■フェイズ18「近世7・黄金郷・黄金狂」

 竜宮国の初代女皇瑠姫(ルキ)の治世は、1651年から1684年の34年間続いた。即位時で27才で、寿命ではなく自らの退位と世継ぎの指名によって禅譲して玉座を後にしている。彼女自身は1624年生まれで、退位からさらに13年の余生を過ごし、その間も政治的影響力を与えつつ73才でこの世を去った。17世紀の後半全てが瑠姫女皇の時代だったと言えるだろう。
 彼女が権力を握った期間は竜宮での本当の意味での絶対王政時代と言われ、竜宮史上唯一彼女だけが「女帝」と揶揄して呼ばれる。以後は、彼女の実質的な支持母体だった議会が大きな力を持つようになり、都市を中心とした産業構造の変化もあって貴族の力は大きく減退した。そして彼女の晩年頃からは、ヨーロッパから取り入れられた啓蒙思想の浸透に従って、国皇は絶対君主から権威君主、啓蒙君主へとその姿勢を変えていった。東アジア全般の価値観に囚われず即物的に優れた文物を取り入れる竜宮の姿勢が、東洋にあって西洋的国家の成立と運営を現実のものとした。
 しかし瑠姫女皇は、竜宮の権力を縦横に駆使した。

 彼女の絶対的といえるほどの治世と当時の竜宮の発展を支えたのが、当時の国際的な流通規模から言って無尽蔵と言える黄金(ゴールド)の存在だった。このため女皇瑠姫の事を「黄金」や「豪奢」など豪華な通称を付けて呼ぶことも多い。竜宮は、文字通り黄金の力によって黄金期を作り上げたのだ。
 しかもアラスカの開発と黄金の管理、放出は、竜宮皇室の厳重な直接管理下に置かれた。女王は、当時としては非常に膨大な産出量だった黄金のコントロールに多大な努力を払うことで、物価と金と銀の交換比率をコントロールし、国内外に対して自らの絶対的優位を作り上げた。また彼女の治世中は、他国に対してアラスカの金鉱の事を徹底的に秘匿し、総量に対して小出しにされる黄金は国内産だと言い張った。情報秘匿と漏洩対策も徹底して当たられ、秘密を守るために内外多くの者が命を絶たれたと言われている。しかも当時のアラスカは世界の辺境中の辺境だったので、非常に都合の良い立地だった。
 このため既に廃坑となっていた竜宮本土の金銀鉱山が、厳重な警備のもとで金の保管場所となっていた事もあった。そうした統制を行わなければ、膨大な量の金が世界経済の金銀比率を揺り動かしてしまうほどだったのだ。統制してもなお、世界経済に影響を与えたからだ。
 ちなみに、17世紀半ば当時世界で流通する銀(シルバー)の年間産出量は、時期によって差があるが100トンから120トン程度だった。より価値の高い金(ゴールド)は、当然ながら銀以下の産出量でしかない。金銀交換比率がこれを如実に現している。世界の産金量自体が、全て合わせても年平均で7トンから8トン程度だった。
 これに対してアラスカで得られた金は、砂金採掘が全盛だった最盛年には年産で百トンを越えた年もあったと言われている。特に採掘が砂金だった初期は比較的簡単に、そして短期間で大量に採掘された。しかもその後のねばり強い探検によりアラスカの各地に大規模な金鉱山が相次いで見つかり、日本、スペインなどから既に手に入れていた最新の採掘法を取り入れることで、以後半世紀に渡って大量の金が採掘され続けた。既に竜宮内の金銀鉱山は堀り尽くしていたが、比較にならないほどの質量だった。

