■フェイズ24「近代1・阿片戦争と南北戦争」

 19世紀半ば以降になると、世界中で大規模な戦争が起きるようになった。これまでは主にヨーロッパ諸国同士の戦争と、ヨーロッパ諸国が他の地域を植民地化する際の戦闘以外では、概ねユーラシア大陸の西方内でのみ行われていた。
 だが遂に戦争は、ヨーロピアンとアジアンの戦争になり、そして一方では新大陸での激しい戦争が起きた。
 その中でも阿片戦争と南北戦争が、帝国主義と近代の幕開けを象徴する戦争として象徴的だろう。

 「阿片戦争」は、ヨーロピアンの強欲と自分たちの勝手な理由による侵略戦争であり、「南北戦争」は世界で初めての近代的総力戦争だった。
 前後してクリミア戦争やアロー戦争があったが、クリミア戦争は基本的に前近代寄りのヨーロッパ世界での戦争であり、アロー戦争は阿片戦争に続いた戦争でしかない。
 そして阿片戦争と南北戦争という二つの戦争は、竜宮人に大きな衝撃を与える戦争ともなった。
 1840年に起きた阿片戦争において、それまで竜宮は主に中華系海賊の討伐でイギリス海軍と協力体制にあった。また国家間の関係も、交易を中心に比較的良好な状態を維持していた。両者の間に利害対立が少なく、尚かつ両者にとって利益があったが故の協力関係だった。
 そして当時竜宮国は、ヨーロッパからは多少技術的に遅れながらもガレオン戦列艦などの戦闘艦艇を多数有しており、東アジア・太平洋地域では最強の海上軍事力を持つ国家だった。そもそもガレオン戦列艦は、ヨーロッパでも約200年間変わらず使われてきた海上での主力兵器であり、多少劣ると言っても搭載する大砲の射程距離が少し短いとか速度が少し遅い程度で、使用されている技術レベルと戦闘力自体に大きな差があったわけではない。3対2程度の優位があれば、竜宮船も十分イギリス軍艦に勝てるだけの力を持っていた。
 だからこそイギリスは、竜宮国を曲がりなりにもパートナーに選んだ。竜宮も、イギリスが進んだ科学力と高い技術力を持っていることは船や武器を見れば分かったので、協力関係を結ぶことに積極的だった。竜宮としては、友好関係を築く事で先進的な武器や技術、知識を得ようという意図があったからだ。また相互的な利害関係を積み上げることで、イギリスの侵略や進出を未然に阻止できないかという意図もあった。
 そしてイギリスの東アジア進出から十数年は、それなりに平和な時間が過ぎたのだが、竜宮にとっても訳の分からない理由で突如戦争が発生した。
 阿片戦争の勃発だった。
 戦争でイギリスは、16隻の戦闘艦、27隻の輸送船、東インド会社の武装蒸気船4隻、インド傭兵約4000名によって大清国との戦争を行った。
 東アジア的に数字だけをみれば、「たったそれだけ」の戦力で超大国清国に戦争を吹っかけたとしか見えない状況だった。
 戦闘艦といっても100門の大砲を備える一等戦列艦など数えるほどしかなかったし、普通に考えれば清国の方が圧倒的に有利だった。多少の技術的な差は存在する事は最初から分かっていたが、3世紀前のスペインとインカほどの差はなかった。清国も、旧式ながら大砲や鉄砲を多数装備していたのだ。
 イギリスもその事を自覚していたので、竜宮に参戦しないまでも協力や支援を要請した。自らを少しでも有利にしようという意図であった。これに対して竜宮は、引き続き海賊退治や物資運搬、港の貸し出しなどの協力を約束するに止まっている。竜宮のほとんどが、どうせイギリスが負けるだろうと考えていたため、積極的に負け馬に乗る気がなかったからだ。逆に多少協力したのは、対英外交と言うよりも対清外交であった。竜宮も、清国の鎖国体制に満足していたわけではなかったからだ。
 そして実際戦争をしてみると、旧式ながらも鉄砲や大砲で武装していた清国の軍艦(武装ジャンク船)は、ほとんど一方的に撃破されていった。破壊の主は、ギリシャ神話の復讐の女神の名を与えられた東インド会社の武装蒸気船ネメシス号だった。ネメシス号は風に影響されることなく好位置から砲撃を行って、停泊場所から動くこともままならない清国の軍艦を一方的に沈めていったのだ。
 これを沖合から竜宮の軍艦が望遠鏡などで全て見て記録を取っており、直ちに竜宮本国へと伝えられた。
 蒸気船は、風に関係なく高速で動くことができ、しかも今までの帆走型の船は、たとえ風が吹いても風向きによってはまるて太刀打ちできない事が詳細に記されていた。
 竜宮が遭遇した、数世紀ぶりのカルチャーショックだった。

