■フェイズ43「近代20・太平洋戦争3」

 竜宮の枢軸陣営からの脱落は呆気なかった。
 事件は、1943年10月4日に起きた。
 「元」貴族将校を中心とする軍部隊が、深夜不意を付いて首相官邸へ武器を用いて押し入り、護衛部隊との短時間の戦闘の後に政府首班の播紅竜将軍を拘束、軟禁した。そしてこれに呼応して、国内各地で多くの政府主要施設が制圧された。
 クーデター政権は、クーデターによって倒されたのだ。
 通常なら簡単に摘発、処罰されてもおかしくないような杜撰なクーデター計画とその実行だった。だが、既に多くの竜宮人が軍事政権に愛想を尽かしていたため、この時の呆気ない成功となった。憲兵にいいように治安を弄ばれていた警察組織と軍と折り合いの悪い内務省などは、あくまで水面下での話しではあったが、クーデターにほとんど全面協力したほどだった。警察組織からクーデターに参加した者も多かった。
 クーデターが始まると、真っ先に軍事政権関係者の逮捕、拘禁も行っている。逮捕の理由も、「国王陛下への反逆罪」とされた。
 また自由政府から秘密裏に派遣された「特殊部隊」が事前に合流して活躍したという噂は、今に至るも語られている。少なくとも、潜水艦などで武器や通信機などがクーデター組織に渡されていたことは歴史的にも証明されている事だった。

 軍事政権側は、不意を付かれながらも重要施設での抵抗はかなり激しかったが、クーデター側が艦艇や航空機、戦車を用いた事などもあって、一両日で戦闘も終息した。即時逮捕を逃れた政府、軍の一部首脳部は、進退窮まる直前に日本に脱出しようとしたが、港、空港共に既にクーデター軍が抑えており、国内での数日間の逃避行の後に重囲の下で降伏を余儀なくされた。
 国民の多くもクーデター軍を支持し、国王の帰還による速やかな王国再統合を望んだ。首都昇都では、市民数十万人が繰り出した大規模なデモ行進にまで発展したほどだった。軍事政権に荷担していた者達も、国民の手によって摘発され、つるし上げられた。憲兵はこれまでの圧政に対する復讐として暴力の対象にもなり、軍事政権への協力者、密告者、甘い汁を吸っていた者も同様の末路を辿った。
 また日本大使館を始めとして、日本人のいる施設や企業、そして軍事施設などは厳しい監視及び軟禁状態に置かれ、実質的に身動き一つ出来なくなった。竜宮国内にあった日本の艦船や航空機も、一部が時間制限付きの国外退去を言い渡された他は、ほとんどがその場で拘束された。日本の軍事組織の殆ども、事実上の武装解除状態に置かれた。
 そして「護国同盟」と呼称されたクーデター勢力は、制圧した国営ラジオ局や軍の通信施設から、独裁者播将軍が排除され軍事政権が瓦解したことを国民全てに告げた。同時にあらゆる通信手段で、軍事政権を打倒したので自由政府への合流を行いたいと伝えられた。またクーデター勢力が押えていない軍事政権側の全てに対しても、軍事政権が瓦解したが現状を維持し、速やかに護国同盟もしくは自由政府への合流を訴えた。加えて全部隊に対して、自衛戦闘以外の戦闘を禁止する命令を出した。
 これに対して自由政府及び連合軍は、協議の末に護国同盟に対して幾つかの条件を伝えた。

 ・軍事政権下の全ての軍事活動の停止。
 ・竜宮自由政府への速やかな合流。
 ・連合軍駐留の受け入れ。
 ・勢力下にある日本軍の拘束。無理な場合は即日退去の実施。

 クーデター軍は、即座に全ての条件の受け入れをを伝え、圧政を強いられた国民は一日も早い国王陛下の帰還を待っていると、言わなくてもよい事まで伝えた。
 そしてクーデター発生から早くも3日後には、ハワイ経由で自由政府並びに連合軍の特使が飛び、両者了解の上での自由政府軍機、クーデター軍機双方の護衛のもとで昇都に降り立った。
 その後両者の交渉は短期間でまとめられ、改めて全竜宮領及び軍事政権指揮下の軍に、竜宮王国への合流と連合軍への戦闘停止が命じられた。
 国王自身の本土帰還は、安全が確保されるまでという事で最初は情勢が落ち着いてからと考えられていたが、自由政府の旗印である明晶王自身の強い要望によって、クーデターから僅か9日後の帰国が行われた。帰国には出国と同じ飛行船が使われ、軍事政権残党や潜んでいるかも知れない日本軍への厳重な警戒の中で行われた。
 飛行船は人目につくため、多数の国民が飛行場に押し掛けた。だが流石に暗殺が警戒されたため、すぐにも明晶王は国王専用自動車に乗り込み厳重に警護されつつ数年ぶりに王宮へと入った。しかし飛行船から降り立った時や移動中の政府専用車の窓から明晶王が手を振る写真が号外と翌朝の新聞を飾り、人々に王国の復活を印象づけた。
 そして自由政府の要人、官僚、軍人も続々と本国入りし、連合軍の進駐もすぐにも始まった。同時に軍事政権に不当に逮捕、軟禁されていたほとんどの人々が解放され、多くがすぐにも以前の役職、職業に戻っていった。
 無論全てが元通りになったわけではないし、自由政府も連合軍に参加しているので戦争が終わったわけではないが、進駐と共に自由政府とアメリカが大量に持ち込んだ民生用物資の助けもあって、すぐにも民心は落ち着きを取り戻していった。

