●フェイズ40「近代17・第二次世界大戦勃発」

 1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドに侵攻した。これに対してイギリスとフランスが最後通牒を突きつけ、そのままドイツに宣戦布告。第二次世界大戦への扉を開くことになった。

 竜宮人がヨーロッパでの戦いに興味を持ったのは、ソ連がドイツ側に立ってポーランドに攻め込んでからだった。その後ソ連の侵略的行動は続き、バルト海に面した3つの小さな国々を武力で威圧して占領下に置くと、その前後からソ連に対する敵愾心が増していった。そしてソ連に対する敵意が大きく膨れあがったのが、1939年11月30日に始まった「冬戦争」からだった。
 冬戦争は、ソ連がフィンランドに何の理由もなく攻め込んで始まった横暴極まりない侵略戦争であり、ソ連は国際連盟が唯一除名した国となった。
 初期はフィンランド軍の戦前の予測を遙かに上回る善戦によりソ連軍が大損害を受けたが、翌年3月にソ連軍の圧倒的物量を投入した戦闘によってソ連の勝利で幕を閉じた。
 そしてフィンランドは過酷な講和条約を受け入れざるを得ず、フィンランドの姿は明日の竜宮の姿だと全ての竜宮人にも認識された。
 当然ながらフィンランドを支援しようと言う動きが竜宮人の間で起き、この動きは驚くべき事に軍事政権も自由政府も違いがなかった。竜宮人にとって、ロシア人とは数百年来の横暴な隣人であり、そして近代化して以後特に最優先の仮想敵だった。通常の竜宮軍の軍備も、ロシアと国境を接する極寒の地をいかにして防衛を主任務とし、太平洋に出さないかという事が国家戦略の重要な根幹だった。
 もちろん極寒のシベリアで大幅に増強されたソ連軍と安易に戦端を開くわけにもいかなったが、秋頃から竜宮人同士の反目を無視しての瑠姫亜地方への軍備増強が実施され、極寒の中で唯一自由に動ける軍事政権側の砕氷戦隊は現地のソ連軍を圧迫し続けた。
 直接ロシア人と対峙できない自由政府は、ソ連に向かう軍事政権の動きを基本的には邪魔をしなかった。両者の間に、暗黙の紳士協定が結ばれたほどだった。また、厳しい予算の中からフィンランドの借款引き受けや支援を行い、銃器メーカーの竜岩社などは無償で大量の銃器を急ぎフィンランドに送り届けたりもした。さらに自由政府軍は、他の国に便乗して連隊司令部を持つ一個大隊の義勇兵をわざわざヨーロッパの北の果てに送り込んだ。
 しかし戦争は春までに終わり、春になるとポーランド戦以後のヨーロッパ中心部での「ファニー・ウォー(いかさま戦争)」も同時に終わりを告げた。
 自由政府の送り込んだ小規模な部隊も、フィンランドに渡れないまま足止めを食っていたイギリスで、そのまま対英義勇軍としてイギリス本土に駐留する事になった。
 しかしこれ以後、イギリスには義勇兵すら派遣するようになる。1940年春からは、カナダ=大西洋ルートで小規模な部隊が少しずつイギリス本土へと入った。参戦までに派遣された義勇兵の中には、実戦経験を培うためという名目でイギリス本土に派遣された航空隊もあり、バトル・オブ・ブリテンで唯一の有色人種部隊として戦ったりもした。また兵士は送れないが、大量の銃器、弾薬を1940年春から余剰分の根こそぎ送るようになり、先に戦争体制構築を進めていた成果を活かすことができた。イギリス本土が最も危機的状況だった1940年9月頃には、英本土の歩兵銃の3丁に1丁は竜宮製の小銃などの銃器だった。
 しかし自由政権の参戦はまだ先のことだった。

 1940年4月ドイツ軍は再び動きだし、デンマーク、ノルウェーへと侵攻。さらに5月15日ついに西部戦線で行動を開始し、わずか6週間で先の大戦であれ程頑強に抗戦し勝利を掴んだフランスを降伏に追いやった。
