●フェイズ41「近代18・太平洋戦争1」

 1941年12月7日、太平洋戦争が始まった。
 ただし日本や竜宮が本格的に関わった戦争なので、8日開戦と言われることもある。詳細は、竜宮本国時間8日午前5時、日本時間8日午前3時、ワシントン時間7日午後3時、グリニッジ標準時間7日午後18時、竜宮自由政府時間7日午前10時となる。時差にして最大19時間にもなる。
 日本及び竜宮軍事政権による宣戦布告はアメリカ、イギリスに対して行われ、ソビエト連邦には行われなかった(オランダには後に行う)。また自由政府は両国とも国家として認めていなかったので、宣戦布告は行われないまま攻撃が開始された。
 しかし軍事政権はアメリカ、イギリスから国家として認められず大使館もないため(※連合国及びその影響国の竜宮大使館は全て自由政府側のものとなった)、仮に戦争をするにしても第三国を通じた文書渡しとラジオ放送以外での宣戦布告しかできなかった。連合軍の中での扱いも、あくまで竜宮王国内での内乱でしかなかった。
 そうした国家としての不安定さ、ソ連との間に何ら条約を結んでいない事からくる連合国との間に戦端を開くことへの不安、そして自由政府が正統な国として認められた上に、すでに連合国に参加している事、そして余りにも無茶な戦争を行う日本に対する不安感、これらの要因が戦争を始めることを躊躇させていた。だが、日本と軍事同盟を結んでいる以上、竜宮本土の軍事政権はアメリカとの戦争へと踏み出さざるを得なかった。でなければ、後先考えなくなった日本に、真っ先に竜宮本土が侵略される恐れがあったからだ。
 アメリカやイギリス、ソ連を牽制する筈の同盟の筈が、逆に戦争を呼び込んでしまったのだ。この構図は、皮肉にも日本がドイツを頼ったのと少し似ている。

