■フェイズ13「近世2・日本の鎖国と竜宮」

 16世紀の終末期、日本の豊臣政権は大した理由もなく朝鮮王国に二度侵攻するも、様々な要因によって撤退を余儀なくされた。
 独裁者豊臣秀吉は、中華地域中央部への侵略の初期段階と朝鮮への侵略を考えていたとも言われているが、貧弱な補給路防衛、占領政策の欠如などを見るに真剣に侵略戦争をする気があったのか疑わしい。だが無軌道な乱費と混乱により、日本の豊臣政権は大きく揺らいで短期間で倒壊に至り、自業自得と言うべき結果に終わった。
 また朝鮮半島は、前後した内乱と明国と日本による大規模な戦闘で大きく荒廃して以後内政面での問題もあって国威が向上することはなくなり、朝鮮を援助した明国は大きな財政負担を強いられて衰退の一因となった。
 この間竜宮が何をしたかと言えば、日本の戦争特需の恩恵に預かっただけだった。しかし日本の豊臣政権の侵略性が高いと判断したため、以後日本に対してある程度の距離を開けるようになる。日本人に船や航海の知識を与えることも、国王の強い命令によって禁じられるようになった。処罰される竜宮人も出た。
 豊臣政権は二度の侵略のそれぞれ前に、竜宮船の購入、技術の輸入などを法外な対価で申し込んできたが、竜宮側は完全に謝絶していた。ただし、日本でも用いられている鉄砲や大砲に代表される武器、硝石、保存食、被服などは大量に売却され、一時的に大きな富を得ることができた。多数戦場に投入された大砲は、明国軍、朝鮮軍の損害を増加させたりもした。また大砲は、城攻戦で大きな役割を果たした。
 このため明国は、竜宮が日本の侵略行為に荷担していると判断して、以後竜宮との関係を大きく冷却化させるようになる。
 そうした中で、日本を中心に一つのデマが飛び交った。
 1596年に「スペインが宣教師を送り込んでその国を教化した後に、軍隊を送り込んで占領する」というものだ。これは1580年に本国をスペインに併合されたポルトガル人商人が、自らの生き残りのために作った嘘でしかなかった。ポルトガル商人達は、自分たちが生き残るために日本にスペインを排除させようと画策したのだ。しかしポルトガル系の宣教師も、日本人の教化を進める傍ら奴隷売買すら容認していた。日本人から見れば、同じ穴の狢であった。そして豊臣秀吉は、1587年に早くもキリスト教の制限を始めていた。日本の極端な行動は竜宮人にとっては愚かしい出来事だったが、それ故に利用価値があった。

 当時竜宮にもスペインとポルトガルからカトリック宣教師が来ていたが、仏教、イスラム教のどちらにもほとんど興味を向けなかった竜宮人は、キリスト教にもなびかなかった。宣教師に対しても、遠路はるばる珍しい文物をもたらした勇敢な知識人という以上の評価を下さなかった。優れた文物も、キリスト教精神の成果ではなく、単にヨーロッパ文明の成果に過ぎない考えて取り入れていった。
 「信じる」と「敬う」という二つの価値観が行き違うかぎり、竜宮に他の地域の宗教が広く根付くことはなかった。
 一時期宣教師達は、竜宮の貧民や下層階級への布教を熱心に進めたが、既に民間宗教に落ち着いていた宗教勢力「神威」の存在と、竜宮自身の進んだ社会性を前に支持が広まることがなかった。むしろヨーロッパ商人の実体を伴う「損得勘定」の方が、その後の竜宮人に影響を与えたほどだった。プロテスタントが早くに持ち込まれていたら、竜宮人の間に広まっていたかもしれないという説もある。
 それでも竜宮にも、都市部を中心に新規な者を好むや商業上の理由で数万人程度のカトリック信者は生まれ、王都昇京にも竜宮王家が援助した立派な教会が建設された。竜宮王家としては、彼らのもたらす知識や技術を広めるための機関、もしくは一種の外交組織として大いに期待したからだった。また他国から来る商人などのために用意した公共施設の一つという認識でもあった。
