■フェイズ21「近世10・竜宮と江戸幕府」
当時の日本政府である江戸幕府は、1641年に「鎖国」という徹底した貿易統制と外国人排除、自国人の海外渡航規制に出た。 この政策は国内情勢の安定に一役買うと共に、海外からの様々な情報と文物の浸透を抑止するようになった。江戸幕府が危惧したような、侵略を行うような国は実際存在しなかったので過剰過ぎる措置と見えなくもないが、安定した国内治安と内政を行うには一定の効果があったと言えるだろう。国内産業の発展にも大きく寄与したとも考えられている。 また日本が国家として海外に出ていかない事こそが、清国の鎖国と共に北東アジアの海に安定をもたらしたことは間違いない事実である。 そうした中で、日本がつき合いを維持した外国は、清国、朝鮮、ネーデルランド、そして形式上で琉球も介していた竜宮だった。
竜宮王国(竜宮国)は、17世紀までに琉球王朝を事実上の衛星国化していたため、国家としてはほぼ琉球イコール竜宮という状態だった。日本も無論このことを知っていたが、日本語によく似た言葉を話し、歴史的にも日本とのつながりが他国より(朝鮮半島より)も深い事もあり、竜宮に対しては比較的寛容だった。もし竜宮が日本の天皇に朝貢を行っているなどの要素があれば、日本の一地域として扱われた可能性すらあったと言われている。 また江戸時代の日本にとって、竜宮は日本でいらない人間の引き取り手として重宝された。鎖国の完成する17世紀半ばまでは、行き場のない落ち武者、浪人、隠れ切支丹、一部の仏教徒などが続々と、薩摩の僻地(主に種子島)もしくは幕府が治める伊豆諸島の島(主に三宅島や八丈島)にやって来る竜宮の船に乗って日本を後にした。 そうした人々は、主に東南アジア各地の日本人町に送り届けられるか、竜宮の傭兵や船乗りとして各地に派遣された。伊豆からだと海路の関係で一度は竜宮本土に至ることになるので、アジアばかりでなく北太平洋の様々な地域に送られる者も多かった。 そして各地での成功者が、竜宮本国へと再びやって来れた。傭兵から竜宮の国民に昇格するという流れは、どこかローマ帝国を思わせるものがあったが、基本的に近い民族だからこそ行われたと考えるべきだろう。また技術や知識の持ち主は竜宮側から重用され、最初の航海で竜宮へとやって来たまま止まった。 竜宮の人的資源には自ずと限界があるため、竜宮自体が少しでも変化を求めた結果だった。また、船乗り、傭兵など危険が伴う職種に対する供給を行うためにも、日本から溢れてくる逃れる先がなく奴隷でもない人的資源が必要だった。 当時繁栄に溺れていた竜宮人だけは、危険な仕事のなり手がまかないきれなくなっていたのだ。 しかし鎖国が完成してしばらくは、日本からの人の流れが細くなった。変化が訪れるのは、18世紀になって日本列島が本格的な人口飽和状態に差し掛かってからだった。それまでは、竜宮が行った誘拐が横行して問題になった事もあった。特にアラスカの金採掘が盛んだった頃は、日本列島で日本人を使った誘拐が頻発した。このため幕府が竜宮に抗議したことも一度や二度ではなく、竜宮側は日本との交易維持のために幕府の各所に莫大な賄賂を積み上げた事もあった。しかし時代は移り、日本人自身が増えすぎた同胞を問題視するようになった。 日本人には、竜宮船に乗れば新天地に赴けるや一攫千金が出来るといった噂が流された。そして南国に行けば竜宮船に乗れるという話は、半ば公然のものとなっていた。もっとも南国を四国の土佐と間違える者もある程度いたため、18世紀中頃には土佐の浜辺にも時折竜宮船が立ち寄るようになった。当然ながら幕府の許可を得たものであり、竜宮は江戸幕府からもある程度好意を持って対応されていた。 幕府が好意的だったのは、竜宮がいらない人間を棄てるのに便利なのと並んで、竜宮が日本の上客となっていたからだった。
