●フェイズ02「人の渡来」

 竜宮諸島は、15〜20万年前に新人(現代型ホモ・サピエンス)が生まれても、長らく無人の島々だった。陸地が限られている上に動物層が薄く猿もいないので、当然ながら独自の原人の誕生もありえなかった。
 最も近い日本列島で2万年前に人が住み始めたが、それよりもさらに一万年以上も竜宮は無人のままの時間を過ごした。氷河期で大陸棚が陸地となったところで、太平洋はまだまだ深かった。船を使わない限り、竜宮に人が至ることが不可能だった。無論だが、マンモスや鹿、猪が竜宮に至ることも不可能だった。竜宮最大の原生動物は、海亀から進化した巨大な陸亀であり続けた。
 最初に人がやってきたのは、氷河期(ヴュルム氷期)が完全に終わろうとしていた紀元前7000年頃(約9000先年前)に、アメリカ大陸に陸路で渡れなくなった人々が原始的な丸太船のような船で海を渡ることを考え、寒流と暖流、風の偶然によって北アメリカ大陸には至らずにこの島に流れ着いたと見られている。恐らくは、チウプカ半島など多少南に下ってから、他の先住者に出会ったため、仕方なく海に出たのではないかと推定されている。また彼らは、初期的な天測、星座の観測を行って自らの位置を知っていた可能性も考えられている。
 ただし、航海性能の低い船で至ることが出来たのか、今でも議論が尽きていない。何らかの方法で、東南アジアで発達しつつあった原始的なアウトリガーカヌーの技術を持っていたのではないかと推測されているが、今のところ遺跡などでも発見されていない。このため、一部の研究者やオカルトマニアからは、好奇の対象で見られることもある。しかし南下した先で、東南アジアから北上してきた人々と出会い、そこで船の技術を得たというのが最も一般的な説とされている。
 しかし、この時竜宮に渡ってきた人の数は限られていた。合計しても、数百人程度だったのではないかと推定されている。そして当時地球全体の温暖期のため亜熱帯と熱帯に属していた竜宮で、細々と生活を広げるに止まっていた。温かい土地は寒さに凍えることは少ないが、ある程度寒い地域よりも意外に恵みが少ない場合が多かった。特に温暖期の頃の竜宮は沿岸全てが珊瑚礁で覆われるほどの亜熱帯気候だったので、尚更大地からの恵みが多いとは言えなかった。
 なおこの頃竜宮に渡ってきた人々は、遺伝子面や瞳の色素が薄いという外面的特徴などで、現在の竜宮人にその血が残されている。現在でも、竜宮人の約一割程度の瞳の色は、北方人種的特徴の一つとして薄い茶色や緑の瞳の色となる場合が存在している(※当然ながら体毛(毛)の金色はないが、茶色い場合はある)。
 そしてこの時竜宮に至った人々を先竜宮人と言う(以後先竜宮人)。
 また彼らが狩猟などのために連れていた犬(竜宮犬=北方産の大型種でシベリアンハスキーの亜種)が、一定数竜宮にやって来て繁殖した。そして、その後一部が野生化して野犬と狼の間のような存在に半ば先祖帰りして、自然界の新たな頂点に立った。このため、野生化した竜宮犬の一部が後に人の友人として戻ってくるも、竜宮犬全体で子供の頃から手なずけないと人に慣れにくい狼に似た性質を持っている。
 先竜宮人の生活は完全な狩猟、採集文化で、新石器時代に属する日本で言うところの縄文文化だった。しかし狩りの獲物がほとんど各種マウスしかいなかったため、タンパク質資源が水辺から離れるほど不足していたことは間違いない。また当時は繊維を作る術を持たないため、大きな毛皮が衣服となるが、竜宮では大鼠が辛うじてその役割を果たした。大鼠数匹分の毛皮をつなぎ合わせて衣服を作り出すため、この頃としては独特の服装を作り出すことになる。しかも基本的に竜宮が小さな世界のため、個体数が多いといっても知れており、この時期に大型で動きの鈍い大鼠(ダソウ)などの大幅な減少が始まっている。食糧確保の手段として漁労をする者も多かった事も、遺跡(貝塚)の調査から分かっている。そしてこの漁労のため、船の利用が盛んとなった。
