■フェイズ44「近代21・太平洋戦争4」

 第二次世界大戦、太平洋戦争での3度目の大規模戦闘(決戦)を見ていく前に、少し太平洋唯一の枢軸陣営に落とされた日本の状況について少し見てから、マリアナ諸島近辺での戦闘経緯を負っていきたい。

 太平洋戦争、日本政府の公式文書上での呼称となる大東亜戦争は、幕末以来の近代日本の一つの到達点であり結果の一つの形だった。
 日本人達は、封建社会を突然止めてヨーロピアンを模範とした近代国家、国民国家建設を実施した。初期は自立できる国家を目指し、次に帝国主義列強であることを目指した。当時のヨーロピアン全盛の時代の中では、自ら強さを求め達成しなければ自立すら危ういからだ。これは19世紀末の竜宮を例に取ることが出来るだろう。多少の力や技術が存在する程度では、自立がままならないほど厳しい時代だったのだ。
 明治維新と呼ばれる革命を起こした日本人達もそのことは深く理解しており、ヨーロッパ列強から自らを十分守れるだけの国造りを懸命に行ってきた。しかし何とか列強の末席に座るようになると急に慢心が生まれ、帝国主義路線をひた走るようになった。しかもヨーロピアンが表面上だけでも帝国主義を改めようとしている最中にあっても帝国主義路線を突き進んだ末の末路が、大東亜戦争だった。
 あげくに、何の長期的展望を持たないまま、半ば場当たり的なままに世界最大の工業力と経済力を有するアメリカと戦端を開いた。このため大東亜戦争の行く末も、戦争半ばで結果が出るような有様に陥っていた。だが無条件降伏などという近代政治にあるまじき条件を出されては、一定の有利な状況を作るために戦争を続けざるを得なかった。それに日本人達は、幕末以来戦争に慣れており、その上国家間の戦争や争いに敗者の側で立ったことがないため、「負け方」を知らなかった。

