連も供与を大幅に増やさざるを得ず、そうなると人民空軍のパイロットが全く足りなくなる。そしてソ連自らも実戦の教訓を得るため、多くの義勇パイロットが主に前線の後方だったが多く戦列に参加している。またこの義勇パイロットの中には、ソ連に強制労働をさせられていた元ドイツ軍人の姿もあったと言われており、事実数十人が従軍していたことが後に判明している。
 だがその頃になると、国連軍の空軍部隊が十分な体制を整えており、質量に劣る人民空軍の劣勢が覆ることはなかった。しかも国連軍は、中級指揮官以上は第二次世界大戦を経験した者が少なくなく、実戦経験が初めての敵に対して優れた指揮能力を見せた。
 ベテランは前線パイロットにまでその姿があり、日本軍だと笹井諄一(当時大佐)、菅野直(当時少佐)、岩本徹三(当時大尉)、西沢広義(当時大尉)など前大戦で活躍した撃墜王の姿も数多く見られた。こうしたベテランの中には、第二次世界大戦後初の撃墜王(エース)の座まで獲得する者もいた。

 だが、国連軍空軍機の活躍は実は予想外の事で、世界の同業者や専門家、さらには当人達も困惑させた。
 当時のジェット機開発は、大戦中にジェット機先進国だったドイツをほぼ完全占領したソ連・共産主義陣営が圧倒的優位にあると考えられていた。実際ソ連は、戦争が終了したその年内に、早くもドイツの技術を用いた先進的な姿を持つ戦闘機を開発していた。同時期のアメリカは、日本からの技術輸入で、ようやく後退翼を持ったジェット機の開発が行われていた段階だ。
 しかし戦後の戦闘機は、第二次世界大戦中と違って、それほど大量に生産できる兵器(機械・工業製品)ではなくなっていた。高性能化で生産に高い技術が要求されるようになったため、基礎工業と先端産業全般に優れている自由主義陣営、特にアメリカの方が優位だったのだ。特にエンジン開発では、遂にソ連はアメリカに追いつくことは出来なかった。(※世界中でも日本が辛うじて追随できる程度だ。)
 また西側陣営は、ジェット機開発では自らが不利だと考えていた為、大戦が終わってから支那戦争の時期は、特にジェット戦闘機開発に力を入れていた事も格差を逆転させた大きな要因になっていた。未知のジェット戦闘機「Mig-15」(※旧ドイツ軍ジェット戦闘機のコピーに近い機体。)は、実戦で姿を見せるまで西側陣営の恐怖の少将ですらあった。
 加えてアメリカなどは、ドイツの技術を全く奪えなかったわけではなかった。各種実機をほぼ無傷で得ているし、大戦中フランス本国の航空機生産のかなりを担っていたハインケル社などは、アルザス地方にフランスの支援で建設した工場ごと連合軍に降伏していた(※しかも戦後多くの者が西側に亡命していた。)。連合軍が占領したラインラントにあった軍需工場からも、最新技術が幾つか得られていた。また、戦争末期からの混乱で、ドイツから自由主義陣営に亡命した科学者、技術者も少なくなかった。ソ連はそうした亡命者の引き渡しを強く要求したが、連合軍はほとんど受け入れずに自国に迎え入れていた。
 そして一部ドイツの先端技術でテコ入れしたアメリカなどの最新鋭機は、ドイツの技術を丸ごと手に入れた筈のソ連を上回るほどだった事が、この支那戦争で明らかになった。
 これは、当時原爆以外の先端軍事技術でソ連が優位にあると考えられていたため、特にソ連指導部に大きな焦りをもたらす事になる。この後始まるロケット競争も、その一端だった。
 その後のことはともかく、これで戦争はようやく「普通」になり、地上と空で激しい戦いが展開されるようになる。
 
