■フェイズ10「中世6・新王国と貿易再編」

 1373年6月、竜宮王国は滅亡した。
 竜堂(ロンド)王家とその系譜の生き残りのうち成人男子は全員処刑され、残された者も子竜島への遠方流罪もしくは仏教寺院への出家をさせられる事で断絶された。これ以後仏教寺院には、そうした上流階層に対する幽閉、軟禁施設としての役割も加わるようになった。
 しかし、それまでほぼ絶対的な支配を行ってきた竜堂王家を短期間で滅ぼしてしまった勢力に全ての勢力が簡単に従う筈もなく、その後も竜宮全体を巻き込んだ戦乱は続いた。特に東部の騎馬部族と南部諸侯が大きな力を持った事による反発が竜宮本島では強く、今度は主に本島での陸戦が主体となった。どちらも竜宮全体ではマイノリティーだったからだ。
 これ以後の戦乱では、王家を滅ぼした側を反乱軍、形式上旧王家を信奉する側を王統軍とされた。本来なら逆の表記であるべきなのだが、新国家が成立するまではかつての王国の形式に沿った記録が行われたため、今回も沿うことにする。
 王統軍の中心は、竜宮王家の竜堂(ロンド)と姻戚関係にあった西平野の太守川路流(セジル)侯爵で、竜堂家が滅ぼされて後は、自らの血族内の竜堂王家との血縁を担ぎ上げて正統な竜宮王室だとして勢力を糾合した。
 反乱軍の中心は、東都陥落後に草千侯の家督を継いだ草千剣義須(ソチ=ケギス)と、南部の精神的支柱となりとりまとめることに奔走した神威の神女斗希(トキ)だった。剣義須が旗頭となって前線で戦い、内政を神威の神女である斗希が預かる形で、反乱軍を引っ張った。
 竜宮全土を舞台にした大規模な戦乱はその後約5年間続くが、1373年に既に老齢だった斗希(トキ)は激務が祟って病に伏して呆気なく死去する。このため一時反乱軍の統制が乱れるが、孫に当たる咲希(サキ)が斗希(トキ)の立場を引き継いだ。咲希は、神童と言われた才覚と巫女の才能、さらには指導者の剣義須との連携によって反乱軍の統率を取り戻したと記録されている。
 その間戦局は王統軍の優位となり、東都も王統軍の手に帰した。しかし指導者の剣義須は、時間を重ねるごとに軍人として為政者としての才能を発揮して状況を有利に運んでいった。そして北部の工業地帯(製鉄地帯)が反乱軍側に荷担すると、戦局は一気に反乱軍有利に傾いた。そして反乱軍は一気に川路流侯爵を追いつめて滅ぼし、その他の勢力も従え遂には竜宮の再統一に成功した。
 またこの戦乱の中で、追いつめられた王統軍の一部が国外に逃亡を企て、千人を超える船団を作り上げて東の海を目指した賭けに出たのは大いなる皮肉であろう。

 1378年2月、竜宮は再統一され、新たな国造りが始まる。
 新たな国王には草千剣義須が即位し、新たな王国の建国を宣言した。しかし国号は「竜宮王国」のままとされ、この件に関しては誰も異を唱えなかった。このため、以後は国号は王国だがそれぞれの中央政府は王朝と解釈されるようになる。このため最初の竜宮王国は「竜堂朝」とされた。もしくは最初の王国を「旧竜宮王国」この時の王国を「新竜宮王国」という事がある。特に建国当初は「新王国」という呼び方が頻繁に使われたと数々の文献に記録されており、正式な記録文書にまで残されている。なお、国の名そのものを変えなかったのは、玉璽の存在が影響しているとも言われている。
 また国の都が東都から昇京(ショウキョウ)に場所ごと改められ、土地や人の呼び名を全て漢字に沿った読み方に改められた。
 また新王朝の初代国王への即位に際して自らの名を創竜剣義守(ソロン=ケンギス)と改め、ここに創竜王朝が成立する。そして新たな若い王を中心として、この数百年間に得られた様々な外の知識と技術を応用した国作りが目指された。
 だが最初に行われたのは、未だ独身だった新王の婚儀だった。
 初代創竜王剣義守の后として、戦乱半ばより南部の精神的支柱として奔走した神威の神女咲希(サキ)を新たな国の中心に推す声が強くなり、それぞれ地域を代表する侯爵、大侯を後見人とするも諸侯との血統とは関わりない婚姻が成立したのだった。