竜宮船はかつてと同様に海流と風を使って、一年周期で竜宮本国と日本列島そして途中の航路に立ち寄る航海と貿易を続けていた。結果として、それが最も安定して安上がりだったからだ。琉球や種子島と東南アジア地域を往復する船もあるが、どちらかといえば少数派で、日本人の移民船である場合も多かった。 竜宮船のことは西日本や太平洋沿岸を中心にして日本人にもよく知られており、春から初夏の頃、台風が到来する前に大挙して竜宮船はやって来た。竜宮船は、日本近海で一番見られる大型帆船であった。 また江戸時代中頃になると、一度新大陸に行ってから呂宋のマニラを経由してやってくる船の方も出てくるようになった。要するに竜宮の船にとっては、北太平洋を一周する最後の寄港地が日本だった。時折難破した竜宮船が、寄港を認められていない太平洋沿岸に漂着して大騒ぎになったりもした。 竜宮船は本国で大量の金属加工品、ガラス製品、工芸品、保存食、その他贅沢品、そして竜宮小判(金貨)などを積み込んで日本にやって来て、竜宮への帰りの船に銑鉄(鉄のインゴット)、日本刀、鉄砲の銃身、主に船舶建造に使う木材を満載していった。また日本の手工業が発展すると、絹製品や漆製品など日本の工芸品も多数積載されるようになり、芸術的価値の高い文化的産物も高値で取引された。竜宮人により価値の見いだされた日本製品や芸術も少ない数ではなかった。 また、人を専門に乗せていく船も時折あり、最後の場合は移民船ではなく奴隷船か人さらいが目的の船まであった。 マニラからの竜宮船は、清国商人との売買で得た絹製品や東南アジアから流れてくるインド綿布、南方から運ばれてきた砂糖や香辛料、珍しい物産を積載して日本にやって来て、同じように竜宮に鉄砲や鉄のインゴット、中間加工済みの木材を持ち帰った。しかも竜宮船は東南アジア各地でも活発に活動しているため、南方の物産も頻繁に持ち込んでいた。 こうした貿易はネーデルランド(オランダ)の貿易にも影響を与え、オランダの日本での貿易意欲を低下させ、江戸幕府が寄港を認めなくなった分だけオランダ船が竜宮に立ち寄るようになった。それでもオランダ船が日本に立ち寄るのは、日本で自分たちに有利な形で黄金が得るという目的があったためだ。 そして竜宮船は、日本で余りにも大量の品を買い付けに来るため出島では到底制御及び処理できず、海流の関係で立ち寄りやすい薩摩や伊豆、もしくは土佐の僻地が竜宮船の寄港地となった。このため薩摩藩、土佐藩は、幕府の厳しい許可制ながら竜宮との取引の仲介を行うことで利益を得ていた。 ただし出島以外に来る竜宮船には、幕府から強い制約が課せられていた。決められた場所以外に立ち寄らない事、日本に戻る気のある日本人を絶対に乗せない事、決められた日本人以外と会話しない事、決められた物産以外は決して持ち込まない事、外国人特にキリスト教宣教師を運び入れない事、他にも色々と制約があった。なるべく日本人に船の姿を見せないこと、などという出来もしないものまであった。寄港地も、離島などの僻地が主で、種子島南端と幕府直轄地とされた八丈島は竜宮船の一大寄港地として繁栄した。流刑地に過ぎなかった八丈島では、当時としては立派な岸壁が整備され、幕府の役所や大商人の取引所などが建ち並んだりもした。 そして制約を付けつつも幕府が竜宮船が受け入れたのは、その莫大な買い付け量と気前の良さにあった。幕府の財政の一翼を担うほどの黄金が17世紀中頃から一世紀以上の間流れ込み続け、日本経済に一定の刺激と外貨をもたらした。 竜宮が日本で特に欲したのが、銑鉄(鉄のインゴット)と船舶建造に使う丈夫な木材、鉄砲の銃身などの武器の中間加工材だった。また戦国時代風に誂えられた丈夫な日本刀も人気が高かった。特に船の上で扱いやすい大きさに作られた肉厚のある小降りな日本刀は、特別に竜宮刀と呼ばれるほど竜宮で普及していた。 