 地上での戦いは、国連軍のほぼ思惑通り、各地でゲリラ的戦いを展開していた人民解放軍は、寸断され、包囲され、そして火力で殲滅されていった。
 同じ歩兵同士の戦いと言っても、国連軍は歩兵一人一人が装備する自動小銃をはじめとして、火力が格段に違っていた。支援する戦車、装甲車の数も戦力も段違いだった。簡易ロケットランチャーですら数の面で大違いだった。特に人民解放軍が籠もる地下もしくは半地下陣地に対しては、各種爆薬、火炎放射器、簡易ロケットランチャーが活躍した。簡易ロケットランチャーは、アメリカ軍のいわゆる「バズーカ」と満州軍が独自装備としていた旧ドイツ軍が使った「パンツァーファウスト」の独自改良型が使われていた。その後ソ連が開発する「RPG-7」の開発に、満州軍の装備が影響を与えたとも言われている。
 その上日本軍、満州軍共に、対歩兵戦に熟練した部隊を多く前線に投入していた。さらに制空権も国連軍のもので、航空機による偵察や地上支援は国連軍だけが得られるものだった。
 しかも特に日本と満州の歩兵は、彼らのゲリラ制圧ドクトリンに従って、徹底的に自らの足で歩いて、包囲した人民解放軍を確実に追いつめて殲滅していった。戦力、火力に圧倒する側が、自らの(歩兵の)犠牲を厭わず徹底した包囲戦、掃討戦を展開してくると、兵力、火力に大きく劣るゲリラ兵は逃げて追いつめられるしかなかった。
 友軍救出にでた人民解放軍部隊も、国連軍の戦線に浸透しきる前に、包囲している敵に向けているのと同じ火力によって接近を許されなかった。しかも一部では、国連軍は戦術核を用いることで、人民解放軍を効率無視のオーバーキルで吹き飛ばした。軽装備の1個大隊相手に、(アメリカ軍の敵戦力誤認で)戦術核が使われた事例があったほどだ。なお、この時期の戦いの戦訓として、アメリカ軍では最終的には無反動砲から発射できる局地戦向けのマイクロ・ニュークまでが開発されている。
 そして核兵器は、アメリカだけの専売特許で無くなる。
 といっても、次に開発したのは日本帝国だった。
 この攻勢の最中、日本が中部太平洋の秘密実験場で原爆実験を実施し、その2週間後に早くも実戦投入されたのだ。
 つまり、12月8日に日本初の核兵器実験が太平洋上のビキニ環礁で行われ、22日に初号弾が、26日に二号弾が日本戦略空軍の「連山改」によって投下された。使用された原爆はいずれもプルトニウム型で、爆発威力は15キロトンと25キロトン程度のものだった。程度というのは、まだ技術蓄積の不足から爆発威力が安定していなかったからだ。しかし原爆なのは間違いなく、投下された地点の人民解放軍をそれぞれ数千から数万人を吹き飛ばしていた。
 日本の原爆実戦使用を、作戦の現場指揮をした戦略空軍の源田少将(※投下機に登場していたという噂すらある。)は「快挙」「痛快事」と喝采したと言い、実際戦略空軍の政治的価値が大きく跳ね上がった。戦略空軍長官の大西大将も、これでようやく陸海軍に並んだと胸をなで下ろしたと言う。
 そして日本はアメリカ以外に原爆を実戦使用した国、叙述的表現だと「アメリカと同じ罪の十字架を背負った国」となったわけだが、日本がアメリカに続いて世界で二番目の核保有国となった事の方が、共産主義陣営にさらなる焦りを呼んだ。
 この時点で世界は、赤いチャイナは核の炎で焼き尽くされると思った。

