■フェイズ26「近代3・竜宮の近世略史と産業革命」

 19世紀後半に入って、1651年に瑠姫女皇により竜宮三度目の王朝になる竜宮国が建国されてから200年以上が経過していた。王家の血統そのものは、母系の系譜を受け入れるのなら500年が経とうとしていた。

 当時の竜宮は、国号を「竜宮国」と呼び、時折自分たちの間では「第三王朝」と呼ぶこともあった。
 同王朝は瑠姫女皇により開かれ、以後ヨーロッパ的な海洋国家路線と植民地主義を進むことで、安定した成長と拡大を続けていた。
 国政の基本は国皇(キングもしくはクィーン)による君主制で、国皇の下に国の有力者から構成された非選挙制の有力者と官僚上がりによる議会が設けられていた。君主はアジアによくある男子直系による世襲ではなく、王族なら女王も認められていた。これはヨーロッパ的と言うよりも、竜宮人が古代社会の名残を引きずり続けていたからだった。古代社会とは概ね女系社会だからだ。また、国皇の権威を最も現すものとして、古くから「玉璽」、つまり国の政治を執り行う書類に押される印鑑が用いられている事が、国の権威、国皇の権威として見られていた事も、女性の君主を認める根拠となっていた要因も大きかった。
 国皇の承認により開かれる議会の基本的な役割は、国皇の補佐にあった。議会は、立法や財政の権利をある程度持っていたが、民衆の意見を反映する機関とは言えなかった。実際、18世紀中頃まではほぼヨーロッパ型の絶対王政もしくは主権国家的体制が維持され、特権階級と大商人、都市富裕層により構成された議会は、国皇の実質的な支持母体となった。ただし宰相に当たる役職は当時はなく、議会の意見を汲む形で国皇の親政が行われた。
 そして国皇の下に軍隊と官僚団が編成され、豊富な資金と商業活動によって、竜宮国は概ね良好に運営され続けた。何しろ北太平洋には戦争を行うほどの競争相手が皆無であり、スペインなどから優れた航海技術を手に入れると我が世の春を謳歌できた。
 しかも竜宮は他の文明圏から遠いため、基本的に内乱と国家の後ろ盾のない海賊(※パイレーツというよりはバッカニア)以外との争いの戦争からは縁遠く、他国に侵略されると言うことが歴史上ほとんどなかった。一方で商業活動を広げるために各地に進出し、主に東南アジア地域では頻繁に小競り合い程度の戦闘を行った。しかしここでは、竜宮の軍隊よりも国から承認を受けた私掠船(プライベーティア)や主に日本人からなる傭兵部隊が主に使われていた。竜宮本国軍の役目と言えば、広大な領域と竜宮本国を結ぶ交易路の防衛だったからだ。陸軍も、北の僻地でロシアのコサックと小競り合いをするのが年中行事のように行う程度でしかなかった。
 つまるところ竜宮本土は常に平和の中にあり、竜宮にとっての最大の敵はほとんどの場合国内にあった。特に、歴史上いかなる国家であっても避けられない問題、各種機関、官僚組織の腐敗と国政の硬直化こそが常に問題視されていた。
 このため新王朝成立時から、法制度の整備と役人の育成・管理に力が注がれていた。第三王朝になると、既得権益保持者である貴族の力も大きくそがれた。
 第三王朝では世界中から様々な国の制度を学び、優れた点を導入する事にも力が入れられた。そして常に、優れた法律、法が誠実に守られているかを監視する組織、猾吏の専横を禁じ能吏を誉めて重用する制令、この三つのバランスに注意が払われていた。そして官吏や特権階級に厳しい法こそが、竜宮が国として選んだ生存戦略だった。自らの才能を用いて金儲けがしたければ、貴族ではなく(貿易)商人に生まれることだ、という言葉すらあった。無論国皇や貴族、上級官僚や上級軍人は、階級や役割、義務に応じた特権と一定の贅沢を享受できたので、支配層が極端に不満を感じるという事もなかった。むろん歴代皇の中には贅沢に走る者もあり、そうした時期には豪勢な建造物が作られたり、特権階級や大商人、都市住民の間で華やかな文化が花開いたりもした。
 そして如何に努力しようとも、徐々に既得権益が肥大化して腐敗することは避けられないため、1770年代から90年代の捷隆皇の時代には大規模な内政改革が行われた。
 この時は、国全体の産金量も低下して商業も停滞気味だったため、綱紀粛正、財政再建、産業転換と振興、新大陸への移民促進などの様々な面での中興政策が行われていた。同時に捷隆皇がヨーロッパの学問に精通し高い評価を下していたため、捷隆皇自らが啓蒙思想に傾倒して議会の権限を強め、新たに勃興した中間富裕層を議会に取り込むことで民衆の不満も回避された。
 これは1775年に近代憲法となる欽定憲法の制定に至り、以後竜宮皇も憲法に縛られる限定された権力しか行使できなくされた。この時の改革には国内各所の反発も強かったが、優れた統治を実施した捷隆皇の大きな力を前に押し黙るしかなかった。
 しかも捷隆皇は、国内の人口飽和状態に対して、積極的な国家主導の新大陸移民を推し進める事で問題緩和を行った。当時既に1200万人の人口を抱え、官僚や貴族は大規模な不作と飢饉に怯えていた。故に国を挙げて移民政策の準備に取り組み、それが軌道に乗り始めた頃に一時的ながら世界的な気温低下が訪れ、竜宮でも飢饉が発生した。
 そして飢饉によって否応なく新大陸に押し出された民は、新天地での暮らしを始めるが、そこは多少寒冷ながらもいくらでも自分の農地が得られるという事で、以後移民が安定して続いた。貧農、貧民、親から相続する遺産のない次男坊、三男坊、嫁の貰い手のない女性、様々な人々が移民していった。貴族や士族も一族や村の半分ごと移民して、竜宮の世界を地道に広げていった。
 そうした人々の努力によって新大陸の竜宮領は豊かな穀倉地帯と牧畜地帯へと変化し、竜宮人の最も大きな植民地となった。そして天里果副皇領にその名を変え、新大陸で唯一の安定した封建制度地域となった。
 その後19世紀に入った竜宮人の世界は、北太平洋一帯での一時的な産金量の大幅な減少と国家備蓄の減少によって停滞期に入った。中興には一定の効果と成果はあったが完全ではなく、欽定憲法は結果として国皇以下特権階級と官僚、軍人を一層窮屈にさせた。
 そして能力が報われてもあまり贅沢ができなくなったので、官僚になるべき人材が商人などの民間に流出し、国政のレベルは少しずつ落ちていった。
 だが竜宮人は次に何をして良いのか分からないので、とにかく現状維持が目指された。この点は幕末の日本などと似ている。もし19世紀初頭から半世紀の間に他国に侵略されていたら、竜宮の勢力圏は少なくとも大きく減少しただろう。しかし竜宮の持つ勢力圏は当時の世界の僻地であるか、他の国にとっては半ばどうでもよいような場所ばかりだった。故に、まだ誰も来ることはなかった。
 そして竜宮が幸運に預かっているうちに世界の劇的な変化は進み、その波が竜宮にも押し寄せる。

