■フェイズ27「近代4・国民国家への道」

 産業革命による発展の中で、19世紀に入って問題視されるようになっていた内政面での逼塞感情はかなりが忘れられ、取りあえずは1870年代には竜宮での産業革命が達成された。そして依然産業革命の過渡期だった事、地下資源が豊富だった事、相応の外郭地を持っていた事などから、ヨーロッパで始まった次なる産業の発展(大量生産時代へ向かう第二次産業革命)にも順調に乗ることができた。海外市場が豊富とは言えなかったが、時代的にも極端に困るという程ではなかった。特に竜宮は、本国及び安定した外郭地での地下資源に恵まれていたため輸入超過に陥ることもなく、また再び豊かとなった産金量と金保有があったので、世界的な金本位制の金融制度にも難なく対応できた。起きた事件と言えば、一時的な過剰生産による中小規模の不況ぐらいだった。
 竜宮の豊かさを我がものにしようと狙うどん欲な国もあったが、建国以来竜宮を悩ませ続けていた世界の僻地であるという絶対的な地の利と、竜宮自身が努力して整備した軍事力がいまだ竜宮を守っていた。
 そして自国での産業革命の最中に、アメリカの南北戦争や日本の奇妙な革命、清国の急速な斜陽を横目で見つつも、竜宮の国家制度はそのままだった。
 しかし先進世界は着実に国民国家に向けて進んでおり、産業革命の効果も相まって巨大な国家が次々に出現し、世界をどん欲に貪り始めていた。

 竜宮での王朝変更は、実質的に500年近く発生していなかった。血統的な意味での王家の歴史は、母系を受け入れられる国であるなら近隣の朝鮮王国に匹敵するほど長くなっていた。その上で、国自体は宮廷革命によって途中で一度変更していたし、中華王朝的な害悪からも逃れていた。だが、ヨーロッパ諸国の大幅な隆盛を肌で感じ取った竜宮人にとって、もう一度大転換を実施すべきだと考えるようになったのが、帝国主義時代全盛に入りつつあった1880年の頃だった。
 産業の革新により膨れあがった国民が自分たちの権利を叫ぶようになり、上流階層でも一部の識者や軍を司る者達が、ヨーロッパやアメリカに対抗できるもしくは侮られないだけの軍事力の整備、しかも単なる新兵器の導入だけでなく、軍の制度そのものの革新を臨むようになっていた。つまり下は権利を求めた末に国民国家を望むようになり、上は国防上の理由から国民国家を欲するようになったのだ。
 しかし竜宮では、庶民の側からの革命や変革は歴史上で一度も無かった。内戦や内乱は500年近くしたことがなかった。今の王朝も、王族を首謀者とする宮廷革命によって勃興した。
 しかも国を閉ざしたこともないし、むしろ積極的に外との交流を持っていた。新技術や知識の習得と吸収にも常に熱心だった。竜宮は、国土は孤立していたが常に知的前進は計られていた。しかも下層民には、新大陸に移民するという逃げ口までが用意されていた。
 このため、フランスのような市民革命や、アメリカのような市民だけによる国民国家という考えは、実際の話を聞いても国民の間になかなか浸透しなかった。植民地統治も本国を広げるような政策を重視する緩やかさのため、竜宮本国から独立しようという考えもほとんどなかった。むしろ欧米諸国のどん欲さを前に、竜宮人全ての団結の方向に進んでいた。これは本国よりも、ヨーロッパと直に接触するようになった外郭地で強い傾向となり、特に天里果副皇領は領土拡張を続けるアメリカ合衆国に強い警戒感を抱くようになっていた。副皇領では、自主努力で軍制改革や新兵器の導入を進めていたほどだった。何しろ竜宮は海軍がほとんどで、陸軍は常におざなりだったからだ。
 一方では、国皇と議会に権力が集中されていたため、特権階級の直接的な政治勢力は、他の王制国家に比べると比較的弱かった。しかも宗教の政治勢力がほとんど存在しないため、竜宮での権力構造はヨーロッパの王制国家に比べて簡単だった。そして議会は、初期のイギリス議会のように立法や財政のある程度の影響力を維持し続け、議員達は貴族、士族などの特権階級と大商人や都市富裕層によって占められていた。
 加えて、法制度が高度に整備されすぎて、しかも基本的には上位者に対して厳しく組み上げられていたため、国皇ですら啓蒙君主的な色合いが年々強まっていた。高級官僚になってもうまみが少ないため、優秀な人材の不足が恒常化したのが悩みだったが、害虫や寄生虫が増えすぎるよりはマシと考えられていた。
 こうして考えると、竜宮では全ての階級の者が国と国の定めた法に従属する傾向が強く、上からによる変革が逆に難しい状態になっていた。国際情勢が緩やかなままだったら、これ以上何もする必要がないぐらいだった。
 しかし国自体が他民族に乗っ取られては何の意味もなくなり、国を守るためには国民国家を作り徴兵制度を実施しなければならなかった。竜宮にとって国を富ますことは既に乗り越えていた事案なので、問題は国を守るための力を整えることだった。
 また法制度は古くは14世紀末に整えられたもので、欽定憲法も18世紀のものだった。このためヨーロッパ人達が作り出した新しいルールにはそぐわないものも多く、順次整備された関税面はともかく、領事裁判権つまり治外法権については諸外国から言われることが多かった。言われる以上にならなかったのは、この頃の竜宮が必要十分な軍事力を持っていたからで、もし産業と軍備の近代化が行われていなければ、日本のように治外法権を認めさせられたり、インドのように植民地にされていた可能性も十分にあった。
 実際、ヨーロッパ諸国による東アジア各地の植民地化に向けた動きは着実に進んでおり、まともに対抗しようとしているのは、諸外国から見れば冗談のように呆気なく近代化を成し遂げた日本ぐらいだった。
 日本では、開国から約15年で強力な指導力を持つ新政府ができたが、中華地域ではアヘン戦争から11年で大規模な内乱が起きただけだった。この違いこそが、その後百年以上尾を引く事になったと言っても過言ではないだろう。
 そして近隣の二つの国が取った道を見ていた竜宮人にも、自ずと正しい道が見えていた。西洋の技術を取り入れるだけではなく、国の制度そのものを大転換しなければ、これからの弱肉強食の世界情勢を生き抜くことは出来ないのだ。