 一連の国連軍の攻勢は、洛陽を奪回して人民解放軍を平野部から追い払って山間部に後退させることで一定の成果を挙げた。だが、目標とした西安奪回までには至らず、黄河中流域の山間部より東は人民解放軍が依然として勢力を維持していた。
 このため国連軍は、このまま勢いに乗じる形で黄河を遡り、一気に西安を奪回する作戦「正月攻勢」を開始する。
 作戦は奇をてらわず、重武装、重火力を前面に押し出した正面攻勢で、さらには機動力を活かして一気に進軍する事を目標としていた。阻止するには、十分な陣地もしくは大軍、何より火力が必要だが、敵の大規模阻止行動を察知した時点で爆撃で吹き飛ばすこととされていた。
 もちろんだが、爆撃の中には原爆使用も含まれていた。この時期の国連軍では、原爆使用を「Nオプション」と呼んでいた。
 人民解放軍による苦し紛れの四川の境界線近くでの示威行動に対しても、山間部の狭い地域に集結していた人民解放軍部隊に対して躊躇無く大型原爆が投下された。(※だだし、長江中流域(支那共和国領内)で放射能汚染が観測された事は長期間伏せられていた。)
 黄河方面での連合軍の作戦は順調に推移し、劣勢な戦力で正面からの戦いを余儀なくされた人民解放軍は、それなりに兵力を分散させた上での遅滞防御戦に徹するしかなかった。一度は地形を利用し、さらに半地下要塞陣地とした大規模で重厚な防御陣地帯での阻止戦闘が行われた。だが、それを察知した連合軍は一度少し距離を取ると、躊躇無く戦術核(5キロトン級)を地表爆発の形で複数投下して、一部では地形すら変化させるほどの爆発で陣地を含む地域ごと粉砕してしまう。しかも、さらに日米の重爆撃機を大量に動員して、2000ポンド級、3000ポンド級の大型爆弾を無数に投下する絨毯爆撃も併用され、多くの人民解放軍兵士が吹き飛ばされるか生き埋めとなった。また一連の戦闘では、歴史的遺跡が幾つか破壊されてもいた。
 それでも山間部に近い地形での200キロを越える進撃は短期間では難しく、また自ら投下した原爆の最低限の人体への悪影響が衰えるまで進撃を手控えた事もあり、西安の奪回には至っていなかった。(※人民解放軍には、二次災害で多数の放射能被爆者が出ている。)
 そして国連軍主力部隊が、黄河から西安へと向かう川の分岐点のあたり、黄河が大きく北へと流れを変える辺りまで進撃したところで、大きな政治的変化が訪れる。

 1951年1月10日、ソビエト連邦ロシアは「1月7日、ジュドマロースから共産主義の勝利を約束する偉大な贈り物があった」という声明を発表した。
 ジュドマロースとはロシア正教でのいわゆるサンタクロースで、1月7日はロシア正教のクリスマスに当たる。宗教を否定する共産主義政権が宗教的な言葉を用いられるのは、第二次世界大戦以来のことだ。つまり、宗教的な言葉を用いた事が声明の異常さを現していた。そしてこの声明の真意を確かめるべく、アメリカなどが活発な情報収集を行うが、事実はその3日後にソ連の方から発表された。そしてその声明は、一部専門家や識者が予測した通りのものだった。
 「我がソビエト連邦は、中華人民共和国に原子爆弾を供与する用意がある」というものだったからだ。
 つまり1月7日に原爆実験に成功した事を、宗教や伝統に緩かった第二次世界大戦時、アメリカなどと同盟国として戦った時代の言葉で語った事こそが、アメリカオンリーだった原爆の時代の終焉を伝えるメッセージだったのだ(※日本は半ば無視されていた。)。だが、最初の発表ではアメリカが真意に気付かなかったので、次の発表では散文的なメッセージを発表したと言える。
 そして赤いロシア人達の意志は明白だった。
 これ以上原爆を使うな、という事だった。
 そして原爆を使わないのなら、戦争が一方の勝利で終わる可能性はかなり低かった。赤いロシア人達は、あまり信頼していないアジアの同士達に原爆を与える用意があると発表する事で、同士達の窮地を救うと同時に戦争をドローに終わらせようとしたと言えるだろう。