 当時金銀交換比率はヨーロッパでは1対15程度、アジア世界では1対13程度だったので、スペインとの取引が多い竜宮本国では1対15で、アジアでの取引では仕方なく1対13と分けて行っていた。つまり金は同じ重量の銀に対して、13〜15倍の価値を持っていた。これがたった半世紀の間に大量の新たな金が出現したとなると、金銀兌換率の変動やインフレなど、世界経済の混乱は必至だった。
 女皇はこれを自らの権力と情報の統制によってコントロールし、竜宮に優位な世界経済を維持し続けた。竜宮が約半世紀の間に環太平洋各地で採掘した黄金の総量は、金貨にして1億6000万枚分(約565トン=銀貨24億枚分)にもなると言われている。しかも三分の一以上が、最初の3年間に主に砂金によってアラスカから得られた。それを小出しにしたと仮定しても、竜宮経済の状況から推察すると毎年100万枚もの金貨(銀貨で1500万枚分=黄金3530キログラム)が王宮の金庫から新たに湧いて出ていたことになる。しかもこの金貨を回転資金として竜宮経済全体が活況となったので、経済効果は非常に大きかった。
 無論、竜宮から出回る金の量は今までより多くなり金銀比率も若干の低下はあったし、竜宮と取引の多い清、スペインの商人などは強い疑いを持った。しかし竜宮の黄金の存在は事実であり、各国や各商人は竜宮国が放出する黄金量に常に注目しなければならなかった。黄金に誘われて、ネーデルランドの船も頻繁に竜宮を訪れるようになった。
 遠くカリブの海賊達すら、竜宮の黄金を噂しあった。海賊達は、伝説の黄金郷ジパングは本当にあったのだと噂した。実際、遠路はるばる北太平洋の奥地にやって来たカリブの海賊の姿もあった。竜宮の海賊などはある程度の情報を持っていたので、北太平洋の荒波で竜宮海軍と熾烈な争いをしているし、中華系海賊も多くが北太平洋の荒波にその身を投じたと言われている。そして巨大な財力を得て著しく増強された竜宮海軍は、多数の戦闘艦を建造して防衛と秘密の保持に当たり、万難を排して竜宮の海上交通と膨大な黄金を守り通した。
 17世紀後半から18世紀前半にかけて、「黄金艦隊」は竜宮の力の象徴だった。アラスカ各地にも強固な要塞がいくつも建設された。
 17世紀後半から以後二世紀の間に鋳造された竜宮の金貨は見た目から「華印金貨」と呼ばれ、世界最高度の品質を誇って世界中で高い信用のもと流通した。中でも表面に瑠姫女皇の肖像、裏面に大きな翼を持つ東洋竜が描かれた10華印金貨(全体で約40グラム、うち黄金の重さ35.3グラム分=黄金87.5%)は「金輪貨」と呼ばれ、摩滅を防ぐ様々な工夫によって竜宮の豊かさと共に貨幣鋳造技術の高さを海外に伝えた。この金貨は「ドラゴン・フェザー」と呼ばれて珍重され、ヨーロッパでも取引に使われていたほどだった。
 しかし多くの者が、竜宮が金の湧き出る壺を北の僻地に持っている事までは分かっても、その先は秘密のベールに包まれていた。探った者は、国の密偵であれ海賊であれ商人であれ常に生きて帰らないとあっては、竜宮皇の言うことを受け入れるしかなかった。目の前にある黄金だけが現実だからだ。このため、「女皇の下着を覗こうとした者には死が下される」といった言葉ができたほどだった。無論ここでの女皇の下着とは黄金の出所を指している。
 話が少し逸れたが、当然ながら竜宮での貨幣制度は金本位制となり、それまで貿易で手に入れる金銀に多くを頼っていた竜宮の貨幣は、ようやく自立することができた。そして莫大な金による信用の創出によって、ヨーロッパで行われた為替のやり取りが北太平洋一円でも行われるようになり、商取引の安全性の向上と安定に貢献した。そうして北太平洋地域と一部東アジアの海外貿易を竜宮がコントロールするようになり、世界の僻地だった竜宮は一躍世界規模の金融センターに躍り出た。また「惣合」が金融組織として大躍進し、竜宮を代表する商取引組織へと変貌を遂げることになる。竜宮で「バンク(銀行)」を表す、「金交」という言葉ができたのもこの頃になる。
 そして竜宮の皇都昇京も豊富な財によって大幅に改造され、以前にも増して壮麗な高層建築が立ち並ぶようになった。清国や日本、ヨーロッパ、世界各地から高名な建築技師が幾人も招かれ、中華風、和風、西洋風それぞれの離宮も建築された。竜宮の建築様式そのものも、大きな変化と発展が見られた。現在国宝や世界遺産に登録されている建造物の多くも、この頃に建設されたものが最も多い。
 しかし竜宮が黄金で溢れかえるには、アラスカの発見から少しの時間が必要だった。