そして日本で生産される玉鋼から誂えられた日本刀は、当時世界最高精度の鉄製品であり竜宮は重宝した。またさらに鉄砲の銃身などは、自国で加工した製品として海外に売ったりもした。二度売りの事は日本には一切知らされることはなく、自国装備以外の竜宮製の銃は東アジア・新大陸など各地に輸出されていた。 なお、日本風の製鉄方は竜宮でも古代の昔から一般的に行われていたが、大量の木炭が必要なため既に使用できる森林資源が限られていた竜宮では、中世以後控えられるようになっていた。木炭の代わりに、足下に転がっている石炭や褐炭を使うようになっていたからだ。このため竜宮での製鉄方法も徐々に変化していた。そして竜宮の自然環境が、竜宮が船舶建造に使う木材を日本から得ていたことと連動する。
竜宮諸島は特に大きな島ほど平坦な島々なので、一旦開拓が進み人口が大きく増えると、中央政府などが強い制御を行わない限り森を簡単に丸裸にする恐れがあった。幸いにして統一国家が存在し続けて伐採と利用を制御し、竜宮人全体にも保林、営林、植林の考え方が浸透したため森林は一定数に保たれ続けた。だがそれでも17世紀末の森林被覆率は、4割以下にまで減少していた。原生林も既にほとんどなくなり、全てが人の手による森と林ばかりだった。 それでも過剰になった人口と発展した産業に対して、木材が足りなかった。特に製鉄とガラス工芸には膨大な量の燃料資源が必要で、一時期産業を抑制する動きもあった。しかし竜宮には簡単に採掘できる石炭や褐炭が足下にあったため、燃料と製鉄方法への変更により木を伐採する事が抑止された。ガラス産業も、より高温が得られる石炭を重宝するようになった。一般住民の使う火力も、木炭から石炭(+褐炭、乾燥泥炭)が主流を占めるようになった。しかし17世紀当時の竜宮の製鉄は過渡期のため武器に使うには不安があった。この補完として、日本から大量に高品質の鉄製品が輸入されたのだ。 また船舶用木材も、国内の森林伐採が進んだことが輸入の理由だった。また竜宮は温暖な気候のため船舶や大型建築に向いた木材が少なく、幅広い植生を持つ日本の木材が注目されたのだった。 しかも日本から竜宮という経路は最短距離で竜宮本国に運べる位置であり、大重量となる鉄や木材を入手する場所として、日本以上の場所は存在しなかった。 そして17世紀後半から以後一世紀以上の長きに渡って竜宮は豊富な黄金によって繁栄していたため、日本の鉄と木を大量の買って帰っていった。 本来なら長崎の出島に来ることを許されている船舶量は年間70隻だったが、主に種子島にやって来る竜宮船の数は2倍の150隻以上に及んだ。しかもほとんどが太平洋を押し渡るための大型のガレオン船であり、主な船は3000トンもの積載量を誇っていた。船の運航と自衛に必要なものを差し引いて2500トン程度の貨物を積載できる、外洋船建造を禁じられていた当時の日本人からすれば途方もない巨大な船だった(貨物船型で黒鯨と日本人に呼ばれた)。 これらの船たちが、毎年50万トン分の物資を日本に買い付けに来ていたことになる。日本が得る対竜宮輸出額も、年間12万両を越えていた。 これを純金の重量に換算すると1.7トンにもなり、ヨーロッパと等価に調整されていた金貨(華印金貨=3.53g)で約50万枚、銀貨だとその約15倍の750万枚(竜宮銀貨は鱗貨(リンカ)と呼ぶが、銀(日本語でギン、中華語でイン)がなまったものと言われる)で、18世紀初頭のネーデルランドと日本の取引量の10倍、清国の5倍にも達する。 もっとも竜宮から日本への輸出も、ガラス製品、砂糖、保存食、清国との中継貿易品、インド綿布の中継貿易品、南方の物産など多数にのぼっていた。それでも、概ね竜宮側の貿易赤字で推移していたが、当時の竜宮はあまり気にしなかった。豊富な黄金そのものを一種の輸出品と見ていたし、日本との貿易が細くなる事による不利益の方が竜宮経済に与える損失が大きくなるからだった。