■フェイズ34「近代11・戦争特需と大戦の余波」

 第一次世界大戦で最も変わった事。
 それは世界のパワーバランスだった。中でも経済と国力関係の変化が大きかった。変化を簡単に言えば、ヨーロッパにあった富が主にアメリカ合衆国に横滑りの形で流れたと言えるだろう。

 第一次世界大戦では、ヨーロッパ諸国は全ての予測を遙かに越える総力戦を行い、文字通り死力を尽くして戦った。互いに戦いを止めたいと思っても、既に自らそして相手が使った戦費を考えると、とてもではないが戦争を自分の側から放り投げる事は出来なかった。自分たちが作り上げた近代戦争のルールが、ヨーロピアン達を縛り付けていたのだ。
 基本的にヨーロッパでの戦争では、敗者は相手が使った戦費と損害の分だけ賠償金を支払わねばならない。例えば1871年の普仏戦争では、17億マルクもの賠償金をフランスは課せられた。しかも普仏戦争では領土も割譲している。そして賠償金が支払えなければ、莫大な借金を背負うか現物で支払わなくてはならない。第一次世界大戦中でも、ドイツとロシアの革命政府との間で結ばれたブレスト=リトフスク条約では、広大という言葉すら不足する領土をロシアはドイツに割譲しなければならなかった。
 そして戦後パリで行われた講和会議では、一番の戦争責任を追及されたドイツは、天文学的な賠償を課せられた。
 具体的に挙げれば、1320億(金)マルクの賠償金、全ての植民地の割譲、本土の9%の喪失ということになる。並の国なら、このまま滅びていてもおかしくない賠償だった。実際使われた戦費も、連合が約1300億ドル、同盟が約600億ドルにも上るという統計数字が一般的に記録されている。
 両軍で動員された兵士の数も、末端まで含めれば8000万人近い。
 竜宮が使った戦費60億ドル(※実質負担は40億ドル程度)や動員した250万人という数字など、氷山の一角以下の数字でしかなかった。
 そしてそれだけ桁外れれの戦争だっただけに、経済と金の動きも凄まじかった。
 例えば日本の場合は、輸出入額の双方が一気に4倍に跳ね上がり、大戦中の工業生産額自体も同じく4倍近く跳ね上がった。9億円あった国家債務は、差し引き25億円の債権に変わっていた。国家予算の規模も、一気に二倍以上になった。しかも日本は、世界大戦での需要に応えることで、一気に工業国として躍進した。
 アメリカについては、もっと数字が大きくなる。37億ドルの債務は、差し引き100億ドルの債権に変わっていた。黄金保有量も二倍近くになり、30億ドル近い分量の黄金がアメリカ各地の金庫の中に収まった。戦争中の貿易取引量も三倍以上に増え、アメリカ国内ではありとあらゆる産業が戦争特需の恩恵を受けた。
 そして戦争特需は、竜宮王国にも訪れていた。

 開戦頃の竜宮は、工業生産力では日本の3倍以上あった。日本よりも実質20年近く早く工業化を開始し、地下資源も豊富で国富も多かったのだから、なるべくして工業国へと順調に発展していた。19世紀末期に外圧から国家の衰退に見舞われたが、新国家体制の構築と共に復調に転じて産業もさらに上向き、そして上昇機運の中で世界大戦を迎える。
 そしてヨーロッパに初期の頃から積極的に派兵し、後半では大軍も送り込んだため、連合側各国から優遇措置により多数の発注を受けることができた。また竜宮が他国の持つアジア利権の保持を確約した事から、戦争中に限るという相互の約束のもとではあったが、ヨーロッパ諸国が持つ植民地にも大量の商品を輸出することができた。
 アメリカや日本同様に、竜宮の貿易取扱量は格段に上昇し、開戦前の4倍近い数字を示した。特に竜宮の場合は、19世紀後半からイギリスに対する従属が強まっていた事が、逆に効果を発揮した。ポンド・スターリング貨幣への連動性が高まっていたため、各地での商取引も円滑に行うことができた。大戦中は、大英帝国の代理人と言われる事すらあったほどだ。
 債務と債権に関しても、元々対外債務はほとんどなかったが、債券額はドル換算で40億ドル以上のプラスとなった。竜宮がイギリスとの従来の繋がりと戦争中のフランスとの関係から、戦争の初期段階から積極的に低利の債務を引き受けた結果だった。竜宮系の企業も、単なる金儲け以外で積極的な活動を行った。
 しかも竜宮は、戦後になるとイギリスとの間に交渉を持って、アラスカなど北方にあるイギリス利権を債権とのバーターの形で取り引きして、殆どの利権を取り戻すことにした。
 竜宮領内の利権の多くは、戦後の疲弊したイギリスにとって維持する事の難しい利権であり、竜宮にとっては利権の回復だけでなく国威の向上にもプラスとなるので、両者にとって利益のある取引となった。こうした約束も、戦争中盤に多くが交わされた事だった。
 そして竜宮本国自体は、戦争中は戦争景気に沸き返り、工業生産高は伸び、税収も大きく増加した。既にある程度発展しているため日本のような極端な向上や変化ではなかったが、それでも税収上での国力は5割り増し以上となった。