 1944年に入り戦争が末期症状に陥りつつあっても、日本の戦争経済は大きな軋みと歪みを起こしつつもフル稼働を続けていた。
 とはいえ、日本の国力は既に限界を超えつつあった。
 開戦時の日本の単純な国力を見ると、アメリカとの国力差は10倍の開きがあると一般的には見られている。
 これは表面的な海軍力や船舶量を現すものではなく、国内総生産(GDP)や潜在的な重工業生産力、地下資源地帯の有無など総合的に判断しての差だとされる。しかし世界経済の4割を占めるアメリカと比較するから酷い差になるのであって、この頃の日本は今日一般的に言われるほどの小国ではなかった。むしろ大国と言って間違いなかった。
 本国人口は約7300万人、領内全てを含めると総人口は1億人を越えた。これに属国の満州を含めると、単純な人口だけならアメリカ、ソ連に匹敵する数字となる。ただし一人当たり所得の規模、日本本土以外での民度、重工業化の度合いなどから見ると、列強の中ではかなり下の位置にきてしまう。
 重工業化のバロメーターと言われる粗鋼生産力は、日本だけで約750万トン。これに満州国の数字を加えると、最大で1100万トンに達する。粗鋼だけならイギリスの1300万トンに近くなる(※鉄鋼となるとまた別問題)し、最盛時のアメリカの約9分の1となる。海洋国家の生命線ともなる船舶量も、開戦時で100トン以上の鋼製船舶量が約700万トンあり、これはイギリス、アメリカに次いで世界第二位の数字だった。船舶建造量も、総力戦の中での大幅な建造量拡大によって、1943年には150万トンを記録した。これはイギリスの最大数値を2割近く上回る数字であり、圧倒的なアメリカに次いで第二位の記録となる。
 アメリカととかく比較されがちな艦艇の建造数、建造速度も、大戦途中で大型艦建造を速度の面で諦めた感のあるイギリスよりも早かった。イギリスでは、戦時量産型の《コロッサス級》軽空母(1.3万トン)の建造に30ヶ月かかっている。これに対して日本の《雲龍級》中型空母(1.7万トン)は、量産に不向きと言われながらも22ヶ月で就役できた。実質的な1番艦の《天城》は、42年10月建造開始で44年8月に就役している。無論こうしたイギリスとの比較は、イギリスが艦艇建造の重要度を下げ日本が非常に重視した違いではあるが、一定の工業力がなければ建造計画も画餅となる。この証拠として、日本には大型艦の建造施設が6箇所あり、うち半数が当時先進的だったドックでの大型艦建造が可能で、かなり高い効率で艦艇を建造している。そして艦艇の建造、改装については、アメリカとの戦争が決まってしばらくして長期戦が確定的となってから本格的に盛んとなっており、もう少し先を見据えた建艦計画を立てていればと言われることもあるほどだった。
 実際ハワイ諸島沖での敗北以後、日本海軍は非常な努力を払って艦艇の建造、特に空母の建造を行い、来るべき中部太平洋(マリアナ諸島)での決戦に備える準備を行っていた。
 新鋭空母の《大鳳》《海鳳》は、1943年11月と翌年2月に相次いで就役し、1944年3月には大和級戦艦3番艦の《信濃》とほぼ同時に中型空母の《雲龍》も就役していた。また大和級戦艦4番艦の《甲斐》は、船体が出来た頃に開戦を迎えマーシャル諸島沖海戦以後空母への改装が決まり、1945年春就役の予定で工事が急がれている。
 他にも、1942年秋に改装が完了した空母《瑞鷹》、《天鷹》は、北太平洋航路で運行されていた3万トン級高速豪華客船の敷島丸、瑞穂丸を全面的に空母に改装したもので、28ノットの健脚と大型空母並の搭載機数を有していた。この2隻の空母は、当時高速空母不足に悩んでいた日本海軍にとっての貴重な増援となり、南太平洋の戦いでの中盤から登場している。その他、他艦からの改装空母もマーシャル諸島沖での敗北以後急速に数を増しており、ソロモンを中心とした南太平洋での激闘を支える重要な一翼を担っていた。
 しかも母艦航空隊は、竜宮でのクーデター以後南方から全て引き上げて訓練度向上に努めており、日本海や瀬戸内の安全な場所で訓練に励んでいた。
 そして決戦で最も必要とされる航空機についても、出来る限りの努力が払われていた。マリアナでの戦闘までに、どうにか「零戦」に代わる新型戦闘機の配備も進み、各種攻撃機も性能面でアメリカを凌ぐ機体が配備されつつあった。なお機体更新が進んだ背景の一つに、竜宮との関係が途切れたことも作用していた。日本海軍は、自らの機体開発能力の限界から、竜宮空軍の主力戦闘機「蒼穹」を自分たちの局地戦闘機として導入してライセンス生産していたが、竜宮脱落後の感情的反発と機体の旧式化から更新の必要性に迫られたからだった。そして機体の事実上の共同開発が、機体の開発を各メーカーに絞り込ませる事につながり、新型機導入が間に合ったとも言われている。
 ただし、日本軍の場合海軍と陸軍では、西太平洋いわゆる「絶対国防圏」での戦闘に対して温度差があった。大規模な陸戦ができる場所が、フィリピンぐらいにしか存在しなかったためだ。このためトラック、パラオ、そしてマリアナ諸島が海軍の分担とされ、西部ニューギニア、ビアク、そしてフィリピンが陸軍の分担という向きが強かった。無論マリアナ諸島などにはかなりの数の陸軍部隊が配置されつつあったが、陸軍はフィリピンに続々と増援部隊を注ぎ込んでいた。基地航空隊についても、海軍が全力をマリアナを中心に集めつつあったのに、陸軍は何らかの理由をつけて西部ニューギニアとフィリピン方面に集中していた。
 日本陸軍には、現状ではソ連をほぼ無視できるが、支那(中華)での戦闘から抜け出せないという理由もあったが、非常に効率、能率が悪い状況のままアメリカ、竜宮連合軍の攻勢を受けて立たねばならなかった。
 しかし、何が幸いするか分からないのが戦争というものであり、この時も日本陸海軍の反目ともいえる状況が、少なくとも日本海軍に幸運をもたらした。

