■フェイズ12「近世1・スペインと戦国日本」

 西暦1511年にヨーロッパ世界からポルトガル船が東アジア各地にやって来たが、彼らは数も少なく東南アジア以外ではそれなりに有益な商人達だった。中華地域や日本では、鉄砲などなくても武力で対抗してくる事を知ると、それなりの態度で交易にあたったからだ。
 そして彼らの手によって伝えられたヨーロッパの優れた文物、珍しい文物も多く、アジア各地に大きな変化をもたらした。特に日本に多数のヨーロッパ船が来航したが、それは当時の日本が世界最大級の金銀の産地だったからだ。近在の朝鮮半島との決定的違いと言えるだろう。日本は幸運だったのだ。
 またポルトガル船もしくはポルトガル人は、琉球から竜宮船に同行して、竜宮本土にも数多く至って数多くの文物をもたらした。これは竜宮が繁栄していた事の証だった。富のないところに、商人は近寄らないからだ。
 しかし1564年にやってきた次のヨーロッパ人は、東アジアにとってかなり有害な存在だった。やって来たのは、当時の世界帝国の道を進んでいたイスパニア王国(スペイン)だった。

 スペインは、フェルディナンド・マゼランを中心とした艦隊が1517年から1522年にかけての世界一周の航海に成功すると同時に、彼らが「見つけた」地域の領有を主張した。
 この時アジア・太平洋で領有が主張されたのが、フィリピンと後に命名される地域と、中部太平洋に浮かぶグァム島だった。
 マゼラン達が用いた船は比較的初期の帆船(カラック)で、大きさもアジア地域で用いられている大型交易船(ほとんどがジャンク船)に比べればむしろ小さかった。しかしスペインは、高性能で大型のガレオン船を開発して、太平洋へと本格的に進出を始める。しかも彼らにはヨーロッパには火薬を用いた各種兵器があり、キリスト教を信じない肌の色の違う人種は、ヨーロッパ一般の価値観では奴隷かそれ以下の価値、酷い場合は人として認められない下等な生き物としか扱わなかった。そして圧倒的な武力の差が、決定的な差を現実のものとした。
 なお、東アジアでは比較的大人しかったポルトガルでも、アフリカ沿岸やインド各地では武力を用いて掠奪や破壊を頻繁に行っていた。それが当時のヨーロッパ、地中海世界では当たり前の行動だったからであり、比較的平穏だった東アジアの方が少し特殊と言えるかもしれない。
 そして1570年にスペインは、自らが「発見した」フィリピンを領土にする既成事実を作るべくフィリピンに総督を派遣し、フィリピンの征服事業を開始する。その後スペインは、自らの兵力不足と原住民の頑強な抵抗に悩むも、ヨーロッパの優れた武器と戦術を用いて着実に勢力を広げていった。しかも皮肉な事に、最初の頃は自らの規模が小さかったため、北東アジアの他の勢力がスペインのフィリピン侵略を知ることはなかった。東アジアの人々の知らない航路を使って帆船数隻が襲来しただけなので、当然と言えば当然だろう。
 しかしスペインの侵略は1568年に中華系商人の知るところとなり、その年にはスペイン人が交易拠点だったマイニラにも訪れた。そしてスペイン人は、貿易拠点としてマイニラの価値を見いだし、軍事的な占領を試みる。
 ここで主に、現地の海賊に睨みを効かせるために滞在していた竜宮の複数の軍船とスペインの先遣艦隊が、両者の誤解から交戦状態に入った。しかし竜宮の軍艦は既に自国製の大砲を搭載しており、船もアジアでは最も優れた外航性能を持っていた。しかも地の利があって数が多く、戦闘が始まると増援を呼び寄せて数の少ないスペイン艦隊に対抗した。
 衝突当初はほぼ1対1の戦いで船と武力双方の性能面で優れるスペイン船が優勢だったが、竜宮側が十数隻の軍船を呼び寄せて戦闘に及ぶことで戦況は大きく竜宮側の優位となった。
 損害の大きかったスペインは、マイニラから一旦後退を余儀なくされた。この戦闘は、地中海以外での白人と有色人種の間での帆船と大砲を用いた戦いとなり、しかも竜宮の用いている船はポルトガル船を参考に改良が加えられたキャラベル船に近い姿もしていたので、スペインを大いに驚かせた。遠目でも帆を操作するために滑車やギアを使用しているのが分かったのだから、スペイン人の驚きも尚更だった。
 しかし戦闘自体は偶発的なものであり、知らせを受けた竜宮本国にとっては予想外の事態だった。このため竜宮国王は、本国の防衛体制を強化してマイニラに追加の軍船を派遣しつつも、ポルトガル船に和平の仲介を頼むことにした。積極的に戦争する気のない竜宮側は、硬軟双方の構えを取ったのだ。

