フェイズ03「古代1・歴史の始まり」

 竜宮諸島の記録が文字の形で最初に登場するのは、7世紀初頭の日本の古墳時代においてだった。同時に、竜宮以外の人間に正確に認知されたのも、これが最初の記録となる。それまでは、竜宮各地での住居跡や道具、壁画の絵、貝塚などの遺跡から状況が推察されているに過ぎなかった。この中で最も文明的なものは、岩の壁一面に描かれた星の位置を記した遺跡になるだろう。

 西暦7世紀初頭、推古天皇のもとで政治を行っていた厩戸王(聖徳太子)は、強大な大陸国家に対する日本の権威付けの方法の一つとして、遙か東の海の果てに存在すると当時から噂されていた竜宮に着目した。そして2度の航海の失敗の末に使いを乗せた船を竜宮に派遣し、日本の持つ文明の産物と交換で竜宮島の有力な豪族の一人に金印を授け、半ば形だけの朝貢をさせた記録が残されている。結局竜宮と日本を往来したのは、竜宮人の操るダブルカヌー船だったと考えられている。
 この時の朝貢で、竜宮で産する豊富な宝石と真珠(当然だが天然真珠)、砂糖の結晶、そして竜宮が存在する証としての数名の竜宮人が竜宮の側から日本の大和朝廷に納められた。この時竜宮では、文字(漢字)と数字、絹製品、漆器、貨幣が初めて登場した。文字や数字は当然として、蚕とその飼育方法は竜宮には存在しないものだった。他の多くの文物も、当時の竜宮人にとっては途方もない知的価値を持つ産物だった。土木建築技術も、大きく向上している。
 両者の交流において、当時の日本も東アジアでは遅れた国だったが、竜宮はそれ以上に遅れた国だった事が日本には有利に働いた。また位置関係や自然環境から、竜宮にはほとんど日本からしか行くことが難しい場所である事も、日本に竜宮に対する優先権が与えられたように考えられていた。
 そしてこの時の日本の記録では、大陸の隋を牽制する意味を込めて、竜宮の事は誇大にも記されている。
 この時の記録では、「アズマエミシ(東蝦夷)は竜神を崇拝している」と記された。アズマエミシとは竜宮の最初の呼び名で、これに対して竜宮の者は自分たちの事を自分たちの言葉で海の民と言った。また巨大な鯨や鯱を神の使いとしている事が、日本の使者から海神(竜神)を崇拝していると誤解された。また文明が遅れているのに天測や天文学に秀でている事は、当時の日本人から神秘的に見られる要素だったと考えられている。
 加えて、日本から見て太陽の出現する先に存在する土地だったため、日本から注目されるようになった。そして海の民という言葉と東の果てにあるという位置から、徐々に神秘的に語られるようになった。さらに当時から玉や宝石(翡翠や水晶など)、天然の真珠が豊富に採れたため、徐々にそうした側面が日本列島の中央から注目され「竜玉の島」と言われるようになり、後の竜宮の命名につながっていく。
 また日本人が、珍しがりかつ欲しがった物品の一つに砂糖(※当時は黒砂糖で「石蜜」と呼ばれた)があった。当時の日本では甘みは極めて貴重な食材であり、やって来た日本人相手に高値で取引できたため、竜宮南部で栽培が広がることにもなった。また船が行き来する際に、日本への帰路の出発点として南部の島々が重視されたため、これまで遅れていた南部が俄に発展するようになった。しかし一方では、竜宮人は砂糖の製法を日本人教える事はなく、長らく日本人は砂糖の正体を知る事はなかった。

 しかし竜宮という場所は、近在の日本列島からでも距離が有りすぎるため、日本側から十年程度に一度使節が往来するのが精一杯だった。商売目的のものが個人的に行くことも難しかった。だいいち、太平洋を渡るだけの船を建造するには莫大な資金と労力が必要であり、とても国以外ができる事ではなかった。