 連合軍は、マリアナ諸島への全面的攻勢に際して、非常に慎重に作戦を進めた。
 まずは中部太平洋の島々での攻防戦が始まり、各種戦闘に対する連合軍の技術、経験の不足が補われ、最前線である竜宮本土やパプア地域での戦力備蓄が心がけられた。
 1944年に入る頃には、無尽蔵な物資を受け取るようになった竜宮本土の生産力も完全に回復し、通商破壊部隊の最大の出撃拠点になっていた。日本としては何とかしたいが、自分たちの半分近い規模の国家への侵攻能力など既にどこにも存在しなかった。しかも竜宮本土には、北米大陸からやって来た軍隊も多数駐留するようになっており、戦力差は開く一方だった。竜宮本土には、日本側の潜水艦は近寄れない有様だった。
 このため防衛に一掃力が入れられ、竜宮本土よりも日本本土に近いマリアナ諸島、硫黄島の防衛力強化が急がれた。竜宮本土から強引に長距離爆撃機を飛ばている連合軍(アメリカ軍)が何を欲しがっているかは、流石に誰でも理解できたからだ。
 関東地方の太平洋沿岸などの一部では、早くも本土防衛の準備も開始された。オホーツク方面の防備も、陸軍が中心となって急ぎ固められた。維持しても意味のない南方からは、急ぎ兵力の引き上げと再配置が急がれた。
 そしてアメリカ軍の行動を無視し、陸軍との反目を利用して、日本海軍はひたすらマリアナ諸島での決戦、日本海軍がアメリカを仮想敵として以後研究を続けていた決戦の地での戦闘準備に傾倒していった。準備の整った海軍の主力部隊も、フィリピン正面に立ちふさがる形にもなるパラオを離れ、パラオとマリアナの中間近くにあるウルシー環礁に仮の本陣を構え、多数の戦闘機を配置して防備を整え、アメリカ人と裏切り者の竜宮人が来るのを待ちかまえていた。当然アメリカ軍はこれを叩こうと考えたが、そぶりを見せた途端に日本本土で訓練中の機動部隊が殺到することが目に見えているため、動くに動けずにいた。

 1944年4月頃から、連合軍がニューギニア西部、ビアク島への攻撃を強化して実質的な攻勢を開始しても、日本海軍は動くことはなかった。6月に入り日本陸軍が悲鳴に近い要請を海軍に出しても、担当戦区が違うとして艦隊ばかりか航空隊すら動かすことはなかった。これは日本陸海軍の反目を広げる結果になったが、連合軍としては非常に見込み違いの結果となった。連合軍にとっての最大の脅威は、日本海軍の水上艦隊だったからだ。
 この結果アメリカ海軍は、第七艦隊として南西方面軍所属していた旧式戦艦群を船団護衛や支援のため呼び戻さざるを得ず、中部太平洋の戦力密度は非常に高まった状態で大規模水上戦闘を行うという、攻撃する側にとっても危険度の多い戦場へ突入せざるを得なくなっていた。
 この時の戦闘は、両軍とも「マリアナ沖海戦」と呼称し、マリアナ諸島を急襲した連合軍とマリアナなどの基地とウルシーから出撃した全力で迎撃する日本海軍の戦いになった。
 マリアナ諸島近辺でのでの戦闘は、連合軍側のパプア島西方での陽動作戦を経た1944年6月13日に開始された。海上戦闘はそれより数日遅れ、6月15日から16日にかけて行われることになる。そしてこの海域には双方の海軍力の全てが結集される形となり、約2年ぶりの大規模な海上戦闘となった。
 戦力概要は以下の通りとなる。

