■フェイズ35「近代12・国際連盟と海軍軍縮」

 1918年11月に世界大戦は終わり、1919年1月から6月にかけてフランスの首都パリで講和会議が行われた。
 戦争の総決算については前で挙げた通りで、ドイツは1320億マルクという天文学的な賠償を課せられた。他にも全ての植民地を失い、総人口の13%、本土の9%の喪った。
 まさに致命的な敗北であった。
 この戦争で竜宮は、戦勝国の一国として会議に参加した。近代的な戦争で勝利することも国際的な講和会議に参加することも、歴史上で初めての事だった。とはいえ、大勢の中の一国に過ぎず、戦争当事者でもなかった。
 その事は竜宮全権だった神門(ゴウド)侯爵(外務大臣兼全権大使)も良く理解していた。出過ぎたまねは一切行わなず、可能な限り中立的な立場を取った。ドイツからの賠償としての領土割譲も一切を辞退し、他の戦勝国と事前に相談した上で相応な賠償金や技術賠償を要求した。
 竜宮代表は、講和会議そのものよりもイギリス、アメリカ双方との単独交渉を重視し、イギリスとは新竜領を中心とした領土に関する話し合いを、アメリカとはさらなる関係改善が協議された。
 そして講和会議によるヴェルサイユ条約の結果、竜宮は全賠償金(1320億金マルク)の2%(26億金マルク)を受け取る権利を得た。ここでも当初は戦費に応じた3%程度の分配が提示されたが、竜宮は戦争当事者でもないし戦災にはあっていないとして他国割り当て分に譲られた。
 竜宮としては、既に戦争特需のおかげで戦争自体は大きな黒字なので、出来る限り他国に恩義を売り名を挙げることを心がけた。それこそが大国に挟まれた国の生存術だからだ。そしてこのパリ講和会議で、あからさまな帝国主義的行動が列強の間で否定される風向きになった事を、竜宮はよく理解していた。
 そして諸外国も竜宮の内心は見透かしていたが、その姿勢は称えねばならず、戦争で疲れ切っていたので恩も受けざるを得なかった。
 
 パリ講和会議以後の数年間、数多の国際会議が開催されることになる。
 講和会議の次の大きな会議は、世界初の主権国家間による国際組織設立を巡る話し合いだった。
 アメリカ大統領ウィルソンから提案された「十四カ条」の最後に記されていたのが主権国家間による国際組織、つまり「国際連盟(LN)」の設立だった。
 しかし講和会議に参加した国のうち勝者を中心とした集まりとなり、ドイツ、ソビエト連邦は会議に加えられなかった。提案者のアメリカ自身も、国内の孤立主義者の反対で参加を見送った。
 このため世界規模の組織としては中途半端な組織とならざるを得なかったが、それでも国際組織が必要だという認識のもとで設立が行われた。それでも十分に革新的な事だったからだし、世界大戦の教訓から必要だと判断されたからだ。
 この中で問題となったのが、常任理事国の選出だった。
 イギリス、フランス、イタリアの連合側として主に戦った国が席に座る事には誰も異論を唱えなかった。人口、工業力などから見ても、他に候補もなかったからだ。それ以外が問題だったのだ。本来なら、国力的にアメリカ、ドイツ、ロシア(ソ連)などが座るべきだが、様々な理由で三国はいなかった。南米三大国が一時は候補として挙げられたが、人口、工業力、民度全ての面で物足りなかった。
 そこで注目されたのが、竜宮と日本だった。しかも連合の中では、竜宮の参加は他の大国が連盟に参加しない以上決定事項に等しかった。50万人以上の陸軍と海軍のほぼ全力を遠路派遣した国を粗略する事があれば、ヨーロッパ外交の中でも今後問題を生みかねないからだ。ただし竜宮はイギリスの影響が強すぎるとして、フランスなどはかなり苦言を呈した。これに対してイギリスは、既に決まっていた竜宮との領土交渉や租借などの問題の多くを解決することで対応した。
 しかしもう一つ問題があった。日本の存在だ。
 日本は竜宮ほど戦争参加に積極的ではなかったが、軍事力面では竜宮以上の大国となっていた。本国人口も多い。しかも現在進行形で大規模な海軍拡張を進めつつあり、野放しにすることは避けるべきだと考えられた。また日本自身も国際組織への参加には積極的であり、ヨーロッパ以外の大国の存在は国際問題解決には効果的だという判断もあった。竜宮では、少しばかり力不足と思われていたのだ。それでも竜宮が加えられたのは、戦争への貢献の半ばご褒美であり、そして覇権主義が強まっていた日本に対する牽制にするという意図もあった。ロシアが消えた今、アジアには日本以外に大国が存在しなくなったからだ。そして竜宮という国は、自らの立ち位置をわきまえていると見られていた。
 こうして国際連盟の最初の常任理事国には、イギリス、フランス、イタリア、日本、そして竜宮が選ばれることになった。そして有色人種国家が国が二カ国も常任理事国に含まれた事で、組織自体の国際性、平等性も表面的には宣伝できることになった。ついでに言えば、竜宮は北アメリカ大陸の国にもなるので都合がよかった。北米国家というのは半ば詭弁でしかないが、少なくとも地図を見せて民衆を納得させる材料としてはかなり効果的だった。何しろ地図で見れば、竜宮の本土が北太平洋上の小さな島々だとは認識しにくい。

