■フェイズ16「近世5・探索と膨張」

 竜宮人は、最初の国を作って以来、海出て交易(貿易)することは強迫観念のように行った。だが、本格的な植民地や入植地を作ることはなかなかしなかった。もともと人口が少なく、また狭いとはいえ竜宮には人が十分に住める場所があったためだ。
 しかし大規模な飢饉となると、死を選択するよりはと海の向こうに賭けに出る者も徐々に出るようになっていた。また戦乱で追いつめられて、竜宮の外に逃げ出す場合もあった。1180年、1230年、1418年の大飢饉、1364年(〜1378年)の戦乱が、竜宮から人が逃げ出した時期になる。なまじ航海技術を持つ者が多いため、竜宮ではそうした形で人が外にでる事があった。
 しかし国単位による、未知の地域の探索や探検は行われなかった。それよりも先に、アジア各地との交易路を構築し発展させる方が先決だったし、自分たちの周りは海以外に何もなく、東の海は世界の果てで何もないという固定観念があったからだ。ヨーロピアンが少し前まで信じていたオケアノスが竜宮の神威の神話にも出てくるほど、竜宮人は日の昇る東の海へ恐れに近い感覚を持っていた。日の昇る東の海の果ては、昔の竜宮人にとっては神秘の世界や神々の世界に等しかった。
 だが、航海技術の向上と共に、徐々に周りの世界が見えてくるようになった。難破や難破先からの帰投によっても、断片的ながら色々な情報がもたらされるようになってきた。後の中道島などがその代表だった。その先にもっと大きな島があるという説も、古くは12世紀の頃から言われていた。
 交易の拡大と共に少しずつ海外に出ていく人も増え、琉球や東アジア各地などで居留地や商館を構えるようにもなった。貿易の拡大は15世紀に入ってからで、16世紀にヨーロッパ人が東アジアに来ると、さらに竜宮の活動範囲も広まっていった。
 そしてヨーロッパ人がもたらした、地球は丸く竜宮から見てさらに東に巨大な新大陸が存在するという新たな知識は、竜宮人に大きな衝撃を与えた。しかしあえて危険を冒して行かねばならない理由もないので、特に調べたりする事もなかった。
 しかし1651年に新たな王朝が成立すると、建国事業の一環、国威発揚として積極的な海外探査が決定される。これは、経済の活性化政策、海外への膨張による民衆に対するガス抜き、入植地建設による徐々に深刻かしつつある人口問題の解決、遠方流刑地の設置、船舶用木材資源、燃料用木材資源の確保など、様々な目的があった。
 つまりは、竜宮の小さな世界そのものが、人が住むにはようやく手狭になったと表現できるだろう。

 1652年の春が訪れようという頃、最初の探査艦隊が派遣された。探査艦隊の数は3つで、竜宮本国から北赤道海流の北側と南側、新大陸北部に向けて放たれた。ヨーロッパと同様の先端技術であるガレオン船、羅針盤、望遠鏡(と関連器具)の存在が、この航海を可能なものとしていた。加えて竜宮人は、伝統的に星を見るための知識を豊富に持っており、自主開発した特別な望遠鏡で星の観測をしつつ公開する手段も自力で開発されていた。「星見」という職業は、この時代の竜宮ではまだまだ現役だった。
 なおヨーロッパでは、3年前にウェストファリア条約が結ばれてスペインが大きく衰退し、前年にはイングランドとネーデルランドが世界の制海権を巡って全面的な戦争を開始していた。またカリブ海は海賊の全盛期であった。東アジアでは、明が滅びて清が中華全土を飲み込みつつあった。
 しかし世界は、いまだ未知の場所が無数に存在していた。
 その中でも北太平洋一円は一度は世界を制した筈のスペイン人の知らない場所も多く、竜宮国はそうした未開の場所を自らの膨張先に選んだ。
 3つの探査艦隊は、それぞれ4隻のガレオン型帆船、通称「ドラゴン・ガレオン」と呼ばれる航海性能の高い大型船で構成され、3000名もの人員が2年分の水と食料と酒を持って旅立っていった。当然莫大な予算が投入されており、国を挙げて盛大に送り出された。
 そしてそれぞれの船団は、予想以上に早く結果を出す事になる。