 日本海軍:
BB:12・CV:7・CVL:5・CG:12・CL:8
空母艦載機:800・基地航空機:1200(予定)

・第一機動艦隊:
・甲部隊:
(艦載機数:約440機)
空母:《大鳳》《海鳳》《翔鶴》《瑞鶴》《雲龍》
航空戦艦:《伊勢》《日向》
CG:3  CL:2 DD:10
・乙部隊 :(艦載機数:約320機)
空母:《瑞鷹》《天鷹》《隼鷹》
軽空母:《龍鳳》《瑞鳳》
航空戦艦:《扶桑》《山城》
CG:1  CL:3 DD:9
・第一遊撃艦隊:(艦載機数:約80機)
戦艦:《大和》《武蔵》《信濃》《長門》《陸奥》
戦艦:《金剛》《榛名》《比叡》
軽空母:《千歳》《千代田》《瑞穂》
CG:8  CL:3 DD:12
・その他
・補給隊
:高速タンカー:10隻、補給艦船:4隻
     CVE:2  CL:1 護衛艦各種15
・潜水艦部隊:各種任務に29隻が従事

 連合軍:
 アメリカ海軍:
機動部隊(第3艦隊):CV:7・CVL:8・BB:5・CB:2・CG:4・ CL:11
攻略艦隊(第7艦隊):BB:6・CVE:12・CG:3・ CL:6
空母艦載機:1200・基地航空機:100(B-29)

・第38機動部隊(艦載機数:約900機)
・第1機動群:
空母:《ホーネット II》《ヨークタウン II 》 軽空母:《ベロー・ウッド》《バターン》
CG:3  CL:2 DD:14
・第2機動群:
空母:《バンカーヒル》《ワスプ II 》 軽空母:《モントレー》《カボット》
CL:3 DD:12
・第3機動群 :
空母:《エンタープライズ》《レキシントン II 》 軽空母:《プリンストン》《サン・ジャシント》
CG:1  CL:3 DD:13
・第4機動群:
空母:《エセックス》 軽空母:《カウペンス》《ラングレー》
CL:3 DD:14
・第7機動群:
戦艦:《アイオワ》《ニュージャージー》《インディアナ》《アラバマ》《マサチューセッツ》
戦闘巡洋艦:《グァム》《フィリピンズ》
CG:4 DD:14
・第7艦隊(TF79)
戦艦:《コロラド》《テネシー》《ミシシッピー》《ペンシルヴァニア》《ニューヨーク》《テキサス》 CG:2  CL:3
・第7艦隊(TF77、TF78)(艦載機数:約300機)
CVE:12 CG:1  CL:1
・その他 ※多数にて割愛

 竜宮王国海軍:
BB:5・CV:3・CVL:2・CG:5・ CL:4 空母艦載機:300
・主力部隊(竜宮第一主力艦隊)
戦艦:《剛健》《剛毅》《覇王》 CG:3・ CL:1 DD:12
・空母部隊(竜宮第一機動艦隊)
空母:《雄天》《黒竜》《白竜》
軽空母:《天狼》《天狐》
戦艦:《栄光》《光輝》 CG:2・ CL:3 DD:14
・その他 ※多数にて割愛

