■フェイズ28「近代5・近代までの新大陸」

 1869年、シカゴからサンフランシスコの間で、北アメリカ大陸で最初の大陸横断鉄道が開通した。
 アメリカ合衆国の歴史上での西部開拓時代、フロンティアの時代の本格的な幕開けだった。
 それまで西海岸を目指したければ、東部沿岸から陸路で約7ヶ月もかかった。しかも陸路だと、先住民や猛獣といった脅威が無数にあった。安全ながら高価な海路でも、蒸気船が導入されても南アメリカ大陸を迂回しなければならないためまだ二ヶ月以上が必要だった。アメリカ東部から見た西部は、はるか彼方の土地だったのだ。
 このためこれまでは太平洋岸には長い間白人達がやって来ることがなかったが、カリフォルニアで大量の黄金が発見される事で歴史が動いた。以後アメリカ人の東部から西部に向かう熱意は異常なほど高まり、同時に西部に多数の人が住むようになったため、新たな交通機関の導入に大きな弾みがついた。そしてあらゆる困難を排し、インディアンを武力で蹴散らしつつ西へ西へと鉄の道が引かれていった。また鉄道の巨大な輸送力と蒸気機関がもたらす道具の力を利用し、これまで開墾が困難だった大平原の農地化も革新的に進展していった。
 しかし北アメリカ大陸の西部に存在したのは、アメリカでの一部娯楽作品とは違ってアメリカ合衆国の「勇敢な」開拓民と「野蛮な」インディアンだけではなかった。
 北東部には憎き旧大陸のイギリスがカナダという広大な植民地を有しており、南にはメキシコ(メヒコ)という現地ラテン系の国家があった。そして白人達にとってほとんど未知の世界である北西部一帯には、黄色人種による封建国家が緩やかな時間の中に横たわっていた。

 新大陸開拓の歴史は、解釈の取り方によっては竜宮人の方が早かった。これに白人達が勝利するには、ヴァイキング達の僅かな足跡を持ち出さねばならなかった。しかし国家としての竜宮による新大陸開拓が本格化したのは17世紀半ば以降の事で、現地での居住者が大きく増えたのはさらに一世紀以上経ってからだった。移民者の規模も、竜宮とヨーロッパでは違いすぎた。しかし竜宮人は、新大陸の植民地を植民地というよりは自国本国の一部として丁寧に開発し、プレジデント(大統領)でもガバナー(総督)でもなく一風変わったオリエント・ノーブルによる地に足を着けた統治が続いていた。
 領民と呼ぶべき現地の住人も、現状の支配体制を悪いと考えるものは圧倒的な少数派で、近所に溢れ始めてた肌の白い手前勝手な隣人の方を迷惑がっていた。
 竜宮人から見て今度の白人は、初めて体験する一般の白人達だった。これまで竜宮人が出会った白人は、商人か船乗り、宣教師、役人、軍人、それに海賊がほとんどだった。竜宮の側からヨーロッパに行っても、応対したのは国王や貴族、彼らに国に仕える者であり、少なくとも表面上の礼儀はわきまえていた。沿道などで民衆が出迎えると言っても、大抵は港湾都市か首都に住む恵まれた都市住民が、もの珍しげに自分たちを見るぐらいだった。遠方からやって来たものは、人種や肌の色という価値観よりも、遠方から来たという事そのものが勇者として優先される風土があったからだ。
 しかも新大陸の竜宮領は世界から孤立した環境のため、白人も滅多に来なかった。ごくたまに、ノヴァ・イスパニアからスペインの宣教師や商人が来るぐらいだった。
 しかし地図の上では、竜宮の天里果副皇領は19世紀初頭にはスペインではなくアメリカ、イギリスと接触するようになり、アメリカとの間には国境を定めた条約を結んだり、領土の売却すら行われた。
 この中で新たな問題として浮上したのは、イギリスとの境界線だった。
 新大陸の北部は互いに開発が遅れており、森林に覆われた奥地では探検や探索すらまともに行われていなかった。毛皮商人や金を求めた山師は色々と入り込んでいたし、現地には様々な先住民が住んでいたが、近代的な意味での領有を言えるほどのものではなかった。
 それは19世紀に入っても変わらず、深い森と湖の中に昔のままの生活を営む原住民(インディアン)が住むばかりだった。