 ソ連の声明に対して、国連軍支那派遣軍総司令官のマッカーサー元帥は強気の発言を続け、アメリカ政府に声明を無視するように伝える。マッカーサー元帥は、このまま戦争を続け、核兵器を使用し続ければ、あと1年あればチャイナを再び統一できると訴えた。それでもアメリカ政府及び西欧諸国は、ソ連が西ヨーロッパで動く可能性を憂慮して、自らが誘発するソ連の行動を警戒した。実際、ドイツ西部に駐留するソ連軍は、動員体制を強化していた。
 これに対しても、核実験を成功させたばかりのソ連に、大量の備蓄と生産能力があるアメリカを本気で敵に回すだけの戦力と度胸はないとマッカーサー元帥は看破もした。
 そしてトルーマン大統領(1948年就任)らアメリカ政府指導部も、一時はマッカーサー元帥の言葉に傾いた。
 というのも、同盟国で多くの兵力を派兵している日本、満州も、マッカーサー元帥と同様の強気の姿勢を示していたからだ。日本などは、開発したばかりの原爆をさらに実戦使用したくて仕方なかったほどだ。実際、次の原爆使用の準備を精力的に進めていた。日本の戦略空軍は原爆使用の為に、まだ実戦配備されていないジェット重爆撃機を書類上は正式配備に書き換えたほどだった。
 つまりチャイナ情勢に疎いアメリカ政府としては、前線司令官だけでなく戦場に近い同盟国の言葉は傾聴に値すると考えたのだ。また、ソ連が仮に原爆を保有しそれを人民解放軍に供与したとしても、運搬手段は「B-29もどき」だけで運搬手段に劣るのは明らかだった。蘭州からだと日本本土にも届かず、両者の空軍力の差を考えれば使われるのはチャイナの最前線が限界だった。とうていアメリカ本土に届くはずがないという予測も、アメリカ政府を楽観視させていた。
 しかし流石に即座に原爆を使用して回答とするのは、ソ連を刺激しすぎると政治的に考えられた。前線にも、当面の使用禁止が通達された。前線も取りあえず攻勢を続けるも、戦術核(原爆)はもう不要だろうと考えていた。前線での言葉はともかく、「第三次世界大戦」や、そうでなくてもソ連との全面戦争の危険性について大いに憂慮されたからだ。

 しかしその後は、すでに兵員不足が著しい人民解放軍が死に物狂いで防戦に徹し、前線自体も二つ目の地下陣地要塞線によって停滞した。何より黄河という天然の要害が、国連軍の西安に向けた進撃を妨げた。
 そしてマッカーサー元帥からは、戦術核の使用再開が強く打診される。一度成功しているのだから、前線としては当然の要求だった。
 だが、それだけならまだしも、人民解放軍が補給を受けている支那共和国領とされている地域の外、つまり別の国への原爆使用がマッカーサー元帥から打診される。これも敵の補給を絶つという戦術原則もしくは戦略に沿った要求でしかなかった。
 当時は、ソ連から東トルキスタンを経由する所謂「シルクロード鉄道」はまだ開通しておらず、ソ連側からの工事半ばだった。当時は東トルキスタンの首都ウルムチまで開通しており、そこからは輸送トラックを使って陸路で進み蘭州まで運ばれていた。そして連合軍の爆撃は、蘭州より東の地域にしか行われていなかった。蘭州には「Mig-15」戦闘機が多数展開していたのもあるが、ソ連との政治面を配慮したからだった。
 マッカーサー元帥の軍人としての正論はともかく、戦線拡大ばかり求める姿勢はアメリカ政府指導部、わけてもトルーマン大統領の怒りを買う。アメリカの世論も、際限ない戦線の拡大、さらには戦争そのものの拡大には否定的だった。既に膨大な戦費も浪費しているとなれば尚更だった。
 しかしマッカーサー元帥は、第二次世界大戦で活躍した軍人で、統合参謀長を除けば当時唯一の現役元帥で、国民からの人気も高かった。その人物を解任することは、トルーマン大統領にとって政治生命を賭ける一大事だった。だがトルーマン大統領は、マッカーサー将軍の解任を実施。マッカーサー元帥は「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という有名な言葉を残して表舞台から退場を強いられた。
 そして次の国連軍の総司令官として、現地での次の最上者だった日本陸軍の根元大将が新たに就任する。
 根元大将は元々支那情勢に精通しており、第二次世界大戦でも中華戦線と欧州戦線の二つの戦線で活躍した人物だったので、人事としては正しかった。だが国連軍の総指揮権を、最大兵力を派兵しているアメリカ軍ではなく、第二の兵力を派兵しているとはいえ日本軍から選んだことは、この時のアメリカ政府のマッカーサー元帥と現地アメリカ軍に対する怒りの大きさを現していると言えるだろう。