 アラスカを発見した艦隊が竜宮本国に戻ったのは、1653年の事だった。艦隊は半数の2隻にまで数を減らしていたが、北太平洋北辺の詳細な情報と、持てる限りの物産を持って帰国した。
 先住民との接触と物々交換の交易で得たアザラシの肉と毛皮、ラッコの毛皮、海産物の干物などが容積のかなりを占めていたが、最も注目を集めたのは大量の砂金、つまり黄金(ゴールド)だった。温かい竜宮では、毛皮は寒冷地の貿易先との取引材料としてしか入り用ではなく、まだ需要も少なかったため、この時は二の次と考えられた。豊富な森林資源についても、人を送り込んで開発する手間、運ぶ手間を考えれば、日本などから輸入する方がコストも安く楽だったので、まだ注目される事もなかった。
 黄金発見を女皇は殊の外重視し、直ちに女皇直轄で大規模な探検隊と採掘部隊を編成。護衛のための艦隊と軍も編成し、最も信頼の置ける忠実な部下達に莫大な報酬と名誉と出世を確約して送り出した。
 また採掘のために必要な人員の確保が始まり、国から依頼を受けた竜宮商人は俄に奴隷を大量に購入し始めた。また数年後には、竜宮での爆発的な奴隷需要が発生したため、アジアの奴隷の数が増えて価格が急騰した。このためスペインのガレオン交易船までが、世界中から奴隷を満載して竜宮にやって来るようになった。
 またそれでも足りないので、竜宮の近隣各地で人さらいが横行し、逃げ出す事のない子供の誘拐が頻発した。この頃日本の太平洋岸各地で激増した「神隠し」の真相にも、そうした背景があった。
 そして極寒の地に連れられた下層労働者や奴隷達は、過酷な自然環境の中での労働に従事させられた。人を連れてくるのも一苦労な世界の僻地なので、簡単に死なないように竜宮側はそれなりに衣食住は配慮したのだが、それでも多数の死者が発生し続けた。
 一方で先住民には、友好的かつ優遇する接触が心がけられるようになった。竜宮が求めた採掘地や拠点の獲得にも、相応の対価が支払われた。しかし最初期は竜宮人などが持ち込んだ疫病で人口が激減したため、イヌイットなどの先住民は竜宮を忌避した。しかし竜宮側が先住民の持つ土地勘や優れた視力、狩猟技術を買った事で、先住民に有利な商取引や文明の伝搬、特権の授与、何より彼らのテリトリーの保障を行うことで友好関係が築かれていった。そして、鉄砲や文明の利器、食料品、贅沢品、酒類との交換で、逃亡者、侵入者双方の監視を行わせた。竜宮人は、先住民には白人と中華系言語を話す者(漢族)には特に注意しろと教えた。白人や漢族は竜宮人と違って、先住民の富を奪うことしか考えていないと教えたのだ。そして竜宮が共存関係を築き上げた先住民は、アラスカを中心として竜宮にとっての忠実で優れた監視人となり、その後もこの関係は続いていくことになる。
 そうしてアラスカの開発は竜宮皇の直轄のもとで精力的に行われ、拠点となったアンカレッジ(安霞列地)には強固な砦に連動して街も発達し、内陸部の金鉱と繋がる街道も整備された。アンカレッジの港町には、立ち寄る船乗りや住民の慰撫のため、国の運営によるかなりの規模の酒場や歓楽街が形成された。
 黄金の採掘にも多くの努力と労力、最新の知識が投入され、竜宮の採掘技術は大きな向上を見ることができた。
 もっとも、こうした徹底統制された金の採掘と管理、そして防衛には多くの経費と労力を必要としたため、竜宮皇や竜宮国が黄金によって極端に豊かになるという事はなかった。結果として発生したのは、経済の大規模な活動と拡大であり、様々な形で消費、流通した黄金は経済の起爆剤として作用し続けた。
 そして当面安く採れる金がなくなり国による黄金供給が安定する頃に、竜宮王家がアラスカの金の事を世界に向けて紹介し、さらに奥地の金鉱が発見される事で遂に自動発生型のゴールドラッシュが発生した。
 しかしこの時のゴールドラッシュの頃は、まだ18世紀の前半に差し掛かった頃であり、アラスカの金の話を聞きつけてやって来たほとんどが竜宮人だった。他の地域からアラスカに行くには、まだ技術や文明が追いついていなかったからだ。竜宮人以外でやって来たのは、少数のノヴァ・イスパニアなど太平洋方面にいた現地のスペイン人と、日本、清を飛び出してきた者達ぐらいだった。この頃の東アジアは日本、清の東アジアの2大国が鎖国していたため、アラスカに来た日本、清の人間は、金を取り終えるとそのまま他の地域へと再度旅立っていく事になった。
 そして殺到した人々は、既にアラスカの多くが開発され、多くの黄金がはるか以前から採掘されていた事実をようやく知る事になる。それでも新たな金が見つかったことで俄に移民ラッシュともなり、竜宮人を過半数としながらも、ヨーロッパからも欲望に突き動かされた人々がやって来た。世界各地を追われ「最後の夏」を求める海賊達も、世界中から押し寄せた時期もあった。
 この結果、アラスカには先住民以外に10万人以上の人々が居住するようになり、それに釣られて本格的に地場産業の発展も始まり、漁業、毛皮業、林業を基礎としたアラスカ経済が本格的に動き始めた。ラッコや魚介類の乱獲もこの頃に起きている。
 竜宮の方針転換は、北の僻地に自国民を一定数住まわせた方が良いと判断していたためだった。
 ユーラシア大陸北端にも金や毛皮を探しにいった竜宮商人や狩人の集団が、ロシア人と接触したからだった。