 一方では、国際連盟設立に連動する形で数々の平和に関する会議が行われ、その中でも最も革新的だったのが「ワシントン海軍軍縮会議」だった。
 同会議は、世界初の世界規模での軍備縮小のための話し合いであり、世界大戦を招いた原因の一つである戦略兵器「戦艦」の制限交渉であった。
 参加国は、イギリス、アメリカ、日本、フランス、イタリア、そして末席に竜宮が着いた。
 会議当時の竜宮は、超弩級戦艦4隻、弩級戦艦2隻、弩級巡洋戦艦2隻、前弩級戦艦4隻を保有していた。うち2隻は、イギリスで建造され大戦後にようやく引き渡された改クイーン・エリザベス級戦艦で、これが会議時点での竜宮にとっての最新、最強の戦艦だった。それ以外には2隻の大型戦艦が国内で建造中だった。超弩級以上の規模としては、フランスに近いぐらいと言えるだろう。日本、アメリカの軍拡競争に追い立てられため、結果としてかなりの海軍国とならざるを得なかった結果であった。
 もっとも他の超弩級戦艦と言っても、イギリス製の13インチ砲を10門搭載し速度も標準レベルしかない凡庸な戦闘艦であり、アメリカや日本が同時期に続々と整備していた3万トン級の14インチ砲戦艦群に比べるとかなり見劣りのするものだった。そうした点も、フランスに近いと言えたかもしれない。起死回生のための新鋭艦が、改クイーン・エリザベス級戦艦だったのだ。そして国内での技術蓄積も進んでいたため、国産の新鋭戦艦の建造にも着手しつつあった。こうした視点で見ると、遅れてきた競争者と言えるかもしれない。
 もっとも竜宮は、日本やアメリカと違って世界大戦による影響で建艦競争には積極的に参加できなかった。また大きな戦争特需があったとしても、初めての大規模戦争での負担は想像以上に大きかった。このため会議直前の1921年に新型の高速戦艦4隻の計画が持ち上がっただけで、それもどちらかと言えば会議のための計画に近いものがあった。建造中の戦艦も大戦中に計画された戦時計画の生き残りで、しかも建造速度は戦後大きく低下したままだった。日本とアメリカが行っている未曾有の建艦競争に対しては、とてもつき合えないと極めて悲観的だった。もっとも、国力を遙かに越えた建艦競争を行う日本に対しては半ばあきれてもいた。

 そして軍縮会議での竜宮は、他国が削減するのなら求められた削減幅に応じる姿勢を積極的に示した。竜宮としては、日本とアメリカが大幅に削減しくれるのならこれに勝るものはなく、竜宮代表は交渉の成功に向けて積極的に話を進めた。
 会議では日本が多少ごねたが、これも日本全権の英断によって回避され、万雷の拍手の中で条約締結にこぎ着けることができた。
 会議の結果、戦艦は52万5000トン、空母13万5000トンを基準として、英、米が100%、日本が60%、他の三国が33%と定められた。また主砲口径は16インチ以下で大きさについては基準排水量で3万5000トンが上限とされた。
 竜宮は条約に従い、既存の超弩級戦艦4隻、弩級戦艦2隻を保有することを決め、枠内で決められた17万5000トンの枠内を埋めた。余った分約2万トン分と、やや旧式な弩級戦艦2隻の代換え建造を合わせて、1933年と1934年に2隻の新規建造が認められた。また空母枠の6万トンには、建造が進んでいた軽空母が条約対象外(排水量1万トン以下)とされていたので、条約により廃棄予定となった建造中の大型戦艦の船体を、これも条約に従って利用することにした。ヨーロッパでの戦いとシベリア出兵で、竜宮で航空機の有効性が認められた証でもあった。また新たな軍種として台頭している空軍に対する、竜宮海軍の挑戦状でもあった。