 この時点で日本ではバスに乗り遅れるなとのかけ声のもとで一気にドイツへの接近が行われ、1940年9月27日に遂にドイツ、イタリアとの間に軍事同盟を結ぶに至った。
 そして北米大陸から物理的に切り離された竜宮の軍事政権も、ようやくドイツからある程度受け入れられるようになり、枢軸陣営との関係を強化した。特に日本と軍事政権の関係は強められ、1940年10月に「日竜軍事同盟」を結ぶに至っている。
 これで竜宮本国を中心とする軍事政権は、完全に枢軸陣営に加わった形になり、北アメリカ大陸とハワイ諸島を勢力圏とする自由政府との対立を鮮明にした。
 そして自由政府も対抗外交を取らざるを得ず、順次既にドイツとの戦争を行っているイギリスとの関係を強めていった。そして40年11月には、イギリス側に立ってドイツ、イタリアに対して宣戦布告を行うに至る。
 参戦と同時に、象徴的な意味合いを込めて、戦艦《瑠姫》がヨーロッパに派遣された。この戦艦は元々が《クイーン・エリザベス級》の改良発展型の《覇王級》戦艦で、主砲弾がイギリス海軍の15インチ砲と共用であり、その上速力に優れた高速戦艦だった。しかも機関の換装を含む大規模な近代改装が施されているため、当時は非常に高性能な高速戦艦だった。このため、ドイツ艦艇による通商破壊に苦労していたイギリスから大いに感謝された。実際、北大西洋に着くと、イギリス海軍の誇る高速戦艦の《フッド》や《レナウン級》巡洋戦艦と行動を共にした。
 他にもヨーロッパ戦線には、象徴的な意味合いの強い戦力が徐々に派遣されていった。順次航空隊がイギリス本土の空を飛ぶようになり、41年夏までには1個師団程度の陸軍機械化部隊と連隊規模の空軍部隊が北アフリカに派遣され、ドイツ軍やイタリア軍と本格的に戦うようになった。また地上軍の多くは、軍事政権や日本が北アメリカ大陸に攻め込んでくる可能性が極めて低いので、順次ヨーロッパ方面に派遣されるようになり、一年後の1942年夏には軍団規模にまで増えた。これらをイギリスでは「ドラゴン・コーア」と呼び、自分たちに有力な同盟国がいることを国民に伝え戦意昂揚に活用した。
 ただし自由政府がヨーロッパに派遣した戦力は、事実上の宣伝用の看板でしかなかった。派遣された兵士の役目も、ヨーロッパに存在する事そのものが主な役目であり、できれば多少の汗と血を流すことだった。全ては自由政府が、イギリス、アメリカからの好意と関心を受けるためだ。

 そして戦争が進むにつれて、アメリカからは自由政府で足りないありとあらゆる物資や兵器が、採算度外視の格安価格で湯水のように流れ込むようになった。これはアメリカがレンドリース法を通すずっと以前から、自由政府に対してのみ行われた事実上の軍事援助だった。アメリカ国民も、戦争には反対でも流浪の王様を助けることには異論なかった。これは単にナイトシンドロームだけではなく、北アメリカ大陸の問題でもあったからだ。
 だがアメリカのからくりは、実に巧妙だった。アメリカから様々なルートで自由政府に流れた膨大な資金が、兵器や物資の代金として多くが自国に還流されたからだ。しかもアメリカ自身は、兵器の生産、開発の経費を事実上自由政府に一部肩代わりさせているという形になっていた。何しろアメリカ軍が戦わなくても、自由政府軍が実戦データをせっせと集めている形になっていたからだ。その上で、来るべき戦争のための大量生産に向かう道筋を、自由政府に大量の武器弾薬を送り込むことで準備した。