 竜宮人の住む場所で大きな変化があったのが、新竜王国だった。
 新竜王国はイギリスの事実上の保護国だったが、戦争協力によってある程度の権利を現地竜宮人に戻してもらう事をイギリス本国と約束した。しかしイギリス本国としては、インド帝国などとの兼ね合いもあって、アイルランドのような自由国という立場にする事は出来ればしたくなかった。何しろ新竜王国は、有色人種が住む場所だった。しかし何もしないまま戦争に協力させるのでは、民衆に不満が増えることは間違いなく、本国である竜宮との関係悪化も避けられなかった。
 そこで考え出されたのが、竜宮王国にイギリスが持っている権利、つまり保護国としての新竜王国の権利を譲渡するという案だ。無論ここで竜宮王国という有色人種国家が注目を集め、有色人種の期待を高めさせる可能性が多分にあったが、イギリスは世界の有色人種の行動よりもイギリス領内での政治的効果を重視する事にした。
 この取引では、竜宮の持つイギリスの債権と新竜王国の権利をバーター取引するという形がここでも取られた。これで竜宮の持つイギリスの債権はほとんどなくなったが、両国の外交関係をほとんど対等とする事ができた。竜宮王国にとっても、新竜王国にとってもそれなりに満足できる結果だった。
 イギリスも、新竜王国での鉄道利権や軍港及び軍事基地の使用権を引き続き一定範囲(株式保有など)で持つことができたし、今までに買い上げた権利もある程度保持出来たので、現地には最低限の影響力を保つことができた。またイギリスには、ヨーロッパ外交の中での別の目的もあったため、竜宮との領土交渉には積極的にならざるを得なかった。

 なお新竜王国は、1920年に竜宮王国に新竜国王が臣下の盟を誓う形に戻され、徴税権、外交権、軍事の3つの権利がイギリスから竜宮王国に譲渡される事になった。実質的には返還であり、旧来の状態への復帰だった。
 その上で、竜宮王国とイギリスの間に改めて協商関係が結ばれ、イギリスは引き続き新竜領内に残った様々な権利を継続して保持することができた。またイギリスが保有し続けたカナダに続く大陸横断鉄道には、竜宮王国も資本参加が許され、一定の影響力と利益も持てるようになった。
 そしてこの時、アメリカは文句を言うことを殆どしなかった。言ってきた事も、アメリカとの鉄道連結や新竜領内の鉄道などへの資本参加をさせろという程度のもので、従来のように竜宮に敵意を見せることがなかった。無論新竜領内への資本進出と移民を認めろという、従来の主張は継続して行われ続けていた。だがこれも、あからさまにアメリカ政府が言うことはなくなった。
 明らかなアメリカ外交の転換であり、以後北太平洋での外交は大きく転換していくことになる。

