●フェイズ5「赤い日本と新たな世界」

 1946年5月1日、メーデーのその日「日本国憲法」が発布され「日本国」政府が発足した。
 事実上の社会主義国家であり、天皇家は主権者ではなくなったが「日本人民の代表」として残され、国家システムの一端を担うことになった。ただし共産主義は宗教を認めないため「人間宣言」が出され、神社組織は天皇崇拝のための国家組織に再編成された。この結果、日本の民間宗教の主軸である神道は形式上なくなり、民心を安定させるための国家組織に衣替えすることになる。むろん、立派な銅像が建った以外、さしたる変化は何もなかった。既に多くの経験を積んでいるロシア人としても、他国の宗教を根底から叩きつぶすことはなかなか手の付けられる問題ではなかったからだ。日本に対して行った事も半ば建前であり、ロシア人なりに日本を研究した結果受け入れられる素地があると見ての実行であったとされる。
 なお同憲法は、民主憲法として制定され、婦人参政権や農地改革、労働法、社会保障制度の充実、強固な累進課税制度、土地・資産に関する独占の抑制など、社会主義的、共産主義的ながらも先進的な部分を多く持っていた。基本的人権なども憲法上で保障される事になった。
 このため新憲法の評判は良く、中間層以下からの新政府及びソ連に対する支持の声は強く、それだけ旧日本が歪な国家だったことを内外に印象づけた。
 財閥や企業は一度解体されて国有企業に再編成され、税制も制度上は公平となった。身分階級は国家機関となった皇族を例外として完全に廃止され、特権階級も駆逐された。あまりの惨状に、多くの日本人が命からがら海外に亡命していったほどだった。
 しかし軍事力の保持は、憲法上でも国防を人民の基本的権利として認めていたし、平和をうたうも戦争放棄などはうたっていなかった。人民の権利を守るための軍事力が完全に肯定された憲法だった。
 その証とばかりに解体された筈の軍隊は、「帝国」の文字を「人民」に置き換えて再編成された。そしてソ連の手により保持・監視され続けていた日本本土の軍需工場は再稼働を本格化させた。沖縄などでは、座礁後もソ連側の命令で保全が努められていた何隻かの戦艦の復帰作業すら始まる始末だった。
 また、旧来の日本の組織のうち官僚育成に関わるものは、その殆どが「帝国」の文字を取っただけで存続した。例としてあげるなら、「帝国大学」が「人民大学」になったような感じだった。学校以外でも、「帝国ホテル」が「人民ホテル」になったような例も数多く存在した。
 また領土は、どちらかと言えば江戸時代の領土にほぼ近くなった。琉球がソ連の手により日本から強引に自立させられ、北海道も北部がソ連領に編入されたからだ。
 そうして再スタートした日本の中で、徐々に問題となったのが、ソ連が赤い日本の中核と当初は考えていた日本共産党にあった。彼らはソ連からすれば、いや世界一般のマキャベリズムに従えばとんでもない愚か者であり、日本の政治をただ混乱させる存在でしかなかったからだ。
 建前と方便の使い方すら知らず、現実政治上でどうでもいい事にこだわり、他国の悪い部分ばかりをまねした。 
 政治組織としては、最悪に近いソ連邦と共産党のデッドコピーだった。
 そして起きるべくして、事件は起きる。

 1948年4月29日、日本共産党に対する徹底的な粛正が開始された。世界中がクーデターと勘違いした程の大きな騒乱となった。
 そして翌々日の5月1日、野坂参三内務大臣を従えた岸信介率いる「統一社会党」が新たな政権を樹立することが世界中に宣言された。
 いわゆる「血のメーデー事件」である。
 日本共産党がなぜ一斉パージされたか。
 先にも少し触れた通り、答えを突き詰めてしまえば簡単である。
 彼らが「政治家」ではなく「運動家」に過ぎなかったからだ。もっと酷な表現を用いれば「夢想家」に過ぎなかった。少なくとも、まともな「革命家」やましてや「政治家」ではなかった。政治とは現実を見て行動する者であり、理想だけを口にするのはただの馬鹿以下の、有害な存在に過ぎないのだ。
 故に彼らは、短期間の内に再編成された日本のあらゆる階層から恨みを買った。宗主国であるソ連中枢部からも、日本の統治に邪魔な存在だとの判断が下された。スターリンは、ベリアに命令を下した。
 スターリンの日本に対する姿勢は、日本共産党を終始小馬鹿にして、権力に対して忠実で優れた日本の官僚達を愛した為だとすら言われたほどだった。
 同じ共産党員であるならば、新たに意趣替えした優秀な官僚や旧来の政治家、財界人の方がよほど役にたった。それに権力や金に敏感な彼らの方が、ある意味「純粋」な共産党員よりも信頼が置けた。現実と理想の違いをちゃんと理解できない者に、国家を運営することなどできないのだ。
 なお日本での事実上の革命を前に、アメリカを始め西側社会は一種騒然となった。日本を西側に戻す工作も熱心に行われたし、日本近海にはアメリカの大艦隊が布陣したりもした。
 しかし「血のメーデー事件」後の日本はむしろ安定し、さらには事件前よりも順調な政府運営が行われるようになった。しかもアメリカの工作を日本に対する強い外圧として受け取り、日本はより一層の反米意識で固まることになる。