 無論自由政府のキャパシティーには限度があったので日本と全面戦争を行っている中華民国も利用されたが、自由政府はアメリカにとって実に利用価値のある相手だった。アメリカのナイト・シンドロームや気持ち悪いほどの政財界の動きにも、そうした裏があったのだ。
 ルーズベルトや少し後のチャーチルが、幼い竜宮王に表裏のない満面の笑みを浮かべたのも無理の無いことだろう。しかもルーズベルトにとっては、軍事政権が出来た少し前に「ルーズベルト恐慌」とすら言われた不況で支持率が落ちていたため、政権及び自らの支持率回復と国内経済へのカンフル剤として、自由政府の存在は極めて効果的だった。日本への対向という理由で軍艦をせっせと作ったのも、アメリカにとっては実のところ景気対策でしかなかった。しかしそれだけでは不足しており、アメリカにとって竜宮の分裂と自由政府の存在は渡りに船だった。
 1940年秋の大統領選挙も、自由政府がなければルーズベルトの勝利は無かったとすら言われる。
 しかし自由政府はアメリカ、イギリスを頼らざるをえず、相手の意図が分かっていても援助を請い連携する以外の道がなかった。それに自由政府には、こうして自分たちが連合軍として動いた上で軍事政権を睨んでいる限り、本国の軍事政権が無茶を行わないだろうという読みがあった。

 また一方で、自由政府側に与した本国艦隊は、常に半数近くがハワイ諸島のオワフ島真珠湾の軍事基地に在泊し続け、本国への睨みを効かせた。艦隊単独ならこうした行動も難しかったのだが、新竜領にも若干の建造施設と十分な補給、補修機能があるので、艦隊の維持も可能だった。また本国艦隊以外にも竜宮各地から自由政府に参加した海軍艦艇も数多く、平時海軍の実に六割以上が自由政府側に与していた。革命当時自由政府領内にいた、もしくは海外に出ていた竜宮商船隊も、総量の半分以上が自由政府に属した。さらにアメリカは、自らの旧式艦や自国製の船舶を自由政府に多数供与したりもした。総合的な国力だと7対3の差があったが、一転海では自由政府の方が有利な立場にあった。
 この結果軍事政権には、《栄光級》戦艦2隻、解体待ち状態の旧式弩級戦艦1隻、《天熊級》軽空母2隻、各種重巡洋艦3隻などしか残らず、とてもではないが武力を用いてハワイには押し掛けられなかった。新鋭戦艦《剛健級》の二番艦《剛毅》が艤装工事を急いでいたが、就役は1941年にずれ込みそうだった。1938年度計画の艦艇の多くも、早くても1942年にならなければ戦列に加われそうにはなかった。
 これらの要素がハワイを自由政府が保持し続けた理由であり、何時しかハワイ諸島の真珠湾は、自由を守る最前線の砦として宣伝されるようになった。
 実際ハワイを抜かない限り北アメリカ大陸に攻め込むことは叶わず、逆に西太平洋に押し出すためは非常に都合の良い位置にあった。しかも自由政府は、あえてイギリス側、連合軍側に立って参戦を行い、竜宮軍事政権やさらには日本の暴発を防ごうとした。自由政府の参戦には当初イギリス、アメリカからの反対も強かったが、結果として軍事政権や日本双方の北太平洋上での動きは停滞した。
 もっとも、アメリカの軍拡進展や大戦の拡大、支那戦線の泥沼化に伴い、軍事政権と日本の受ける圧迫は日増しに強まった。
 しかし軍事政権も手をこまねいていた訳ではない。むしろ本国を全て自由に出来る事を最大限に利用した。

 軍事政権は、まずは反ソ連を第一目標として、軍事中心の挙国一致体制を強引に作り上げていった。この過程で軍の憲兵に多大な権限が与えられ、自由政府派、反対派、サボータジュなどを摘発し、次々に刑務所に送り込んだ。刑務所の数はすぐにも足りなくなり、国内に無数の刑務所、監獄が臨時に作られていった。事実上の強制収容所も登場した。憲兵も急速に秘密警察化していった。黒衣の憲兵隊は、すぐにも軍事政権支配の象徴となった。