 なおこの会議では、竜宮の扱いは終始微妙だった。
 日本は、自分たちと民族的にもよく似たアジアの国と言うことと、これまでの友好関係から自分たちの側だと単純に思っていた。お互い、有色人種としての悲哀を分かち合える唯一の近代国家だったから当然の感情だろう。イギリスは、大国主義的視点から依然として自分たちの影響下だと考え、幾つかの事を主に水面下で竜宮に確認させていた。アメリカは、竜宮を日本から引き離すことに終始した。特にアメリカの絶対的といえる経済面でのエサをちらつかせ、竜宮を自分たちに向かせる行動を強めた。日本の地域覇権国家化と海軍の大幅な拡張が、竜宮に対するアメリカの態度を大きく改めさせたと言えるだろう。
 そして竜宮自身は、本国の国民の民意は日本に対する友好感情が強く、新竜では選択肢のなさから北太平洋のスウェーデンのような立場を望んでいた。この感覚は政府・軍部の良識派と、急進派の対立に近く、その後竜宮の外交は国内国外双方の微妙な感情の中で揺れ動く事を余儀なくされる。

 なお、ワシントンでの会議では、海軍軍縮会議以外にも幾つかの国際会議が開かれ、平和のための努力が世界中で熱心に行われた。
 結果、「五カ国条約」と「十カ国条約」が結ばれた。
 前者は太平洋での現状維持に関する条約で、後者は中華地域での様々な事を定めた条約だった。そして五カ国条約によって、日英同盟は解体され、竜英協商も解消された。
 ただし竜宮とイギリスの場合は、竜宮各地でイギリスの利権が残っているため完全な関係解消することができず、主にアメリカに不満を残させるものとなった。しかも竜宮は、イギリスとの関係は自国の最重要の安全保障だと考ていたし、イギリスとしては引き続き自らの最低限の世界での覇権を維持するためには、北太平洋での竜宮の存在はこの時点では欠かせなくなっていたので、アメリカの言いなりになる気は双方ともになかった。
 またアメリカは、より一層の親竜宮姿勢を強めることで、日本と竜宮の溝を深める外交姿勢を強めるようになった。アメリカの納税者に対しても、新大陸で共に暮らす文明人だというキーワードと、竜宮は新国家建設以後一度も覇権主義をとっていない点を強調する事で、友好関係強化のムード造りに励んだ。一方の竜宮も、アメリカ側の理由はどうあれアメリカとの関係が好転することには積極的で、竜宮にとっては願ってもない事だった。
 そしてアメリカは、この頃から明確に竜宮をアジアの国ではなく北アメリカ大陸の一角として見るようになっていた。そう解釈してしまえば、竜宮もモンロー主義の内側に含めて考えることもできるという利点がアメリカの内政面であったからだ。
 そして新竜王国の権利の多く自らの手に取り戻した事によって、竜宮にとってアメリカとの友好関係はますます重要になっていた。経済面、安全保障面で、アメリカとの友好関係は有る意味イギリスとの関係以上に重要となりつつあった。
 正直なところ、国力不相応に背伸びして覇権主義を強める日本との関係を強めるよりも、アメリカとの関係を強める方が外交上は重視されたほどだった。新竜王国は、今度はアメリカの人質になったとすら言える状況だったのだ。
 そして1925年には、竜宮とアメリカとの間に北アメリカ大陸限定という形で貿易協定も結ばれ、両者の関係は深まった。北太平洋航路には、それよりもずっと多くの船が就航するようになった。竜宮本土を経由した航路には多数の大型客船も就役し、主に竜宮人の「国内移動」を当て込んだ大型客船が多数就役した。これは1920年代中頃から「ホワイト・アロー」と呼ばれる大型客船による競争へと発展し、アメリカ、竜宮、そして日本も加わった国家の威信を懸けた大型客船建造競争が、平和の時代に花を添える事になる。この大型客船は当初から2万トンクラスで、すぐにも3万トンクラスの競争になり、最終的には第一次世界大戦前の北大西洋航路に匹敵する4万トン、5万トンクラスの高速豪華客船までが出現するに至る。
 そして客船競争に代表されるように、一方の日本も竜宮との関係強化を日本なりに進めた。両者の間での人の移動も増えた。だが竜宮からの資源輸入が主体という姿勢は変わらず、アメリカやイギリスに経済や重工業で太刀打ちできない(竜宮にすら厳しい)ので、軍事面での協力関係の構築に努めると共に、徐々に民族的感情に訴えた民族主義者や国粋主義者同士のつながりや軍部同士のつながりとなった。ここでは、江戸時代の日本人の隠れ移民すらが利用され、竜宮領に復帰した新竜領には、日本人の影響力を拡大させるという目的と、アメリカへの移民が禁止された事が重なり、多くの日本人移民が流れ込むことになる。
 こうしたアメリカ、日本、イギリスによる近隣諸国からのアプローチが、徐々に竜宮国内にも影響を与えるようになる。
 国家上層部での生存戦略はともかく、国民の中には白人国家群に対する不満や不安はかなりの割合を占めていたからだ。

●フェイズ36「近代13・大恐慌」