 本国を出て暖流を南寄りに東に進んだ南方艦隊は、わずか1週間後に小さな環礁に出くわした。これは既に知られている遠竜諸島、後の中道諸島だった。そしてここは、竜宮人にとってポルトガル人と出会うまで世界の果てとされている場所だった。そこから先は未知の世界であり、彼らはさらに先に進んで人の住む比較的大きな島々に到達する。記録として残される上での、ハワイ諸島の発見だった。
 そしてハワイの探索では、最初の驚きを竜宮人にもたらす事になる。
 現地でハワイと呼ばれる熱帯性の島々の一部の住民は、一部ではあったが竜宮人と意思疎通が可能だったのだ。彼らは自らをロング族と言い、古い竜宮語に近い言葉を持っており、米や雑穀を栽培して山羊や豚、鶏を飼っていた。彼らの話を合理的に総合すれば、470年前(1180年)に最初にハワイに至ったとされている。さらにその後、1420年前(1230年)230年前(1418年)にも大規模な移民が続き、同時期の飢饉の時に竜宮から逃れた出た人々の生き残りということになる。それ以外の時期に流れ着いた者も多数いることも、後の調査で分かった。
 また現地には、さらにその前から住んでいる原始的な民族(ポリネシア人系=マナ族)と、竜宮人に前後してやって来た南東太平洋地域(タヒチ)から移民してきた農耕民(ポリネシア系=同じくマナ族)が住んでいた(※ずっと先の時代に由来は判明している)。そして数百年間も、竜宮の流れを汲む西部のロング族と、ハワイ島を主な拠点とするマナ族が争いを繰り返していた。先住者は、後の調査で紀元前700年頃にハワイ諸島に移住してきたことが分かったが、既に17世紀半ばにはどちらかに同化して消え去っていた。
 ロング族がオワフ島以西を中心にして、マナ族がハワイ島を主な拠点にしていた。初期の竜宮人は数も少なく着の身着のままに近かったのですぐにも滅ぼされそうになった事もあったが、竜宮人にとって一般的だった疫病が先住者の勢力を劇的に減らした事が現代に入ってからの精密な調査で分かっている。
 両者の争いはマウイ島などで主に行われ、両者の勢力が拮抗していることから容易に結果が出なかった。しかしロング族は、少しずつ西の海から竜宮人が流れてきたこともあって増え、その時にもたらされた新たな文明の利器や知識の影響も重なって勢力的にも拡大した。
 竜宮国の艦隊が到着した頃には、生産性の高い農業と牧畜の普及によって人口の拡大を行い経済力を付けたロング族が優位に立ちつつあった。特にロング族が製鉄(金属精錬)の技術を持っている差は、大きな違いとなって現れていた。当初数の少なかった筈のロング族が他の部族に対抗できたのは、彼らが門外不出とした製鉄、青銅精製の技術にあった事は間違いない。マナ族もそれなりの技術と文明は持っていたが、基本的にポリネシア系文明以上に出ていないため、ロング族に対抗するのがやっとという状態に追い込まれつつあった。鉄の武器とは、遅れた文明しかもたない人々にとっては魔法の武器のようなものだった。そして資源に乏しいハワイ諸島でも、火山が多いことが幸いしてか多少の砂鉄程度は採取できたので、ロング族も製鉄を自力で行えた。ただし火山はハワイ島にあるため、ロング族がハワイ島で豊富な砂鉄を得るために攻め込む事で両者の争いは激しく行われた。
 とはいえ、両者の文明レベルは当時の未だ農業初期のレベルに止まったままで、ロング族がかなりの規模の古墳を作り出す程度でしかなかった。竜宮を逃れた農民達では、その頃の竜宮の技術を維持することができなかったからだ。