 竜宮とイギリスの間に境界線を決めなければという意識を持たせたのは、竜宮とアメリカの間に条約が交わされて以後の事だった。しかし米英戦争、ナポレオン戦争と続いたため話は進まず、ウィーン会議が終わって数年後にようやくイギリスが交渉の席へとやって来た。そして両者の間に、既成事実を元にした境界線について話された。
 イギリス側の最初の主張は、ロッキー山脈の西側を竜宮領と認めるというものだった。竜宮側は、可能な限り揃えられた情報を元にして交渉に臨んで、北部平原地帯の適地を境界にするのが相応しいと応じた。現地に入り込んで活動しているイギリス人と竜宮人の比率を考えれば、竜宮の言い分の方が正しかった。
 しかも竜宮人は、アメリカと境界を決めて以後各地に足跡や標識を残しており、ロッキー山脈の東側の平原の各地にも商人の事務所や副皇領の役所が作られた場所もあった。その足跡は、中部のマニトバ湖にまで及んでいた。
 しかし平原のほとんどが深い森で覆われているため、どちらも領土交渉にはあまり乗り気ではなかった。せいぜいが金(黄金)などの資源が眠っているかも知れないので、取りあえず押さえておきたいという程度のものだった。当時は、どれぐらい広いのかすら把握できていないような場所なのだ。
 しかしここで、圧倒的という以上の国力差と文明力の差がものを言った。竜宮側の主張した広大な土地をイギリスが買収する形で決着が付けられたのだ。
 決まったのは1819年で、この時に現在の境界線がほぼ固定化した。アルバータ、サスカチュワンと後に付けられる広大な地域が500万ポンド(3000万ドル=銀貨3000万枚)の即金で売却された。そして北極側の海岸線から西経120度を下り、ロッキー山脈の一番東側の尾根(分水嶺)が正式な境界線として定められた。クックの探検行で見つかった新大陸北部の島々は、竜宮が欲しがらなかった事もあったがほとんどイギリスのものとなった。
 しかしこの時の交渉を、竜宮側は大きな成果だと考えた。
 当時竜宮は産金量、金保有量の減少と経済不振により深刻な財政難にあり、この時即金で払われたポンド・スターリングの銀貨は四半世紀の間竜宮の財政を保たせるために使われ、次の時代への命綱となった。へたに利用する事のできない土地に固持するよりも有効だったと考えたのだ。
 しかし両者の領土が確定しても、長らくイギリス人はほとんど新しい領土に入植してくる事はなかった。竜宮の側は領土が決まったことでむしろ密度を高めた域内の開発が進み、そのままの勢いで副皇領も産業革命の波に乗ることも出来た。
 そして竜宮が産業革命を進めている間に、南のカリフォルニアでは金を求めた人々が無数に溢れ、竜宮もその初期には近所という地の利を活かして大量に個々人レベルで入り込んで大量の金を自分たちの世界に持ち帰った。この後ろには、現地副皇から企業に至る組織的な動きもあったので、非常に多くの富を竜宮にもたらした。この地域の竜宮人で、金や黄の名を持つ者が増えたのもこの頃の事だった。
 しかしそうした竜宮の動きには関係なく、その後アメリカによるカリフォルニアの開発と発展は精力的に進められ、ついには大陸横断鉄道の開通へと繋がった。当初竜宮人は、資金面、技術面で困難が多いだろうと考えていた大陸横断鉄道だったが、アメリカは東部での莫大な投資資金を元手として、熱意の赴くままに完成させてしまったのだ。
 そして竜宮にとっては、そこからが本当の試練の始まりだった。

 アメリカという隣国で一番の権利を有する白人達(主流はアングロ・サクソン系)の多くは、白人同士なら相互扶助や友愛精神に溢れる朴訥な人々なのだが、相手が言葉の通じない有色人種となると彼らも一般的な白人と何ら変わりなかった。アジア、太平洋に来るヨーロピアンのように、表向きを取り繕ったり後々の利益を考えて行動しないだけに直接的な脅威が強かった。場合によっては海賊や夜盗と大差なかった。