幕府や薩摩藩への賄賂は、暗黙どころか半ば公然と行われていたほどだった。 そして黄金の流れを単純に計算すると、1680年代から1830年代の約150年間の間に、貿易黒字の分の黄金が大量に日本列島に入り込んでいた事になる。そして既に日本各地での産金量が低下していた幕府としては、竜宮が持ってくる黄金は自分たちの経済を維持するために徐々に欠かせないものになっていった。 このため江戸幕府は、自分たちが鎖国をしていることを理由にして為替を使うことをせずに全て現金で決済させたため、直接的に金貨や銀貨がやり取りされた。 このため日本国内の金の流通量が金採掘量の減少後もある程度維持され、日本では高い純度の金貨(小判)が19世紀に入っても鋳造され続ける事になる。そして江戸幕府は、清国やネーデルランドに銀貨を持ち込ませることで国内銀山の産出量減少に対する補完とした。 しかし19世紀になると、竜宮が金貨より銀貨を持ち込むため、日本は徐々に竜宮との貿易を渋るようにもなっていく事になる。 だが竜宮と日本の貿易は、江戸時代を通じて太いまま維持された。 そして日本では、竜宮から大量に流れる金のため金銀比率がその都度世界標準で変更されたため、幕末頃の金銀比率の交換率の変化に対しても難なく対応できるなどの副次的な利益をもたらしていた。 加えて竜宮との貿易は、日本での貨幣経済の発展も後押しし、日本の近世的繁栄の一助となって現れた。ただし経済の拡大が日本全体としての国力の拡大に繋がったかと言えばそうとも言えず、得られた富の多くは天下太平の中での消費、特に大名と大商人の浪費に消えていった。無論大量の黄金が日本列島内に流通し続けたが、それが近代以降の日本に大きな影響を与えるという程ではなかった。 なお、こうした竜宮の日本での活発な商取引は、当然ながら海賊を引き寄せるため、竜宮側の船は武装しているのが常であり、船団を組んで護衛の純粋な戦闘艦が先導する事も多かった。竜宮の護衛艦の事を鯱、貨物船の事を鯨と呼ぶ隠語があったほどだった。 そして外航船舶の建造が禁止されている日本での海賊は、余程の幸運以外では相手にならなかった。竜宮船の主な敵は、東南アジアでも頻繁に戦闘が交わされている中華系海賊と、自らの竜宮系海賊となった。日本近海での主な海賊との戦闘場所は、種子島近辺と伊豆諸島近海であるが、それほど密度の高くはなかったし、竜宮側が江戸幕府とも協力して厳しく取り締まったため海賊が大きな勢力になることもなかった。竜宮人にとっては、ヨーロピアンや中華系の海賊の方が余程脅威であった。
一方では、竜宮の物産によって、日本国内にも若干の変化が見られた。 竜宮が日本にどんどん持ち込んでいたガラス製品のおかげで、日本の富裕層や武士の建造物には窓に玻璃(ガラス)をはめ込むことが一般的に行われるようになった。食器の一部にもガラスが普及した。金属食器や金属の道具も多く普及した。焼き煉瓦を本格的に持ち込んだのも、竜宮の商人達だった(※18世紀初頭の八丈島が最初)。 食べ物では、砂糖は薩摩藩などで一部国産されたが、肉や乳の加工製品は日本であまり作られることがなかったため、竜宮製の乳製品や加工肉は珍味として珍重された。獣肉食が半ば禁忌だった日本だがハムにまで加工されてしまえば見た目での障害は少なく、また加工乳製品は殺生しないということで、国内でも徐々に生産されるようになっていく。保存の利く南方産の果物なども竜宮の手によって流れ込み、大坂などでは非常に珍重された。 衣服についても、竜宮がヨーロピアンやインドから買った物が若干量だが一般にまで流通したため、江戸時代全般を通じて南蛮ものが流通し続けた。これらは、当時の日本文化に影響を与え続けている。インド綿布(キャラコ)、更紗、羊毛製品、天鵞絨(ビロード)、レース製品などはその典型だった。 しかし一番の変化は、産業構造と人の流れだ。 