■フェイズ11「中世7・竜宮の発展と貿易」

 1467年、日本で応仁の乱が起こり、俗に言う戦国時代に突入した。この結果、竜宮の対日貿易も再編成を迫られる。
 しかし当時の竜宮は、新王国の繁栄期にあり、成立から百年近く経過して国自体も大きく発展していた。

 当時竜宮の貿易は、明国の琉球王国を利用した貿易体制に半ば寄生した形で安定しており、竜宮にも琉球を経由して明国の商人が訪れて東アジア全体の貿易網の中で活動していた。インド洋から船や商人がやって来る事もあった。
 新国家建設後は国内統治も安定し、建国王剣義守王の後も国王に恵まれていた。そして国の安定を後押ししていたのが、経済の好調にあった。
 大陸などからの新しい農業技術と農作物の積極的な輸入と導入によって農耕技術も向上、開墾地はさらに増えた。総人口は、さらに大きな変化の訪れる16世紀中頃頭の時点で400万人にも達した。さらにその後一世紀の革新的変化によって、17世紀中頃までの一世紀の間にさらに二倍増という大きな人口増加を経験する事になる。温帯地域に比較的まとまった平地を持っている利点が、技術向上や新たな作物の出現との相乗効果によって大きく反映されるようになったのだ。特に灌漑農法の劇的な技術向上は米の栽培面積と収穫量を大きく増やし、この後竜宮の人口をさらに大きく押し上げる事になる。
 新たな商品作物としては、中華地域から導入された麦類(主に小麦)の栽培が進み、主に雨量の少ない竜宮本島東部に広がっていった。小麦はそれまでのヒエやアワを駆逐して牧畜とセットの輪作が進み、人口の拡大と食生活の変化すらもたらした。
 稲作も、中華地域や日本からの新技術導入と独自の発展によって灌漑が進み、人口の拡大と共に労働集約型産業として躍進した。またこの頃から、麦や商品作物などの導入による二毛作や、雨量の多い地域での米の二期作が行われるようになるが、地力の回復が前提のため施肥つまり肥料を使うことが前提だった。そして魚肥など、様々な肥料が使われるようになったが、安価な肥料として家畜の糞尿と共に人の糞尿が大きく注目され、糞尿の効率的回収(便所の普及)による副次的な効果によって衛生環境の大幅な改善も行われた。特に都市がある程度清潔になった効果は大きく、都市の発展と人口拡大を助けることになった。またこの頃には、大都市の上水道の設置も行われており、今までとは格段に違う生活環境変化が起きている。利水の向上は、入浴習慣にも影響を与えた。
 そして南部では、以前から盛んな漁業により得られた魚肥と豊富な雨量を利用した米の二期作が盛んとなり、食料の自給が容易となった。
 また国内で消費される穀物以外の商品作物(茶、煙草、漆、葵、楮、桑、菜種など)の栽培が二毛作によって盛んとなった事で、農村の経済力拡大を後押しした。輸出作物としてのサトウキビ(糖黍)の栽培と精糖も技術を改良しつつさらに拡大し、二期作の進展と北部からもたらされる食料で増加した人と、同じく北部から流れてきた移民を使った集約的な生産が行われ、余剰品が主に日本などに輸出された。特に効率的な砂糖産業は、資本集約的経営でなければいけないため、南部では北部とは違った産業発展が見られた。

 また農業の拡大に伴い、商業も大きく発展した。
 分かりやすいのが造酒産業で、イスラム圏内との貿易により蒸留器(アランビク)が竜宮にももたらされ、各種穀類を使った亜蘭酒(蒸留酒=火酒、焼酎)と共にサトウキビの絞りかすを使った酒(「魂酒(コンシュ=対外通称:ドラゴン・ラム)」)が庶民の酒として大量に出回るようになった。
 そして酒の生産拡大に代表されるように、様々な商品作物を使った手工業も大きく発展し、経済発展を促した。
 人口拡大、農業生産力の増大、商品作物の増大は必然的に都市の大型化、商業の発展を促し、首都の昇京以外にも物資の集散地となる地域で商人、工人が飛躍的に増加した。王都昇京の人口は16世紀初頭の時点で20万人に達し、巨大で壮麗な白亜の城壁を大きく越えて街は発展していた。
 そして王都昇京や主要都市は国の直轄したにあるため、必然的に国に大きな税収がもたらされるようになった。
 そして税収の管理と運営によって、国家事業による治水や都市の建設、街道の整備など様々な事業が行われ、さらにはおもに海外で活躍する商船を海賊や他国から守るための軍隊(海軍)が拡充されていった。
 一方では、国とつながる大商人いわゆる特権商人が大きな影響力を持つようになった。彼らは国から許可を得て、海外貿易をほとんど独占した。太平洋を押し渡る大型船を建造するには莫大な費用と運用経費が必要なため、中小の商人では太刀打ちできなかった。また依然として船や積み荷が失われる危険が大きいため、損害に耐えられる力のある大商人が発展した。このため「保険」という概念が早くも現れ、中小の商人が扱う船とその積み荷を中心にして新しい制度が広く利用されていった。そして少しずつ力を蓄えた中小の商人や職人達は組合を作るようになり、少し遅れて大商人に匹敵する組織を生み出すことになる。これが「惣合」であり、一部の大商人を巻き込んで以後大きく発展していく。
 一方では商工業の発展で、都市ではある程度豊かになった住民の数も増え、これらの意見も無視できなくなっていた。
 そして宗教権力の弱さと、国が常に海外との交渉権や貿易許可さらには海軍力を握っていた事が重なって、国つまり国王への権力の集中が進んでいった。整った法制度の効率的運用のために、国と地方の双方で官僚組織もますます充実していった。
 特に明確に目指した訳ではなかったが、何となくと表現して良いような状態で、重商主義と絶対王政的な制度に向けて進んでいた事になる。一方では、人口の増大と農業生産力の拡大により貴族の影響力も一定レベルで常に保たれていたため、この時点での竜宮王国を絶対王政と言うことはできない。
 そうした時、日本では未曾有の戦乱が発生した。