 そして東側陣営のカードは原爆だけではなかった。
 「義勇兵」の登場だ。
 アメリカ軍が西安への足がかりを掴んだ頃、戦線周辺に大規模な山火事の煙が流れてきた。人民解放軍が空軍の攻撃を阻止するために行った人為的な山火事で、その煙の下を「人の海」が殺到する。
 「人の海」は人民解放軍だけでなく、同じ軍旗を掲げながらも正確には人民解放軍ではない「義勇兵」だった。
 彼らの多くは、第二次世界大戦中にシベリアに送り込まれたままだった者だ。そのうちなるべく若い者を選抜した者達が、数の上での主力だった。彼らは書類上は中華人民共和国の兵士ではあるが、人民解放軍ではなかった。そして中華人民共和国では、人民解放軍は共産党の軍隊ではあっても正確には国軍ではない。だから、「それ以外」の兵士になるため「義勇兵」だった。そしてもともと兵士ではなったが、事実上「義勇兵」を派遣したソ連は、従軍と引き替えに「祖国」への帰還を約束したのだった。
 そして同じ事を約束された男達が、三ヶ月程度で俄兵士に仕立てられた男達を率いた。率いたのは、同じようにシベリアでの強制労働に従事させられていたドイツ人達だった。言語の壁は最低限の号令と言葉をお互いが覚えることで無理矢理乗り越え、前の戦争で余っていた装備で身を固めて、この時国連軍の前に姿を見せた。
 なお、この「義勇兵」を編成するに当たって、満州帝国軍のロシア派遣軍の資料が大いに参考されている。支那共和国が満州帝国の言葉を半ば無視したのと対照的であり、ある種の皮肉な状況でもあった。
 「義勇兵」の数は約50万と言われるが、正確な数字は誰も知れない。冷戦崩壊後に旧ソ連の資料を調べ尽くしても出てこなかった。それほどいい加減で、急ごしらえの軍隊だった。米軍の核兵器を封じたことで投入可能となる目算が立ったので急ぎ揃えられたが、そして敵を足止めするための「生け贄」だった。
 そして彼らは、かつての満州帝国軍の兵士のように、生き残るために戦った。前進して戦って敵を撃退して、そして生き残らなければ、その後の命が長らえられないからだ。
 そして原爆で吹き飛ばされた兵士と同じかそれ以上の兵士の補充を受けた人民解放軍は息を吹き返す。
 国連軍は、義勇兵を事実上のソ連の直接支援だと非難したが、中華人民共和国、ソ連共に個人の自由意志に基づいた行動に過ぎないと言うだけだった。そして西欧各所、特にライン川前面でソ連軍の強い圧迫を受けている自由主義陣営に、ソ連に宣戦布告するだけの決断は下せなかった。

 その後戦争は、完全に泥沼化する。
 突如、大軍による遮二無二な反撃を受けた国連軍は後退を余儀なくされ、一時は洛陽の前面まで前線を押し戻された。だが国連軍もさらなる増援を投入して持ちこたえ、そして原爆以外の通常爆撃を猛烈に実施することで敵の前線部隊への補給を絶ち、戦線の再構築に成功するばかりか、再び前線を西へと押し進んだ。
 しかしその間に、人民解放軍は各地の半地下野戦陣地の再構築を行い、特に黄河が大きく北へと折れる地域に重厚な野戦陣地帯を構築する。
 これを通常兵力だけで突破するには、甚大な損害を覚悟しなければならなくなっていた。どれだけ通常火力を集中しても、前線はほとんど動かなくなり膠着してしまう。北部は黄河が天然の要害となって、国連軍の進撃を妨げていた。まるで第一次世界大戦の西部戦線のようだった。
 しかも1951年に入る頃からは、支那共和国内でのゲリラ戦は華北平原の内陸部だけでなく全土への広がりを見せつつあった。このため支那共和国軍半分以上と国連軍の一部はゲリラ掃討に当たらねばならず、前線ではゲリラによる輸送の妨害による補給の停滞も日常化してしまう。こうした戦いは、中華人民共和国の指導者林彪の得意とするところだった。最初からゲリラ戦だけで支那共和国や西側諸国を翻弄して消耗すれば良かったのではと言われたほどの手際の良さだった。
 その後は、人民解放軍による四川方面から揚子江を下って武漢方面への攻勢が一度あったが、世界中から援軍が駆けつけた国連軍は人民解放軍の勝手は許さず、人民解放軍は大損害を受けて四川盆地に逃げ込むしかなかった。とはいえ、国連軍に追撃して四川を制圧するだけの兵力も無かった。
 根本大将率いる国連軍は、翻弄されながらもよく踏みとどまったが、政治の求めもあって行動を制約され、戦況を五分以上に持ち込むことは難しかった。
 そうした状況下で、1951年春頃から和平交渉が開始されるが、交渉は難航した。そして両軍ともに交渉を有利にしようとして、攻撃的な戦闘をお互い何度も行った。だが、基本的には山間部での陣地戦のため、どちらも決定打はなかった。
 一度国連軍は戦況を打開するため、機甲部隊を北部の黄河平原地帯の西側に集めて大規模な攻勢を行った。この作戦では、支那戦争で唯一大規模なパラシュート降下による空挺部隊も投入された。さらに試験的ではあるが、多数のヘリコプターが戦術的な輸送手段としても用いられた。これで得られた戦訓は、その後の同種の兵器、兵種の発展に大いに参考にされた。
 だが、人民解放軍の裏をかくため、鉄道路線から大きく外れたところから黄河を強引に渡河したところを攻勢発起点としたため、十分な戦力と物資を用意できなかった。これが仮に第二次世界大戦中だったら、十分な戦力と物資を用意できただろうし、作戦はうまくいって最低でも西安は奪回できただろう。だが、既に総力戦の時代が過ぎ去りつつあることを、戦っている軍人達に実感させただけだった。
 しかも、人民解放軍に原爆がないとは言い切れないため、行動がどうしても制約されて決定的な戦果を挙げることはできなかった。