 日竜軍の最初の攻撃目標は、マレー半島、フィリピン、インドネシア各地、そしてハワイ諸島だった。
 ハワイ諸島の攻撃では、竜宮本土の南端部から飛び立った大規模な長距離用の地上機部隊が主軸となり、ハワイ諸島オワフ島真珠湾に在泊していた自由政府艦隊を攻撃した。
 自由政府軍は、2500キロメートルも離れた場所からの直接遠距離攻撃は想定していなかったが、主に日本が有する空母部隊からの攻撃は十分以上に警戒していたので、迎撃体制も事前に整えられていた。また油断もしていなかったので、竜宮本国や日本各地に潜水艦を潜ませ、日本海軍の動向を探っていた。しかし海からの強襲を警戒していただけに、空から直接という攻撃は想定外と受け止められた。
 それでもハワイでの迎撃については、イギリスから導入したレーダーと通信機を用いた防空システムと、アメリカから輸入または貸与された大量の戦闘機を用いて構築されていたので、極端な混乱には襲われなかった。
 そして迎撃戦以外考えていない部隊編成と運用を前提としていたため、むしろ艦載機相手よりも効率的な迎撃戦を展開する事ができ、軍事政権の攻撃部隊に多大な損害を与えた。
 竜宮軍事政権が秘密裏に開発、実用化して間もない重爆撃機は、航続距離を念頭に置いた大型の4つのレシプロエンジンを持つ機体だった。だが、航続距離と攻撃力を稼ぐために防御力が犠牲になっており、また機体構造が複雑なため量産には不向きで、この時の損害は後々まで響くことになる。しかもハワイの防備は、軍事政権側の予測を遙かに越えた密度と戦力、そして合理性を備えていた。ハワイには多くの諜報員も潜んでいたが、開戦直前に多くが拘束されて情報が寸断され、そこに北米から大量の増援が送り込まれていたことが後日判明した。またそれ以前に、偽装して持ち込まれた機材や人材も多く、それらの多くを軍事政権側は把握できていなかったのだった。そして一番の致命傷は、自由政府側が有機的な防空迎撃網を構築していることに気づけなかった事だった。
 しかし自由政府のハワイ艦隊も無傷とはいかなかった。軍事政権牽制のため配備されていた艦隊の半数近くが何らかの損害を受け、ハワイを離れて修理しなければならなくなった。特に半数近い戦艦や空母が、現地の簡易設備で修理できない損害を受けた事は、衝撃として受け止められた。幸い重爆撃機が相手で雷撃がなかったため、イタリア軍のタラント湾でのように沈められることはなかったが、大きな打撃であることに間違いなかった。
 また軍事政権が戦争に間に合わせるため大量に建造した潜水艦群が、東太平洋各地に放たれ無制限通商破壊を開始し、大西洋のドイツ軍のように短期間で多大な戦果を挙げた。
 しかも日本、軍事政権共同による東太平洋での潜水艦作戦は、アメリカ軍に対しても全面的に行われた。急な開戦で慌てる米艦隊、艦艇に対して、いくつもの奇襲攻撃が成功を納めた。この結果大型空母「サラトガ」撃沈(※被雷後の気化ガス引火による沈没)、戦艦2隻損傷を始めとする多大な損害を与えることに成功した。ほぼ何の対策も取っていなかったアメリカ商船隊の損害も甚大だった。開戦から半年ほどは、既に大西洋で実戦経験も積んでいた自由政府海軍が、アメリカ艦船を護衛する光景が何度も見られたほどだった。
 この開戦時での大きな問題は、日本政府の宣戦布告がアメリカの日本大使館の不手際で予定より30分遅れ、逆に攻撃開始が1時間半早まった事だった(※マレー半島方面での戦闘開始)。
 このため日本軍、軍事政権による攻撃は、主にアメリカによって「卑怯な騙し討ち」と宣伝され、カリフォルニア近海で多数商船の攻撃を受けたことがアメリカ国民にも大きなショックを与えた。「サラトガ」が黒煙を上げながら沈んでいく写真は、開戦からしばらくはアメリカの新聞各紙のトップを飾り続けた。またアメリカ国民が酷く戦意を高揚させたのが、カリフォルニアのサンフランシスコ沖合で大型客船が沈められた事件だった。この客船は、コンステレーション号という名を与えられた3万トン級の北太平洋航路用の大型客船で、開戦間際の沈没だったためほとんど警戒しておらず、しかも短時間で沈没したため約1000名以上の犠牲者を出すアメリカ史上屈指の大惨事となった。沈めたのは、日本、竜宮軍事政権のどちらかは未だ判明していないが、軍艦の撃沈よりも大きな衝撃をアメリカ国民に叩きつけることになった。
 しかも潜水艦による損害は、少し遅れて大西洋でも爆発的に発生した。数日遅れでアメリカに宣戦布告したドイツ潜水艦隊の仕業だった。
 枢軸軍が連携したアメリカ本土近海での火事場泥棒的な通商破壊は「サブマリン・クライシス」と言われ、軍属になる前の数千人の船員、つまり普通のアメリカ市民が犠牲となって、沈みゆく船、助けられた悲惨な状態の船員が、アメリカ人の戦意をかえって高めていった。
 またいまだナイト・シンドロームが続いていたアメリカ市民は、遂に悪の軍事政権がさらなる悪魔(軍国日本とナチスドイツ)を引き連れて新大陸に戦争を吹っかけてきたとして戦意を昂揚させたりもした。
 しかし戦争当初は枢軸側が圧倒的に優勢であり、各地で敗退を続けるアメリカ軍は、損傷した艦艇を修理し、合流した艦隊の再編成や再訓練に追いやられる事になる。