 おとぎ話のような国造りが最初に行われた背景には、竜宮特有の地理的事情があった。それは、広い陸地(平地)を持つ北部と小さな島々から成る南部の融和が第一の目的だったからだ。そう言う点では、今回の婚礼はこれ以上ない出来事だった。加えて、新たな国を目指して共に戦った新たな王が民の側に立った神威の神女(巫女)と結ばれる事は、新しい風を吹き込むと同時に民心安定にも相応しいと考えられた。竜宮には外敵が少ないため、内政と域内の安定が重視されたという側面が重要だった。
 また新王の后を諸侯から選ばない事は、特定の諸侯が大きな力を持たないようにするために選択された事でもあった。元草千侯爵家が新たな王家となるのは戦乱の結果仕方ないにしても、他の誰もが他者に漁夫の利を得させたくはなかったし、王権に権力を集中するためには一つの家が中心になるのが相応しいとも考えられていた。
 そして新王が武力によって竜宮を統一した事で、中央への力を強めた国家を作るまたとない機会となった事も、諸侯から后を出さなかった大きな一因となった。

 新たな国家体制には、中華地域、日本、さらには東南アジアの国の制度などが参考にされ、より進んだ封建制度の整備が目指された。
 この中で国家宗教的組織であり官僚すら兼ねるようになっていた神威の政治的実行力は大きく低下させられた。ただし儀礼の面で国の権威を示す部分は残され、施設などの「見た目」はむしろ重視し、大規模で壮麗な施設の建設はむしろ活発となった。また神威を祭る院殿の名称も合わせて変更され、「院殿」から「神殿」に名称が変更され「神」の名を全面に出すことで儀礼の面がより象徴されるようになった。また権力を正当化して人々を押さえ込む手段としては弱められが、民族の結束を強める組織としては維持され、その手段として共通の価値観の流布と「道」と「徳」を教える事に力が入れられた。
 中央行政では、王を中心に六つの官府が設けられていた古代中華風の制度は改められ、名称はともかく内容は日本の鎌倉幕府と室町幕府の中間ぐらいのものとなった。中華の制度が参考にされても直に取り入れられる事はなくなり、完全な封建社会へと進んだ。ただし中華地域と同様に、宗教統制が消えた事による知識を集中する機関の必要性が生まれた。そこで国家の教育機関としての学問所として中央には「大学」、各地に下部教育組織の「少学」が設けられて知識人や役人の育成が行われるようになり、その後大きく発展していく。
 地方行政では、最初に建国した頃に比べて格段に人口が増大したため、貴族制度と共に大きな改変も実施された。また制度改革は、戦乱により功績を挙げた貴族や豪士に対する報償の役割も兼ねていた。
 新たな爵位は、順に「王族」→「大侯爵」→「侯爵」→「伯爵」→「子爵」→「士族」とされた。豪士が固有の身分階級を示す士族となり大侯爵と子爵が新たに増えたが、以前同様の血縁(家名)による在地領主であり、東アジア的な官職の名としての再編成ではなかった。表面上はかつてに比べて人口が増えた事による再編成であり、大侯爵ともなると10万人もの領民を持つこともあった。また王族に連なる一族用として「公」を冠した身分も新たに作られ、王族の権威付けが強められた。王族に連なる王子を公子、王女(姫)を公主というのもこの頃正式に定められたもので、身分の名称は日本よりは古代中華世界に近いままの状態がむしろ強められたと言えるだろう。
 そして中央の権限が大きくなって貴族の地位は低下しているので、全くこれまで通りというわけではない。
 特に商業拠点とされた都市は全て国の直轄都市となって、徴税権も国が握り、代官が統治を行うことになった。そして租税も直轄都市から順次貨幣に切り替えられ、商品経済発展の道しるべが作られる。重要鉱山の多くも国の直轄となった。
 そして新たな王国は、中央の財源を確保すると同時に法制度の整備と役人の育成に力を割いた。王権の拠り所として、古くさくなった宗教を切り捨てたため、「法」によって統治するという方法が是非とも必要となったからだ。こういった側面は、東アジア的もしくは中華王朝的と言えるだろう。