 1840年の阿片戦争以後の世界の変化を目撃した竜宮人は、自らの革新的な産業の転換に考え至った。
 そして産業の転換、つまり産業革命は竜宮に新たな力を与えることになった。自在に使える人工的な動力機関の採用が、一旦は採掘が難しくなった各地の金鉱の採掘を容易なものとして一時的ながら豊富な資金を与え、それを回転資金に竜宮の産業革命が一気に推し進められたからだ。何しろ深い鉱脈とは、地下水との戦いでもあったからだ。
 しかも竜宮本国には豊富な石炭と鉄鉱石が眠っており、銅など他の金属も相応に眠っていた。また天里果副皇領でも、広大な地域を入念に調査すれば当座の鉄や銅は見つかった。金鉱が新たに見つかることもあり、竜宮では新大陸での産業革命が本国に半歩遅れる程度で進展した。竜宮にとっての新大陸は、植民地というよりは既に本国の一部という感覚があったため、産業育成を故意に阻むこともなかった。また、アメリカへの領土売却益とカリフォルニアでのゴールドラッシュによる莫大な臨時収入は、この頃の竜宮経済と産業革命の進展に爆発的な推進力を与えたため、竜宮での産業革命は短期間で進んでいった。
 そして蒸気船の導入から始まった竜宮の産業革命だが、他の国と同様に、まずは繊維産業の発展が目指された。工場制労働に関しては、既に手工業の各種分野で行われていたので、この時必要だったのは機械の導入と運用ノウハウの獲得以外だと、大量の工業原料(原綿など)をいかにして確保するかだった。
 原料の綿花は、イギリス(=原産地インド)などから分の悪い取引で手に入れたが、生糸の原料はこれまでの国内での産業振興によってある程度はまかなえるようになっていた。また羊毛に関しては、新大陸の牧場地帯で羊の大量飼育によって対処された。当時天里果副皇領では、人口の増加に伴い新たに開発できる農地が減少しており、新規の農民に対する受け皿として沿岸部での牧畜が奨励され、機械導入による羊毛産業の発展は都合の良いものだった。また副皇領南部の山岳地帯の合間に点在する盆地では、ある程度の気温と季節的な雨量の少なさに目を付け、灌漑農業による綿花栽培も小規模ながら行われるようになった。
 そして新たな産業が発展し始めると鉄道敷設への熱意が高まり、各地に敷設が開始された。最初の鉄道は1851年に本国の昇京と東都の間に開通し、まずは竜宮本国の主に本島と竜頭島で広まった。そして本国よりも遙かに広大な天里果副皇領での鉄道敷設も10年ほど遅れて始まり、鉄道敷設に伴う爆発的な需要を竜宮国内に発生させた。
 鉄道は当時としては破格の量の鉄を必要とし、敷設のためには高度な土木技術が必要となり、機関車や貨車の製造のために機械産業が不可欠で、完成後は複雑な運行業務を行うために組織運営能力を必要とした。この流れは竜宮でも変わることはなく、特に天里果副皇領での鉄道敷設には大規模なものが要求された。しかも探索によってロッキー山脈の各地に地下資源が見つかったため、奥地の鉱山と沿岸部や大盆地との間を鉄道で結ぶことが求められた。
 特にロッキー山脈北部の一番奥にある高い尾根がある辺りで大規模な炭坑が見つかると、非常な熱意をもって鉄道の敷設が進められた。工事は難工事となり十年以上が必要だったが、ロッキー山脈の谷間を鉄道が走るようになった。この時の開発はロッキーの他の鉄道敷設にも活かされ、北西部各地に精力的に鉄道が敷設されるようになる。