 そしてそれは、立派なイスラム教寺院、仏教寺院などの各種宗教施設が立ち並ぶ竜宮の街の景色に、もう一つ少し珍しいシンボルを掲げた建物が増えたという程度のものでしかなかった。
 外から伝わった文物を丸ごと飲み込んでしまう竜宮ならではの情景だったが、そうした宗教施設は竜宮王家から庇護されているため、関心を買うために自分たちの貿易船を呼び込み、情報も提供した。これこそが竜宮王国の最大の目的だった。
 そうした情報網には、ヨーロッパでの競争と宗教に関するものも含まれ、日本に対する政策が決定されていった。
 ただし日本に対する政策は、まずは日本国内での混乱と再編成に対して行われなくてはならなかった。

 1600年の日本中を巻き込んだ短期間の戦闘によって、日本では豊臣家中心から徳川家中心への権力構造の変化が見られた。これは1603年に徳川家康が江戸幕府(新政府もしくは新王朝)を開くことによって加速され、1615年の豊臣家の滅亡によって決定的となった。
 この時竜宮は、全般的には常に強い方に媚びを売った。一方では、金や財さえ積み上げれば出来る限りのものは用立てたし、破れた者の日本外への亡命を手助けする事も頻繁に行われた。最後の項目の場合は、人材獲得が目的だった。
 しかし徐々に江戸幕府に対する傾倒を強めた。日本との朱印船貿易も始められ、江戸幕府と互いに使節の交換も行われた。使節の交換は竜宮と日本の間で初めての事で、日本は竜宮との貿易促進を望み、竜宮は江戸幕府による日本の安定を歓迎した。
 竜宮に帰るときに便利なので、江戸幕府が自らの本拠と定めた江戸湾に貿易拠点を置くことも行われるようになった。江戸湾の入り江近くの浦賀には、竜宮の商館も設置された。中継点としての八丈島の拠点も整備された。
 しかし江戸幕府によって日本が安定すると、竜宮にとって望ましくない事態へと進展していった。
 日本の商船が朱印状片手に東アジアに頻繁に出ていくようになり、東南アジア各地に日本人の拠点が増えていったからだった。しかも日本人の中には、戦乱から逃れたりして日本から出ていく者も増えており、数千人の規模の街を形成する場所すら出てきていた。朱印状を持った朱印船の数だけで、平均すると毎月一隻が日本の港から出ている計算になり、違法もしくはモグリの貿易船の数は数えきれないほどだった。
 この日本人の行動が、竜宮人に一つのことを考えさせるようになる。つまり「何とか日本人を、もとの日本列島に逼塞した状態に戻せないか」である。
 日本人がヨーロッパや自分たちの船を模倣し、船の高性能化と大型化を進めるにつれて、竜宮人の焦りは強くなっていった。
 日本全体の潜在的な国力は竜宮の五倍も十倍もあると見られており、船の建造数についても1620年頃には既に並ばれつつあった。
 それでもまだ、竜宮の持つ船の方が性能は高かった。当時の竜宮船は、ヨーロッパのガレオン船にこそ工作面などで少し及ばないまでも、一世代前のカラック程度の能力を持っていたため、日本で建造されるようになった竜骨を有する大型船よりもまだまだ有力だった。
 しかし、四半世紀以内に全てが覆されるだろうと容易に予測できた。しかも予測できたからと言って、竜宮側から強硬な態度に出ることは既にやぶ蛇だった。
 既に外洋での航行能力を得つつある日本に不用意に戦争でも仕掛けようものなら、日本人が大挙して竜宮本国を攻撃する可能性すら生まれつつあったからだ。
 しかしこの時は、竜宮に大きく運が傾く。

 江戸幕府は、貿易促進の傍らで徐々に宗教の統制と締め出しを実施するようになった。これは徳川家康の死去と共に強まり、国内安定のために宗教統制を円滑に進めるべく、貿易の統制にまで乗り出すようになる。