 竜宮人が最初にロシア人に出会ったのは、1670年頃のレナ川中流域だった。両者共に互いに鉄砲で武装して組織だった動きをする事から、相手を文明人だと理解した。
 言葉は通じなかったが、身振り手振りや幾つかの単語のやり取りで、自分たちの住んでいる所などを理解しあい、取りあえず一緒に食事をして酒を酌み交わして分かれた。互いに歌なども歌ったかもしれない。
 ロシアと竜宮の接触、異なる文明同士の接触は、無事に行われた事になる。このファーストコンタクトは、両者が狩人であり兵士でなかったからだった。
 その後も竜宮、ロシア双方の冒険商人や毛皮商人がユーラシア北部で時折接触したが、接触して時折即席の交易をするという以上の事態にはならなかった。両者共に、相手との接触によって、互いの欲しい物産がその向こうに乏しいことを理解したからだ。せいぜいが、断片的な情報交換とごく限られた交易だけだった。また両者の密度が低かったので、自然発生的に生まれた境界線近くで争う必要もなかった要素も大きい。また、互いに戦闘をしても損害に対する利益が少ないと考えた事も、両者の共存に大きく作用した事は間違いないだろう。

 そうして時が過ぎるが、竜宮側にとって看過できない事態が発生する。
 1689年にロシアと清国がネルチンスク条約を定め、両者の境界線を設定したからだ。これによりロシア人の興味は、竜宮が勢力圏を主張しているユーラシア大陸北東部に向くことになった。
 竜宮は慌てて各地に標識を立てて、既に使われている港湾拠点などに形だけの役人と兵隊を配置した。当時のヨーロッパ外交の一般常識ならば、それで自分たちの領有権を主張できるからだ。また国費を投じてユーラシア大陸北東地域の開発と探索も行わせ、夏には夏川(レナ川)に船舶を入れて先住民との交易も常態化させた。さらには先住民の抱き込みも行った。またユーラシア大陸北東部は、ヨーロピアンの呼び名をとって瑠姫亜(ルキア=rukiia)と呼ばれるようになる。
 この結果半世紀近くは、ロシアの東への進出は停滞するようになる。
 そしてこの間、アラスカの地固めを行うのと並行して、竜宮は冬氷海(オホーツク海)沿岸での金鉱探しを熱心に行い、砂金などはあらかた探し尽くしてしまう。これを行ったのは、主にアラスカでの夢世再びとやって来た人々で、現地を荒らし回る存在でしかなかった。竜宮王家も、現地の事をアラスカを守るための緩衝地帯程度と考え、僅かに原住民との貿易を行う以外は半ば放置した状態を長らく続けた。
 この時代、黄金こそが竜宮人を突き動かしたのだった。



●フェイズ19「近世8・繁栄と膨張」