 そして翌年の1571年、スペインが艦隊を立て直してフィリピンに襲来した折りに、竜宮王国はスペインとの交渉を行った。
 スペイン側が交渉に応じたのは、ポルトガルの事前に仲介していた事と、マイニラ(マニラ)湾に竜宮の軍船が多数待ちかまえ、その武力を背景に交渉を要求したからだった。
 しかもこの時スペインは、竜宮がどんな国でどこにあるのかすらほとんど知らず、竜宮と日本を混同していた。フィリピンの現地国家とすら一時は考えていたほどだった。(※現地のポルトガル人たちは、自らの外交優位を確保するためと、スペインが強欲だったためほどんど何も教えていなかった。)
 この時竜宮側は、最初はスペインが各地との交易を求めるのなら侵略する必要はないと説いた。しかしスペイン側は、フィリピンには国と呼べるものはなく、ここの領有権はスペインにあり、総督府を設けるためにやって来たと返答した。まるで話がかみ合わず、竜宮側はスペインがポルトガル以上に強い侵略性を持つ国だと理解した。しかし、そうした国が遠方にあることは、竜宮にとって利用価値があるとも考えられた。
 互いに武力を向け合った状態での交渉は続けられ、竜宮側はスペインのフィリピン領有を認め、スペイン側は竜宮のフィリピンでの港の自由使用権を認めることで決着した。
 しかも竜宮とスペインは一時的な不可侵関係を結び、スペインがフィリピンを攻撃する間竜宮は傍観し続けた。それどころかスペインに対して武器や食料、情報までも売却し、侵略に貢献すら果たした。それが港の自由使用権を得るための条件の一つだったからだ。
 この時の竜宮は、スペインを次の上客だと判断していた。
 明国内の混乱により琉球を介した貿易がほぼ途絶し、中華商人達も後期倭寇と後に呼ばれる略奪的手段で中華地域の絹や陶磁器を奪ってくるようになっていたからだった。
 しかも1570年は、琉球がシャムへの最後の貿易船を派遣した年でもあり、東アジアでの安定した中継貿易が可能だった最後の転換点だった。
 そして明国の中継貿易がなくなり中華商人のかなりが海賊(後期倭寇)になるか大陸に引き上げると琉球王国の衰退は決定的となり、東南アジアで唯一まともな交易を持続していた竜宮の琉球での影響が一気に強まっていった。16世紀末にもなると、半ば竜宮に属国化されたと表現しても間違いないだろう。実際竜宮と琉球の王室の婚姻が行われ、琉球の独自性は大きく低下する事になる。
 自由な貿易を行う時代から、武力を伴った貿易を行う時代へと移行した事に対する、竜宮の対処の結果だった。

 16世紀後半の竜宮王国は、ポルトガルやスペインから得たり模倣した技術により航海技術と軍事力を大幅に向上させることに成功したので、琉球という中継点に直接赴き、さらにそこから中華大陸を中継せずに東南アジア地域へと交易路を変更するようになった。
 しかもポルトガルやスペインが強欲に武力を用い、中華沿岸では後期倭寇が暗躍していた事で、次第に自らも強く武装して各地に赴くようになった。香辛料獲得のために個々のポルトガル人と争う事もあり、東南アジア地域での小さな争いや諍いはもはや日常茶飯事だった。竜宮船の戦闘力はヨーロッパ船に対してやや劣っていたが、太平洋で日常的に使われる竜宮船の規模は300〜500トンクラスが一般的なので、相手がガレオン戦列艦でも持ち出さない限りは、大砲の積載量や兵士の数の多さで相手を圧倒した。国が雇い入れた海賊(私掠船=プライベーティア)も活躍した。こうした騒動には、当時戦国時代だった日本でいくらでもいた浪人が傭兵として多く雇われて活躍した。日本沿岸の貧しい漁民も、船員として多くが雇われたりもした。
 なお、竜宮王国を当時の国家規模で言えば、人口の点ではポルトガルや当時まだスペイン領だったネーデルランド(ホラント=オランダもしくはダッチ)よりも大きな国になるので、国が安定して一つの意思と方向性を向いている限り向上と発展、そして拡大は比較的容易だった何よりの証拠と言うべきだろう。
 そして竜宮では、海外での競争のために着実に国王を中心にした国家体制が進み、一種の重商主義路線が強まっていった。そうした中で交易路を守るのは国王とその軍隊の役目という側面が強まり、商人達を保護して自分たちの小さな島に東アジア中の財貨を持ち帰っていった。
 こうした状況は、本来ならスペインに近い空洞化を生みかねないのだが、竜宮では基本的に船員も船、武器も本国でまかなう他ないため、海運に関連する産業は独自に発展を続けていた。そして竜宮での産業発展と貿易を大いに助けていたのが、日本の存在だった。

