■フェイズ09「中世5・内乱と刷新」

 西暦1333年、日本では鎌倉幕府が倒れ、貴族(天皇)の復権などの紆余曲折を経て、新たな武家政権(封建政府)である室町幕府が成立した。大陸では、1368年にモンゴル人が北の平原に追い払われ新たに明が興った。この過程で、大陸各地の貿易港に滞在していた竜宮人が、多数のイスラム系商人同様に多数虐殺されたと記録は伝えている。また中華地域の混乱から、竜宮に逃げ延びた人々も数多くいたとも記録されている。
 そして北東アジアの混乱が、竜宮にも押し寄せる事になる。

 竜宮では983年の竜宮王国建国以後、竜堂王家による古い形式の封建的支配が続いていた。しかし12世紀からの産業や経済の発展、安定成長を続けた人口の拡大に合わせて、竜宮社会の発展は進んだ。交易の流れによって人の移動も生まれ、大陸からの移住者すら訪れるようになった。
 しかも竜宮は、陸地のほとんどを占める竜宮本島とすぐ南の竜頭島を中心にして社会が均質化されていた。なだからな地形が多いので、地方や地域を作り出すだけの自然障害物がなかったためだ。文明の伝搬と人口拡大が遅かった竜宮で、急速に農耕の進展と開拓、そして国家の勃興の拡大ができたのも、自然障害の少なさが大きく影響している。一方では、経済と文化の発展に伴い、地域ごとの格差は広がりを見せた。
 南の中心は、材木産業の発展した竜背島と、海外交易の出発拠点となっていた竜尾島だった。この二つの島を中心にして、南部では製糖業が一番の産業だったが穀物生産は少なかった。一方北部の本島は広い平地を使った農業や牧畜が盛んで、地下資源の偏在から本島北部に製鉄を始めとする各種金属業が発展していた。また本島東部は雨量が少ないため稲(米)の栽培が難しく、牧畜や米以外の雑穀栽培が続いて人口密度が低く土地面積当たりの相対的な経済力も低かった。北東アジア的な風景は、当時は主に本島の西部から北部にかけてしか広がっていなかった。
 そして日本や大陸からの優れた文化が入ってくると、首都の東都を中心にして高級品の消費が行われ、海外貿易を王家が半ば独占しているので地方(荘園)を治める貴族の地位も低下し、力関係の変化に伴い中央が地方を搾取するようになった。
 そして中央につらなった国家宗教の「神威(之道)」は、かなりが国家権力化や官僚化するようになっていた。加えて安定した国の状態の中で専横と地方監視は強まり、長く続いた官僚化の弊害として組織全体の停滞と腐敗が進んだ。
 これは世界中、歴史中どこを見ても必ず発生する状況であり、それが400年近く続いた古代封建国家であっても避けられるものではなかった。
 そうした停滞に対する反発は少しずつ積み重なり、14世紀の後半もかなりにさしかかった辺りで一気に吹き出す。

 切っ掛けは、中華地域での明朝の勃興と王朝革命に伴う一時的な大陸貿易の途絶だった。1351年に元で紅巾の乱が起きて混乱が広がると、元は竜宮を優遇するゆとりを無くし、朝貢貿易そのものまでが途切れがちとなった。しかも当時の竜宮王竜堂久須利(ロンドゥ・クスリ)は浪費家で政治には無頓着であり、中央での散財が既に国庫を大きく傾かせていた。
 そこにきての貿易不振は国庫の減少と傾きをもたらし、穴埋めのために地方に対する負担が増した。
 また中華貿易の代わりとして、鎌倉幕府が倒れた日本との関係を修復して貿易拡大を計ろうとした。この中で、日本への輸出品として砂糖が注目されたのだが、砂糖生産地の竜宮南部に対する負担ばかりが増大した。しかも南部はこれまでも船舶建造用の木材の拠出、海外への出発拠点としての利用の時の不相応な負担に苦しんでおり、一気に不満が爆発した。
 中央から派遣された役人や軍人と、南部の国とのつながりの強い神威関係者の殆どは、軟禁もしくは抵抗した場合は殺害され、中央に対する関係の大幅な改善が要求された。これに対して王国中央は、南部の要求を拒絶。直ちに状況の復帰と、今回の騒動に対する責任を求めた。そして応じない場合は兵を用いると返答。これが南部をさらに追いつめることになる。
 そして南部は、1362年に艦隊を組織して首都東都への奇襲攻撃を実施。陥落は叶わなかったが、軍港を焼き払う事には成功した。
 竜宮王国始まって以来初めての大規模な内乱勃発であり、以後久しぶりに竜宮は戦乱に揺れることになる。

