■フェイズ25「近代2・近代との出会い」

 1853年6月、蒸気船2隻を含む4隻のアメリカ艦隊が、大西洋からインド洋を経て日本にやって来た。日本で俗に言うところの「黒船来航」と日本の変革と革新の始まりだった。
 とはいえ、日本の江戸幕府が何も知らなかったわけではない。

 18世紀の末頃から少しずつ、今までとは違う国の船が日本の近辺にまで来るようになっていた。開国を求められたこともあった。しかし江戸幕府、どうしてよいのか分からないので今までの状況を維持する事に汲々とした。全て追い払い、1827年には「異国船打払令」という外国船を大砲で追い払う布告までした。間違って、竜宮の交易船が大砲で追い払われる事もあった。1844年のオランダ国王の開国勧告も拒絶した。その数年前に竜宮皇が行った開国の進めも拒絶されていた。さらに前の18世紀後半には、竜宮は当時の実力者だった重商主義者の田沼意次と昵懇になったが、彼は日本の開国・解放を行う前に失脚した。
 その後も竜宮は、段階的な開国や、自分たちを利用した形での俄開国を提案してみたりもしたが、頑なな江戸幕府はなしのつぶてだった。
 その一方で江戸幕府は、近隣の探索を独自で進めるようにもなった。特に竜宮が求めていた木材開発を兼ねた蝦夷開発が少しずつだが進んだ。その中で、竜宮が千島(チウプカ)列島北部やオホーツク海沿岸を領有していることを知るが、相手が白人でないのでむしろ幕府は安心してしまった。樺太と日本人が呼ぶようになった島の対岸も清国が領有していた事も安心材料だった。
 竜宮がロシアと国交を結んで北の国境策定を17世紀の末から何度も行っているのに比べると、比較にもならない暢気さだった。ロシアに対する苦労を、日本に代わり竜宮が背負っているようなものだった。
 その竜宮も、早くは18世紀後半の田沼時代の頃から、様々な手段で開国した方が日本に利益が多いと伝えていた。竜宮はスペインと貿易しているが、一度も侵略を受けたことがないと伝えた事もあった。日本ぐらいの規模の国では、鎖国は不利益が大きいとまで強く伝えたこともあった。
 海外との交易と交流で自らの発展を行ってきた竜宮にとっては、江戸幕府の行動は経済や貿易の面では自殺行為に等しかったからだ。それに近所のよしみと近い民族としての親近感からも、江戸幕府には再三再四開国の事を吹き込むようになった。
 しかしこの裏には、日本の軍事力が話にならないほど弱いと竜宮が認識している背景があった。17世紀前半頃の強大な日本の軍事力は、気がついてみるとどこにも存在しなくなっていた。武士や侍と呼ばれる強大だった特権軍人階級は、気が付くとただの世襲官僚になっていた。
 とはいえ、日本から侵略されないから竜宮がお人好しになったのではない。むしろ日本が他国に侵略され、日本を橋頭堡にして他国が竜宮に攻め込んでくる可能性の方を考えるようになったための行動だった。
 だが竜宮側も、今すぐの脅威だとは長らく考えなかったので、それほどの熱心さでもなかった。取りあえず自分たちの欲しい物品を日本人が売ってくれて、それなりに商品を買ってくれ続けるのなら、あまり問題を感じていなかった。
 基本的に東アジアは長い間平和だったのだ。