 そして竜宮の様々な階層、運動家などが議論して理想とされた考えが、「立憲君主国家論」だった。
 国の権威君主として国皇を残し、憲法を新たに布告し、民主選挙によって選ばれた議員が議会を構成し、その長が国政を指導するというものだ。また行政、司法、立法の三つの近代的な権力組織に再編成し、互いを監視しあう制度にする事も必要だと考えられた。
 形としてはイギリスに似ており、実際イギリスの制度が全面的に参考にされた。しかし選挙に参加できるのは、多額の税金を納める者に限られるとされていたため、民主議会と言っても今までとの大きな違いは少ないものだった。
 またもう一つ考えられたのが、成立したばかりのドイツの制度を真似ることだった。今までとの違いは、民主選挙により選ばれた議員による議会をもう一つ設けることとによる二院制議会の設置と、宰相という主権者である皇の名代が官僚団を率いる点にある。既に竜宮は、特権階級による議会を持ち、軍は基本的に皇の直轄のため、比較的簡単に移行できると考えられた。
 またどちらの場合でも、自由や権利を求める国民に対しては、民主制度と民主議会の導入がガス抜きになるし、ある程度労働者を保護する法律を設ければよいだろうと考えられた。
 要するに、先進国の様々な政治制度の中から、竜宮の既得権益に都合の良い部分を取り入れようと言う考え方だった。それでも改革によって特権や権益を失う者も多いので、反発は必至と考えられた。
 だがこの頃は、結果として議論以上には発展せず、近隣の日本が先に革命と新国家建設を達成するという竜宮人にとっては意外な結果になっていた。
 しかし国と民をまとめるために好都合な状況、国家としては由々しき事態が間近に迫りつつあった。


●フェイズ28「近代5・近代までの新大陸」