 内乱に際して王家は、神威を通じて直ちに討伐軍を組織し、この討伐軍を編成するために竜宮本島と竜頭島全体に大きな負担が発生した。しかし既存の艦隊が焼き払われたため、まずは軍船の整備が無理を押して進められる。
 そしてようやく編成された討伐軍に対しては、竜背島、竜尾島のそれぞれの大侯は艦船による遊撃戦、海賊行為によって進撃を遅らせた。また両者の中間にある竜手島の竜手大侯は、事実上のサボタージュと穀物の密輸によって南部を支援した。
 内乱は中央の思惑に反して短期間では治まらず、1年を過ぎても終わる気配すらなかった。
 琉球全体の海上交通の混乱によって国内流通は大きく停滞し、海外交易は竜宮から出る事自体がほとんどできなくなった。海と海流の関係で、竜尾島を出発拠点に使わなければいけないからだ。そして当時の航海技術では、不安定な航海は死を意味した。
 当然ながら王国全体の経済にも大打撃を与え、さらに地方の負担は増した。
 そして戦乱が長引くと、北部諸侯の反発も強くなった。
 ここで中央は、南部に対する徹底した兵糧攻めを開始。
 北部から流れる全ての食料の流れを絶つ作戦に出た。
 これには南の民を根絶やしにするのかという反発が各地で強まったが、余裕を無くした中央は省みることはなく、強硬に海上封鎖を行わせた。
 しかし海上封鎖と兵糧攻めの効果は限定的だった。
 海上戦力の優位を用いて南部の海賊船が跳梁していて、北部の主に都市から食料を奪っていたからだ。
 もともと出発拠点とされた南部は昔から船乗りの質が高く、また漁民が多いため、船乗りの数そのものが圧倒的に多かった。加えて竜背島は竜宮随一の山岳地帯であり、島の中腹部以上が杉木材やブナ(オーク)の産地だった。
 このため元々海軍力の半分以上が南部で占められていたので、海での活動に関しては人口に比例した国力差では図れないものがあった。南部の内乱にも全く勝算がなかったわけではないのだ。
 しかし南部には穀倉地帯が少なく、また国の方針に従って砂糖栽培を進めていたため、単独での食糧自給はできないでいた。この構図が北部の南部に対する事実上の搾取にも繋がっていたのだ。無論南部でも穀物の栽培は皆無ではないし漁業も盛んだったが、なまじ産業自体が発展して人口が拡大したた事が食糧自給を難しくしていた。また北部との決定的な地力(人口)の違いもあり、短期決戦以外での勝算はなかった。
 このことは北部も王国も知っており、初期の短期鎮圧に失敗すると、兵糧攻めという長期戦に代えたのだ。また本島では多数の軍船の建造と兵の準備が着々と行われつつあり、十分な軍船の揃う2年ほど先には十分に内乱鎮圧の目処は立っていた。
 当時の竜宮本島の人口は竜宮全体の8割もあるので、本気になれば南部の反乱の鎮圧はわけなかった。軍の動員能力は、農閑期であるならば10万人すら動員可能となっていた。
 しかし軍の大規模動員と船舶の建造によって本島各地が大きな負担を強いられることも確かであり、経済力の低い本島東部の反発が強まった。
 その反発を押し切り、南部の鎮定が開始される。
 物量を前にしては南部の精鋭も抗しきれず、サボタージュしていた竜手島も中央に従わざるを得なくなり、竜背島、竜尾島は相次いで陥落した。 
 しかしここで、竜宮史上前代未聞の珍事が起きた。南部の竜雲島に逃れた反乱勢力の残党が、残りの艦隊を率いて未知の世界への逃亡の旅路へ活路を見いだしたのだ。1180年、1230年の飢饉の時にも飢饉から逃れるための一か八かの移民が竜宮を後にしており、この記憶が彼らをエクゾダスへと誘ったのだ。
 竜雲島に鎮定軍が攻め寄せた時にはすでに残存艦隊の姿はなく、砂浜に頭をすりつける竜雲伯以下島民の姿しか残っていなかった。その後もさらに東にある環礁(後の中道島)までくまなく探したがその姿はなく、追跡もうち切られることになった。
 その後も音沙汰がなく脱出した数もそれほど多くなかった事から、次第に関心も薄れていった。