 そして突然の戦争に混乱したのは、自由政府も同じだった。自分たちやイギリスばかりか、アメリカに直接戦争を吹っかけるとは全く予測していなかったからだ。
 しかも、開戦早々に頼みの綱であるハワイ艦隊に大きな損害が出た事は、予想外の出来事だった。
 ではここで、当時の竜宮の状況を少し整理しておこう。
 軍事政権側は、竜宮本土の人口が約2900万人あった。他に瑠姫亜、琉球、ブルネイを合わせると約500万人が加わる。工業力・工業技術全般や産業構造は日本よりも進んでおり、国民の一人当たり所得もイタリアに並んでいた。このためGNPは、本国人口が約7300万人の日本の半分以上(7割近い)あり、鉄鉱石、ボーキサイト、石炭など地下資源も十分輸出できるほど豊富だった。ただし人口拡大に伴い食糧自給率がかなり低下しており、約80%程度に落ちていた。これはクーデターまで、食料供給を新竜領に頼っていたため事態は深刻だった。
 軍事政権成立後は、日本の主に満州から食料を輸入するようになっており、竜宮本国から鉱産資源や各種工業製品、加工製品を輸出して、満州で食料を積み込むというのが当時の竜宮本土の生命線となっていた。
 そして物流をささえる海運力は、分裂前は外航用の船舶量が約550万トンあったが、軍事政権側に残ったのは半分強の300万トン程度だった。それでも、河川が少なく内海のない竜宮では、主に太平洋航路を航行する大型船が多くを占めていた。砕氷船は、世界一の陣容を誇ってすらいた。大型船の数は日本よりも多く、日本が孤立して後は竜宮本国の海運力が日本の海運力を一部肩代わりしていた。加えて竜宮の余剰工業力が、中華民国との戦争でいっぱいいっぱいの日本の工業生産を一部肩代わりしていた。特に日本より優れた工作機械製造技術は、この頃の日本では重宝された。

 軍事力は、1937年頃からの公共投資としての軍拡と、1940年からの極端な軍拡によって大きく膨れあがりつつあった。しかし製造(建造)に手間のかかる大型軍艦は、極端な不足に悩んでいた。しかも当座の戦争に間に合わない事が確実となると1940年度計画は大幅に改訂され、1942年初の臨時計画からは中小の護衛艦艇、潜水艦の大量建造に完全にシフトしていた。防衛に関しては空軍の増強と航空機の大量生産で補い、遠距離攻撃力は潜水艦一辺倒としてドイツから輸入した図面を使った潜水艦(IX型)の改良型が大量建造されるようになっていた。潜水艦建造技術の一部はドイツから輸入されたが、ほぼ自力での建造が可能なだけの技術力を有していた。「艦隊決戦」とも呼ばれる大規模水上戦を想定から外している点が、日本との大きな違いと言えるだろうし、そうできるだけの技術力を持っていた証拠とも言えるだろう。
 また工業生産力維持のため、国民の動員と陸軍の拡大は最低限に抑さえられた。その気になれば300万人以上の動員が可能だったが、最盛時でも200万人を越えることはなかった。しかも陸軍と空軍の約三分の一は常にルキア地方に置かれ、極寒の地でソ連赤軍との睨み合い続けた。

 自由政府は、旧新竜領(新竜王国)とハワイ諸島、アラスカを実効支配していた。域内の総人口は、1940年度の統計で約1400万人。うち新竜領が約1300万とほとんどを占める。新竜領では竜宮への復帰以後人口拡大に拍車がかかり、1920年代から多数の日本人移民を受け入れでさらに数を増やしている。中華系の移民も一定数増えていた。
 主な産業は、農業、酪農、牧畜、放牧、林業、漁業など様々な分野での一次産業だった。各種麦やパパタ(=ポテト)などを育て、牛、豚、羊、山羊などの家畜、さらにはバッファローが様々な方法で飼育されていた。他には鉱産資源の採掘も盛んで、中でも銅はかなり豊富だった。他にも金、銀、亜鉛、鉛なども各地で見つかり、カナダとの国境線近くの険しい山岳地帯では石炭も採掘されている。石油、鉄鉱石など不足する資源も多かったが、足りないものは全てアメリカかカナダから鉄道で輸入した。
 機械産業も、臨時王都の冬霞を中心にかなりの規模存在していた。食料、繊維を中心に造船、機械、鉄鋼など、規模は限られていたが一通り揃っていた。特に1920年代以後の機械産業は、活発な設備投資によって発展している。竜宮本土とは違う土地柄を反映して、かなりの規模の民間用飛行機工場や自動車の一貫生産工場があった。なお、竜宮を代表する銃器メーカーの竜岩社の本拠も冬霞市北方の港町市にあり、アメリカやイギリスにも輸出していた。分裂以後は他の機械メーカー、軍需生産同様に急拡大を続けて、1941年頃からはほぼ自力で戦車や航空機も開発製造するようになっていた。新興企業だった北洋重工は、新竜最大の重工業メーカーとして、この大戦を契機として大躍進している。
 国土全体の社会インフラも十分に発展し、アメリカ、カナダと密接につながっていた。国力的には、カナダ単体やオーストラリアとニュージーランドを足したぐらいに大きかった。単純な人口で言えば、カナダの5割り増し、オーストラリアの約二倍となる。また国家分裂後は、自由政府の肝いりとアメリカの支援で重工業の拡大が急ぎ行われて、一貫生産できる大規模製鉄所、電力供給用の巨大ダムの建設すら行われていた。五大湖方面から続々とやってくるアメリカの長大な列車は、この頃の新竜領の活況を示す象徴だった。
 本国と関係が断絶して以後は、イギリス、アメリカを主な取引相手として輸出入を維持したため経済が大きく混乱することはなかった。むしろアメリカから大量の資本投下があり、イギリスに対する戦争特需も発生したため経済は活況を示し、域内GDPは大幅に増加した。新竜領での終戦時のGDPの増加は、国家分裂前の二倍近い数字を示している。大戦中にアメリカ以外でGDPを躍進させたのは、この新竜領だけだった。