 そして反対派を押さえつけると同時に、軍需生産の計数的拡大、徴兵の強化、軍備の増強を熱心に行った。特に海軍への投資を熱心に行い、失われてしまった戦力の補充と拡大を急いだ。そして日本以上でイギリス以下のそれなりに生産性の高い竜宮の造船業界は、全力を挙げて大量の軍艦と戦時型商船を作り始めた。
 1940年に策定された5カ年計画では、大型戦艦4隻、大型空母3隻、各種巡洋艦20隻以上、駆逐艦、海防艦艇200隻以上、潜水艦100隻以上という巨大さとなっていた。商船の方も、建造施設、製鉄所への莫大な投資と事実上の戦時標準船計画の進展により、1942年以後に戦時生産に移行した場合は年産100万トンが目指された。予算のほとんどは莫大な借金(国債)により賄われ、当時の竜宮の国力では平時に行いうる限度を超えていた。海軍ばかりでなく陸軍、空軍も大幅に増強され、国民全ての総動員計画も進められた。軍全体の増強の規模は、日中戦争(支那事変)を行っている日本に匹敵するほどだった。そしてこの莫大な借金による軍需への傾倒で、国内では軍需景気に湧くことになった。
 数年で萎む事が分かっている自国だけによるいびつな特需であっても、特需は特需だった。
 本国の竜宮人も取りあえずは目の前の好景気と特需を喜び、これでソ連に攻められても大丈夫だろうと言い合った。軍事政権下の人々も、とにかく食べていかなければならなかった。
 この頃軍事政権下の竜宮では、北米に亡命した王族と彼らが作った自由政府、北米の同胞の事について語られることはなかった。一言でも肯定的な事を言えば、すぐさま憲兵がやって来て連行されてしまうからだ。否定的な言葉も、不用意には言えない雰囲気があった。
 そして竜宮本国の民衆が軍事政権の息苦しさを表に出すようになる前に、事態はどんどん悪化する。
 原因は二つの竜宮ではない。
 東亜枢軸の盟主を自認する日本だった。

 1937年7月の事件を契機として、日本は中華民国との間に安易な全面戦争を開始した。
 日本の軍部は、当初は簡単に中華民国が屈服するだろうと、まともに調べもせずに勝手に予想していた。予測ではなく予想、つまり安易な思惑を根拠に戦闘を始めたのだ。
 しかし局地戦で終わる目算の戦闘は民族戦争、全面戦争へと発展し、戦争は呆気ないほど簡単に泥沼化していった。しかも戦争に対して明確な展望のない日本の政治は混迷を続け、日本自身の政治能力、外交能力の低さが戦争の泥沼化を助長した。しかもそればかりではなく、中華民国との戦争のためにアメリカ、イギリスなど多くの国との関係を極度に悪化させていった。
 日本は場当たり的な戦線拡大を行い、中華民国軍を圧倒する装備と練度、士気によって各所で殲滅していった。そしてついには中華民国の臨時首都重慶への大規模無差別爆撃に踏み切った。1940年と1941年にそれぞれ行われた(※天候で秋から春の冬季は爆撃不能)無差別爆撃により重慶の街の殆どが灰燼に帰し、爆撃による軍人以外の死者の数は客観的な調査でも数万の単位に上っていた。それでも国民党は生き延び、蒋介石は徹底抗戦を訴えた。
 そうした日本が浪費する戦費のお陰でもあり、全体主義政権だった竜宮と日本の関係はより親密となった。だがそれも、軍事政権と自由政府ができてからは効果も今ひとつだった。竜宮は二つに分裂したことで同盟の価値を無くしたと、平然と言い放つ日本の軍人までが現れたほどだった。特にこの言動は、陸軍の一部攻撃的な発言を繰り返す将校に多かった。彼らの思惑からすれば、竜宮そのものをアメリカの喉元に突きつけた匕首として利用し、アメリカが身動きできない間隙を突き、日本が東アジアの覇権を握るという事になる。