 戦力バランスは、大きく連合軍に傾いていた。ようやく合流した竜宮海軍がなくても、アメリカ海軍だけで日本海軍を圧倒できるだけの戦力が整えられていた。実際アメリカ海軍は、共同行動に不安があるとして、竜宮海軍を実質的に別行動させる自信を見せていた。
 ただしアメリカ海軍の基本ドクトリンとしている、相手戦力を25%を上回らなければ攻勢に出ないという点を考慮すると、現時点では竜宮海軍の存在が必要だった。一方では、一見基地航空隊を含めると日本軍有利に見えるが、連合軍側は事実上の各個撃破によりこの問題の多くをクリアしており、連携の欠ける日本軍基地航空隊が相手ならば、日本艦隊と対決するまでに無力化することが可能だと想定していた。
 なお竜宮海軍は、軍事政権が戦争前から大型艦艇の建造を半ば諦めて中小の艦艇整備に投入したため、大型艦のほとんどが従来から存在する艦ばかりだった。新たに大型装甲空母の《雄天》が加わったが、これも1938年度計画のもので軍事政権前の計画で建造が決まったものだった。軍事政権が建造を始めた大型艦のうち、戦艦から途中で装甲空母に変更された大型艦2隻の建造が続けられていたが、完成まで後一年以上の工事が残されていた。
 なお、軍事政権がまだ健在だった1942年頃、アメリカが《エセックス級》空母を貸与しようかと提案していたが、その話は軍事政権崩壊後には消えていた。竜宮海軍が受けた最大級の貸与艦艇は、護衛空母と、軽巡洋艦だった。ただし、アメリカから供与を受けた対空装備については格段の進歩があり、ほんどの艦艇が全身ハリネズミとなっていた。電波兵器についても同様に大幅に強化されていた。
 そしてこの時竜宮海軍は、アメリカ海軍と行動を共にする空母機動部隊と、戦艦からなる主力艦隊の二つが参加した。空母は供与を受けたアメリカ軍機の運用が可能なように改良が施されていたが、機体はエンジン以外が国産の「俊鴎3型」の事実上一機種で固められていた。
 逆ガル翼を持つ俊鴎3型は、アメリカ製のエンジンとプロペラを備えることでようやく所定の能力に達した機体で、雷撃機並の大柄の機体な上に単座機で雷撃が可能という画期的な機体だった。最大の特徴は、戦闘、爆撃、雷撃の全てがこなせるという触れ込みの万能機、今で言うマルチロールファイターという点にある。しかし搭乗員への負担が大きかったため、結局複座の攻撃機型(4型)も製造されこの時の戦いを迎えている。
 ちなみに竜宮海軍では、戦艦や空母など大型艦の命名基準は特に定まっておらず、特に戦艦については大航海時代のガレオン戦列艦から受け継いでいる武勲艦の名が一般的に使われた。そして昔の名であるため大げさな名前が多く、また英語に翻訳した場合にイギリスで同名の艦が見られ、日本人からはよく失笑を買っていた。また空母の名前には、竜宮独自の星座の名前が当てられており、殆どの場合「天○」か「○竜」、「○魚」となる(※巡洋艦は島名、駆逐艦のうち大型のみ自然現象の名称、小型は番号、潜水艦も番号のみ)。

 マリアナ諸島を巡る戦闘は、1944年6月13日に連合軍空母機動部隊による何度目かの空襲で始まった。
 連合軍の第一攻略目標は、マリアナ諸島の要であり最も北に位置するサイパン島だった。ここには日本陸軍2個師団が配備され、多数の航空機も配備されていた。
 そしてマリアナ諸島各地、マリアナ近辺の島々からの航空隊が各米艦隊に殺到したため、戦闘開始に二日目になってもアメリカ軍は上陸の目処が立てられなかった。そこに偵察に出ていた潜水艦から、日本艦隊出撃発見の報告が舞い込む。
 日本本土からの日本空母群の出撃は既に潜水艦によって発見・報告されていたが、その後見失った上での一報であり、既に日本艦隊が交戦範囲に入り込みつつある事を示す報告だった。しかし発見が既に午後を大きく回っていたこと、まだ距離が開いていた事から、当日はもちろん翌日の戦闘も恐らくはないだろうと連合軍側は判断していた。
 しかし6月15日、日本艦隊は基地航空隊を含めた全ての偵察部隊を投入した黎明索敵を実行し、アメリカ軍を中心とする連合軍部隊を捕捉。攻略船団には基地航空隊が向かって相手航空戦力を分散させ、本命の空母機動部隊撃滅のために、日本艦隊が遠距離攻撃によるアウトレンジ戦法で先制攻撃を実施した。
 この作戦は図に嵌る。アメリカ軍は日本軍航空戦力の各個撃破の好機と考え、大挙出撃して攻略船団を狙う基地航空隊に対して多数の戦闘機を迎撃に向かわせた。これは攻略船団の側に付いていた護衛空母群の艦載機だけでなく、機動部隊からも多数の機体が派遣されたものだった。何しろこの時日本軍機動部隊発見の報告はなく、しかも連合軍側は自分たちを見つけた機体は、敵の基地航空隊機だけだと思いこんでいたからだ。このためアメリカ軍は、まだ共同行動に難点のある竜宮機動艦隊に対して、攻略船団護衛の護衛を命じて艦隊ごとマリアナ諸島寄りに分派していた。また、各島からの五月雨式の攻撃も受けていたが、これも無難な迎撃が行われていた。この時点でアメリカ軍は、半日もしくは一日の誤差で自分たちの作戦が完全に成功したと考えていた。
 日本軍基地航空隊の攻撃は、翌朝自分たちが上陸すると日本側が推測した末の攻撃だと見ていたからだ(※事実上陸作戦が開始予定だった)。