 その後も細々と北方からの人の流れは続くが、地球全体で人の移動が鈍化するに連れて途切れた。その間竜宮にも、遺伝子の劣化を招かないだけの人が住み着くようになる。数百名という根拠も生物学的な逆算の要素が大きく、実際の数はいまだハッキリとしていない(※近親婚の連続で衰退しないための遺伝子プールとして、最低で200体分ぐらいの異なるDNAが必要だとされている)。
 そして地球全体の温暖期が終わり、竜宮全体が温帯気候になると採取できる植物に大きな変化が見られたが、人口が少しずつ拡大する事になった。

 次にやって来たのは、冬の黒潮と偏西風に乗って流された東南アジア系の人々(以後古竜宮人もしくはチャモロ系)だった。一部は、琉球諸島などからも流れてきていると推定されている。
 たどり着いた時期は、最も早い者で約3000年前の紀元前1000年頃と見られている。各地でそれなりに人の数が増えて、新石器時代的暮らしの中での人口飽和がもたらした人の移動だった。中華地域での文明勃興と農耕による人口と勢力圏の拡大も、人を他の地域に押し出す要素となった。
 彼らも原始的な船、恐らくは船体の片方もしくは両サイドに小さなカヌーを取り付けたアウトリガーカヌーのような船を使い、半ば偶然に竜宮諸島に流れ着いた。
 しかし彼らは、海流に乗ってもっと近い琉球や日本列島などに行こうとして果たせず、海流にそのまま流されて竜宮に至った者達だったと考えられている。だが移民を意図していたため、短期間でかなりまとまった数が移動してきたと見られている。大きな畜獣(野豚と鶏の原種)が竜宮に最初にやって来たのも、彼らが持ち込んだものと考えられている。
 しかし彼らの生活は、食用としての畜獣を自前で持ってきた以外では、先にやって来た者達と大きな違いはなかった。畜獣を持ってきたのも、彼らの過去の経験から行った先の島に大きな動物がいない事がかなり存在していたという、経験則からきていた。
 しかし竜宮では相応の自然資源があったため、沿岸部は海で取れる魚介類を取り、内陸では放たれ繁殖した野豚と川魚などの狩りを中心とした狩猟・採集社会を形成した。この狩りの中で、動きの鈍いもしくは逃げたり隠れたりするのが下手な竜宮原産の動物は、かなりが絶滅への道を歩んだ。人から見て全てが中途半端な能力しかなかった大鼠は、格好の獲物でしかなかった。そして人の増加が、個体数の減少に大きく影響していた。
 他にも副食として採集も盛んに行い、副食は豊富な森のドングリやトチの実、胡桃などを食べ、一部では野生のタロイモ(里芋)の一種も食べられていた。甘味としては栗と柿、桃の一種、ぶどうの一種が自生していたが、栗やぶどうは北部の一部や山岳地帯にしか自生しないため、かなり貴重品だった。副食の主体はドングリだったと考えられている。
 副食の中では、ミツバチの巣から得る蜂蜜が一番のごちそうだった。蜂蜜は、当時の原始的な宗教儀礼に欠かせない供物の一つとされていた。糖分の多い、栗、柿、そして蜜からは、原始的な酒も造られていた。こちらも初期の頃は祭礼に使用されていた。
 なお遺跡などから、原始的な宗教が確認されたのはこの頃だった。
 初期の宗教では、共に海からきた民という事が記憶され続け、太陽や月と並んで海の神が祭られた。この海神は鯨や鯱がその化身とされ、このことは竜宮近海の暖流に乗ってくる鯨や鯱が多く見られたことが影響している。またこの鯨や鯱への崇拝が、後の島の名に影響を及ぼした。そして時折浜に打ち上げられる鯨は神からの贈り物とされて有り難がられ、随時祭礼を執り行った後に食べる習慣があった。これが後には、祭事以外でも鯨漁を行い、特に祭事では大型の鯨漁を行いその鯨を食べる習慣に繋がっている。また古代から鯨が重視されたのは、冬の沿岸部では新鮮なタンパク質の摂取が難しいため、冬に竜宮近辺の海にやってくる鯨が有り難がれたからでもあった。そして鯨漁は、船の利用を促し、さらには集団での海での活動を促すことになった。