 そのため、優れた法律、法が誠実に守られているかを監視する組織、猾吏の専横を禁じ能吏を誉めて重用する制令、この三つのバランスに注意が払われていた。当初は官僚が不足したが、貴族と万民双方から均衡に採用するための制度を整え、また高い身分や位の者が個人的に抜擢する事(猟官制)も認められていた。当初は前者2に対して後者1の割合で、これは中央と地方でもほぼ同様だった。ただし、知識階層となる特権階級の比率が格段に高いため、どちらにせよ多くが貴族や士族となった。しかし普通の民が官僚になる道も残され、学業の総本山となる大学がその機能を果たすことにもなった。こうした点も、中華的と言えるだろう。

 新たな国家を作ったが、その始まりは設備、施設面では順調とは言い難かった。
 かつての都だった東都は、何度も戦場となって荒廃していた。壮麗だった白い城壁と建造物は煤で汚れ人々はちりぢりとなり、町も戦乱中にすっかり寂れていた。新たな都に昇京(ショウキョウ)が選ばれたのも、穏やかな湾に面した利便性と東西交通の要衝だったからだけではなかった。
 無論戦乱中に反乱軍の拠点となったことも遷都の大きな要因となったが、東都の荒廃がなければ遷都したかは疑わしい。概して遷都には莫大な経費が掛かるし、旧来からの都を支配する事は国を統一した象徴としての側面も持つからだ。
 しかし新生竜宮王国は遷都を選び、新たな王宮(王城)と王都の建設にとりかかった。建設には王家も諸侯もその規模に応じた平等な負担が求められ、建設に参加した民には禄(給料)が払われた事もあって、一種の公共事業として機能した。また、民にそうしなければならないだけの理由もあった。戦乱と経済の混乱によって民は疲弊し、人口も一割近くが失われていたからだ。国民生活の再興こそが、新たな王国の最初の事業だったと言えるだろう。
 この新都建設事業は約30年間もかけて行われ、かつての東都を遙かに凌ぐ巨大で壮麗な計画都市が建設される事になった。
 高台の上に作られた新王宮(王城)も石材や石灰岩、焼き煉瓦をふんだんに使用した壮麗な高層建造物で、最も大きな建造物は建物だけで50メートル以上、土台となった高台(小さな山もしくは丘)の分を合わせると100メートル以上の高層建造物が造られた。これが湾上から見ると非常に見栄えのする建造物となり、王宮から続く緩やかな斜面に作られた都市中心部と合わせて、訪れた多くの人を感嘆させる事になる。また広く取られた商工業区画は、無数の水路によって幾何学的景観を持ち、その全面に巨大な港湾部が控える当時としては壮大な規模の都市だった。
 また地震のない土地柄なので、建造物も3階建て以上のものが一般的に作られるようになり、最も近在の日本とは違った景観を作り出していった。しかも建物には石材や石灰岩が多く使用されたため、どちらかと言えば大陸的な面が強い。その上で竜宮では朱ではなく緑が尊い色とされ、屋根の色を中心に緑がふんだんに使われた独特の色彩を醸し出している。また都市の各所に尖塔や高層の楼閣が多数存在するのも、日本とは大きい違いだろう。またこの頃になると、天然ガラスを加工して窓などにはめる事が一般化して、壮麗さに色を添えた。
 なお王国の主要建造物は、石材や石灰岩を豊富に使った丈夫で巨大な建造物だった事もあり、今日にまでその威光を伝えているものも多い。
 また国内流通の復興と共に、経済の再興のために戦乱により大きく衰退した海外貿易も再興しなければならず、新たな船舶(と建造施設)の建造や港湾施設の復旧など、やるべき事は山積みだった。
 幸い民と土地がそれほど荒らされていないので途方に暮れるほどでもなかったが、何から手を付けるべきかと考えさせらるほど問題が山積していたことは間違いないだろう。
 しかし剣義守王の治世は、若年で即位(満21歳で即位)したこともあってその後40年以上続き(1417年に老齢を理由に自ら退位禅譲し、王が終身でないことも示された)、統一された長い間の治世によって国も安定と繁栄を取り戻した。