 加えて造船技術、航海技術の未熟から難破や遭難も多く、物理的に侵略も征服も物理的に不可能だった。ただし竜宮への航海のために、この時期の日本では俄に船の建造技術と天測技術が発展する事になる。欲望こそが、人の発展の大きな切っ掛け足りうる何よりの証明だった。
 そして日本人は、竜宮の宝石と砂糖を目当てに無理矢理にでも海を押し渡り、徐々に航路が開かれていくようになった。太平洋は波頭が高く危険も大きかったが、海流の流れだけでも何とか往来が可能で、さらには主に秋から冬にかけて北西季節風と偏西風に乗って島に至り、夏の貿易風で日本列島に戻れるため、天測を間違わず船さえ航洋性の高い丈夫なものを作れば、大きな苦労を伴わずしかも比較的早い速度で往来することができた。
 ただし船の難破や破損の確率は高く、可能な限り条件を整えてもおおよそ半分の船は太平洋の藻屑と消えたと考えられている。東シナ海での難破率が四分の一程度だったから、航海の難しさが分かるだろう。このため船の乗り手の確保には常に苦労が重ねられ、また丈夫で耐久性の高い船の建造に努力が重ねられるようになった。このため遣唐使など大陸向けの船の技術も向上する副産物も産んでいる。
 また竜宮を往来する船には、多数の筏と共に丈夫で水漏れしない水密性の高い樽が多数積み込まれるようになっていた。樽の中身は常に半分から三分の二程度に抑えられ、船が破壊されても樽や筏は沈むことはなく、海流に乗って竜宮もしくは日本に流れやすくされていた。このおかげで積み荷だけが流れ着く事も多く、中には人が助かる場合もあった。
 一方では、竜宮に人が住み始めてから使われている小型のアウトリガーカヌーやダブルカヌーを用いる場合の方が、航海が成功する可能性はずっと高かった。この場合最も大きなダブルカヌー(全長15メートル程度)を用いても船員十名程度、積載総量数トンが限界だったのだが、主に竜宮の商売目的の者が日本など東アジアを目指して赴くようになった。そして安全性の高さから連絡目的などで多用されるようにもなり、大型船の技術が進歩するまでの事実上の情報伝達と交通双方の主力を担った。ただし、航海する者が高い航海技術、天測技術を持たねばならないし、役人などの「お客さん」を乗せる場合はせいぜい2、3人が限界であり、人の交流は船乗り兼商人である船の運行者に限られていた。この船乗りは高い技術と勇気、機転、そして時と場合によっては腕っ節や商才までも求められるため、特に竜宮では高い尊敬を集める一種の名誉職となっていた。
 これは馬に乗る特権階級の騎士や武士に匹敵するものであり、「海士(カジ)」と呼ばれた。ただし特権階級と違うのは、死ぬ確率が高い危険な職業であるので身分階級ではなく、海の実力者として、文明と物産の担い手としての名誉称号のようなものでもあり続けた。漁業の盛んな南部を中心にして、一部では本当の成人の証や海の戦士の証として、諸島一周の試練を課すような地方も多かった。
 なお、竜宮への航海の中で、後の小笠原諸島や火山列島も発見され、場合によっては補給拠点や中継拠点に利用された。特に水源のある島は重宝された。また帰りの船が最初にたどり着きやすい九州南部や南西諸島(奄美大島など)、伊豆諸島の、大和朝廷による侵略と開発も進んだ。
 日本側の交換物資としては、竜宮にない文明の利器や新たな知識の他に、砂金と奴隷(ひぬ)、竜宮にいない家畜が交換用の商品として渡された。交易で渡ってくる奴隷も積もり積もればかなりの人数になり、竜宮の人口を押し上げる要因となった。加えて、奴隷は蝦夷や隼人と当時呼ばれていた人々が一定数含まれていたため、竜宮人と日本人の遺伝子的な差を広げる要素にもなった。