 そして午前9時頃、アメリカ軍が日本軍基地機の五月雨式に続く攻撃にすっかりはまりこんでいる時間に、北西から迫る日本軍大編隊の接近をレーダーが捉える。このため、竜宮艦隊を含めて600機を数えた連合軍機動部隊の戦闘機の半数程度しか迎撃に投入できない状況に陥っていた。既に受けた損害も、全体の一割以上と少なくなかった。しかも早朝からの度重なる出撃で各母艦とも混乱しており、上空を飛び交う多数の敵味方のため自慢の管制能力も低下していた。加えて、日本軍がこの戦闘で初めて投入した「ゼロ」に代わる新型機「四式艦上戦闘機(烈風)」は「F6F(ヘルキャット)」よりも強力で、護衛空母に搭載されたF4F(FM-2)程度では相手にならなかった。また4隻の航空戦艦から一度きりの発進を行った約160機もの爆撃機は、F4Fを振り切るだけの速力を有するためF6Fでもインターセプトは難しかった。
 それでも200機以上の戦闘機が日本軍艦載機群の迎撃に当たり、多くが突破されるも今度は従来とは格段に迎撃効率が向上した対空砲火によって迎撃した。しかし、それでも日本軍艦載機の攻撃を防ぎきることは出来なかった。
 約550機を投じた日本軍の第一撃はおおむね成功を収め、攻撃を受けた米機動部隊は実質30分程度の戦闘で半壊に近い大打撃を受けることになる。もっとも、護衛機の邀撃と激しい対空砲火のため日本軍の損害も大きく、戦力は半数以下に低下した。
 その後も空母機動部隊同士の戦闘は途切れることなく行われ、翌日の戦闘では互いに接近したので両者激しい攻撃隊の応酬となって双方に被害が激増した。
 結果、戦闘に参加した日本、アメリカ、そして竜宮の空母の殆どが傷つくか波間に没することになった。竜宮海軍でも武勲艦の空母《黒竜》が撃沈され、稼働空母も大小2隻となったため後退を余儀なくされた。しかし竜宮海軍の損害は2日目から戦闘加入したため軽い方であり、日本、アメリカ双方の受けた損害は極めて大きかった。
 戦闘は、戦力差から本来なら連合軍の圧勝で終わるはずだったが、主力を占めるアメリカ軍は第一撃で母艦の半数が沈むか傷つけられて自慢の艦載機戦力も半数以上を失い、この事が戦闘の激化と両者の損害を増大させた。
 特に二日目は両者一歩も引かなかったため、双方の空母部隊が引き下がった時、日本側は3隻、アメリカ側はわずか2隻の稼働空母を残すのみとなっていた。戦闘力を失いやすい日本空母の損失数は損害に比べて少なかったが、それでも半数近くが沈んだ。アメリカ側も、持ち前の防御力をもってしても半数以上の損失を出すことになった。これは日本軍機の雷撃を多数受けた事に起因しており、その後連合軍にトップヘビーの危険を覚悟してでも対空防御を取るかどうかで悩ませる事になる。米空母のほとんどは、複数の雷撃を片方に受けて意外に呆気なく横転沈没していたからだ。中には、航空魚雷3本の被弾で横転沈没した《エセックス級》空母もあった。当たり所が悪かったとはいえ、大型空母にしては脆弱だった。