産業構造の変化は、竜宮の欲しがる鉄製品の生産が活発になった事と、林業の発展だ。特に竜宮の欲しがる船舶用建材は北の方に多く産出されるため、林業によって東北、蝦夷の開発がいち早く進んでいった。 日本本土の木材が使われなかったのは、当時の日本では余剰している有望な森林資源が比較的少なかったからであり、また幕府が中心になって森林保全や植林を熱心に行っているからでもあった。当時の日本は、自分たちの人口拡大と産業発展のため、一時的な木材不足に陥っていた。江戸幕府による統制がなければ、大規模な自然破壊の可能性もあったと指摘されるほどだ。 また各地の鉄の産地特に製鉄の中心地である中国地方では、16世紀の間は幾ら作っても生産が追いつかないという事態になり、生産量と産業人口の大幅な拡大が行われた。連動して、竜宮向けの大砲及び砲弾の製造も盛んに行われるようになり、日本の金属業は精錬、加工共に大きく発展した。18世紀中頃からは、銅も輸出されるようになった。 しかしこれらの林業と金属業の発展は森林破壊や自然破壊にもつながり、日本人によりいっそう厳重な森林保全を考えさせるようにもなったし、銅の採掘では鉱毒問題にも発展した。北九州を中心にして、石炭の利用も行われるようになった。こうした動きは、日本列島が近世的人口飽和状態になる18世紀初頭頃から活発になり、八代将軍徳川吉宗の頃に道筋が付けられた。 なお、竜宮を通じての武器輸出の中で、竜宮人が持ち込んだ武器や図面から新たに製造する過程で、日本の武器製造技術は一定程度に向上を続けていた。様々な問題から幕府や武士による装備にはほとんど至らなかったが、猟師などの間では「竜宮筒」として最新の鉄砲が重宝されている。火打ち石(フリントロック)型のマスケット銃も猟師が使い始めたほどで、武士以外のステイタスとして危険の多い農村では一家に一つ銃を持ち、名主などの金持ちともなれば高性能の銃を有するのが常識化していった。 そうした比較的高性能な武器を日本の政府組織が用いなかったのは、世界史上で見ても非常に奇異な出来事だろう。「鎖国」という人工的な閉鎖社会の創造が、日本人に新たな武器を必要とさせなかったからだ。
また竜宮の影響で日本人が用いた道具の中で得意な位置を占めたのが船だった。日本では1000石つまり180トン以上の船を建造することは禁じられていた。また竜骨(キール)を備えることも禁止されていた。しかし抜け穴がないわけではなく、日本人達は竜宮人が操る船を模倣して、それなりの改良を施すようになった。そうして和風のスクーナーやスループといった、大きな帆を横向きに備えて高速を発揮する船が一般的に建造されるようになっていった。竜骨を備えないなどで不利な面はあったが、日本人同士、日本国内なら条件は同じであるため旧来の方式を瞬く間に駆逐するほど普及し、日本の物流網発展に貢献した。 加えて、竜宮との貿易によって国内産業がより盛んとなり、また貨幣流通量も増加した。日本の経済力自体も限定的に拡大した。 これは日本列島での商業主義を加速させる要素となり、18世紀後半の田沼時代(田沼意次が権力を握った時期)には日本での金(黄金)を中心とした貨幣制度が発展した。竜宮との取引によって財をなす商人も多数現れ、19世紀以後は西方雄藩の財源強化にも竜宮との貿易が一役買っている。 人の流れは言うまでもなく、竜宮船に乗ることで海外に行くことができるという道筋を、ごく僅かだが日本人に意識させた事だった。毎年平均にすると2000人〜3000人程度、飢饉の時は十倍以上の数万人が、日本列島に二度と戻れない事を承知で竜宮船に乗った。大飢饉の時などは、幕府の水面下での導きによって指定された日本各地の浜に竜宮のガレオン交易船が、幕府が求めた外国産の穀物などの荷物を降ろすと、「積み荷」としての日本人を乗せるために多数立ち寄ったりもした。