 また日本人が一度に沢山船で来ることで、発生した大事件があった。大陸の疫病の到来だ。もともと竜宮人はユーラシア大陸系の人類に含まれるので、大陸の各種病気に対する抵抗力はある程度備えていた。加えてこれまでも、小規模な往来がもたらす大陸の風邪やインフルエンザ、風疹などが竜宮にももたらされていた。このためどの疫病も、パンデミックといっても民族存亡というレベルにまでは至らなかった。だが、最初の天然痘流行は猛威を振るい、この時期の竜宮にとっての最大の災厄となった。
 加えて、他にも人災もやってきた。人の欲望が産んだ侵略だった。

 7世紀半ばに一度だけ、日本列島の地方豪族の諸連合による数隻の船団からなる竜宮侵略が行われ、この時期で唯一の大規模な戦闘に発展した。しかし、攻め寄せた側の日本人が、竜宮の人口と兵力、組織力を見誤っていたため大事には至らず、むしろ竜宮人に日本に対する警戒心と軍備増強を促すだけに終わった。大型船が数隻では、運べる兵士の数は僅かに100名程度で、船乗りは基本的に戦いを嫌うため、多少優れた武器を持っていても限られた場所を一時的支配する以上のことはできなかった。海賊と大差ないと言っても問題ないだろう。しかも既に竜宮人も鉄の武器を用い始めていたため、竜宮人は初期の混乱から立ち直ると攻め寄せた日本人達を滅ぼしてしまう。
 そして竜宮の軍事技術や軍事制度も、この時大きく底上げされることになった。竜宮において、骨や石さらには青銅の武器が鉄の武器に完全に置き換わったのも、この事件を契機としている。そして製鉄の技術向上も見られたため、すぐにも農具や刃物などの道具に応用され、緑豊かな竜宮の大地の開拓に威力を発揮する事になる。優れた鉄の道具を使うと使わないのでは、開拓できる場所、人一人当たりが開拓できる面積そのものが格段に違っていたからだ。そして道具の向上が、疫病による人口減少を覆し、竜宮人のさらなる増加に繋がっていった。
 話が少し逸れたが、この事件があった頃は朝鮮半島の百済が滅亡し、日本軍が唐国からの侵略を恐れていた時期のため、大和朝廷の一種の膨張政策だったという研究結果がなされている。日本自身が大きくなることで、唐国からの侵略に対抗しようと言う意図だ。実際日本列島では、隼人(南九州)、蝦夷(東北)に対する侵略と領土拡張が熱心に行われている。
 日本側の文献には、この時の竜宮侵略は地方豪族の独断専行だったと記録されているが、数百人単位の遠洋に対する遠征が地方豪族程度に行える事ではないので、多くの意見も大和朝廷の侵略行為だという説が最も肯定的である。

 一方では、平和の使者もやってきた。仏教伝来だ。
 7世紀半ばに数人の仏教僧がやって来ることで、竜宮にも仏教が伝えられた。最初にやって来た仏教僧は、竜宮人の操る小舟に揺られてやって来た猛者だったとされる。
 しかし仏教は、現地に広まっていた原始的な自然崇拝を覆すに至らず、仏教は道徳的な教えや考え方程度にしか解釈されず、僧は知識の伝道者としか考えられなかった。
 これは竜宮人は、人は死ねば自然に帰るかもしくは海に帰ると考えていたためで、極楽浄土などという考え方がどうしても理解できなかったからだと考えられている。人は死ぬことで自然に帰り、また母親のお腹を介して自然からやって来るというのが、竜宮人の価値観だった。そして生前に悪事を行わず善行を積んでいれば、再び人として生を受けるとされていた。そして子を成す事のできる女性の地位は、通常の農耕文明よりも高かった。
 こうした宗教観は自然崇拝そのものだが、時折起きる疫病と干ばつ以外の天災の少ない竜宮ではそれで十分だった。竜宮人には、日本人の言う天変地異の一部(地震や火山)は理解すらできなかった。地面が揺れたり炎を吹き出すなど、あり得ない事だった。地獄が理解できないのも、ある意味当然だろう。