 竜宮にとって、願ってもない状況だった。
 江戸幕府はキリスト教徒の追放、処刑と順次エスカレートし、1629年には有名な「踏み絵」が始まった。キリスト教禁止の動きは1644年に完成を見る。そしてキリスト教を入れないためという、ある種奇妙な目的のために海外貿易の強い統制が始まった。
 1623年には、ネーデルランド連邦(ホラント=オランダ)とのインドネシアでの争いに負けたイングランド王国(イギリス)が日本から自主的に撤退し、翌年の1624年にはスペイン船の来航が禁じられた。スペインこそがキリスト教を先兵とした侵略者候補だったからだ。
 そして1634年に長崎の出島が作られ、カトリック教国のポルトガルが追放され、1641年にはヨーロッパではネーデルランドのみが江戸幕府(日本)に入ることを許されるだけになる。
 この時東印度会社のネーデルランド人祝杯を挙げた。日本で産出される豊富な金を安価で手に入れることが出来るのが、ヨーロッパでは自分たちだけになったからだ。
 当然だが、日本人に「スペインによる布教の後の侵略」という根も葉もないことを吹き込んだ主な者は、後半においては彼らネーデルランドだった。そして日本人の前に嘘を現実のものとさせたのが、1637年に起きた「島原の乱」になる。
 かくして1641年に阿蘭陀と日本人に言われたネーデルランドは勇躍出島で商売を始め、日本人に頭を下げることで豊富な金、銀、銅を手に入れてヨーロッパに持ち帰った。
 しかし出島には、何人かの有色人種もいた。
 明国の商人と竜宮の商人だった。
 日本が鎖国に向かう中で、竜宮は日本が鎖国していくのを傍観しているような風に見えた。
 しかし実体は違い、ネーデルランドの嘘に乗じる形で、色々な事を報告したり助言を行った。特に1618年にヨーロッパで大規模な戦乱(ドイツ三十年戦争)が起きたことを告げて、これにスペインが勝利すれば次は日本が矛先ではないかという「観測」を報告した事が、幕府中枢に大きな警戒感をもたらしたと言われている。
 実際はスペインは敗者となり、むしろネーデルランドは完全な独立を獲得して、ヨーロッパ世界で「世界の運搬人」と呼ばれるまでの商業帝国を作り上げて黄金期を迎えた。
 しかし海外情報に疎い日本人達は、竜宮のもたらす様々な海外情報に大いに感謝した。むろん竜宮の報告には、多数の真実も含まれその中にいくつか日本人が気に入らない憶測を添えたに過ぎず、解釈した日本人の結果は鎖国という名の徹底した海外貿易と海外渡航の統制だった。
 そしてその貿易統制の中で、竜宮は琉球王国を半ば衛星国の形で握っていることもあって、日本の貿易相手に選ばれることに成功した。
 竜宮(+琉球)からは、砂糖、保存食、各種毛皮、羊毛、南方の物産、そしてガラス製品などが輸出された。日本からは、初期は鉄製品が主力で後に陶磁器などの加工品、銅、さらには日本の北方で採れる魚介類の干物(特に昆布とホタテ貝)が主力を占めるようになる。中でも日本製の優れた鋳鉄の輸入量は多く、「玉鋼」と呼ばれるインゴット状態のものから日本刀、鉄砲(の銃身)は重宝がられ、鎖国時代の平穏の中にあっても、竜宮を介することで日本での武器産業のかなりが生き残ることになった。
 なお日本の薩摩藩が幕府の許可を得て琉球王国の窓口となることで、竜宮船が出島に入らなければならないのと違い、かなり緩い貿易や往来が行われる事になった。竜宮船の出島への出入りは年に70隻(17世紀後半の清国と同様)だったが、琉球での船の行き来は薩摩藩からも船が来る事で常に数倍の規模で行われた。琉球船が日本列島のすぐ側にくる事も数多くあった。また竜宮船は、八丈島など伊豆のごく限られた場所にも寄港する事が許されていた。