 それでも日本海軍の仮想敵第一位であるアメリカの前に立ちふさがる形の竜宮軍事政権は、日本にとって単に戦略的に重要な位置に存在するばかりでなく、地下鉱産資源、工業力、海運力など様々な面で日本にとっては得難い存在だった。日本海軍の事前戦略としては、竜宮本国が日本側にある限りアメリカは戦端を開かないと言う予測が大勢を占めていた。
 既に事実上の戦時動員を始めた竜宮本土を本気で攻略したければ、他の国も総力戦体制を構築し陸軍50万、航空機1000機以上を動員しなければならないからだ。そんな理に合わない戦争をアメリカが始めるわけがないというのが、日本側の考えだった。
 そして実質的に、日本と竜宮軍事政権の双方にとって、お互いだけが近隣での味方だったので、両者の協力関係は短期間で進んでいった。ほとんどそれしか道が残されていなかったからだ。

 しかし両国にとって、足りない地下資源があった。
 短期間で近代文明の血液となった石油だ。
 日本の油田は、日本列島の新潟地方を中心に年産約30万トン、北樺太油田では最大年産約200万トンの採掘が可能だった。ただしこの数字は採算を度外視した数字で、平時は経済性を考慮して7割程度の採掘しか行われていなかった。それでも日本では、国内油田の開発によって製油、建設のための製油、各種機械工業が発展し、一時期はモータリゼーションも進んだ。また主要油田が比較的離れた場所のため、円滑に石油を日本中心部に運ぶべく自前のタンカーがかなりの数と量建造された。輸入用タンカーの建造を渋る日本の商船会社も、北樺太航路用のタンカーはこぞって建造した。
 竜宮では、古くからブルネイ島各地に油田が見つかり、採掘量を合計すれば年産約250万トンあった。他には本土で豊富に産出される石炭を用いた化学精製による人造ガソリン製造技術が竜宮では一部実用化されており(※1939年には別の製法をドイツから特許を取った)、採算を考えない戦時に限り100万キロリットルの生産可能見積もりが出されていた。
 またアラスカの北部に油田の可能性が指摘されていたが、この当時の技術では商業採掘できる場所ではなかった。日本でも満州国北部に油田の存在が示唆されていたが、地表近くの状況から推察する限り油質が非常に悪いため、当時はとても採算がとれるとは考えられていなかった。
 そして日竜全てを合計しても、石油の量は平時の年間消費量に足りていなかった。日本では約450万トン、竜宮軍事政権内では約350万トンが1年当たりの最低必要量であり、全面戦争ともなればその数倍が必要と考えられていた。太平洋では船を使わざるを得ず、船は石油(重油)をむさぼり食う乗り物だからだ。しかも二つの国は、船で文物を運ばねば何も出来なかった。その他の近代兵器についても同様だった。ガソリンは航空機、自動車両に無くてはならなかった。石油なくして、近代戦争は成立しなかった。
 そして足りない石油の多くは、アメリカ、オランダ(東インド)に依存しており、両国にとってのアキレス腱だった。特に製油能力の問題などから、高純度石油精製物(高オクタン価ガソリン)をアメリカに依存していることは軍事上の大きな問題だった。
 無論備蓄も平時から熱心に進められていたが、産油量を合わせても平時で一年半からせいぜい二年程度の常態維持が限界だった。しかも竜宮軍事政権は、既にイギリス、アメリカなど殆どの国から輸出規制を受けて石油不足が強まっていた。
 一方の日本は、早くは日露戦争からアメリカとの関係を悪化させ続けており、1930年代終盤の頃には既に決定的に悪化していた。
これは1939年7月にアメリカが、日本に対して六ヶ月の猶予の後に日米通商条約廃棄を通告、実行された事で、もはや決定的だった。