 竜宮側に日本に対する危機感が本格化したのは、阿片戦争ぐらいからだった。1830年代から太平洋でアメリカの捕鯨船が大量に見られるようになり、阿片戦争によって自分たちの軍事力ですら国防が難しいことを知ったからだ。
 一方では、北太平洋の広い地域で竜宮がアメリカの捕鯨船を追い出したため、アメリカ捕鯨船は鯨の豊富な漁場だった日本近海に多数出没するようになった。
 このためアメリカが近在の日本に補給拠点を設けたいと考えるようになり、何度か捕鯨船や商船、単艦での軍艦が日本に寄港したが、全て追い返された。酷いものは、大砲で追い払われた事もあった。しかも日本の持つ一部の大砲は、竜宮向けに作ったものを自分たちで装備しており、ヨーロッパ最新ほどではないがそれなりの性能を持っていたためタチが悪かった。日本人は、妙に道具作りと使うことが上手かったので、小馬鹿にしていた西洋船に砲弾が命中する事もあったからだ。漁師による民間レベルの反発でも、それぞれの地域にいる猟師達による俄狙撃兵(猟兵)によって、アメリカ船員が殺される例も一つや二つでは無かった。アメリカ人の捕鯨が、当時の日本人漁師にとってダメージとなっていた何よりの証拠だった。
 当然アメリカの反発は強まり、アメリカ本土では日本を開国させて補給拠点を確保すると共に、日本を国際ルールの中に組み込んでアメリカにとっての漁場を安定させるべきだという考えが強まった。
 そうした中で竜宮国は、国皇の使者を立てて日本に派遣し、幕府と朝廷の双方に開国を強く進めた。同時に日本には、自分たちの持つ技術や知識の供与なども提案した。竜宮としては、相手の無知と無能で自分たちの市場と原料供給地を失いたくなかったが故の行動でもあった。
 しかし江戸幕府は、技術の供与と情報の提供を求める以上の事を言ってこなかった。それどころか、外国のことを一般の日本人に知らせるなと強い態度で求め、竜宮船の立ち入りも今までとは比較にならないほど制限するようになった。当然ながら、今まで順調だった貿易も混乱し、両者に大きな損失が出た。以後の大きな変化として、竜宮が日本を木材供給地としなくなったほどだった。鉄のやり取りもほぼ停止したため、日本の伝統的製鉄業は大混乱に陥った。竜宮からの海外の贅沢品や珍品、珍味も入らなくなって、日本経済も大混乱になった。このため慌てて幕府は竜宮の船の入港規制を緩めたが、既に竜宮側が自国のことで手一杯で日本どころでないため、以前のようには行かなくなっていた。
 そうして竜宮国は、江戸幕府をなかば見限り以後変革に前向きな西方雄藩に積極的に接触するようになる。そして竜宮は、江戸時代の長い期間において、継続的に薩摩藩、土佐藩とのつながりを持っていた。また、九州各地の藩とは、日本製の優れた陶磁器の輸出で関係を深めている藩が多いため、それらの藩との関係も深めた。海外貿易で財を得ている地域は、裕福な上に海外情勢に敏感な場合が多かったからだ。そして、そうした藩とは殆ど西国の藩であった。
 中でも海外交易に直接関わっていた薩摩藩、土佐藩の一部の人々は、共に竜宮とのつながりによって海外の事をある程度知っており、自然と関係を深めるようになった。少し後の薩摩藩には、幕府に秘密で竜宮のやや旧式な軍艦や多数の武器が安価で売却されたりもした。水面下で鎖国の禁を破り、日本の外で竜宮から技術を習得する人々も出た。薩摩や土佐などでは、罪人という形で日本から追放してまで人材育成を行ったこともあった。また幕府の本拠から遠い西国の雄藩の中には、薩摩や土佐以外にも竜宮の手を借りようとする者も多く、その中には攘夷(外国人排斥)を強く掲げていた長州藩の姿もあった。
 そして日本人にとって、竜宮は攘夷と言いきる事ができない感情的親近感があったという要因がそこにはあった。
 しかし江戸時代の太平(平和)に慣れきっていた日本人達は、主にヨーロピアンが産みだした高度技術文明に対してほとんど無知だった。日本人達は、最初はガレオン戦列艦が約100門の大砲を搭載して最大1000人もの乗組員が必要だという事すら知らなかった。
 だが日本人達は、新たな知識や技術にすぐにも適応していった。一方では、竜宮が上海などにおいた船や東南アジア各地から入る情報も、自分たちの側から得ようと言う動きが出てくるようになった。当時薩摩藩には英明な君主がいたことが、こうした変化を日本人の側から受け入れさせる土壌の一つとなった。
 しかし江戸幕府はごく限られた軍備の充実以外で実質的に何も活かすことはなく、ペリー準提督率いるアメリカ艦隊の強引な寄港を受けることになる。