 その後も、両者による積極的な作戦は何度も実施されたが、どれも戦争の決定打とはならなかった。そして米日満のどの国も、本当の戦時動員をしてまで戦争を完遂する意志は持っていなかった。ソ連は、アメリカをチャイナの泥沼に引きずり込んだ事で十分に満足していた。そして代理戦争の本当のゲームプレイヤー達は、分裂して居るままの方が当面の利益が大きいと考えるようになっていった。その事は、休戦を求める接触と会議の中でも色濃くなっていった。

 結局、1953年7月27日に「休戦協定」が成立する。
 西安東方の休戦ラインでとなったが、内蒙古の二つの国も合わせて、概ね黄河が休戦ラインとなった。
 中華人民共和国は国際的に認められ無かったが、捕虜交換もあるため人民解放軍を国際法上の軍隊として認めた上での休戦だった。そして停戦や終戦ではなくあくまで休戦であり、戦争が終わったわけでも無かった。
 支那共和国と中華人民共和国の分割ラインは、黄河の大きく屈折した中流域から始まり四川省の山間部を境界線とした。しかしそれだけでなく、四川のチベット地域の一部も戦争中に奪取しており、さらにチベット北東部の比較的低地地域も占領していた。このためこれら二つの地域は、チベット法国(1955年成立)にとっては「奪われた国土」となって、以後紛争地域にもなっていく。
 それよりも中華人民共和国が既成事実として存続が決まったことで、かつての中華民国はさらなる分割が進んでしまう。戦後の中華人民共和国は、東トルキスタン、プリ・モンゴルとの連邦化もしくは合併(実質的な併合)をソ連に求めるが、ソ連は頑として首を縦には振らなかった。せっかく得た国連での1票を無駄には出来ないからだし、林彪率いる中華人民共和国政府が内政面でも非常に不安定だったからだ。だいいち、何の戦略もなく勝手に戦争を始めた林彪を、表面上以外では全く信頼していなかった。
 また、中華人民共和国がチベットを奪おうとしても、すでに日本軍やインド軍が同盟国として入り込んでしまっていた。チベット国境を守るグルガ傭兵に倒された人民解放軍の山岳斥候は、数知れないと言われる。ウンナンについても似たような状態で、ウンナンにアメリカ軍が形式的ではあるが常駐するようになっては、政治的に手の出しようが無かった。しかも、戦争中の共産党浸透を防ぐ目的で、ウンナンへの経済的支援が増やされた一方、スパイや共産党シンパとなる可能性があるという理由で、まだ残っていた漢族の半強制的な移住が精力的に行われることになる。
 同じ事は隣国のコワンシー共和国でも実施され、中華世界の南端部にまで長い時間をかけて進出していた漢族は、強制的な後退を余儀なくされることになる。
 内蒙古王国でも、実質的には満州帝国の手によって似たような漢族排除の政策が実施された。満州帝国でも移民、流民は非常に厳しく制限されるようになり、今まで移民してきた漢族系民族に対しては、徹底した国家への忠誠心の要求と、非常に厳しい帰化政策が実施されるようになっている。(※かつての清朝のように弁髪を強制したりはしていない。)