 阿片戦争以後、蒸気船を得ること蒸気船の技術を会得することに、竜宮は国を挙げて執心するようになる。これは必然的に自ら産業革命化への動きともなり、世の中の流れに沿っているのであるが、蒸気の力を船にのみ追い求めた事が海洋国家の竜宮らしかった。鉄道は完全に二の次三の次にされており、狭い竜宮には当面必要ないものとすら考えられていたほどだった。
 しかし蒸気船は、竜宮に革新的な変化をもたらすものだと、竜宮の硬直化した役人達にも理解された。風や海流に左右されずに動けるという事は、それまでの流通網が一気に高速かつ合理的に結べることを示しており、万難を排して手に入れるべき技術だと判断された。すでに商人の一部は数十年も前から蒸気船や蒸気機関の技術を得るべく動いており、実のところ竜宮人は1840年の時点で既に多数の蒸気船を保有していた。国内の目ざとい者の中には、蒸気機関の工場すら建設する者が出ていたほどだった。
 竜宮政府は、すぐにも未だ魔力を失っていない竜宮金貨を積み上げ、イギリスの東インド会社から初めての国有蒸気船を手に入れ、合わせて技術者も招き、まずは原理や使用方法を学ぶようになった。ここでノウハウを持つ竜宮人が民間からも多数の人材が募られ、国を挙げての変革に向けて進み始める。国が予算を出したため、民間でも一気に普及が進んでいった。
 1840年の時点では、国が国家事業として産業の革新を始めたことが重要だったのだ。
 次に製造方法の習得に入ろうとしたが、その前段階として製鉄業や冶金、機械工業を始めとした産業の革新が必要なことは既に理解されていた。
 そして竜宮人達は、自分たちに幸運が味方していることを知る。
 狭い竜宮諸島の中には、竜宮本島の北部に大量の良質な鉄鉱石が眠っていることが分かり、石炭も島の各地に豊富に産出したからだ。しかも石炭の利用は17世紀には始まっており、この頃にはヨーロッパから得た知識でコークスも一般的に使われていた。製鉄やガラス工業の火力と言えばコークスであり、18世紀半ばには一般家庭の調理にもコークスが使われるようになっていた(※竜宮本土では、暖房器具はほぼ不要だった)。
 あとは反射炉などの近代的な製鉄設備を建設すれば、最初の段階を簡単に通り越えることが出来そうだった。そして次の段階は優れた冶金技術を必要とするボイラー(蒸気機関)とエンジン(動力装置)の製造だが、これも大きな苦労にはならないと考えられた。
 竜宮は孤立した環境のため、とにかく自力で何でも揃えなければならず、旧来の製鉄を中心として加工業は発展していた。しかも国内に豊富に産出する材料を用いたガラス工業は国外に多数輸出するほど盛んで、製鉄関連を合わせて技術習得できるだけの職人は十分に存在していた。しかも、既に一部の民間人が動いていたため、そこに資金と人材が豊富に与えられると、瞬く間に成果が現れた。
 資金についても、いまだユーラシア大陸北東部から北アメリカ大陸北西部で採掘してまわってた膨大な量の黄金の一部が国庫に残されており、アラスカなどではこの時点でもそれなりの採掘が行われていた。しかも蒸気の力を応用して地下水をくみ出すポンプなどを設置すれば、さらなる採掘量の増加も見込め、多少の無理を押してでも技術の実現と導入、そして量産化が目指された。
 外からの優れた技術を手に入れて、それを自分のものとする事は竜宮世界が誕生してからずっと行われてきた事なので、ためらいは微塵もなかった。
 1840年代半ばになると、早くも竜宮製の蒸気機関と蒸気船が多数造られるようになり、大きな喜びと興奮が竜宮人を包んだ。新たな力を手に入れた事により、今までの数倍の早さで国造りを進めることができるのだ。
 軍事力の増強についても、ヨーロッパから多数の最新兵器が購入され、さらには図面や製造方法の入手も熱心に行われた。学術面、技術面での留学や人材の招聘が叶うのならば、それも積極的に行われた。
 こうした竜宮の動きは、17世紀中頃から末期にかけての竜宮国建国頃に見られたのと同じであり、得ようとしている技術の革新性において大きく勝っていた。