 空での戦いが終わっても、まだ戦いは続いていた。
 双方の艦隊が激しく機動したため潜水艦の出番はほとんどなかったが、まだ両軍には多数の水上艦が残っていた。そしてウルシーから出撃した戦艦を中心とする日本艦隊は、連合軍のマリアナ攻略船団を殲滅するのが目的のため、空での戦いが終わって後も突撃を継続していた。そして日本艦隊の突進を前に、連合軍側も出せる限りの水上打撃艦艇を集成して友軍を守るべく防戦に出る事を決意し、アメリカ、竜宮それぞれで艦隊を編成した。

 日本海軍(第一遊撃艦隊):BB:8・CG:10・ CL:3
 日本海軍(第一機動艦隊より):BB:4・CG:2  CL:1

 連合軍(アメリカ第7機動群):BB:5・CB:2・CG:4
 連合軍(アメリカTF79):BB:6・CG:2・CG:3
 連合軍(竜宮第一主力艦隊):BB:3・CG:3・ CL:1

 以上が、当海域で両軍が出せる水上艦隊の全てだった。
 戦力配分は以下のようであり、日本側には《大和級》戦艦の《大和》《武蔵》《信濃》が、アメリカ海軍には最新鋭の《アイオワ級》戦艦の《アイオワ》《ニュージャージ》が存在していた。アメリカ海軍の5隻全てが無条約時代に入って建造された新鋭戦艦ばかりだった。またアメリカ艦隊と行動を共にする竜宮艦隊も、戦力は侮れなかった。
 戦艦は条約型の《剛健級》戦艦の《剛健》《剛毅》とイギリス生まれの《改クイーン・エリザベス級》に徹底した近代改装を施した《覇王》で、上記した5隻以外に対してなら十分な戦闘力が期待できた。イギリスと同じ15インチ砲でも、砲弾重量の違う砲弾を使用して強装薬で打ち出す事ができたからだ。
 しかし日米に比べると、竜宮が出せる戦艦の数は少なすぎた。本来なら3隻「も」いるはずだったが、太平洋では「たった」3隻でしかなかった。全てのチップを載せてきた日本とアメリカは、双方12隻、13隻の戦艦を戦闘に突入させようとしていた。
 しかも最終的に竜宮艦隊がお守りを命じられる事になる空母部隊の前にも、旧式とはいえ4隻の戦艦が立ちはだかっていたため、最後まで動くに動けなかった。
 もっとも日本の空母部隊の「護衛」だった戦艦は、航空戦艦という奇妙な艦艇だった。艦の真ん中から後ろ全てを、航空機搭載区画と対空火器で埋め尽くす改装が施され、1艦当たり40機もの攻撃機を放つことができた。一回限りの攻撃隊しか送り込めない中途半端な艦艇だったが、この4隻に搭載された急降下爆撃機の群が、初戦でアメリカの輪形陣に大打撃を与えていた。直後の新鋭雷撃機の大量突破を成功させたのも、この艦艇の投入あればこそと言えるだろう。