 そして竜宮が琉球に大型船を貸し与えたため、取り引きされる量もかなりの規模となった。17世紀後半になると、竜宮でもスペインのマニラ・ガレオンに匹敵する巨大商船が建造されるようになっていた。そして、朱色で塗ったり要所に漆を使ったヨーロッパの船とは一風違う装飾を施した大型帆船を、今日の日本の歴史では「竜宮船」と呼んでいる。

 一方で竜宮は、江戸幕府が鎖国を強めるの並行して、海外の日本人とその拠点全てを取り込み、乗っ取っていった。また鎖国前後に日本から逃げ出す日本人を大いに斡旋して、それも取り込んでいった。
 これは江戸幕府側の暗黙の了解と、さらには日本から厄介者を追い出す積極的な「棄民」も手伝って順調に推移した。
 1620年代からの二十年間ほどは、竜宮船の積み荷の一つが日本に居場所のない日本人キリスト教徒と各種禁じられた仏教信者と、仕官先のない武士つまり浪人達だった。江戸幕府体制下での浪人の海外逃亡の手引きは、関ヶ原戦いや大坂の役の頃に早くも行われており、さらに遡って戦国時代でも行われている事だった。名のある武将や大名が、竜宮船に身を委ねた事もあった。
 以後も、薩摩に立ち寄る琉球船(竜宮)船が「密出国船」として公然と活動して多数の人を日本の外に連れだし、鎖国時代に入っても一定量の出国が続いた。このため日本では、「竜宮行き」が二度と故郷に戻れない旅路を表す隠語にもなった。また、江戸幕府から内々に日本に絶対に居て欲しくない者の遠流(追放)を竜宮が依頼されることもあり、おとぎ話的逸話の中には日本に居場所のなくなった止ん事無い身分の者が、莫大な金品と共に竜宮に渡ったこともあると言われている。罰則の一つにも、死罪の次に重い罰として流(竜)配という罰が公然とあった。
 そして日本本土から切り捨てられ竜宮に自らの庇護先を代えざるを得なかった日本人の数は、鎖国前後の期間まででおおよそ30万人(当時の人口の2%)に達すると見られている。鎖国後も、通常ならば毎年平均で1000人程度、大飢饉の折りには一年で数万人が日本列島を離れることになる。これら全てを合わせると、江戸時代に日本列島を後にした日本人の総数は100万人に達すると見られている。幕府にとっては体の良い「棄民」であり、竜宮にとっては海外領で不足する人材や労働力の格好の獲得手段となった。そして数に現れない数字に日本人奴隷があり、竜宮船に誘拐の形で乗せられた日本人奴隷の数は、「棄民」の数よりも多いという説もある。
 そして糸の切れた凧となった日本人達は、順次竜宮の社会秩序の中に組み込まれていき、東南アジア各地の日本人町や日本人居留地は、各地の竜宮拠点と統合もしくは新たに竜宮の拠点となった。この時、竜宮人と日本人の言葉と民族の壁の低さが最も効果を発揮した。
 また16世紀末から17世紀前半に大量に誕生した日本人傭兵は、竜宮王家が抱える形での戦闘部隊として東アジア各地に投入され、竜宮の利権を得るためもしくは守るために活躍した。
 竜宮の日本人傭兵は、鉄の鎧や兜を装備することから特に中華地域では鉄人部隊として恐れられ、竜宮がその時々に敵対した白人達からも恐れられた。日本人傭兵は後がないだけに勇猛であり、また竜宮側から評価されれば竜宮本土で余生を送れるため、尚一層勇敢に戦ったと言われている。
 また海外に棄てられた日本人の8割以上が男性であり、竜宮が得た現地で女性をあてがい、現地に根付かせて入植する事も行われた。こうした場合は、竜宮による統治や支配、さらには教育までもが伴われ、東南アジア各地に竜宮の確固たる拠点を築く礎とされた。
 そして当時の竜宮には、そうするだけの理由も存在していた。


●フェイズ14「近世3・ヨーロッパ諸国の対立」