 国民全ての喜びの中で産業と流通の革新が進んでいったのだが、産業革命開始から20年ほどすると大きな問題が浮上し始めた。都市人口の激増と国全体での加速度的な人口増加だ。
 産業の革新的転換と工場労働者の誕生が、都市の爆発的拡大を誘引したのだ。しかも新大陸が持つ巨大な食料生産力が、竜宮の人口拡大を難なく支えた。蒸気船の登場で、新大陸の食料が簡単に竜宮本土に持ち込めるようになったからだ。
 皇都昇京は、17世紀後半頃から50万人程度を抱える太平洋随一の大都市として栄えていたが、産業革命の進展により一気に人口が激増し、1880年には100万都市となった。竜宮各地の都市もそれまでせいぜいが数万人程度だったものが、本島北部の資源地帯を極端な例として大幅に増加した。
 産業革命が起きるまで竜宮本国の人口は約1200万人で、この数字は18世紀後半以後変化はなかった。余剰した人口は主に新大陸に移住するか昇京など不衛生な大都市の下町で「調整」され、特に人為的な人口調整(間引きなど)されることもなく安定した人口が維持されていた。気候も基本的に温暖でそれなりに多雨な上に対策も行われていたため飢饉も少なく、庶民の暮らしは世界的に見ても安定していた。
 一方外郭地の人口は、17世紀以後着実に増加を続けていた。新大陸への移民と現地での自然増加、各植民地地域での原住民人口の取り込み、日本から細々と溢れ続ける余剰人口の吸収の三つの要素によって人口の拡大は続いた。とは言っても前近代の事なので、新大陸の天里果副皇領以外での人口増加は、日本人の増加以外は知れていた。
 しかし天里果副皇領は、移民による開拓で農耕と牧畜が大幅に発展して人口増加が続いた。17世紀中頃に約10万人に過ぎなかった人口は、18世紀末には100万人を突破し、産業革命開始までに400万人に達していた。これに加えて、東南アジアを中心に竜宮の勢力圏各地に住む日本人流民の子孫約300万人を合わせた数が、竜宮が抱えている「文明人」のほぼ全てになる。他にもブルネイ、パプア地域などの先住民が最低でも数十万人いると推定されていたが、文明化された一部を除いて原始的な生活を続けており、一部が奴隷や苦力(重労働者)として活用されるに止まっていた。特にパプア地域は、竜宮領を示す標識を立てた以外ではほぼ手つかず状態だった。深いジャングルを隔てた高山地帯に優れた農耕地帯が広がっていることなど、全く知られていなかった。
 一方アラスカを中心とした北部にも数万人の先住民がいたが、こちらは第三王朝建国時から「北辺の金庫番」として重宝及び重用され、地域全部が皇の直轄領となって住民にも国皇陛下からの下りものが贅沢に与えられたため、気が付いたら本国人以上に国と皇に対する従属性や忠誠心を持つようになっていた。族長の中には、叙勲された者も多い。しかも「戦利品」の権利をほとんど与えられていたため、重武装した原住民達がユーラシア大陸北東端部に流氷を渡って「狩り」に出かけ、はるか夏川(レナ川)流域でロシア人と問題を起こすことすらあったほどだった。