 しかし竜宮は小さな世界なので、狩猟・採集で養える人の数には自ずと限界があった。島は確かに相応の豊かさを持つ土地だったが、新石器時代までは人口も全域を合わせても、多い時期で3万人、少ない時期で1万人程度だった(地球全体の気候の変化で大きく変わる)。この頃の竜宮にとって幸いだったのは、人を食べる肉食獣がいなかった事ぐらいだろう。
 しかし二つの勢力が揃った事で、次第に竜宮島でも人同士の争いが見られるようになった。好戦的だった二人目の来訪者は、数も多かった事もあり、先に住んでいた者達を徐々に追いやって竜宮の主人となった。この時点での人口比率は、3対7で南方系の古竜宮人が圧倒的優勢となった。
 そうした状態がさらに1000年近く続いた。

 西暦3世紀以後になると、次の来訪者である北東アジアの農耕民族が少しずつ流れてくるようになる。
 彼らもアウトリガーカヌーのような小さな船を使い、海流に乗ってやって来た。しかし竜宮から出土した遺跡には、同じ大きさのカヌーを二艘連ねてその上に板を置いたようなダブル・カヌーも見つかっているので、アウトリガーカヌーと共にダブル・カヌーも使われていた事が分かっている。
 またそれまでも、日本列島などからの人が海流に流される形でたどり着いた場合が存在した筈だが、米を栽培するという農耕文化が最初に持ち込まれたのが、紀元後3世紀中頃(西暦250年頃)と見られている。近在の日本列島では、ちょうど邪馬台国が存在した頃になる。中華大陸では、三国志の時代になる。
 この時期に農耕を伝えた人々がいたのは、竜宮の側から日本列島南部を中心とした地域に、竜宮の存在が伝えられていた影響があった可能性が高い。この頃既に、北太平洋西部の暖流を使った日本や琉球と竜宮との原始的な海上交通路がほぼ完全に見つけられていたと予測されている。その証拠として、継続的に農耕民族のごく一部ではあるが竜宮に流れ続けていた。
 また原始宗教の遺跡(石窟、壁画など)には、多数の星座と星図を記したものが残されており、この時代の竜宮人が天測によって航海をした何よりの証とされている。またこの頃には、原始的に風を使う方法も掴んでいた事が、遺跡の調査で判明している。繊維を編める文明に至っていれば、帆を作ることも可能だからだ。
 なお、太平洋の波は非常に荒いのだが、むしろ原始的なカヌーをつなぎ合わせたアウトリガーカヌーを用いれば、少人数、小規模ごとならばある程度渡りきることができた。これらは、同時期の東南アジアや、少し後のニュージーランド、南太平洋各地のポリネシア人の移民と似ていた。しかも竜宮と日本の間は大きく早い海流に恵まれていたため、往来すら可能としたのだった。
 ただし計画的に決まった場所に赴くという事は難しく、ほとんどが海流任せ、風任せであるため、定期的な交易や交流にはほど遠かった。
 確実なのは、太平洋の果てにある島々の存在を、大陸沿岸部島嶼の住人達が知るようになっていた、という事になるだろう。そうした往来には、日本列島と竜宮諸島という細長い島の連なりは好都合だった。取りあえず方角さえ間違わなければ、一定の時間の後に陸地にたどり着けるからだ。

 初期の農耕で栽培された作物は、当初は栽培が簡単なヒエやアワだった。
 水田を使う水稲の栽培も行われた事が分かっているが、開拓が進まず技術も未熟だった当初は貴重品であり、祭祀用の供物や支配層の食べ物としてしか普及しなかった。しかしこれは、時期こそ違えど東アジア一般の状況とほぼ同じであり、竜宮でも徐々に収穫率と人口扶養力の大きな稲作が広がっていく事になる。
 しかし竜宮は、日本列島と似て自然資源(食料)が比較的豊かな土地だったため、他に農耕を行う者がなかなか現れなかった。このため農耕民族達とその子孫が数世紀かけて沿岸の平野部を少しずつ開拓し、順調に数を伸ばしていった。