 竜宮がスペインとの新たな関係を結びつつある頃、日本列島では織田信長が急速に台頭しつつあった。
 信長の台頭は、自由貿易都市だった堺の町の制圧により一時竜宮にとって都合が悪くなったが、その後信長が竜宮商人とその物産を優遇して求めたため、日本での貿易はむしろ活性化した。
 その中で硝石(人造硝石)が飛ぶように売れ、大砲、鉄砲など最新兵器の需要も多かった。武器の多くは日本の優れた製鉄業と加工業によって大量に生産されていたが、それだけでは日本内での需要が満たせなかったため、竜宮の品も求められたのだった。また竜宮が産する砂糖、各種加工肉(ハム等)、固乳(山羊のチーズ)も、戦争を行う上での保存食や熱量補給の品としてこの時期の日本でも普及した。その延長で、竜宮から日本に山羊が持ち込まれて飼育も行われるようになったが、植物を手当たり次第に食い荒らすことと飼育ノウハウの不足のためそれほど普及する事がなかった。また羊毛も多くが日本に輸出され、防寒具として重宝された。日本人達は、場合によっては冬にも戦争をしていたからだ。このため竜宮では、羊毛産業が俄に発展することになる。
 そして堺などに頻繁に竜宮の交易船が出入りするようになったが、1576年の木津川沖の海戦の直後に織田信長から一つの申し出が竜宮側にあった。
 竜宮の軍用船を、まとめて10隻程度購入したいというものだった。無理ならば、造船技術の購入もしくは船大工を雇いたいという申し出も合わせて行われた。
 この時竜宮側は、船の技術や船そのものは竜宮の特産品と同義でありまた国家機密のため、売却や船大工の雇用は無理であると伝えた。それでも信長は法外な金銀などの報償を提示するなどの積極姿勢を示したが、竜宮側は拒否し続け、無理な申し出が続けば貿易を自粛しなければならないとまで返答した。
 ここで織田信長は引き下がり、代わりに大量の鉄材と大砲、火薬、硝石の購入を打診し、これは竜宮側も喜んで受け入れた。
 この前後に大坂湾口で二度の海戦があり、二度目の海戦では竜宮が売却した大砲も艦船に搭載され活躍した。この前後に、竜宮製の大砲、火薬も、織田信長に大量に購入してもらえるなど、経済的なつながりを深めた。
 しかし竜宮のお得意様だった織田信長は1582年に家臣の裏切りによって死去し、その後2年ほどは日本での商売も少しばかり停滞を余儀なくされた。
 だが今度は同じ織田信長の家臣だった羽柴(豊臣)秀吉が台頭し、秀吉が物量戦を展開する事もあって竜宮の上客となった。そして1590年に豊臣秀吉は日本統一を成功させ、日本に取りあえずの安定をもたらした。
 日本が安定することで武器や鉄の需要は一気に落ちたが、今度は安定に伴う民間需要が一気に膨れあがり、贅沢品に対する需要も増えたため、竜宮と日本の貿易が落ち込むことはなかった。
 しかし1591年、日本での権勢を極めた豊臣秀吉は、竜宮王国に対して朝貢を要求してくる。しかも竜宮まで自力で至る船がないので、日本人大商人の船に便乗して朝貢要求を行った。
 この要求を竜宮王は即座に否定し、竜宮は明国との朝貢関係にあり、日本国が竜宮に朝貢をさせたければ、明国を屈せさせてからもう一度願いたいと返答した。同じやり取りは琉球王国でも行われ、豊臣秀吉の使者は何も得ることなく日本に戻らざるを得なかった。
 そして権力の絶頂にあった豊臣秀吉は激怒して一時は竜宮征伐と言い出し、実際いくつかの準備を進めさせたりもした。しかしこれまで内戦に明け暮れていた日本に、京の都から九百里近くも海の彼方にある竜宮に大軍を送り込む能力は存在しなかった。しかも竜宮の船は、南蛮船によく似た形の船に多数の大砲まで装備するので、日本に来る竜宮船に何かを行う気にもなれなかった。
 また豊臣秀吉は商業と海外貿易の重要性は認識していたので、懲罰などの理由で竜宮船を日本から閉め出したりもせず、ぎくしゃくした国同士の関係が続く中でそのままの貿易関係が維持された。
 また豊臣秀吉は、今度は竜宮の船を大金と積み上げて購入したいと伝えてきたが、これも竜宮側は謝絶した。この時豊臣政権の使者は、竜宮側に内密の確約を取った上での情報として、「唐入り」つまり明国に攻め込むために優秀な船を建造するためだと伝え、竜宮にも侵攻の打診も合わせて行われた。
 時の竜宮王は呆れて言葉の出なかったという記録を残させているが、申し出は二つとも「丁重に」謝絶された。
 既に有名無実化しているとは言え、明国が竜宮との貿易を前提とした朝貢関係を維持している事よりも、竜宮王国が日本語に近い言葉を話している点を重視したとされた。そして竜宮に「唐入り」を自分たちと一緒にさせる事で、なし崩しに自分たちの中に取り込もうという意図があったとも言われている。
 しかし竜宮は豊臣秀吉の申し出を全て断り、渡洋手段のない豊臣政権は、自分たちでも容易く行ける場所、朝鮮半島になだれ込む事になる。


●フェイズ13「近世2・日本の鎖国と竜宮」