 ハワイに到達した南方艦隊は、オワフ島の真珠湾とロング人が名付けた場所に逗留すると、艦隊司令はそこを拠点と定めることを決める。本来は水の補給と標識程度を設置してさらに先に進むつもりだったが、現地に居住する人々の半分が自分たちの同族だと分かったのでいち早く領土化を考えたのだ。
 そして南方艦隊は、ロング族に自分たちの持つ優れた知識と技術を教え、いつくかの兵器も供与した。馬の供与は、当時のロング族にとっえ決定的なほどの魅力を持っていたと記録されている。またロング族の有力者を集めて代表者を竜宮本国に招待したいと伝えた。島の有力者を竜宮皇が叙勲する事で、領土化を確固たるものにするためだ。
 これに対してロング族は、南方艦隊に全面的な信頼を寄せていた。彼らがハワイに至った経緯が語り継がれており、いずれ東の果てから竜神(=竜宮皇)が助けに来るとされていたからだ。今回の南方艦隊はまさにその通りであり、見た目、言葉などからも反発する理由もなかった。巨大な軍艦を見れば分かる通り、優れた文明を持っているとなれば文句の付けようもなかった。また艦隊側もロング族を自らの拠点建設に従事させたが、搾取や奴隷と言ったこととはほぼ無縁だった。新鮮な食料や女性を用意させる事はしたが、基本的に自分たちの持つ文物を与えることでの物々交換で物事を進行させた。新たな領民となる人々を虐げては本末転倒だからだ。
 そして十分な拠点を作り鋭気を養い水などの補給を受けた艦隊は、ハワイの使節を早期帰国させるため1隻を残して、さらに南に向けて旅立っていった。

 今度は北赤道海流、赤道反流と何とかまだ吹いている北東貿易風に乗った旅路で、二ヶ月以上の航海の後に南太平洋の島々と、ニュージーランド、オーストラリアにまで至る事になる。それはちょうど十年前にネーデルランドの探検家タスマンが辿った航路と似通っており、後にネーデルランド以外が現地の領有権に異論を挟む根拠とされるようになる。竜宮艦隊は、行った先々自らの足跡を残し、地図(海図)を作製して、一部では測量も行っていたからだ。それに艦隊を組んだ竜宮側の行いと足跡は、ほとんどすべての面でタスマンを上回る痕跡と影響を残していた。
 現地の住民達とも友好的な接触を持つことが多く、水や新鮮な食料などと交換に文明の利器を教えたり農作物を伝えたりする事があった。作物の種籾を一定量持ち歩いていた背景には入植地を探すという副次目的もあったといわれるが、遂に竜宮人が文明を教わる側から伝搬者になったのは間違いないだろう。また距離と海流の問題さえなければ、ニュージーランドやオーストラリア大陸南東部が竜宮の入植地となった可能性も十分に存在する大航海であった。この艦隊は、ニュージーランドやオーストラリアの一部も探検していたからだ。ニュージーランドの一部では、原住民のマオリ族との間に戦闘も行われて、圧倒的武力で滅ぼした例もあった。
 ただ、一部の地域にはユーラシアの疫病をもたらしており、フィジー諸島での風疹感染のようにパンデミックで人口が激減した場所もあった。ポリネシアの離島住民は、他の人間世界と隔絶しているためユーラシアで育った疫病に非常に弱かった。
 ちなみに、ニュージーランドを直接的に翻訳すると「新しい海の大地」、オーストラリアは「大洋地域」とでもなる。そして竜宮人が名付けた名称も、ニュージーランドが「新海諸島」、オーストラリアが「大洋地」であった。ポリネシアも「多島洋」と名付けており、ヨーロピアンが名付けた名称とほぼ同じである。