 なお、この時流れてきた人々は、言語学的には古代日本語に近いことが分かっているが、日本人(弥生人)とは言い切れない。日本列島南部からの移住が最も多かったのは間違いないが、朝鮮半島南西部や遠く揚子江流域から流れてきた者もいると考えられている。
 これらの人々は、当時それぞれの地域の固有の民族とは少し違う、一つのグループとしてくくれる海の民だった可能性が高い。一時期の朝鮮半島で加羅などという国を作っていた人々の事だ。彼らは主に揚子江河口部で発祥し、朝鮮半島南部、日本に移住した人々だった。彼らは東シナ海北部の海をよく知る人々であり、農耕文明も身につけた海の民だった。日本列島と朝鮮半島、揚子江地域の海の交通を担った人々であり、地中海で言えばフェニキア人に少し近似値が求められるだろう。そうでなければ、竜宮に至るだけの航海技術を持っていたことへの説明が付きにくいからだ。
 ただし日本列島南部から出発した人々が多いため、言語学的にも民族的にもウラル・アルタイ語族、特に日本人に最も近い人々だったと言えるだろう。

 そして竜宮では、農耕をする人々の数が増えると、先に住んでいた東南アジア系先住民族(※以後古竜宮人)との抗争も4世紀頃から頻繁に見られるようになった。また当初数の少なかった弥生人は、古竜宮人に対抗するために積極的に北方系の先竜宮人と交わって取り込むようになり、先竜宮人側もこれを受け入れた。
 こうしてこの時代に純粋な先竜宮人は消滅して農耕民族の中に取り込まれてしまう。そして両者の混血が、後から来る弥生人が増える前に一定数増えたため、古代竜宮人の血が現在の竜宮人の中に残る事ができた。また、この時の民族融和が、竜宮神話の原型になっていると言われている。そしてこの時点で、今の竜宮人に連なる民族が誕生した事になる(※以後竜宮人)。
 また古代日本語から派生した言語の古代竜宮語が、地域の共通言語となっていった。そして先に来ていた人々が持っていた海神信仰が竜宮全体で広まり、最後に来た人々が持ち込んだ占いや原始宗教の中に取り込まれていった。
 その後の勢力争いにおいては、竜宮人が優位に立った。何より農業を行う竜宮人の方が、古竜宮人よりも組織力に優れていた。加えて、より優れた道具の製造方法、特に鉄と青銅を精錬する方法を知っていた事の違いが、初期に少数だった竜宮人の勢力を拡大させる事になる。今まで住んでいた人々は、土器と火は使うが堅い道具は研磨した石器以上は使わない人々だったからだ。しかし狩猟を生活の基本に置いていたので竜宮人よりも個々の戦闘力は高く、容易に勢力争いの結果は出なかった。
 そして農耕開始から以後五百年間の間に竜宮人は竜宮本島北西部を中心にして広がり、数でも圧倒して一番の勢力を築くに至った。古竜宮人は少しずつ数を大きく減らしながら僻地や南部の小さな島に追いやられ、一部は竜宮人と同化した。しかし大多数は、当時の技術では農耕が比較的難しい本島東部の草原地帯と山間部に逃れた。そして竜宮人に対抗する形で採集、狩猟から徐々に離れ、竜宮での繁殖が始まったばかりの山羊や羊、既存の豚の牧畜を生活の糧とするようになった。
 なお、竜宮への山羊や羊の流れはハッキリしていないが、中華地域から羊が、東南アジアから山羊が人の移住と共にあったと考えられている。日本列島に流れず竜宮にだけ流れた理由は分かっていないが、やはり広く暖流とぶつかるという竜宮の地理環境がもたらしたものだと考えられている。ただし、初期はどちらも数が少なかったため、近親婚により遺伝子異常を起こした個体も多いと考えられ、この中での偶然の突然変異によって竜宮固有の山羊や羊が誕生していく事になる。