 日本で室町幕府の影響力が大きく低下した事で、日本での今まで通りの貿易が難しくなるばかりか、竜宮船の安全も脅かされるようになった。これまでは小規模な海賊ばかりだったが、沿岸部の武士までが集団で海賊化するようになっていたからだ。
 このため竜宮の商船は、武装するものが多くなった。武装は、海賊対策として有効だったため、その後日常的な武装商船が出現するようになる。そして逆に、日本の船を襲うことも行うようになった。無論竜宮王が出した軍船も航路防衛のために琉球など各地に進出しており、ルソン島の毎似羅(マイニラ)、マレー半島のマラッカなどにも商館を置き、海賊対策のための軍船を巡回させていた。無論、それぞれの地域の了承を得て行われた事であり、明国でも琉球船という形で竜宮の船は頻繁に往来している。
 また竜宮自身の明国への朝貢回数も多くなり、明国の役人や宦官達に大量の賄賂を積み上げてまでして積極的な交易を行った。明国の側も、倭寇ではなく正統的な手法で官営貿易を求める竜宮側を優遇した。そうした竜宮船と中華系海賊の争いも頻発するようになった。
 また琉球には、この頃に竜宮からサトウキビ栽培がようやく伝えられ、琉球自身の重要な輸出品となっていく。これは竜宮と琉球の関係を深くする証とされ、貿易の好調もあって両者の良好な関係は維持された。琉球で生産された砂糖は大量に戦国時代の日本に輸出され、琉球に大きな富をもたらした。
 一方、戦乱で混迷を深くする日本に対する竜宮の貿易は、衰退するどころか一気に活発化した。大規模な戦乱が起きることによって、今までの取引品に代わって武器を始め様々な需要が発生したからだ。
 貿易相手としては室町幕府が当てにできなくなったが、大内氏や細川氏といった大貴族(大大名)との取引は活性化した。また堺、博多といった自立した商業都市との取引も活発なものとなった。
 竜宮からは主に鉄製品(原料鉄、武器)が輸出され、製鉄業はより盛んとなった。この頃の製鉄業の活発な活動が森林資源の一時的な大幅減少をもたらしたため、比較的簡単に採掘できた石炭の利用が本格的に始まるようになる。また冬の軍事作戦のために、羊毛製品の需要も高まった。そして戦乱開始から年を経るごとに、日本列島からの需要は増大した。
 日本列島は、戦乱の中にあっても人口拡大と経済発展が続くという、他者から見たら異常な状態が続いていたからだ。しかし日本人達は日本列島内での戦乱に忙しく、また有力な外洋船やその技術を持っていない事もあって、海外進出や海外での商業活動は一部の者を除けば比較的低調だった。
 貿易船は海の向こうから来るというのが、日本人の中での一般認識で、日本語、琉球語、中華語、場合によってはさらに他の言葉を話す竜宮商人は日本の貿易で重宝された。竜宮語が琉球語以上に日本語に近かった事も、日本での貿易を有利なものとさせた。そうした中で一番の関係を結んでいた中国地方の大内氏は1551年に滅ぼされ同じ頃に細川氏の衰退も進んだため、竜宮の貿易相手は主に博多、堺、京の商人にシフトした。
 そしてこの頃になると、竜宮の対日貿易には大きな変化が見られていた。対日貿易ばかりでなく、竜宮自身の貿易さらには、東アジア全域の貿易に一大変化が訪れていた。
 東アジア世界にヨーロッパ勢力が出現したからだ。