 一方、暖流を大きく北寄りに進んだ北方艦隊は、北の荒波にもまれる危険な航海を乗り切り、約六週間後に春を迎えた筈なのに寒々とした陸地の連なりに到着した。しかし広大な陸地が広がり針葉樹林が生い茂っているので、航路を開いて入植を行えば有望な木材供給地になるのではと考えられた。また世界の果てのような場所なので、重罪人の流刑地にこれ以上の場所はないと考えられた。
 そして陸地づたいで少し南東に下がって温かくなるのを待った艦隊は、短い夏の間に精力的な調査と原住民(イヌイットなど)との接触を行い、アラスカ沿岸、アレウト列島、ユーラシア大陸北端部の探査を行った。この時ユーラシア大陸と新大陸(※経度からスペインの持つノヴァ・イスパニアから繋がる陸地=新大陸と当初から判断されていた)の間に海峡が有ることが発見され、新王の名を取って瑠姫(ルキ)海峡と名付けられた。後には、この地域の事を地政学的にラテン語の学術名ではルキア(rukiia=瑠姫亜)とも呼ぶようになり、さらにその後竜宮でも一般的に使われるようになった。
 この時北方艦隊は、秋も深まると最短距離での帰国方法を探るため陸地づたいに南下を続けた。大きな半島(チウプカ半島)を抜けてチウプカ(千島)列島に至りさらに蝦夷、日本列島北部へと入り、そこから暖流を捉らえて一年近い航海の後に帰国した。非常に過酷な航海で、船は2隻を失い、帰ることができないため現地(アラスカ)に残った竜宮人の数も500名を数えた。このため救出を兼ねてすぐにも次の船団が北方に派遣される事になり、より本格的な調査と開発の準備が行われるようになる。また多数の人が長期間滞在したことで、現地でユーラシアの各種疫病が先住民の間で流行する事になり、竜宮人の知らないところで短期間のうちに現地の人口が激減した。
 なお最初の調査では、案内を頼んだ上での内陸部の調査の際に大量の砂金も見つかり、原住民との物々交換でラッコ、アザラシなどの毛皮を大量に得て持ち帰っていた。
 このため、近さもあって多くの竜宮人がアラスカを始めとしたルキア地域に向かうことになる。特に黄金への欲望は、すぐにも多数の竜宮人をアラスカに向かわせる事になる。難破船員の救出は、かっこうの対外向けの口実であった。
 そして、現地での食料調達と毛皮獲得を兼ねた狩猟と漁業も開始され、高級毛皮としてのラッコと、豊富だったウニを始め多くの魚介類も大量に捕獲され、すぐにも現地で消費さるよになった。そして疫病で先住民が短期間で激減したため、大挙押し掛けた竜宮人を妨げる者は殆ど現れなかった。
 ちなみに、帰路を探すアレウト列島西部を探検中に、未知の大型海牛(カイギュウ=ジュゴンなどの仲間)が発見されて竜宮で大騒ぎとなった。発見も船が一隻難破した時に偶然見つかったもので、この難破の難事を救ったのが大型海牛の肉と油だった。それが帰国後に紹介され、この大型海牛こそが神(神威)の化身と噂された。
 古来竜宮では鯨や鯱が神の使いとされていたが、発見の経緯とその一風変わった姿が注目を集める事になったのだ。
 その後すぐにも王家と神威が派遣した調査隊により、詳細な調査が行われた。未知の巨大海牛は、平均7.5メートル、最大9メートルを超える巨体ながら、昆布などの海草だけを食べる草食性の大人しい性質の動物と分かった。寒い浅瀬に住み大型のため天敵もなく、今まで人間が寄りつかない場所だったため人を警戒することもなかった。逆に人に見つかれば簡単に狩られる存在であるため、竜宮国は神威からの使者として保護を行うようになった。この時代に、宗教上の理由があったとしても、動物保護を行うことは極めて珍しい。
 竜宮人にはお触(布告)がだされ、神事以外で捕らえたり殺した場合は死罪を含む厳罰が適用された。チウプカ半島側にある現地の島には、王国直轄の壮麗な神殿と兵士の駐屯所、波止場なども建設された。生息していた島々の名前も神殿諸島とされ、海牛の生息域の全てが海も含めて国王の直轄地とされた。海牛の食べる昆布などの海藻保護のために、海藻を食べる生物の駆除すら行った。
 この海牛は、一世紀ほど後にベーリングの探検隊がヨーロッパでも存在を紹介するが、その頃には既に竜宮が周辺部を開発し尽くしていたため、北の僻地で珍しい生き物が見つかったという以上の興味は示されず、竜宮人の間でも神事の時に僅かな数が狩りをすることが許された。竜宮国も神威関係者が中心となって保護と密漁監視に当たり、破った場合には執拗に追いかけ回した。