 そうして日本が落ち着きを取り戻すようになると、日本をソ連に取られたアメリカを始めとする西側諸国も、そろそろ日本を国際復帰させないと色々国際的な面で問題が多いのではと考えるようになっていた。
 しかし日本の国連加盟は、この時期始まった冷戦構造の中で米ソ互いの合意に至る事もなく、時間だけが流れることになる。
 アメリカが新しい日本の承認をしなかった理由は、本来のポツダム宣言を受諾しなかった事を第一とした。そして改めて宣言を受諾する事は、何とか保持された天皇制を始めとする諸々のものが失われる可能性が高いとして日本側が受け入れることはなく、話が平行線になったという経緯がある。
 同じ北東アジアでは、同時期に「中華人民共和国連邦」が成立して中華民国は政府首班の蒋介石がアメリカへの亡命し、インドシナでも共産党優位の戦闘が続いていた。ただし、西側から中華人民共和国連邦は、中華地域を不当に占拠した集団と定義され、アメリカ国内に成立した自由中華民国を中華の正統と規定することで国家承認する事はなかった。
 なお、アジアでの赤い騒乱のほとんど全てに日本は「義勇軍」を派遣しており、新たな赤い国々との関係を強めていた。こうした努力もあって、日本を国家として承認する国も増えており、東アジア全域が赤く染まるのは時間の問題と考えられた。
 その中心的存在が、国内に産業基盤を持っている日本であり、太平世に面した新たな赤い国家は、アメリカにとっても十分に脅威だった。それ故に、アメリカは日本の国家としての承認を長らく行わなかったのでもあった。
 しかし日本を始めとする新たな共産主義国の後ろには、軍事大国ソ連が控えていた。その上そのソ連は1949年6月に原爆実験に成功し、アメリカだけが「未知の新兵器」を持つ国ではなくなっていた。
 東アジアでのアメリカの不利は、年を経るごとに増していった。
 そうしてアメリカが体面を気にして手をこまねいていると、日本はいつの間にか沖縄で座礁していた巨大戦艦を復活させ、終戦時に残存していた航空母艦を整備し直して空母機動部隊まで再編成しつつあった。自らのためかソ連のためかで、新たな艦艇も多数建造が開始もしくは再開された。ソ連での艦艇や空母関連技術の多くも、日本がもたらしたものだった。
 日本国内は依然として経済が低迷して困窮しているらしいが、北東アジアの各国が共産化されたおかげとソ連からの輸入により、食糧や各種資源の供給は維持されているらしいと西側は判断していた。強力な指導体制もあって、国家としてはむしろ団結が強まっているのではないかと考えられた。少なくとも反米で一致団結していた。
 表現の多くが「らしい」となるのは、正確な情報をほとんど得ることができないためだ。
 また日本ばかりではなく、「中華人民共和国連邦」の成立もアメリカにとっては大きな痛手だった。
 中華人民共和国連邦は、国内に中華、東トルキスタン、マンチュリア、プリモンゴルの各人民共和国を持つ連邦国家で、ソ連邦と似た国家体制を持っていた。ソ連が多くの地域を占領して一時期統治を行った影響だった。
 中華以外でソ連の影響力がとても強く、中華自身も国力、軍事力がまだまだ低いため、ソ連からの影響を強く受ける状態が長らく続くことになる。しかし総人口は建国時点で5億人に迫っており、十分以上の脅威だった。
 また周辺には、大韓人民共和国、琉球人民共和国が成立し、以前から存在するモンゴル人民共和国共々日本、中華の脇を固めていた。またベトナムの共産主義勢力も、後に北ベトナムとして成立し、共産主義の影響力拡大を印象づけた。インドネシアでも、ソ連や日本の支援を受けた共産党が着実に勢力を拡大していた。アメリカが奪回を先送りしたフィリピンでも、アメリカへの信頼感が下がって同様の事態へと陥りつつあった。
 東アジアは、着実に赤く染まりつつあった。
 一方東欧では、バルト三国が人民共和国として再独立を果たして一種の緩衝国家となり、東ポーランド、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、スロバキア、さらにはユーゴスラビア、アルバニアと共に欧州での共産主義陣営を形成した。
 一方アメリカを中心とする自由主義陣営は、東欧での赤化に従って、西ポーランド、チェコの独立と、ドイツの再独立の準備を進めた。ドイツが早期に再独立へと動いたのは、西側にとって圧倒的に不利となった東アジア情勢が影響していた。
 それでも、東アジアではアメリカが無惨に破れた外交合戦だったが、ヨーロッパではほぼ満足しうる成功を達成していた。
 しかし北東アジアでアメリカは全く足場を得られなかったため、太平洋戦争以前の状態に戻ってしまっていた。その上アメリカ軍の急速な動員解除によって自らの軍事力は一時的に急速に低下しており、無理矢理海軍を再建しつつある赤化日本に対して、フィリピン=グァムのラインすら保持が難しいのが現状となっていた。
 世界大戦終了から5年もすると、北東アジアは安易にアメリカが手を出せる場所ではなく、新たなゲーム場所は東南アジアへと移動していた。

 こうして「冷戦」初期の各陣営はほぼ固まり、アメリカとソ連を中心にした二大対立時代へと流れ込んでいった。
 しかしヨーロッパでは、反ドイツ感情と西欧列強の植民地主義が、当初から問題として注目されていた。
 一方北東アジアは、当面は東南アジアへの共産主義の拡大を標榜としつつも、域内そのものは安定していた。アメリカが太平洋を支配していたが、まともな海軍拠点がハワイにしかないため大きな脅威ではなかった。しかも日本海軍の技術が東側全体に供与され、日本とソ連を中心にして海軍が増強に力が入れられたため、尚更安定度は増していた。
 そしてその安定が、逆に北東アジアでの不安定をもたらしていく事になる。人民中華や日本という大きな共産主義国同士が、次第に民族主義やちょっとしたイデオロギーの違いで対立するようになっていったからだ。
 そしてそれは、大きな悲劇に結実する事になる。


●フェイズ6「ザ・ディ・アフター1・「第二次日中戦争」」