 一連の急な変化に一番衝撃を受けたのは、隣国日本だった。
 友邦がほとんど一夜にして消えて無くなり敵となったのだから、驚きと落胆はひとしおだった。しかも事態が一週間程度で変化したため、実質的には身動き一つ出来なかった。竜宮の大使館や現地の日本軍部隊、各組織が重要書類を焼却処分する暇もなかったほどだった。クーデター阻止のため軍を派遣しようと言う意見も出たが、クーデターから数日後には竜宮本土近くにハワイにいた連合軍の艦隊が出撃して牽制しているとあっては、いまだ南方で受けた傷を癒しているような状態の日本海軍に出来ることはなかった。
 結局日本政府は、日本国民に真実を伝えなかった。代わりに、竜宮が連合軍の奇襲的大攻勢を受けて勇戦空しく降伏・占領されたと発表されたのだが、それはそれで日本国民に大きな衝撃を与えた。同年11月の「大東亜会議」は強引に開催されたが、竜宮軍事政権の姿はなくインパクトに欠けるものとなった。それでも日本は、戦況の悪化と竜宮脱落を補うためにも会議を開催しなくてはならなかった。
 それに日本国民の多くも、事実の多くを知っていた。国一つの事件であるだけに、多くの人に真実は隠せなかった。竜宮から強制退去で出国した日本人達には箝口令が敷かれ一部は軟禁状態に置かれ、多くの人が日本本土に戻ることを許されなかったが、多くの情報が水面下で日本中に浸透していった。
 それでも日本政府は一度ついた嘘を通さねばならず、日本各地に入り込んでいた軍事政権側の竜宮人は、亡命者という肩書きで監視付きながらもほとんどがそのまま暮らし続けた。一方では、これまで軍事政権下にあった琉球王国、ブルネイ王国は日本軍勢力圏のただ中にあるため、竜宮王国(自由政府)への合流を行うこともできずに日本に従う他なかった。日本側もそれぞれの地域に追加で軍部隊を派遣して事実上の占領を実施して、自らの拠点や資源の確保を行った。また日本に寄港していた竜宮の船も事実上その場で拿捕された。
 また形式上は維持された大使館を始め日本各地の竜宮の施設も、事実上全てが差し押さえられた。人の方は、要人に関しては監視もしくは軟禁状態に置かれ、それぞれの地域でごく一部の反英米派の竜宮軍人だけが日本と共に戦い続けることになった。また、東南アジア各地にいた軍事政権側の部隊のかなりが連合軍側に投降した以外では日本軍に武装解除され、装備の多くが日本軍で使用されることになった。
 また兵站面では、各地で拿捕された船舶量だけで50万トン近くに及び、南方からの石油や生ゴム、錫などの資源の流れも日本に一本化されたため、日本列島に対する物の流れは一時的に緩和したほどだった(※逆に竜宮本土では、約20万トンの日本船が拿捕されている。)。
 しかし竜宮軍事政権の抜けた穴は大きかった。戦力だけでなく、地下資源、海運、人材など多くの分野で竜宮に頼っていることを、改めて日本人は思い知らされる事になった。何しろ3000万人の人口を抱える先進工業国が消えて無くなったのだ。
 そして何より、日本がアジアで完全に孤立したのは大きな失望となった。
 日本国首相の東条英機は、竜宮国王が帰還したその日は公務を休むほどのショックを受け、周りでは総辞職するのではと言われたほどの落胆を示した。そうした落胆は、特に生産を預かる者と海軍関係者に多く、日本人の中にも戦争を終わらせるべきではないかという考えが出てくることになる。
 もっとも当面の日本は徹底抗戦を叫び、しかも11月のカイロ会談で無条件降伏が連合国から発表されると、敵愾心を著しく燃え上がらせた。