 それでも日本から渡ってきた仏教僧の手により、文字(漢字)や医術、薬など様々な知識がもたらされて広められ、竜宮ではそれまでにない文明の進展が見られた。知識や教えに惹かれた信者の数も一定数が得られるようになった。竜宮人による文字による記録が行われ始めたのも、この頃からだった。
 竜宮に最初の仏教寺院が建立されたのもこの時期で、竜宮では木造ではなく豊富な石灰岩を用いた、どちらかと言えば大陸風の仏教寺院が建築された。当時の仏像も石灰岩から削り出したものが多い。
 同時に日本から導入した神道の神殿形式や大陸風建築が模され、竜宮風に石灰岩を主とした建造物が多数建設されるようになった。竜宮の創世神話の原型もこの頃に作られ、竜宮諸島では太陽と月の神殿に並んで、星の神(天神)、海の神(龍神)、風神、雷神を中心にした神殿が造られるようになる。また年数個程度やって来る台風(の残骸が殆どだが)が、竜神の怒りもしくは恵み雨と解釈されるようになっていた。星の神は、旅の守り手、知識の担い手の神様として船乗りや商人を中心に広く敬われた。また仏像を通じて神像を造ることが盛んになり、伝えられた技術を用いてアジア一般とは違って写実性の高い神様が石灰岩で次々に作られていった。
 日本の古墳(大規模な陵墓)が建設技術と共に伝わったのもこの時で、地震のない竜宮では日本のものより背の高い古墳、どちらかと言えばエジプトやマヤのピラミッドに近い高層建築型の陵墓(古墳)が作られるようになった。そして権力のステイタスとしての大きな古墳を作るために、豪族や集落の統合がさらに進んでいくようになり、連動して軍事技術や築城術の向上と発展も見られた。
 また交易によって、日本列島から様々な文明の利器がもたらされた。新たに伝えられた穀物、農作物と共に農業技術の伝搬と重なって、竜宮の人口を大きく押し上げることになる。
 他にも、家畜として色々な動物も渡ってきた。馬(日本馬)、牛、日本の犬がやって来て、日本生まれのマウスも船と共に竜宮にたどり着き竜宮の豊か自然の中で繁殖した。それまでいなかった兎(日本兎)も、食用を目的として竜宮本島に数多く放たれている。この頃には、竜宮原産の大型鼠の殆どが狩猟生活の中での乱獲と人の生活範囲の拡大で絶滅しており、新たな動物群はタンパク質確保に重要な役割を果たした。しかし鹿と猪は、日本で捕まえてまで持ち込まれることはなかった。もちろんだが、狼や熊などの獣が持ち込まれることもなかった。
 そして家畜としての馬と牛は重宝され、共に農耕、牧畜、そしてなだらかで障害物の少ない地形の竜宮の地形を利用した陸路の運搬にも大いに活用された。そして多方面で活用される事から、数が揃うまでの輸入とその後の繁殖が奨励された。後には、大型化のための品種改良も行われるようになった。
 東部平原では山羊や羊の牧畜が盛んとなり、徐々に竜宮共通の食べ物としても注目されるようになる。この時に、当時の大唐国のハイカラな食べ物だった各種乳製品(初期のチーズやバター)の入手が計られ、これが牧畜の拡大を後押しした。
 そして多数の動植物の渡来により、この時期の竜宮の自然は農業の進展と共に大きな変革を迫られ、独自の生態系は別の形へと変化していくようになった。後に野生化した猫(野猫(ヤマオ))は、一番の害獣としての勢力を築くまでになる。
 なお雀(シャン)は、3世紀の時点で害虫駆除のために農耕開始と共に連れてこられており、この頃には農耕の行われている人里において一大勢力を築くまでになっていた。家猫(カマオ・カモウ)も日本列島から来た農耕民族が連れてきて、既に人間社会の一角を占めていた。雀と家猫(+鼠)こそが、農耕と共に広がる動物だという象徴的な情景と言うべきだろう。