 この時竜宮国は、琉球に補給のため立ち寄ったアメリカ艦隊から日本語通訳を雇いたいと申し出を受ける。竜宮側は有償でこれを受け入れ、数名の竜宮人がペリー艦隊と共に日本の浦賀へと赴いた。ただし琉球には竜宮の軍艦を浮かべ、その中には蒸気を吹き上げる最新鋭船を置くことを竜宮人は忘れなかった。何事も即物的なアメリカ人には、何かを見せておくことが重要だったからだ。
 なおこの頃竜宮人には、竜宮語とよく似た日本語ばかりでなく、スペイン語、オランダ語、中華語、ロシア語、フランス語、東南アジアの諸言語、そして英語を話せる商人や通訳、軍人は、探せば必ず一定数は見つかる程度に存在していた。自分たちの商業、交渉で必要だからで、王族や貴族でも外国語の習得はたしなみのようなものとされていた。商人や通訳の中には数カ国語を操れる者も珍しくなく、交易国家としての竜宮の一面を現している。そして竜宮の東アジア最大の拠点となっていた当時の琉球は、竜宮の通商のための一大トレーダーもしくはトラフィックスだった。壮麗な宮殿が、今もその頃の繁栄を伝えている。

 そしてペリーの日本来航以後、竜宮人の日本での需要は爆発的に高まった。
 日本はアメリカの無理押しで開国し、その後日本と竜宮国との間にも1855年には改めて国交が結ばれた。諸外国も次々に日本との関係を結んだ。竜宮側からの好意によって平等条約が結ばれたのが他国との違いであり、さらに竜宮との間にはチウプカ(千島)など境界線の接する地域での領土交渉も行われた。
 そして当時日本語の話せる者は、日本以外だと殆どを竜宮が抱えていた。竜宮語が日本語に近い言葉だという事と、日本から逃げ出してきた日本人のほとんどを竜宮が抱えていたからだ。しかも国外で活躍する竜宮人は、かなりの確率で複数の言語が話せた。一時期竜宮人は、ヨーロッパからも東アジアの通訳人と呼ばれたほどだった。ただ竜宮人も日本での攘夷の対象とされるようになってしまい、日本で殺される竜宮人も出るようになった。
 そして開国以後の日本は急速に変化し、明治維新という名の世界的にも珍しい経緯を経た革命によって、1868年に新国家が誕生するに至る。新国家は大日本帝国と呼称した君主を持つ国民国家であり、以後東アジアで徐々に頭角を現していく事になる。
 そして幕末と呼ばれた時代から明治の初期にかけて、日本との貿易や交渉で竜宮は欠かせなくなり、必然的に日本での竜宮の存在感は増していった。
 開国以後は日本列島に進出する竜宮商人も多く、また日本人と竜宮人の協力による会社経営も頻繁に見られるようになった。しかも竜宮は、日本に対して可能な限り好意的で友好的、そして何より公平なため、両者の関係は平安時代以来と後に言われるほど親密になる。
 これは竜宮側が、日本がヨーロッパ列強に支配されない事こそが、竜宮を守るために必要だという認識を持ち続けていたからだった。日本人の方も、竜宮のそうした国際戦略を最大限利用した。