 しかし連合軍の容赦のない攻勢は続いた。アメリカの戦時生産がいよいよフル稼働を開始し、しかも1943年秋頃からはドイツに向けられていた戦争リソースの一部が、欧州戦線が有利になるに従って太平洋方面に回され始めたからだ。
 そしてやはり要となったのが、竜宮だった。
 竜宮本国の西端から日本本土の東端までは、約3000キロメートルの距離があった。途中に島などは一切なく、広大な太平洋が横たわるのみだった。このため有史以来人の往来を酷く制限していたが、20世紀のアメリカには巨大な機械力があった。
 そしてアメリカの誇る最新兵器「B-29 スーパーフライングフォートレス」ならば、条件さえ整えれば限定的に日本と竜宮の間の往復が可能だった。
 爆弾搭載量は最大で約5トン程度のものが約2トンとなり、代わりに臨時の燃料タンクを積載して飛行高度も3000メートル以下を選択しなければならないが、この結果日本列島の東北地方と関東地方の太平洋沿岸に至ることができた。しかもアメリカ本土から竜宮まで物資、兵器を運び込むことは簡単であり、竜宮には様々なインフラと生産設備、そして軍事基地が存在した。しかも連合軍は、半年もしくは一年後の予定で竜宮本土を占領した後の事まで考えて戦争計画を立てていたため、その後の行動も迅速だった。そしてアメリカでは、竜宮本土と日本本土を往復するためB-29の改造型を生産し、この機体には翼の下に大型の落下増槽が装備できるようになっていた。大型機では前代未聞の装備だったが、この落下増槽によりB-29は速度の低下と引き替えにさらなる航続距離を獲得していた。
 連合軍の日本本土爆撃計画はすぐにも開始され、生産が開始されたばかりのB-29は、当初予定されていた中華奥地には回されず全て竜宮へと運び込まれた。

 また、竜宮本国を起点とした通商破壊戦もすぐに開始された。今度は軍事政権の持っていた全ての戦力が、日本に牙をむくことになった。しかも軍事政権の持っていた日本海軍よりずっと優秀な海上護衛組織は枢軸側の手からなくなり、クーデター後の任務を最後に多くの艦艇が竜宮の自由政府に合流する動きを見せた。ヨーロッパでも、フランスやイタリアのそれぞれの分裂や合流時に似たような動きはあったが、竜宮の場合は極端で広範囲に及んでいた。それでも手のひらを返したようにその場で日本軍を攻撃しなかった事を、一部の研究者などは後世批判する事にもなった。
 そしてこれまで比較的安全だった日本の海上交通は、日本海軍が対策を怠っていた事も重なって一気に破綻へと突き進んだ。ここでは、軍事政権が有していた100隻以上の潜水艦群が有効活用され、アメリカ軍の最新電波兵器を搭載して性能を向上させた上で、日本艦船の攻撃を積極的に行った。また、軍事政権の将兵がもたらした自分たちの情報、日本軍の情報をもたらした事が、日本軍の醜態を拡大した。日本軍も、すぐにも暗号を変えたり様々な対策は行ったのだが、その多くが後手後手にまわり多くの損害を出すことになった。
 そして、これまでは竜宮本土を先に締め上げるため、連合軍による日本及び東南アジア地域での通商破壊は限られていたが、日本側が何故か妙に油断していたため一気に破滅的なレベルで海上通商路破壊が進んだ。日本は開戦頃に700万トンの船舶量を有し、1943年以後は年産150万トンの船舶を建造する能力を発揮したが、軍事政権崩壊以後の衰退は急速だった。
 しかし連合軍の側も、この時点では決定打に欠けた。
 1944年の春からB-29による日本本土爆撃を開始したが、距離がありすぎる事、複雑な機械のため機体の故障が多かった事、撃墜されるよりも故障で途中墜落する機体が多かった事、最初の空襲から日本軍が活発な迎撃を行った事などから、損失と人的被害が大きく費用対効果も低かった。
 通商破壊は極めて順調だったが、日本軍は泥縄式ながら海上護衛を行うようになり、さらに日本海軍主力はほとんど艦隊保全に入ってしまい、自分たちも戦力を整えなければ攻勢に打って出るには危険が大きかった。
 また日本は樺太島の北部に油田を有し、国内で不足する石炭は満州から持ってきているため、油田を直接破壊して日本海の通商破壊が出来ない限り、燃料資源の面で完全に締め上げることは出来なかった。
 つまり対日戦争でやるべきことは、日本本土への攻撃であり、そして本土侵攻だと言うことになる。ここで連合軍内では、北から攻めるか南から攻めるかが議論されたが、比較的早くに南からと決まった。
 無論、竜宮領に属するルキア各地の基地やチウプカ半島先端近くの都市が、次の爆撃機基地及び侵攻のための拠点候補として浮上した。だが、気象条件から、北の海での継続的な大規模補給路の設定が難しいと判断された。また北の空は気象条件から航空機の継続的運用にも適さない事も、犠牲を嫌うアメリカ軍の北方攻撃の主張を衰えさせた。
 そしてもともと中部太平洋での戦いと侵攻が昔から研究されていた事もあり、マリアナ諸島を奪うことが決められる。
 ただし、北が全く無視されたわけではなかった。
 チウプカ半島や冬氷海(オホーツク海)沿岸からは北樺太の油田が空襲で十分攻撃可能なので、連合軍基地の建設と爆撃部隊の配置は順次行われるようになる。
 クーデターや分裂に関係なくロシア人を睨み付けていたルキアの竜宮精鋭部隊も、多くが他方面に転用されるも一定の部隊は残され、日本軍に対して睨みを効かせるようになった。
 対する日本軍も、陸軍航空隊が中心となって急ぎオホーツク方面の防備が強化され、それまで静かだったオホーツクの海でも航空戦を中心にした戦闘が行われるようになっていく。
 しかし主力は南、中でも日本本土に手が届く場所へと注がれた。


●フェイズ44「近代21・太平洋戦争4」