■フェイズ36「近代13・大恐慌」

 1929年10月24日(木曜日)のニューヨーク、ウォール街で「暗黒の木曜日(ブラック・サースデイ) 」が襲った。
 株式市場の大暴落の始まり、世界的な大恐慌の始まりだった。以後報道各社は、暗黒や悲劇などで飾り立てた砂上の上に建った経済という名の楼閣の崩壊を報道し続けた。
 もっとも暗黒の木曜日だけならば、ウォール街の大手株仲買人たちが協議、買い支えを行うことで合意し、このニュースで相場は値を戻して数日間は平静を保った。この時の買い支えには、アメリカに進出していた竜宮資本も参加した。
 しかし10月29日に「悲劇の火曜日 」が起きた。実際に激しい暴落を演じたのはこの日で、投資家たちは文字通り恐慌(パニック)に陥り、株の損失を埋めるため様々な地域・分野から資金を引き上げ始める。不況の闇が世界に広がり始めた瞬間であった。
 歴史上では、これを特に「世界大恐慌」または単に「大恐慌」の始まりとする。
 恐慌の影響が本格的に世界に浸透し始めたのは1930年で、世界中の資本主義国に広がっていった。影響を受けなかったのは社会主義政策下で計画経済を導入しているソビエト連邦だけだと言われたが、そのソ連ですら地下経済で世界経済とつながっていたため、相応の影響と打撃は受けていた。強引な生産力拡大政策と情報統制のため、ソ連の実状が世界に伝わらなかっただけだった。

 大恐慌の原因は、 ヨーロッパにおける過大投資と投機熱による生産過剰と、アメリカの高関税政策が貿易の流れを阻害して金(ゴールド)がアメリカに滞留し、ヨーロッパ諸国の貿易赤字の拡大を招いた事にあると言われている。しかし原因の大元は、アメリカ国内での極端な貧富の差と、持てる者の資金がどん欲にさらなる富を求めて無軌道に動き続けた結果だった。
 恐慌が本格的に世界に浸透し始めたのは先にも書いたように1930年で、世界中の資本主義国に広がっていった。
 世界大恐慌は止めどなく進み、アメリカ政府の甘い景気対策の失敗で、1931年にアメリカが景気回復に失敗した後の1932年後半から1933年春がピークとなった。
 1929〜1932年の間に世界貿易は70.8%も減り、世界中の失業者は3000〜5000万人に達し、世界の国民所得は40%以上も減少した。近代世界とのつながりを持たない未開の民族以外の全ての人々が貧乏になったとすら言われたほどだった。
 震源地にして世界最大の経済大国のアメリカでは、株価は一時80%以上も下落し、1929年〜1932年に工業生産は平均で3分の1以上低落し、1200万人もの失業者を生み出した。この数字は全労働者の4分の1に当たった(つまり失業率25%)。閉鎖された銀行は1万行に及び、1933年2月にはとうとう全銀行が業務を一時停止した。 最後の項目は、新たな大統領が立って新規巻き返しを計るために行ったものだが、そうしなければならないほどアメリカ経済が悪化したからだ。
 そしてアメリカからの潤沢な投資に頼っていたドイツでは、戦後の荒廃からようやく落ち着き始めた経済がまたも極端に悪化し、ドイツ国民は大きな失望と行き場のない怒りを感じてるようになった。自然怒りは、先の大戦で莫大な賠償金を課したイギリス、フランスなどの諸外国と、国内で裕福だと思われていた異端者(異教徒)のユダヤ人に向けられた。そして海外市場を持たないドイツのような産業国家は、自国経済を何とかするための危険な賭けに出ていくことになる。
 