 竜宮での急な動きに、イギリスなどはどんどん必要な物を用立て人も派遣した。しかしそれは金銭面ではなく、竜宮に自分たちの影響力を浸透させるためだった。また竜宮がアメリカと対立するようになっていたからであった。竜宮人もイギリスの意図をそれなりに知りながらも、受け入れるしかなかった。何しろ、イギリス以外で竜宮にまで来ようとするヨーロピアンはまだほとんどいなかったし、イギリスが最も高い技術を有していたからだ。
 ユーラシア大陸北部中央からはロシア人が少しずつ顔を出すようになっていたが、ロシア人の動きは明確に領土や侵略を示していたので、むしろ竜宮人の警戒を促し、対抗するために尚更イギリスへの依存を高めさせることになった。ロシア人に対処するときも、イギリスは積極的に協力してくれた。イギリスにとっても、ロシアの膨張は脅威であり邪魔だったからだ。そういう点では、竜宮は非常に使い勝手の良い辺境の番犬であった。

 しかし竜宮の持つ最大の植民地となっていた天里果副皇領の山脈と平原と大河を越えた向こうには、白人が数多く溢れ始め、そして世紀の大戦争を開始した。
 アメリカ南北戦争(American Civil War)だ。
 南北戦争は1861年から1865年の間に行われた、世界で初めての近代的戦争となった。
 この戦争は竜宮人にとっては、近い場所からでも数千キロ彼方の陸地で行われた戦争だが、完全に部外者ではいられなかった。
 すでに天里果副皇領の周りのほとんどが、アメリカと境界線を接していた。南部のカリフォルニアは、人口が拡大して州(内国)に昇格していた。カリフォルニアには、副皇領で作られた穀物、加工肉、乳製品など主に食料品が海路輸出されるようになっていた。既にゴールドラッシュでのごたごたも過ぎ去り、戦争中は人種問題とインディアン問題を国家間で棚上げしたので、副皇領とカリフォルニアの関係は比較的良好だった。通常ならば、険しい地形を挟んでいるので対立する必要もなく、肌の色が違えども新大陸に移住してきた文明人同士という認識があったので、交流は比較的友好的に行われていた。無論、白人を中心とした人種差別や、文化などの違いによる衝突は皆無ではなかったが、それも世界的に見て最も少ないほどでしかなかった。北米大陸西海岸は、世界でも希有なヨーロピアンとアジアンを由来とする文明人が隣り合う場所となっていたのだった。
 しかし、アメリカが戦争に突入することで変化が始まる。
 南北戦争が発生した当初、カリフォルニアは北軍に属していたが、特に何もしなかった。当時カリフォルニアは、北米東部沿岸の人口密集地帯から陸路で7ヶ月、海路だと帆船で3ヶ月半程度かかるため、中部の戦争にすら関わりが持てなかったからだ。
 南軍がテキサスやニューメキシコに少数の部隊を入れた時には少し緊張が走ったが、これもミシシッピ川の辺りから迎撃及び追撃した北軍に簡単に撃退され、西海岸は戦争に関わることのないまま過ごし続けた。
 それでも北軍の使者が竜宮の天里果副皇領を訪れ、南軍に決して協力しないように要請してきた。合わせて、アメリカ大陸以外にある国との間に、アメリカ大陸の問題に関わらないように強い要請があった。アメリカが竜宮に対して、自国の国是であるモンロー主義を押しつけてきた事になる。
 これに対して本国からの指示があった副皇領では、改めて戦争に対する中立を伝えた。一方では、戦争で物資の欠乏するカリフォルニアへの「好意的輸出」の代償として、観戦武官の派遣が竜宮からアメリカ側に要請された。
 竜宮側としては、新大陸の東側で何が起きているのかを少しでも知っておきたいという欲求から起きた申し出だったが、北軍の使者は本国に問い合わせる事もせずにこれを了承。北軍の帰りの使者に案内される形で、数十名の竜宮人がアメリカへと入った。
 アメリカとしては、竜宮という国を相手が異民族、有色人種の国であっても味方に引き入れることが重要であると判断しており、南部が敗北するまで英仏などと連携しないよう少しでも友好関係を維持し、その努力を自ら行う必要があると考えていたためだった。
 なお、竜宮人が南北戦争を観戦したのは、戦争も後半に入ってからの事で、主に北軍が南部領内に進撃していく掃討戦においてだった。
 そこで竜宮は、北軍の焦土戦術とでも呼ぶべき南部の破壊を目撃するばかりで、まともな戦闘はほとんど見ることはなかった。一部の者はリッチモンドの陥落も観戦し、一つの国の滅亡に立ち会うことになった。
 そしてここで、近代戦争とヨーロッパ型近代国家の恐ろしさを知ることになる。そしてアメリカという近代国家によって、半ば無理矢理に盲を開かれたのが日本だった。


●フェイズ25「近代2・近代との出会い」