 そして支那共和国は、戦後は国防のために民主化よりも軍国主義化を押し進めざるを得なくなり、主にアメリカの支援を受けた軍の再編と強化に狂奔した。平行して共産ゲリラ狩りが精力的に進められたが、アメリカ主導による第二次世界大戦中もしくは戦後の改革が功を奏して、農民を中心とする民衆に共産主義が浸透する事はほとんど見られず、50年代半ばには共産ゲリラはほとんど姿を消すことになる。また共産ゲリラ狩りでは、豊富な実績を持つ満州帝国の資料が今度は採用されて大きな成果が見られた。
 一方で、支那共和国の民主化がおざなりとされた事もあり、政治的に信頼も置けないため、経済の発展、特に重工業化もアメリカによって押さえ付けられたままとなった。しかしアメリカは、その代償として現地の安定のために陸軍1個軍団と空軍の実戦部隊を常駐するようになっていた。
 アメリカとしては、チャイナの東西分断が固定化したことはマイナスだったが、それよりもチャイナの市場価値が大きく落ちてしまった事の方が問題視された。反面、支那共和国が政治的にコントロールしやすくなったので、痛し痒しというのが実状だった。また、支那共和国に兵器を売りやすくなったので、利益の方が大きいという見方もあった。
 一方ソ連としては、支那地域での共産主義の範囲が少しばかり広がった事よりも、共産主義陣営が自由主義陣営と対等に戦ったという「実績」は非常に重要だった。またアメリカを寄り深くチャイナの人の海に踏み込ませた事で、ヨーロッパ正面で戦略的優位に立った事も重要だった。反面、「実績」を挙げた形になる中華人民共和国への支援を増やすことになったが、この時点では十分に採算が取れる取引だった。

 そしてアメリカ、ソ連共に、支那戦争によって新しい時代の軍備と兵器についての貴重な教訓が得られた事には、一定の満足を得た。核兵器の戦場での効果については、特に貴重なデータとされた。何しろこの戦争を最後に、戦場で核兵器が使われることが無くなったからだ。内陸での戦争のため海軍のデータが殆ど得られなかった事は日米にとって不満点だったが、代わりに核兵器の実戦データを多数得られた事はそれ以上の結果と判断された。
 さらに、第二次世界大戦の敵手だったチャイナ世界をさらに分割して長期的に見て弱体化させた事にも、米ソともに一定の評価を下していた。
 これ以後かつての大帝国は、10もの国家、2つの別地域(※日本領台湾と国連委任統治領の海南島)が分立した一つの地域となる。そして阿片戦争に始まった中華地域の衰退と分割は完了したと、歴史的に言われる事になる。特に言葉(=言語)の面での後退と分立が進んだことは、大きすぎる影響を与えることになる。歴史的にも、ついに漢族と中華系言語の膨張が止まり、しかも一気に縮小した事は大きな変化とされている。(※さらに1940年代から70年代までは、国際的に漢族の海外移民も厳しく制限されていた。)

 なお、冷戦時代の中での「支那戦争」の意義は、米ソを中心とした冷戦の本格的幕開けだが、世界史上では第二次世界大戦に続いて二度目の核戦争ということになる。そして現在のところでは、最後の核戦争でもある。また、この戦争でアメリカ軍、日本軍が使用した原爆は合計38発、TNT火薬5〜100キロトンの威力で、合わせて約2メガトン分になる。
 だが、これ以後米ソは、戦略的優位、政治的優位を獲得するため核開発競争に狂奔する事になり、支那戦争前半のように安易に核兵器が使えなくなった。しかもアメリカは、支那戦争で核兵器を多用することで、兵器としての危険性を全人類に宣伝する事にもなってしまい、かえって核戦争の脅威を遠ざけたと言われることが多い。
 また一方では、多くの戦訓が得られたのは間違いなく、支那戦争での大規模な戦争は冷戦時代を通じて大規模戦争の雛形とされていった。


●フェイズ99「戦後日本の変化」