 それでもアメリカは、しばらく石油や屑鉄の対日輸出は続けた。
 それも徐々に限界が訪れる。
 1940年9月に日本軍が北部仏印(インドシナ)に進駐を開始し、日独伊三国同盟を締結した。同年10月には竜宮の軍事政権とも同盟関係を結んだ。それでも日米交渉が開始され、まだ最後の妥協点は探り続けられた。
 しかし世界は戦争の坂道を転がり落ちていた。
 1941年春にはドイツがバルカン半島を簡単に制覇し、北アフリカでも枢軸軍が攻勢を続けていた。
 そして同年6月22日、ドイツを中心とした枢軸軍は突如ソ連に全面侵攻を開始した。ドイツは予防戦争だと言った事もあったが、先に攻め込んだ方が侵略者だった。
 一方の日本は、先の見えない中華戦線に業を煮やし、中華民国を支援する国々からの物資を運ぶ経路、いわゆる「蒋援ルート」の遮断を目的に南部仏印(インドシナ)へ進駐。これに前後してアメリカは、在米日本資産を凍結することを声明。翌月にはガソリンの対日輸出も禁止された。
 そして10月、これまで何度も内閣を率いてきた近衛文麿が八方ふさがりになると内閣を投げ出し、日本の総理大臣は軍人の東条英機に委ねられた。これを諸外国は日本の戦争準備と受け取り、また日本自身も交渉を続けつつも戦争に向けての準備を行ったため、交渉上で諸外国からの信用を得ることは出来なかった。
 11月末には日本の妥協案に対して、アメリカは俗に言う「ハル・ノート」を回答し、これを最後通牒と受け取った日本はアメリカとの戦争という正気を疑う選択を行うに至る。
 この中に、二つに裂かれた竜宮の介在する余地は少なかった。
 お互いがまず竜宮内の事を考えねばならず、どうしても外交は二の次となった。しかも自由政府は、基本的にヨーロッパの戦争が解決するまで太平洋では防衛に徹するという方向性だったから尚更だった。しかも既にイギリスとは共に戦っている間柄であり、日本がイギリスと戦争すれば、それは自動的に日本と自由政府との間の戦争状態を意味していた。
 対する軍事政権は、取りあえず伝統的な反ロシア、反ソ連感情で国民を煽って、さらに反逆者(自由政府)の後ろにいるイギリス、アメリカへの敵意を煽ることで、自らの体制を維持している状況だった。
 しかし竜宮本国の多くは、ソ連に対する防衛戦争には賛成でも、他の国、自由政府に対しても戦争という手段を用いることには否定的であり、ソ連に軍を用いる場合であっても単独の場合は威嚇以上は望んでいなかった。その程度の事は、竜宮本国の国民も分かっていた。竜宮は所詮小国であり、列強の末席に辛うじて腰をかけているに過ぎないのだと。
 だが盟友である大日本帝国は、ドイツがソ連に攻め込んだ千載一遇のチャンスをフイにしてまでイギリス、アメリカとの対決姿勢ばかりを強めるような行動を続け、あまつさえソ連に対しては中立条約を結ぶという竜宮人から見て訳の分からない行動にも出ていた。
 独ソ開戦頃の軍事政権では、日本と連動して対ソ開戦とソ連極東及びシベリア方面への侵攻を計画していたので、尚更日本への不信感は高まった。
 このため竜宮本国では民衆が日本に対して急速に懐疑的となり、軍事政権自体も後に戻れないながらも日本中枢の行動を全く理解できないでいた。このため日本、軍事政権の連携は一時的に疎かとなり、日本は半ば一人で考えて戦争への道を選択するに至る。
 そして暴走を続ける総力戦という魔物は、竜宮人にも戦争を強要していた。直接会談でのまったく冷静な態度の東条英機からの参戦要請は、東条英機と会った播将軍にとってはもはや避けられない地獄行への誘いでしかなかった。


●フェイズ41「近代18・太平洋戦争1」