 大恐慌に対して、竜宮も無縁ではいられなかった。
 1920年代、竜宮王国は先の世界大戦で国力、経済力を大幅に増大させ、イギリスから多くの利権を取り戻すことにも成功した。国威は大きく上向き、国民の間には欧米列強に並んだと言う言葉も多く聞かれるようになった。
 国際連盟の常任理事国になり海軍軍縮会議にも参加したのだから、そうした考えが出てくるのもある種自然の流れだろう。
 しかも長年の懸案だった周辺の三つの大国が大きく変わったことも、竜宮国民の増長を促した。
 帝政ロシアは崩壊して、1930年代に入るまでのロシア地域(ソ連)はほとんど弱小国に転落した。当然ながらユーラシア大陸北東部の瑠姫亜(ルキア)地方を有する竜宮に干渉する力はなくなり、むしろロシア人が竜宮を恐れるようにまで落ちぶれていた。その証拠に、旧ロシア極東地域には、極東共和国という干渉国家がソ連のお墨付きで存在し続けていた。
 長年竜宮が従属を強いられていたイギリスは、世界大戦で大きく国力を低下させたため、両者の関係は主従からほぼ対等に移行した。イギリスが、竜宮の手助けがなければ北太平洋でのアーシアンリングは維持できないという状況は、世界的な造船不況の世の中にあって竜宮の海運業と造船業を大きく発展させることにもなった。
 20世紀初頭の段階では最大の仮想敵だったアメリカとは、主に経済面で大きく関係が進展した。主にアメリカの側に強固な人種差別の壁があり相互移民は互いに強い規制を敷いていたが、むしろそのおかげで両国の友好関係も進んだ。直接的な利害をもたらす関係が少なくなったので、お互いに心理的障壁がかえって下がったためだ。開拓の国アメリカの一般国民のかなりが、自分の懐が痛まなければ鷹揚な場合が多かった。
 そして1920年代は、まさにアメリカの時代だった。アメリカの大量消費社会の恩恵に預かることで、国境を接する竜宮の経済も大きく向上した。特にアメリカと隣接している新竜地域の経済は、飛躍的な発展を遂げることになった。新竜領の方が生産価格が低いという状況は、アメリカへの製品輸出を飛躍的に向上させることにつながった。そして歴史的にも金融に一家言あると自ら考えていた竜宮商人、資産家、投資家たちは、アメリカで行われている空前のマネーゲームに便乗して、一時的に莫大な富を築き上げた。竜宮経済も金融面を中心にして大きく向上し、アメリカ国民も好景気に気をよくしていたので、有色人種にもそれなりに鷹揚だった。
 また竜宮国内では、財務長官や経済の中枢を預かる政財界の人々が比較的堅調な経済運営を行い、加えてアメリカ経済との連動性を強めていたため、日本やイタリアなどヨーロッパの一部の国のように大戦後の経済の大きな傾きはなかった。金本位制に伴う黄金のコントロールも無難にこなしていた。戦費の返済も順調に消化することができた。
 国内景気も経済も堅調なまま維持され、1928年度のGDPは1914年比較の3倍近くを示していた。豊富になった資金を、経済の先行きが怪しかった日本などにも積極的に投資していたほどだった。特に日本に対しては、1923年の関東大震災に対して莫大なリンカの低利借款を行う事で、日本経済の沈滞を緩和させたりもした。1927年の金融恐慌に対しても、善隣外交としての支援策が国家レベルで行われた。それだけのゆとりが、この時期の竜宮に存在した何よりの証拠だった。
 また国内では、ブルネイ島の開発により発見された有望な油田の存在により、石炭から石油への燃料転換も順調に進んだ。国内の自動車及び航空機の普及も、国家レベルでの産業育成計画によって積極的に進められることになる(※ただし石油が自給できたのは1930年代前半までだった)。

 しかし大恐慌の波及によって全てが変化した。
 突然発生した大恐慌で、竜宮経済も大混乱に見舞われた。当初竜宮では、各個人の素早い逃げ足と、アメリカなどよりも強力な政府指導や財政投融資が行われたため、国内での金融に対する損害はある程度防ぐことができた。しかしアメリカと経済関係を強めていたツケは大きくついた。
 アメリカでは不景気到来と共に、竜宮商品が売れなくなったのだ。別に竜宮商品だけでなく、アメリカ自身が作った商品も売れなくなったのだから当然の結果だった。何しろ当時のアメリカ国民の80%は、貯蓄もないのに借金(クレジット)で大量消費生活を謳歌していたのだ。これは開拓の国アメリカ独特の消費社会の一面を強く現していた。移民してきた開拓民とは得てして無一文で、借金で農機具などを購入してその後身を立てていくものだからだ。
 しかもアメリカは、既に一部の会社や富裕層が資産の過半を抱える資本主義的な超格差社会であり、一度経済がマイナス方向に傾くと中間層の財力が貧弱なため簡単に建て直しができなかった。しかも時のフーバー政権は不景気を軽視し続け、銀行への資金注入を疎かにして傷が悪化するのにすら気付いていなかった。これを後に、レッセ・フェール(自由放任主義)といった。
 そしてアメリカ経済がどうにもならなくなった段階で「フーバー・モラトリアム」が発表されると、経済恐慌は金融恐慌へと決定的に悪化し、世界に溢れていたドルとドルを背景としたアメリカ企業の姿は消えていった。アメリカ自身も凄まじい勢いで萎んでいった。