 また大転換という以上の事態を迎えていたのが、ロシア革命とその後に続いた世界初の社会主義国家の誕生だった。
 世界中がこの革命を阻止しようと動き、竜宮も例外ではなかった。立憲君主国であり、僻地同士とはいえロシアと直に国境を接するので、竜宮の感じている脅威は尚更だった。このため、世界中が行ったロシア革命に対する干渉に対しても、竜宮は積極的に参加した。
 竜宮軍は、ヨーロッパに大軍を派遣している中で急ぎ1個師団の戦力を準備して、他国が出兵を決めるよりも早くロシア政府支援及び協商関係履行を理由にロシアへの干渉を開始した。派兵については他国へ通告したが、この時は共同歩調よりも時間が重要だとしてロシア入りを急がせた。同時に、陸でロシアと国境を接している地域では、国境を厳重に封鎖した。
 当然、他国から疑いの目を持たれた。竜宮人の一部には、東シベリアはもともと自分たちの領土だという考えも存在していたからだ。これに対して竜宮政府は、派兵の前に諸外国に対してロシア侵略の意図のない声明を発表し、それでも足りないと見ると文書でそれぞれの国に提出した。後には文書交換まで行って見せた。 竜宮のロシア派遣は、1918年春の流氷氷解を待ってチウプカ半島を経由してアムール川河口部から上陸し、ハバロフスクを占領した。そしてハバロフスクから一気にシベリア鉄道を使いシベリア各地の革命運動の鎮圧に回った。
 この時の遠征は、いまだ現地に若干残っていたロシアの既得権益の現地での支援を受けられた事から、順調に進められた。
 この作戦には、作戦を円滑に行うために飛行船という欧州で技術を得て作り出した新兵器も投入され、また夏の間に北極海にも船を回し海路からシベリアの大河へと入り、白軍(反革命勢力)を支援した。この海路参加部隊では航空機も持ち込まれ、シベリアの空を初めて飛行機が舞うことにもなった。竜宮空軍の遠距離作戦能力が重視されるようになった原因も、この時のシベリアでの遠距離行動が強く原因しているとされる。
 もっとも世界大戦が終わって出兵の大義名分がなくなると、竜宮軍は急ぎ引き上げ始めた。遅れてシベリアに出兵した列強各国が軍を退くのに連動して、自らの国境線へを引き上げていった。持ち込んだ武器や弾薬、物資の多くは白軍に残し、一部の人間の亡命を手助けしたりしたが、引き際は呆気なかった。これは諸外国から領土的野心を疑われることを殊の外警戒したからであり、事実上抜け駆けした事に対する対応でもあった。
 その後シベリアには、革命側の赤軍と反革命側の白軍が激しく対立し、その狭間に撤退を遅らせた日本軍が居座った状態となった。他国と共にシベリアや北満州に入った日本は、尼港事件による国内世論の激高、国内での不手際や政治的混乱もあって引くタイミングを完全に失っていたためだった。
 しかし、初期の竜宮の見せた果断な出兵と、日本軍の長期出兵は、革命当初のソビエト連邦政府を恐れさる事になった。しかも竜宮はユーラシア大陸北東端部のルキアで東シベリアとつながり、日本はアムール川河口部に近い樺太を全島有していた。しかも日本も竜宮も、アジアにあって強大な海軍を有していた。極東での足場の弱いロシア人が脅威を感じるには、それだけでも十分な要素だったと言えるだろう。しかもこの頃のロシア人は、ポーランドとの戦争に大敗したばかりで、極東には軍備と呼べるものはほとんどなく海軍に至ってはほぼ皆無だった。
 このため赤くなったロシアは、「極東共和国」という名を与えられた緩衝国家を東シベリア一帯に作るというトカゲの尻尾切りを行った。
 海そして港を持つことは、この時のロシア人にとっては、侵略者に口実を与えるだけでしかなかったと言えるだろうか。
 そしてその後も日本、竜宮による優位が続いている事、イギリスとアメリカが北米での自国の安全保障強化につながるため竜宮を応援したため、ソビエト連邦と名を改めた赤いロシアは、一部で普通の共和制を持つ極東共和国を存続させざるを得なくなった。
 ただし極東共和国は、当初の広大な領土から大きくその領域を減らし、プリモルスキー(沿海州)とウスリー州、黒竜江(アムール川)周辺部だけとされた。
 なお日本軍がシベリアから完全撤兵したのは、極東での新たな国境線が決まりかけていた1922年10月の事だった。
 緩衝地帯(緩衝国家)を作ったという意味では、日本軍の事実上の強欲も全く無駄ではなかったと言えるだろう。



●フェイズ35「近代12・国際連盟と海軍軍縮」