 1511年、ポルトガルの貿易船がマレー半島西部の要衝マラッカに到着して、大砲と鉄砲という革新的な強力な武器を用いてイスラム商人などを駆逐して占領した。これがヨーロッパが東アジアに入った始まりだった。幸いと言うべきか、この時竜宮の船はマラッカになく、商館の滞在員や地上で滞在していた商人達が時代の変化に出会うことになった。
 その後ポルトガル船は、香料を求めてインドネシア地域を荒らし回り、インド洋同様にインド商人とイスラム商人を武力で駆逐していった。駆逐された中には竜宮の船も含まれるようになり、竜宮人は白人達の持つ武器に大きな脅威を感じると同時に自分たちも利用できないかと考え、ポルトガル商人には敵対するよりも友好的な接触を試みた。竜宮商人の中には、かつての記録の中からヨーロッパの事を思い当たった者もいた。パックス・タタリカの時代の「西方記」や約100年前にイスラム世界に至った記録は、冒険的な竜宮商人にとっては必読書だったからだ。また、何故自分たちの側からインド洋やさらにその先へと積極的に進出しなかったのかと、冒険的な竜宮商人達は悔しがったとも伝えられている。
 しかしこの時の竜宮人達の努力は報われ、ポルトガル人が喜んで手にした金銀と宝石類との交換で、マスケット銃と鉛の銃弾、火薬を入手した。また法外な対価を渡したことを竜宮側がすぐにも見抜いたので、火薬の製法も聞き出すことができた。大砲についても間近で見聞する事ができ、彼らの乗ってきた高性能な帆走船(キャラベル船)についても詳しく見学する事ができた。互いの情報交換で、ポルトガルの知っている地理情報もある程度手に入れることができた。
 この時竜宮人が見たり手に入れたりしたヨーロッパ世界の文物は、イスラム世界や中華世界よりも優れたものである事を確認し、ポルトガル人に対してさらなる売買交渉を熱心に進めた。
 この時竜宮人の頭の中にあったのは、民族や国防の危機などではなく、新たな商機だった。これらの文物を量産して日本などに売り込めば、莫大な利益が期待されたからだ。
 しかし本国に持ち帰られた道具のうち、鉄砲の量産は何年たっても進まなかった。試行錯誤が続くも、重要箇所の製法が分からなかったからだ。大砲の方は、鐘の製法を応用すればよいと分かったので、すぐにも製造が開始された。竜宮の鐘は、国が時を告げるために設置したものと神威が祭礼に使うものの二つあり、ヨーロッパと同様に鐘本体と鐘を鳴らす双方が青銅で鋳造されていた。この技術を応用して大砲が製造され、製造方法はヨーロッパでのそれとほぼ同じものだった。
 また火薬については、既に竜宮内で製法が確立されていた。
 竜宮に硝石の鉱脈はなかったが、存在自体は南宋との貿易時代に大陸で用いられていることを知っていた。また竜宮には、地下の比較的浅い場所に硫黄の鉱脈が多少は存在していた。そして硝石については、家畜小屋から硝酸カリウムが採れることを知識として既に知っていた。後は硝酸カリウムを石灰などと混ぜ合わせて人工的な硝石を作り出し、硫黄、木炭などを調合すればよかった。火薬自体は元帝国などから既に伝えられていたので、特に悩むような製品はなかった。ポルトガル人から鉄砲の仕掛けを聞いた時点で分かったほどだった。火薬は既に、新王国成立前の戦乱で戦闘にすら兵器として使用された実績のあるものだった。
 無論竜宮の火薬は、掘れば済むだけの硝石を利用するほど安価ではないが、自国消費分はすでに十分供給されており、家畜の飼育強化を行うことで輸出分を捻出するのは問題なかった。しかも日本の戦国時代に入ると、大きなロケット花火のような道具(兵器)を日本に持ち込んで売りさばいていたため、生産強化は比較的容易だった。
 しかし鉄砲の量産にはなかなか成功しないため、竜宮はしばらく火薬の生産と備蓄を進めつつも、大砲の改良と生産そして自国船舶や港湾拠点への装備を緩やかに進めていく事になる。鉄砲については、取りあえずポルトガル人から買い付けることで凌いだ。
 変化があったのは、日本人が来日したポルトガル船から鉄砲を手に入れてからだった。
 日本人の鍛冶職人は竜宮人がたどり着けなかった答えに容易くたどり着き、すぐにも鉄砲の量産を開始した。
 これ以後竜宮産の硝石(+火薬)は、ポルトガル船が持ってくる硝石よりもずっと安価だったため飛ぶように日本で売れ、竜宮に莫大な財貨をもたらした。また竜宮が生産を開始した青銅製の中小の大砲の販売も好調で、日本の堺の街とは、鉄砲と大砲の製造技術の交換も行われた。この結果竜宮でも鉄砲の生産が開始され、1560年代後半以後急速に広まっていった。
 そして竜宮でも、そうした最新の武器を必要とする状況が訪れていた。



●フェイズ12「近世1・スペインと戦国日本」