大飢饉の際の日本人は、ほぼ奴隷扱いでの出国となった。つまり「積み荷」そのものが、輸入する穀物と人の運搬代金となったのだ。 こうした日本人の永遠の出国は特に鎖国する前後が多く、1620年代から30年代の出国者は合わせて20万人以上にのぼった。鎖国を行う幕府の政策によって片道切符である事を承知で、多くの者が日本を後にした。竜宮船が立ち寄る場所に近い地方では、養えない子供が船に乗せられることも多々あった。 日本を出た彼らは、種子島発のものは東南アジアに、伊豆諸島発のものは一度竜宮本土に立ち寄った。その後、東南アジアの日本人町か新大陸、さらには17世紀半ば以後は当時竜宮が王家直轄で鉱山開発していたアラスカへと連れて行かれた。 そして乗り込んだ船や最初の到着地で、そのまま船乗りになる者も多かった。農場などでの労働者となる者もあったが、場所が東南アジアである場合の長期生存率は総じて低かった。それよりも、危険で労働環境の悪い船乗りが常に人不足だったから、竜宮人からも重宝された。新大陸では、かなりの間子供を産める女性と子供が非常に重宝された。 また浪人や屈強な者は兵士として雇われ、アジア・太平洋を船の上で転々とすることになった。例外は優れた技術を持つ者で、日本国内に密かに入った竜宮のエージェントがスカウトして回ったり、竜宮側が大金を積んで竜宮本国に移住させた例もあった。 そうした日本人の存在が、海洋国家としての竜宮を支えた事は間違いなかった。ただし東南アジアで日本人が好まれたのかというと、そうではない。
17世紀の日本人が東アジアで重宝されたのは、主に戦国時代に培われた戦闘技術故だった。海を渡った浪人の数は、10万人を数えるとも言われている。シャム王国の山田長政などがその典型的な例だろう。関ヶ原の合戦から大坂の陣にかけての頃は、破れた有力武将が竜宮船に乗った例も数多く確認されている。 反面乱暴者と見られる場合が多く、日本の鎖国後に竜宮が日本以外での日本人コミュニティーを飲み込んでしまわなければ、いずれ消えていたと考えられている。 しかし竜宮の武力と財力、流通網、組織力などの庇護と恩恵によって、日本人社会は東南アジア各地で維持された。また細々とした人の流れと現地での人口増加によって、むしろ勢力は拡大していった。日本人の流れは、日本列島が近世的人口飽和に達した18世紀半ば以降は年間平均で5000人に拡大し、幕府が意図的に民を国外に棄てることで国内の安定を得ようとしていた姿勢が見えてくる。 出国した日本人の数は、江戸幕府の続いた二世紀半の間に累計で150万人以上に達すると考えられている。19世紀半ばには、それぞれの地域で自然増加した事により約400万人が竜宮の勢力圏各地に存在していた。この数字は、当時の日本列島に居住する日本人の一割以上にものぼり、移民として考えればかなりの規模だった。また現地で同化した混血を含めると、日系人の総数は1000万人に達するという説もある。 だが彼らは、日本列島を出た時から、日本人ではなく竜宮人として扱われた。また流れ出た人の八割以上が男であるため、彼らの子孫の殆どが現地民族との混血児となっていた。これが1000万人説の根拠にもなっている。一方では、特に17世紀においてはキリスト教徒(日本切支丹)の比率も高かった。 もはや江戸幕府の統治下に住む日本人ではなく、彼ら自身も出てきた一世はともかくそれ以外の者は、自分たちを竜宮人やそれぞれの現地人と考えるようになっていた。その上で二度目の移民によって新大陸の竜宮の入植地に赴く者も多く、もともと竜宮人が日本人に近いため違いはなくなっていた。こうした点は、華僑との大きな違いと言えるだろう。 そうして彼らの一部、特に東南アジアを中心に各地に散らばっていた者が、19世紀になると一つの行動に集約し始める。 産業革命という大きな波が、押し寄せつつあったからだ。