 なお、頻繁に日本列島から船が来るようになると、その都度疫病も運ばれるようになった。これまでもそれなりの頻度で大陸や日本の疫病はもたらされていたため、パンデミックのような事態には至らないも疫病は人々を怯えさせた。そしてこの時期以後の竜宮は、ユーラシアの疫病とほぼ同じ強度の疫病が日常的に見られる土地の一つとなっていく事になる。
 これも交流がもたらした大きな変化だった。

 一方、日本が行った遣唐使の中で、大和朝廷を通じて中華世界に竜宮の事が紹介された。この中で、初めて中華地域の記録の中に「竜宮」の名が登場した。竜宮産として、最も貴重な宝石である翡翠、真珠が大唐国に納められた。品質の高い竜宮産の翡翠は高級品として持てはやされ、真珠は大粒で美しかったため「竜珠」や「竜涙」として唐の都長安でも珍重された。ただし中華世界においては竜を冠した国の名が憚られたため、唐国の文書では日本人の言い方をもじって「流隅」に代えられ、海流の先(隅っこ=世界の果て)に存在する東の国として記録されている。また竜宮は、国ではなく日本の一地域として紹介されていた。
 なお、この数百年の間も、竜宮の人口は着実に増加した。農業技術の進歩、道具の進歩が島の開拓を推し進め、人口増加が開拓地の増加に繋がり、爆発的な人口増大を実現した。冷害や干ばつによる飢饉や疫病による一時的な減少は見られたが、それを押しのけるように人口の拡大は続いた。
 3世紀中頃の農業伝来から大和朝廷の日本人が来るまでの約350年間に、1万人から6万人に増えた人口はさらに大きく拡大した。
 西暦600年からの200年の間で一気に5倍以上に膨れあがり、総人口は30万人程度だったと推測されている。人口拡大を牽引した農業の広がりが早かったのは、竜宮各島のなだらかな地形が大きく作用した。主に黒々とした照葉、落葉温帯森に覆われていた筈の竜宮だったが、急峻や急流がないため地域というものの垣根が低く、また多くが海を伝って行けるので情報の伝わり方が日本列島よりは朝鮮半島に似ていた。故に、いまだ古代にあった竜宮において農業の広まりは早く、短期間での人口増大に繋がった。そしてこの後も急速な人口拡大は、文明レベルの上昇に従って続いていく事になる。
 人口規模は、既に古代型の統一国家が成立してもよいほどだった。事実、日本との交渉を有利に進めた一氏族(豪族)が、人口拡大を背景に支配権を拡大していった。この時期に竜宮本島の七割(竜宮全体の五割程度)を緩やかなつながりながら掌握するに至り、日本から国の保障を受ける金印を度々授かるようになった。「竜堂(ロンドゥもしくはロンド)」という氏族名が登場し始めたのも、8世紀になってからの事である。
 この氏族が大きく勢力を拡大したのも、日本からの文物を積極的に取り入れ日本人渡来者の登用を行ったからだった。しかし一つの勢力の拡大は方々からの反発も招き、竜宮全体の文明程度の低さもあって全体の統一には至らなかった。一方では、日本文化の浸透と共に竜宮全体の緩やかな均一化が進んでいく事になる。

 ちなみにこの時期の日本列島の人口は最大で約600万人程度だったと考えられており、蝦夷(東北北部と北海道)の数万人を除いて日本列島の統一をほぼ達成している。日本は東アジアの中では辺境の中堅国家程度だが、日本しか見えていない当時の竜宮にとっては、とてつもなく巨大な太陽の没するところにある大国だった。日本人が伝えた唐や天竺、ペルシャの事など、法螺話と考えていたほどだった。


●フェイズ04「古代2・大和朝廷の侵略」