 軍事力は、分裂時に本国艦隊主力が与したため海軍力が比較的豊富で、その後もアメリカからの格安の供与などを受けて大幅に増強している。しかし領域内での軍艦の建造は駆逐艦、潜水艦程度の大きさが実質的な限界のため、発注の多くはアメリカに対して行われた。また許容量を超える既存艦艇の修理や整備の一部もアメリカに委託されていた。
 軍備全体は、太平洋戦争開戦の一年前に既に連合軍として参戦していたため、軍の動員は確実に進んでいた。しかもヨーロッパへの大規模派兵も視野に入れていたため、陸軍の整備も行われていた。最終的に動員された兵力は150万人を越えている。
 1941年3月のアメリカのレンドリース法可決以後は、アメリカから多くの貸与を受けるようになり、不足していた装備、物資のほとんども解決していた。なお、戦争中に自由政府がアメリカから受け取った貸与額は、総額で40億ドルに達する。自由政府も5億ドル分の鉱産資源などをアメリカ側に支払っているが、アメリカの支援抜きに自由政府の戦争を語ることはできない。大戦中盤以後の対潜艦艇、潜水艦、護衛空母、そして戦標船(貨物船などの民間船)は80%以上がアメリカ製だった。自動車両も、トラック、ジープはアメリカ製で戦ったに等しかった。戦車も半数以上がアメリカから貸与された戦車で、残りの過半もアメリカ製のライセンス生産品とその改良型だった。自由政府で数少ないオリジナル戦車は「43式」重戦車で、長砲身3インチ砲を搭載した50トン近い大型戦車を1943年から欧州の戦場に持ち込んでいる。これは元々対ロシア決戦戦車として製造の進んでいたもので、元は技術力の限界もあってエンジン、足回りが弱かったのをアメリカ製の物に換え、さらにジャイロスタビライザーなど贅沢な装備を施したものだった。
 もっとも開戦頃の自由政府は、竜宮軍事政権や日本との実際の戦争はほとんど考えておらず、太平洋方面の軍備は防衛戦闘以外まったく考えられていない状態だった。