 一方で、日本の開国に前後して、竜宮本国を訪れるヨーロッパの国々も増えた。既に国交は結んでいる国が殆どだったが、交通手段の劇的な発達のおかげで比較的簡単に竜宮本国に来られるようになったからだった。
 そして竜宮本国にやって来た外国人は、揃って竜宮の都の姿に感嘆の声をあげた。北太平洋にぽつんと存在する国が発展しかつ美しいことに、奇跡だという声も多かった。
 しかも竜宮では1840年代から産業の近代化いわゆる産業革命を本格的に推進しつつあり、1850年代になると既に多くの成果が見られるようになっていた。傾いていた財政や商業も、様々な要素によって上向き始めていた。貿易相手が増えた事も、当時の竜宮にとってはプラスとなった。
 竜宮は、蒸気で動く船の整備には殊の外熱心で、商船、軍艦を問わず、竜宮各地の造船所で次々に新しい蒸気船が建造されていた。竜宮人が後回しにしていた鉄道も、本島北部の鉄鋼資源地帯と本島南部の商業地帯を結ぶ鉄道が敷設されつつあり、平坦な竜宮の地形も相まって比較的容易く地上の交通網も整備されつつあった。動力の革新ばかりでなく、海外から積極的に技術をものと人ごと輸入して、次々に実現していた。新しい知識の習得にも熱心で、各地の大学などの学術機関も次々に近代的な姿に様変わりしていった。
 しかし産業革命や知識の革新、社会資本整備、流通網の革新など様々なものの変化には、莫大な資金が必要だった。アメリカに領土を売った代金や、ゴールドラッシュでのぼろ儲けを加味しても、産業革命に必要な資金には足りない筈だった。臨時収入と臨時収入による経済の活況という要素は無視できないが、その程度で産業革命が一気に進展すれば誰も苦労などいらないからだ。
 諸外国はこのことを怪しんだが、竜宮では商業も工業も発展し、安定した気候なので農業も安定していた。庶民の暮らしぶりは、世界的に見ても豊かな方だった。全ては国全体に豊富な資金がなければ維持が難しいが、竜宮はそれを実現していた。実際竜宮国の国庫には豊富な金貨が常に備蓄されていたのだが、答えは意外に単純だった。
 回転資金として使うための貨幣のための希少金属を、自国勢力圏の各地から豊富に産出していたのだ。産出されていたのは最も価値の高い金(Au)で、産業革命による蒸気機関の投入と世界各地で新たに開発された鉱山採掘技術によって、19世紀初頭大きく落ち込んでいた産出量が再び大きな向上を見せていた。特に蒸気ポンプの恩恵は大きかった。特にアラスカ各地での採掘再開は、国庫に大きなゆとりをもたらしていた。

 そして竜宮の実状を知ったヨーロッパ諸国が次に考えたのは、何とかこの「金の成る木」を自分たちの自由にできないかだったが、難しい事はすぐに分かった。
 まず何より、ヨーロッパから遠かった。地理的に一番近いアメリカでも、まずはロッキー山脈を越えなければならないし、越えた先にも竜宮の大きく豊かな植民地(副皇領)が広がっていた。大航海時代から言われていた、世界の果てというイメージは正鵠を得ていた。
 真の世界帝国にのし上がったイギリスなら行けなくもないが、その先にはさらに高いハードルが待ちかまえていた。
 竜宮は古くからの海洋商業国家であるだけに、十分強力な海軍を有していたからだ。しかも急速な勢いで自力による蒸気軍艦の整備を行っており、阿片戦争のような気軽な戦争はとても起こせそうになかった。しかも目先の金の誘惑に負けた白人達は、既に竜宮に多くの文明の成果を渡してしまっていた。
 ロシアなどは、竜宮が持つユーラシア大陸北東端部を何とかかすめ取れないかと画策もしたが、現時点での竜宮が相手では世界の僻地に投入する軍事力、軍事力を運用する資金は、到底ペイするものではなかった。100年ほど前に、同様に田舎泥棒じみた手段でコサックを竜宮の領域に入れてみたが、冬はともかく夏になると竜宮は船を派遣してロシア人を追い払ってしまった。国際問題になることもあったが、流石のロシア人も世界の僻地で近代的装備を持った国を相手に戦争する気にもなれなかった。このため当面は、レナ川(竜宮名:夏川)が竜宮とロシアの自然境界線的な国境となっていた。

 しかし竜宮本国は基本的に小さな国土しかなく、産業革命前の人口も1200万人程度とせいぜいが中規模だった。国家体制もいまだに国民国家には遠いと見られており、ヨーロピアン達はいずれ熟して落ちる果実と考え、今しばらくは他の地域への努力を傾けることにした。帝国主義の時代は、まだ開幕したばかりだった。


●フェイズ26「近代3・竜宮の近世略史と産業革命」