 その事は、竜宮人も様々な接触、特にカリフォルニアでのゴールドラッシュで思い知らされていた。自分たちは、相応の自衛手段を持っていたし集団で組織だっていた。さらには先に来て先に去ったので、相手も警戒したため害は少なかった。だが、白人達と似たような時期にやって来た中華系やメキシコ系の採掘者が受けた仕打ちは酷いものだった。また、自分たちも余り誉められたものではなかったが、インディアンと彼らが名付けた先住民達に対する侵略行為は目に余るという以上のものだった。何しろ同化政策どころか、法律の上で人ではなく「自然物」扱いしているのだ。新大陸に流れ込み始めていた中華系移民の中にも、白人一般の差別感情と攻撃性の高さのために、副皇領に二度目の移民する者もいた。それを竜宮側では、同化を条件に中華系移民を自分たちとほぼ同等の立場で受け入れた。
 しかも竜宮領内にやって来た白人移民は、そこに竜宮人がいなければ勝手に住み着いて、その後で自分たちの権利を言い立てるので厄介な相手だった。このため副皇領では、南北戦争の始まった1861年の中立宣言の時に事実上アメリカ人移民を遮断し、以後もメキシコ本国で許可を得たクリオーリョ(新大陸のスペイン系)以外の白人移民を認めなくなった。国境にある街道という街道にも国境検問所を設置し、何もない山の尾根や谷にも標識を作っていった。地図の作製や測量、道路の建設も熱心にしたし、僻地の開拓も屯田兵を編成して順次行われ、軍隊や武装警邏、森林保護隊も巡回させた。国境を越えた白人同士の勝手な交易や交流も禁止するようになった。
 この中で問題だったのが山脈で隔てられていない地域で、ソルトレーク(大塩湖)から北へと広がる竜宮側の盆地では、両者の間での境界線争いが長い間問題となった。特にソルトレーク近辺は当初から東西を結ぶ開拓路であり大陸横断鉄道も通っているため白人の数も多く、いつしか竜宮とアメリカの間での最大の問題地域となっていた。
 しかしアメリカの側にも、有色人種という以外で竜宮人を嫌う理由があった。
 インディアンに古くから武器や道具、食料を売っているのが、竜宮(ロング=rongu)という名の西の僻地に住む有色人種達だったからだ。しかも国と勢力圏が違うため、自分たちの好き勝手に出来ない存在だったので、竜宮人に対する悪感情は彼らの西部開拓が進むにつれて大きなものとなっていった。

 竜宮と白人の侵略に晒されたロッキー山脈以東のインディアン、主に平原インディアン大部族との接触は、早い場合は18世紀末頃からあった。初期はインディアンが砂金やバッファローの毛皮などを持ってきて、竜宮副皇領で鉄砲、火薬、日本刀、馬、鉄の道具、小麦や各種保存食などの長期間保存の利く食料、各種衣料品など様々なものを買っていった。竜宮人はインディアンに対しても相応に公平であるため、交易関係は徐々に拡大していった。竜宮人としては特に相手を差別する理由もないし、世界各地での原住民、先住民との取引は一般的な行いでしかなかった。かつては争った相手をねじ伏せて奴隷にしたりもしたが、そうした事は時代と共になくなっていた。
 ちなみに竜宮の馬は、スペインが新大陸持ち込んだ西洋馬を大量に輸入して繁殖させていたため、19世紀頃には竜宮人の勢力圏で使われるほとんどの馬が西洋馬になっていた。このため旧来の日本馬系の小型な竜宮馬は、完全に駆逐されていた。そして馬は武器共々高値で取り引きされたので、馬の牧場はインディアンとアメリカ人の抗争が激しくなるにつれて広がっていった。平原での馬は、鉄砲の時代だろうとも最強の生物兵器だった。
 竜宮本国から持ち込まれる交易用の武器の数も種類も増え、わざわざ日本で買い付けるときに、特注の戦闘向きの日本刀や騎兵用銃の銃身を大量に誂えさせたりもした。
 スーやシャイアンといった大平原中央部の大部族は、距離の近さもあって竜宮の上客となった。ただし竜宮商人は、彼らが売却用の奴隷として連れてきた白人だけは奴隷としては買い取らなかった。むしろ買い取る形で保護して、アメリカに送り返すことすら行われた。
 ゴールドラッシュが起きるまでは、商売に差し障りが出ないように、八方美人的な友好が心がけられていたからだ。竜宮人にとっては、全ての人種は商売相手でしかなかったのだ。
 しかし徐々に新大陸での白人の有色人種全般に対する態度と扱いが分かってくると、副皇領でも変化が見られるようになる。