 農耕の開始と共に、人々の団結と集落の巨大化が進んでいったが、それには竜宮特有の夏に雨が少ないという条件が大きな影響を与えた。ほぼ必ず発生する夏の渇水に対処するために、流量が豊富な河川が近くにない場合はため池を作らねばならず、それが否応なく土木技術の向上をもたらす事になった。また河川流域でも、稲作のための利水と灌漑技術は向上した。集落の防衛装置も、水堀を巡らしたものも多く見られるようになった。どれも多数の人員と資材を投入しなければできない事業であり、集落や集団の巨大化を促した。
 一方、先住者との抗争と勢力争いの中で、島で豊富かつ簡単に採れる石灰岩の利用が行われるようになった。石よりも簡単に採掘できる事も重なって、石材の代わりとして広く普及した。最初は建造物の礎石や村を覆う砦の石垣や要所の強化ために使われ、ほぼ同時期に住居にも砕いた粉状の石灰が原始的な漆喰として使われ始めた。権力者の墓にも使われるようになった。一部では道の舗装にも使われた。
 こうして徐々に竜宮広くで石灰岩や石灰が建材として広く使われるようになり、竜宮の建物と言えば白い壁という図式が日本列島よりも早くに一般的なものとなっていく。また地震がない事が高層建築を作るために石材や石灰岩を多用させる要因となり、日本とは違う独特の景観を作る大きな要素となった。竜宮の宗教施設や権力者の陵墓が、白亜の高い建造物という形式を取るのは、そうした自然環境が強く影響していた。
 そして天測のため独自の占星術が発展した竜宮では、天空へと伸びる建物が求められるようになっていた。大地では太陽が、海では星こそが最も偉大な空の神であったのだ。

 しかしこの頃の竜宮人達は、大陸もしくは日本列島のように文明や文化を大きく発展させる事はなかった。古竜宮人との抗争で軍事技術のそれなりの発展は見られたが、日本でいうところの弥生時代の文明を出る事なく過ごした。加えて、他の地域から遠く離れているので、他の優れた文化や文明を継続して取り入れる事が難しいため、時折もたらされる日本からの情報が全てという状態が続いた。またごくたまに、ユーラシア大陸の北東部や東南アジア地域から人と情報が流れてくる事があった。この島で、農業の普及後も牧畜や一種の放牧が続いたのは、そうした文物の流れも影響していると見られている。そして原始的な船(アウトリガーカヌー)を使った移動と情報伝達が受け継がれた事が、竜宮に僅かながらも情報をもたらし続けた。
 そうして長い年月がゆったり流れる中で、少しずつではあるが互いの抗争の中で集落を統合した初期の国が形成されるようになっていった。日本列島などから時折もたらされる断片的な情報や技術と合わせて、古代の小王国や豪族とでも呼ぶべきものが形成されていった。
 人口も稲作を中心とした農業の広がりと共に大きく拡大し、7世紀頃には竜宮全体の人口は6万人を数えるようになった。
 またこの時期に、偶然に海流に乗ってサトウキビが伝えられる事となり、その後南部を中心に栽培が広がっていった。サトウキビは、糖分を摂取した後の絞り滓(糖蜜)が酒の材料となった。そして共に、栽培が広がるまでの間、祭祀の道具や薬として珍重された。
 サトウキビの伝搬の経緯は、難破した東南アジア地域の商船の積み荷が偶然自生したのが始まりで、島民がこれを食べて見つけたという流れだったと伝えられている。しかし、恐らくは難破した時に生き残っていた人間から栽培を教えたれたと考えるべきだろう。どちらにせよ、太平洋の暖流上にある島だからこそ発生しうる偶然と必然の結果だった。
 しかしこの時代までは文字による記録が一切残されていないため、正確な事は遺跡の調査以外では知ることが極めて難しい。
 しかし砂糖の伝来は、砂糖の精製の過程で技術を向上させる事につながり、主に砂糖の栽培される南部の陸地で人的資源の集約的使用が進む切っ掛けとなった。サトウキビは、収穫後の糖度の低下が早いため、刈り取ってすぐに精糖しなければならないからだ。
 この事は、文明の進歩にとって非常に重要な要素となる。


●フェイズ03「古代1・歴史の始まり」