 太平洋戦争は、開戦初期はイニシアチブを完全に握った日本軍、軍事政権軍の快進撃が続いた。
 潜水艦作戦以外での太平洋の抑えには、多数の戦艦を含む日本海軍第一艦隊が竜宮本国入りし、ハワイへ定期的に爆撃を行う以上の事は行われず、努力はもっぱら東南アジアの占領に注がれた。外交の失敗により不足する資源獲得こそが、日本、軍事政権の主な戦争目的だった。とにかく、石油資源地帯を押さえないと話しにもならなかったからだ。
 この戦場では日本陸海軍の航空隊が縦横に活躍し、快進撃の立て役者となった。特に異常なほどの航続距離を持つ日本海軍航空隊による展開能力がなければ、急速な戦線拡大は非常に難しかっただろう。航空機で作戦行動中の戦艦を沈めるというエポックメイキングな事件を最初に達成したのも、日本海軍航空隊だった。
 軍事政権軍は、ブルネイに集結した部隊がオランダ領インドネシア各地を開戦当初から攻撃して、数百年前の大航海時代の恨みを晴らした。現地オランダ軍は、既に本国を失っていることもあり弱体で、戦艦や軽空母を投入した軍事政権軍にまともに抵抗できなかった。しかも日本からの増援として空挺部隊や空母部隊の援助を受けられたため、進撃と占領は順調に進んだ(ただし日本は、カリマンタン島の多くを占領している)。その後軍事政権軍は、かつてイギリスに奪われたパプア島の「奪回」も行い、国民は目先の勝利で不安を紛らわせた。
 日本も竜宮本国も戦勝に沸き返り、一時はこのままインド進撃が言われるほどとなった。
 しかし開戦から4ヶ月後、ついに太平洋の対岸でアメリカ軍が体制を立て直して、窮地に追いつめられたフィリピンを救援すべく未曾有の大艦隊を準備しつつあった。しかもこの艦隊には、竜宮自由政府の艦隊も全面的に加わっていた。
 基本的な作戦は、竜宮自由政府軍が竜宮軍事政権軍を牽制している間に、アメリカ海軍が日本海軍と雌雄を決する事が目指されていた。またインド洋では、体制を立て直したイギリス東洋艦隊が可能な限りの体制を敷いており、連合軍に呼応してビルマ方面で攻勢に出る手はずになっていた。日米双方が竜宮海軍を別行動にしたのは、共同での作戦行動に不安があったからというよりは一種の腫れ物だったからと見るべきだろう。
 主戦場は竜宮本国近辺でもハワイ近辺でもなく、フィリピンへの道をこじ開けるための中部太平洋地域だった。そこは日本海軍が長らく主防衛地域と想定している場所であり、主に日本軍にとっては望むところとでもいうべき「決戦海域」だった。

 1942年3月7日、双方の艦隊がマーシャル諸島を中心に集結した。主な戦力は以下のようになる。

 枢軸軍:(戦闘艦艇排水量合計:約110万トン)
  駆逐艦、潜水艦以上の作戦参加艦定数:182隻
 日本海軍(連合艦隊):(約95万トン)
BB:12・CV:6・CVL:4・CG:10・ CL:6
空母艦載機:500・基地航空機:150
 竜宮海軍(軍事政権軍):(約15万トン)
BB:2・CVL:2・CG:2・ CL:6
空母艦載機:50・基地航空機:100

 連合軍:(戦闘艦艇排水量合計:約115万トン)
  駆逐艦、潜水艦以上の作戦参加艦定数:168隻
 アメリカ海軍(太平洋艦隊):(約90万トン)
BB:14・CV:4・CG:12・ CL:6
空母艦載機:300
 竜宮王国海軍(自由政府軍):(約20万トン)
BB:2・CV:2・CVL:1・CG:4・ CL:2
空母艦載機:150

※BB:戦艦、CV:空母、CVL:軽空母、CG:重巡洋艦、 CL:軽巡洋艦
※基地航空機は、戦場近辺に配備されたものと、戦場まで遠距離投入可能な機体数の合計数で偵察機も含む

 以上が概要であり、全ての国の参加艦艇を個艦名で記載すると、誌面がいくらあっても足りないほどとなる。それぞれの数すら挙げなかった駆逐艦、潜水艦以外にも、各種母艦、支援艦艇、補給船など双方ともに50隻以上が作戦に従事していた。
 しかも南太平洋、マラッカ海峡には、同方面の連合軍を抑えるため日本海軍の有力な艦艇があり、インド洋にはイギリス海軍の大艦隊が展開していた。南太平洋には、オーストラリア海軍なども展開している。
 そしてこの戦闘は、第一次世界大戦でのユトランド沖海戦を凌ぐ史上最大の海上決戦として人々に記憶されることになる。主力艦の艦艇数こそユトランド沖海戦の戦艦、巡洋戦艦合わせて51隻に対して30隻だが、1隻ごとの排水量、戦闘力は格段に向上しており、しかも4つの勢力全てが新鋭戦艦を投入していた。中でも桁外れなのが日本海軍で、基準排水量6万4000トン、46センチ砲9門を装備する超巨大戦艦の《大和》《武蔵》を実戦投入していた。
 だが海上戦闘の主役は、既に戦艦の時代を過ぎつつあった。
 主役は、双方合わせて1200機にも上った航空機と、海上での航空機動機動戦力となる19隻の各種航空母艦だった。
 しかもこの頃は、まだ航空機の効果が過小評価されていたため艦艇の対空防御力は低い場合が多く、逆に日本海軍航空隊の練度は様々な要素の結果最高潮に達していた。このため数字には現れない極端な戦力バランスの差が生じ、世紀の海上決戦を決定づけることになった。