 竜宮人もインディアンをひいきにするようになり、自分たちの武力の強化も進めるようになった。アメリカとの国境には、副皇直属の兵が配置されるようにもなった。何時しかインディアンの間に数々の文明や知恵を与える竜宮人がアメリカ領内に入り込むようになり、商人ばかりでなく、軍事顧問や鍛冶の技術者、さらには医者も見られるようになった。そして竜宮人がインディアンの集落の襲撃によって死んだり捕まるケースも発生し、発見したアメリカ側から強い非難が寄せられるようになった。
 竜宮の入れ知恵と文明の利器のおかげで、アメリカの白人達も大きな損害を受けていたからだ。
 そうした事が続くと両国の間で国際問題になり始め、流石に竜宮側も自国人を入れることは以後しなくなった。だが、今度はインディアンの方が知識や技術を得るために竜宮側に至るようになり、部族の中には大砲すら戦闘で使用するケースがでるようになった。当然アメリカ側が武器や道具、食料、医薬品の不法な売買に至るまで非難したが、竜宮側は相手がアメリカの国民以外の商売相手に過ぎないとして取り合わなかった。アメリカの法律では、インディアンは自然物としている地域があることを逆手に取ったのだ。
 竜宮側の屁理屈混じりの言い分には、流石のアメリカ人も激怒する前に面食らったと言われる。
 そうした頃に大陸横断鉄道が開通し、アメリカは竜宮との国境線にインディアンの越境阻止のための国境警備隊を置くようになった。これはほとんどアメリカの建国以来初めての事であり、アメリカの竜宮に対する警戒感が尚一層増しいた事を現していた。
 南北戦争以後、西部開拓は急速な勢いで進んだが、今まで東部や中部で経験したよりもインディアンの数も多く、しかもやたらと好戦的なため、開拓には多大な努力と犠牲が伴った。殲滅される恐れの高い小規模な開拓者は完全に姿を消して、常に大規模で高度に武装した上で移動するようになった。このため陸路での移民も、コストが大きく上昇した。コンボイという言葉がアメリカで生まれたのもこの頃だった。
 しかもアメリカ側の不利は長らく続き、中西部の平原でアメリカ騎兵隊が戦闘で敗北した事も一度や二度ではなかった。中隊や大隊でなく、砲兵を持つ連隊規模の部隊が壊滅的打撃を受けたこともあった。火薬や火砲を使った鉄道や橋梁の破壊も日常的となり、村や町の襲撃などでの開拓民の犠牲も多く、アメリカは西部開拓のために多くの犠牲と国費をつぎ込むことになった。
 しかもアメリカ側の軍の規模が大きくなるのと比例して、インディアン側の規模も大きくなり、対向が難しい場合は散兵戦術や騎馬による遊撃戦を仕掛けた。
 1860年代から80年代の争いを、アメリカでは「大平原戦争(グレートプレーンズ・ウォー)」と公式文書に載せるほどで、双方に万の単位の死者が出た。
 しかしインディアンの頑強な抵抗は、逆にアメリカ人に一層の西部開拓を決意させる事にもなった。
 そしてアメリカ側が各地に鉄道を引いて、インディアンの食料にして資金源であるバッファローを飢餓戦術のためだけに大量虐殺するようになると、インディアンの抵抗も急速に衰えていった。そうなってくると、今度は竜宮の副皇領はインディアンの移民もしくは亡命の積極的受け入れを開始し、他の先住部族のように山岳部での牧場経営権やインディアン側が望むのなら農村開拓民の権利を与えた。傭兵や食客として、竜宮軍に属する者も多かった。
 竜宮副皇領への移民を選んだインディアンの数は最終的に10万人を越え、既に住んでいる者と合わせると19世紀末の時点で50万人のインディアンが竜宮領内に住むようになっていた。これは新大陸で当時最大の数であり、その後も竜宮国民として暮らすことで数を大きく増していく事になる。

 そうして20世紀に入るまでにアメリカの西部開拓とインディアンの抵抗は終わり「フロンティア」は消滅した。だが、フロンティアの先に存在した竜宮に対するアメリカの領土欲と敵意が残った。
 当然ながら、アメリカの西を目指す方向が、大陸北西部と北太平洋全域に広がる竜宮へと向かいつつあった。


●フェイズ29「近代6・アメリカとの対立」