 当然竜宮にも、本当の不景気の余波が大きな波となって押し寄せた。多くの企業が、大量の在庫と過剰な設備投資による借金を抱えたまま連鎖的に倒産していった。金融業者の多くも、意気消沈した。破産した者も数多く現れた。大恐慌で竜宮が受けた恩恵は、竜宮資本を買いたたこうと狙っていたアメリカ企業が国内や新竜王国からいなくなった事ぐらいだった。
 それでも政府の積極的な政策により竜宮経済は何とか破談界の手前で踏みとどまっていた。だがそこに、1932年7月の「オタワ会議 」でイギリス連邦は域外輸入品に対して高い関税を掛けることを決定。これが連鎖的に諸外国に広がり、世界経済は自勢力圏内のみで運営するブロック化の方向へと大きく傾いていく。
 そしてイギリスもアメリカも、竜宮という自力で工業・産業の過半を持つ国を、自分たちのブロックに入れてはくれなかった。 
 そして竜宮は、自らの市場として使える有力な植民地が少なかった。
 北アメリカ大陸の新竜王国は、植民地ではなく既に準本国だった。農業が盛んだったが既に他の産業面でも十分に発展していたし、竜宮本国にとってイギリスの五大連邦全てを合わせたぐらいの価値があった。北辺のアラスカやルキアは面積はともかく荒れ地ばかりの世界的な人口過疎地なので、一部資源以外は話にもならなかった。琉球、ハワイといった小さな島には、期待することすら間違っていた。竜宮唯一の植民地といえるブルネイ島には、それなりの数の日系人の子孫が住んでいた。だが、ジャングルで生活する先住民を含めて全てを合わせても本国人口の二割程度では、市場としての価値は極めて限定的だった。ブルネイ島で産出される石油や生ゴム、砂糖、香辛料などの原料資源や食料品は、資源自給と外貨流出防止の面で大いに役に立ったが、この時点ではそれだけだった。
 そして竜宮では、持たざる国としての道が大きく開けてしまう。
 国民国家や民族主義を極端化させた全体主義(ファシズム)と、武力を用いて強引に市場を獲得しようと言う膨張主義への道が開けたのだ。
 しかし竜宮には、簡単に膨張できる場所はどこにもなかった。条件的には、いち早くファッショ(全体主義)となっていたイタリア以下の条件下に置かれていた。
 世界で最後に残されたと言われる中華市場は、既に日本が顎を外したヘビのような勢いで飲み込み始めていた。日本に対する地元中華と中華での各種利権、権益を持つ欧米の反発を見ている限り、日本より軍事力が弱小な自分たちが同じ事をしたらどうなるかは、火を見るよりも明らかだった。それに、日本にすら反発を買うことも十分以上に予測できた。中華地域では、他国の顔色をうかがいながら細々と商売を続けるのが精一杯だった。
 北に目を向けると、まだソ連がこの時点では竜宮よりも弱体だったが、東シベリアに踏み込んだところで収支決算が大赤字になり、ロシア人の怒りを買うだけで戦略的には何の意味もない場所だった。いつになるか分からないが、後で復讐されることも分かり切っている。新大陸では、イギリスやアメリカとは、国家安全保障上の観点からこれ以上関係を悪化させることもできなかった。それぞれの利害関係の間隙を縫って、少しでも商品を売るべく努力するのが精一杯の相手でしかなかった。
 竜宮本国から最も近い日本本土への経済進出は、日本の地元企業の存在と日本市場の小ささを考えると、効果は低い上に日本人にいらぬ反感買うだけと判断された。しかも日本経済の沈滞で、資源輸出などが大幅に落ち込んでいる状況だった。
 中南米への進出も、アメリカがいるので今以上の拡大は不可能だ。太平洋上の小さな島嶼群に何かを期待することは、それ自体が間違いだった。
 つまり海外に対しては八方ふさがりだった。
 そこで竜宮の財政と経済を預かる者達は、自国内での経済政策、つまるところ積極財政政策による内需拡大によって経済の回復を計ろうと画策した。
 幸い自力で地下資源の多くがまかなえたので、資源面で日本やイタリアほど不便を感じていなかった事、北米の新竜領には十分な開発余地が有ることから内需拡大政策は有効だと判断された。また本国での困窮者に対しては、新竜地域への移民優遇措置を取る政策も合わせて実施された。
 そして竜宮での一種の積極財政政策は、アメリカのニューディール政策以上に当初は上手く機能した。少なくとも、表面上での経済の回復、雇用の創出と失業率の低下には貢献した。しかし根本的な解決が行われない限り、不景気脱出が不可能なのは他国と同じだった。しかも本国の総人口が3000万人に満たない国では、出来ることも限られていた(※1930年の本国総人口は約2800万人)。
 アメリカのニューディール政策も、少し後に政策を緩めた途端に不景気に逆戻りしそうになっている。実際1938年には、「ルーズベルト恐慌」という状況に陥っている。そんなニューディール政策が成功したとされるのも、結局は軍需という巨大な浪費があったからだとも言われることも多い。
 そしてドイツ、日本、イタリアでは、軍事費への財政投入という形で事実上の積極財政政策が行われて景気が一部で持ち直し、徴兵の強化によって失業者は消えたかに見えた。だが、軍隊は経済上では何も生み出さない。しかも作り出した巨大な軍隊は、いずれ使わざるを得なくなってしまう可能性が極めて高かった。しかも国の赤字は積み重なるばかりだった。長期的に見て、何も良い事はなかった。
 竜宮はまだ軍拡には手をかけていなかったが、国民の声は軍事に投資することすら容認する状況へと急速に傾きつつあった。
 それは甘美な悪魔の囁きであった。


●フェイズ37「近代14・ファシズムの台頭」