 3月7日から9日にかけて数次にわたって行われた海上戦闘「中部太平洋海戦」(日本軍呼称)は、枢軸軍の圧倒的勝利で幕を閉じた。連合軍側の惨敗であり、非常に多くの艦艇が沈没した。
 特に緒戦で集中的な航空攻撃を受けて連合軍側の空母部隊が壊滅し、8日に多数の戦艦を用いた大規模な艦隊決戦を強要された形になったアメリカ海軍太平洋艦隊の損害は酷かった。戦闘終了時に戦闘可能状態を維持していた連合軍側の主力艦は、損傷しつつも作戦行動を続けた空母《エンタープライズ》ただ1隻という有様だった。アメリカ海軍の戦艦部隊に至っては半数以上が沈没し、生き残った戦艦の全てが大きな損害を受けて後退していた。
 自由政府艦隊は、位置関係もあって艦隊決戦には実質参加することができず、牽制や支作戦に従事していたので損害はまだ軽かった。だが、それでも戦闘終盤の枢軸側の追撃からアメリカ艦隊の撤退を支援する戦闘で多大な損害を受けることになり、大型艦の沈没こそ少なかったものの損傷が相次いでほぼ壊滅状態となった。アメリカ軍の撤退を助けるために日本艦隊に戦闘を挑んだ戦艦部隊は、辛うじて沈没を免れるもどの艦も半年は戦場から離れなくてはならなかった。中には、修理のためにイギリスから中古の15インチ主砲塔を譲渡してもらった戦艦もあった。
 一方の枢軸軍は、艦艇の損失こそ少なかったが、日本海軍の水上打撃戦力を中心に損傷艦艇は多かった。また多用された航空戦力、特に空母艦載機の消耗が激しかった。軍事政権軍も、劣勢にも関わらず自由政府軍を決戦の場に行かせないための戦闘を行ったため損害が多くでていた。このため徹底した追撃戦を行うことができず、枢軸側がこの少し後に予定していたハワイ諸島攻略も先送りとされた。
 連合軍の側は、ハワイの防空隊が健在だったからだ。事実、牽制作戦を行った枢軸側の大型機群は、ハワイ上空で激しい防戦を受けて大きな損害を出していた。またハワイから遠路到来した自由政府軍の長距離爆撃機による攻撃を受け、追撃しようとした一部部隊にかなりの損害を受けていた。
 また日本、軍事同盟ともに膨大な量の石油を消費して戦闘を行ったため、以後の戦線拡大に大きな支障をきたすようになった事も、戦争全般にとっては必ずしもプラスではなかった。
 しかし戦闘が枢軸軍の圧倒的勝利であることは間違いなかった。歴史の上でもこれだけ大規模な戦闘で、一方に大きな損害の出た戦闘は稀だった。
 そして勝者は勝利に湧き、敗者は復讐を誓った。特にたった数日で一万人以上の戦死者を出したアメリカの衝撃は大きく、かえって戦意が昂揚した。

 その後しばらくは、勝利によってアジアでの枢軸軍の攻勢はさらに続き、マラッカ海峡近辺で待機していた部隊を用いたインド洋での通商破壊が行われ、連合軍の敗北を受けたイギリス軍も勢いに乗る日本軍との戦闘は極力避け、戦力温存のためにインド洋奥地に引き下がった。



●フェイズ42「近代19・太平洋戦争2」