 一方で内政の建て直しと同時に重要だったのが、やはり海外貿易だった。他者から遠く小さな世界でしかない竜宮だけでは、すぐに全ての事が行き詰まってしまうことを竜宮人はよく知っていたし、今回の内乱による停滞だけでも十分に思い知らされていた。内戦中に剣義守王への支持が集まった理由も、商工業者を中心にして開明的な剣義守王を支持したからだった。
 そして海外貿易の再編成を計った竜宮王国の前に、3つの海外変化が転がっていた。日本での室町幕府の誕生と安定化、中華地域での明王朝の新たな海外貿易計画、さらには琉球での統一王朝成立だった。
 日本との間は、1402年に室町幕府の第三代将軍足利義満との間に貿易関係が締結された。竜宮側としては関係の薄かった鎌倉幕府が倒れた事が、足利義満が海外貿易に積極的だった事が、貿易の再開と促進を容易なものとした。
 琉球との間には、1381年に使いの船が派遣され以前と同様の港湾の借り受けを依頼し、使用料を支払うことで特に問題もなく交渉を進展させることができた。琉球側も、竜宮がいない間は金や遠隔地の物産の獲得に苦労した。さらに竜宮が上客であることは昔から知っていたので、無茶な要求を突きつけることもなかった。むしろ琉球と竜宮は互いに足りないものを補い合って、この後の交易をより活発に行うようになる。
 そして明国に対しては、1384年に竜宮から最初の使節が派遣された。そこで建国帝である洪武帝に謁見し、竜宮の使節は自らの新たな王朝の成立を告げると共に朝貢を行って、許可制ながら貿易の許しを得ることができた。明国の側も、自らやってきて朝貢を申し出る竜宮に対して好意的だった。
 しかし1402年に明国で永楽帝が即位すると、貿易体制に大きな変化が現れた。貿易が朝貢のみに制限されることになったのだ。竜宮は慌てて使節を派遣したが、若干の優遇措置を得るだけで満足しなければならなかった。しかしこの交渉の中で、一人の有力者との接点を持つことができた。それが宦官の鄭和だった。
 しかし竜宮は既に朝貢を行い自分達の船で明国まで来ているので、今更鄭和が進めている新たな国策貿易に来てもらっても仕方なかった。竜宮のさらに東の果てを目指すという案も提示されていたが、探索や探検ではなく官営貿易が目的のため、竜宮人ですら知らない世界に行くはずもなかった。
 だが鄭和との関係を深め、永楽帝から許しを得て明国の船団に同行する許可を得ることができた。しかもこの間は、竜宮の船が明国の港にも入りやすくなり、限定的ながら朝貢以外での貿易も行われた。
 一方竜宮本国では、竜宮始まって以来の高性能な巨船が何隻も建造され、ここで明国から招いた船大工などによって竜宮の造船技術はさらに向上した。ただし1405年の第一次船団には間に合わず、1407年の第二次船団からの参加となった。以後も毎回無理を押してでも船を出し続け、竜宮人の知る世界を大きく押し広げた。
 つまり竜宮人は、1405年から1433年にかけて東南アジア、インド洋一帯へと組織的に進出した事になり、竜宮本国にも様々な珍しい文物、イスラム世界の最新技術と学問が持って帰られた。この航海の中で、イスラム教徒も初めて竜宮の土を踏むことになり、東アフリカに到達したときには、アフリカの珍しい動物も竜宮に持ち帰られている。またアラビア地方に赴いた時には、そのまま独自に紅海を進んでスエズにいたイスラム商人と共にヨーロッパ人ともファースト・コンタクトを行ったとされている。その証拠として、ルネサンス初期の地中海地域の文物と、多数のフローリン金貨、ターレル銀貨が、今も竜宮王室の宝物庫(現王立美術館)に残されている。
 なおこの時竜宮の船は、船員は竜宮人ながら便宜上明国に献上された形で運航されており、明国の旗を掲げての航海となっている。
 そして竜宮商人の活躍は鄭和没後も続けられ、琉球からマラッカにかけてを中心にして東アジアからインド洋にかけての交易を活発に行うようになる。ただしイスラム商人やインド商人との棲み分けのため、ほとんどマラッカ海峡を越えることなく、また遠方に行きすぎても利益が出ないため、それ以上活動が広がることはなかった。


●フェイズ11「中世7・竜宮の発展と貿易」