 南部の反乱は1365年の冬に鎮められた。南部ではより強い統治と支配が行われるようになり、これまでの竜背侯、竜尾侯は逃亡するか滅ぼされ、新たに中央から派遣された新領主が治まった。しかしこの新領主は中央の威光を笠に着た統治しか行わず、南部の安定は一層難しくなり、それがまた厳しい統治を行うことにつながるという悪循環を繰り返した。
 しかも内乱に伴う竜宮経済の混乱と内乱での出兵の負担は、ほとんどが地方の諸侯の負担とされた。中央としては今後の反乱を未然に防ぐために地方の力を落とすための方策だったが、水面下での反発はより一層強まることになった。
 それでも王国に刃向かえばどうなるかという事を見せられては黙って従うより他無く、不満がくすぶったまま内乱から数年が過ぎた。
 しかし先の内乱発生から丁度十年後の1372年、竜宮を大規模な干ばつが襲うことで二度目の内乱が発生し、ついに王朝革命に至った。

 干ばつに際して首都東都は、傾いたままの国庫を補うために通年通りの税を各地に要求。特に南部に厳しいままの税が言い渡されたため、一気に不満が高まった。民による小規模な反発や反乱がいくつも発生し、東都はその都度軍を派遣もしくは各地方に鎮圧させた。当然と言うべきか悪循環に陥り、またも南部で大規模な内乱が発生した。竜背島の山間部に潜伏を続けていた旧反乱組織の残党を中心にした人々が、新しい大侯を廃して各地方の決起を促す檄文を送ったのだ。この時、竜宮最高峰を祭る神威院殿の神女主(巫女)で島の住人の精神的支柱でもあった斗希(トキ)が参加し、反乱は一気に大規模なものとなった。
 そして東都は、当たり前とばかりに国中に軍の動員と南部鎮定を命令した。
 この時、東部平原を代表する草千(ソチ)侯は一度ならず税の軽減と民に対する温情を讒言し、この時も内乱の無益さと王の民への温情を説いた。だがその讒言が過ぎて不興を買い、東都に幽閉されてしまう。
 竜堂久須利は、内乱が起きるまで暴君ではなかったが暗愚の王であり、そして国と王権に寄生した一部神威の専横が中央の悪政を大きく助長した。この時も幽閉したのは事実上政治を取り仕切った中央の神威達であり、国の制度の未熟から他の中央勢力が止めることはできなかった。
 しかし人格者で知られた草千侯の幽閉で、地方の多くで大きな反発が起き、それが中央の焦りを強めさせた。統制を強めるためにより強い命令が中央から発せられ、予定より早く大軍を用いて一気に南部の討伐が行われることになった。
 そして権力に逆らえない地方も、仕方なく中央に従って軍を進めた。
 そして1373年6月初旬、事件が起きる。
 東部平原から山を越えて東都に進軍してきた、草千侯を中心とする騎馬を中心にした約3000の兵士が蜂起を決行したのだ。
 この時、草千侯嫡男で成人したばかりの草千剣義須(ソチ=ケギス)を先頭にして、一気に東都の王宮目指して攻め掛かった。
 開け放たれたままの街の城門を、不意打ちにより一気に突破した騎馬隊は、街を抜けると一気に王宮と神威総院殿に殺到。短時間の内に王宮と総院殿と官庁街を制圧。さらには玉璽を奪って強引に国王を退位させ、それを町の住人に布告した。しかし他の地域から都への軍の移動も進んでおり、中には国や国王に従う者も多く、周囲から国王軍の兵士が殺到したため、王宮は硬く城門が閉ざされ籠城戦となった。
 そして落とした王宮と総院殿を拠点とした蜂起軍は、城壁の外に王国軍にさらに包囲された状態となって追いつめられてしまう。兵力差は数倍であり、元々が騎兵のため籠城も不向きだった。
 しかし蜂起軍に対する攻撃が行われる前、状況を知らされていた南部からの艦隊が来援する。海からの援軍は、東都を包囲していた軍勢を水上から奇襲攻撃して壊乱させ、王宮から討って出た蜂起軍によって、包囲軍は蹴散らされてしまう。
 なおこの時、竜宮で初めて火薬を用いた兵器(※初期的なロケット砲で大きなロケット花火のようなもので、モンゴル帝国から技術を手に入れていたと考えられている。)が艦艇の上から使用され、敵軍に対する威嚇や建造物の火災誘因で活躍したと記されている。
 そして派手に吹き上がる炎が、一国の滅亡を弔う送り火となった。なぜなら、この攻防戦の混乱の中で逃げ遅れた竜堂一族と中央の神威関係者の多くが命を落としたからだ。



●フェイズ10「中世6・新王国と貿易再編」