 そうした状況で竜宮での産業革命が始まり、竜宮本国と少し遅れて天里果副皇領での人口激増が始まった。しかも東南アジアの日本人流民も、蒸気船による移動力の革新と東南アジアでの白人の脅威増大に伴い、二つの地域に流れ込んで現地の人口拡大を助長した。
 この結果1880年代には、竜宮本国の人口は2000万人に達し、副皇領でも600万人を越えた。逆に、東南アジアでの登録人口は、他に流出したため200万人程度となった。しかも新大陸では、ジワジワと竜宮領内に逃げ込むように流れてくる原住民(インディアン)が増えていた。竜宮全体の文明人の人口は、半世紀を経ずに5割り増しに増えた事になる。人口ピラミッドと出生率から、四半世紀でさらに大きく増えることも確定事項だった。

 そして人口と都市住民の激増によって、必然的に低賃金労働者を多数産みだし、下層市民による貧民街、労働問題、新たな疫病の蔓延など様々な社会問題が浮上し始めた。
 特に北部の資源地帯は酷い環境になり、太平洋の宝玉と謳われた昇京も、ロンドンと同じように工場の煤煙で空は汚れ河川は汚濁まみれとなった。
 そして一番の問題は、それまで不平不満を言うことが少なかった竜宮の庶民の間で、自分たちの権利を求める声が大きくなり始めた事だった。
 竜宮も、他の多くの国と同じように、繁栄の中での暗部の広がりが、社会への変革の力となりつつあったのだった。


●フェイズ27「近代4・国民国家への道」