 最後に、東の海をひた走った新大陸艦隊は、アカプルコに至る既存航路から途中で北寄りにずれて、新大陸北方、スペイン人がアルタ・ノヴァ・イスパニアと仮に名付けていた地域の一部に最短距離で到達した。航海は2月ほどで、途中までは知った航路で天候にも恵まれた事から、特に苦労のない退屈な航海だったと記録されている。羅針盤と天測に従って、ただ風に乗ればよい航海だったからだ。
 到着した場所は、新大陸西岸の北緯五十度近くだった。巨大な山脈を配した広大な陸地が広がり、大地は黒々とした森林で覆われていた。
 しかし適当な上陸地点が見つからないためしばらく陸地づたいに航海を続け、大きな入り江を発見すると奥へと進んだ。そして細長く奥へと続く入り江の奥に進む途中で、船の上から陸地に人を発見する。しかもその人々は小高い場所から狼煙を上げ、新大陸艦隊を明らかに警戒していた。
 さらに湾の奥に進むと馬に乗り弓や槍で武装した兵士らしき者が数名発見されるもすぐに姿を消した。その後あきらかに人の手の入った土地が見られるようになり、入り江に入ってから2日ほど慎重に進んだ先にあった人の手の入った低地の中心に、堀や柵、物見櫓、跳ね橋を設けた町らしきものを確認するに至る。
 しかしその前面の海には、竜宮人にとっては懐かしいとすら言える大型のアウトリガーカヌーを主力とする船が多数浮かび、弓や槍などで明らかに武装していた。また海岸部は一部が石垣で組まれた城塞となっており、沿岸に向かいつつある兵士の集団も見受けられた。
 間違いなくひどく警戒されているのだが、原住民の出で立ちはどこか自分たちに似たものだった。肌の色や顔かたちさらには着ているものも、アカプルコなどで見た赤褐色の肌を持つ新大陸人とは違って、東アジアで見かける人に近かった。
 とにかく接触が出来なければ詳しい事が分からないので、上陸船を降ろして海岸に上陸した。この時出来る限りの方法で戦う意思が無いことを伝えたのだが、意外に簡単に意思疎通ができた。相手に対して、言葉が通じたからだ。
 そう、上陸した先に住んでいたのは、竜宮人の末裔だったのだ。
 新大陸側に住んでいた側が過酷な生活の中で文明をむしろ後退させ、訪れた側が想像を絶するほど進歩していたので、近寄って話してみるまで互いが互いを認識できなかったのだ。
 先住者は、竜宮での1373年から1378年にかけての戦乱で敗北した王統軍の末裔だった。彼らは戦乱の終盤に追いつめられ、残された軍船に乗せられるだけの人と物資を満載し、一縷の望みを託して東の海へと旅だった生き残りの末裔だった。
 そしてそこからは、互いの身の上話となった。

 本来ならワーストコンタクトとなって、即座に戦争になってもおかしくなかったのだが、そうはならなかった。
 これは300年近い断絶がもたらしたものだった。
 迎えた側は、いつの日か追っ手が掛かると思っていたが、やって来た側は戦うどころかほとんど自分たちの事を忘れていたので拍子抜けしてしまったというのが真相だった。
 それに、大砲や鉄砲で重武装した排水量1000トンを越える黒々とした外観の大型ガレオン戦列艦が相手では弓や槍では戦争にもならなかったし、強い武力を持っている側がとにかく自分たちの側から戦闘する意思がないことを伝えたのも効いていた(※記録には残されていないが、大砲の射撃など示威行動は行われたと考えるのが妥当だろう)。
 なお、1363年に竜宮を脱出した筈の南部の人々については、末裔達も知らなかった。彼らについてはハワイにも痕跡はなく、行方はついに分からず、航海の途上で全滅したものと考えられている。太平洋とは過酷な海だった。


●フェイズ17「近世6・初期の新大陸の竜宮人」