 そして恐らくは史上最後となるであろう戦艦同士の大規模戦闘で機先を制したのは、日本海軍だった。
 日本軍第一遊撃艦隊は、空母同士が激しくぶつかり合っている間に密かに抜け出して、戦闘二日目の午後遅くにマリアナ諸島近海に躍り出ることに成功していたのだ。同方面で連合軍が日本艦隊の出現に気づいた時、主力である連合軍機動部隊は日本艦隊の追撃のためにマリアナ諸島から離れていた。
 なお、アメリカが開戦までに有した戦艦の数は15隻。このうち12隻を最初の艦隊決戦に投入して、半数以上の8隻を失っていた。加えて最初の戦いでは、新鋭戦艦も1隻失っている。その後ソロモン諸島を巡る戦いで新鋭戦艦を2隻失い、この時の海上戦闘を迎えていた。このため戦艦の数が不足する米海軍は、最も旧式の《アーカンソー》を除く全ての戦艦を同戦闘に投入していたのだが、運悪くと言うべきか生き残りの旧式戦艦部隊が日本軍最強の戦艦部隊を迎撃する立場に追いやられていた。
 しかも本来なら近くに居るはずの竜宮第一主力艦隊も、戦闘二日目の午前中に米機動部隊司令部からの強い要請を受け、日本艦隊主力との決戦のために洋上に呼び出されていた。これは日本の主力艦隊が8隻であり、自分たちの「本物の戦艦」が5隻では不利だと米機動部隊司令部の判断があった。現地米司令部は、あくまで正面からの戦いで日本軍を粉砕するつもりだったのだが、日本側にはそんな思惑がなかったため起きた混乱だったとも言えるだろう。日本艦隊は、空母同士の決戦場を無視して迂回し、横合いからサイパン島近辺にすり抜けていた。
 そして戦艦8隻、しかも格の違う相手に攻撃されたアメリカ第七艦隊の旧式戦艦部隊は約30分の戦闘で壊滅。全ての大型艦が沈むか大きな損害を受けて、文字通り全滅した。短時間で船が沈んでしまうことが殆どのため、人的損害も甚大だった。しかも僅かな時間しか稼げなかったため、攻略船団がサイパン島近海から秩序だって逃げ出すこともできず、逃げ遅れた船が血に飢えた日本艦隊と基地航空隊の生き残り、さらには付近に潜伏していた潜水艦の攻撃を受けることになった。
 この日本艦隊の攻撃を前に、急ぎサイパン島に戻り始めた連合軍艦隊だったが、日本海軍の目的が空母機動部隊、輸送船団の撃破であり、作戦目的を達成したので1時間ほどサイパン近辺で輸送船団を一通り沈めると急ぎ後退を始めていた。日本側としては、あとは制空権がまだ維持されている硫黄島方面まで艦隊が後退できれば、それで作戦は成功だった。それに格下とはいえ戦艦多数を含む大艦隊と、多数の小型艦の護衛を引き連れた攻略船団、さらには偶然近くにいた護衛空母群へのたて続いた攻撃で大きな損害を出していた。とてもではないが、アメリカの主力艦隊と正面から対決できる力は残していなかった。
 ただし、攻略船団攻撃にはまり込んだ上に攻略船団攻撃のため艦隊が散らばり、日本艦隊の後退は遅れた。

 しかし混乱していたのは、連合軍も同様だった。
 日本側は全てを失う覚悟で戦力を投入していたが、連合軍は勝つために進撃しているのであり、自分たちの戦争に対して戦力を温存して戦う義務があった。
 このため、いまだ距離を保っている日本軍機動部隊の艦隊から、自分たちの空母群を護衛するため竜宮艦隊に護衛が命令され、アメリカ第7機動群が既に戦力の激減しているであろう日本艦隊の殲滅を実施することになる。命令が発令された当初は、第7艦隊との挟撃すら腹案として持っていた。これは、日本海軍に出し抜かれ復讐心に猛り狂った司令官の命令によるものだった。
 アメリカ側の決定は、日本軍のサイパン突撃すぐにも発令されたため、アメリカ第7機動群は6月16日から17日に代わる深夜に、日本本土への後退を続ける日本艦隊と接触する。
 場所は硫黄島とサイパン島の中間辺りで、やむを得ず迎撃を決意した日本軍側が多数落とす照明弾の輝きの下で、大戦最後の大規模水上砲雷撃戦が展開されることになる。
 戦闘は、夜戦だけに混乱した。アメリカ側は日本戦艦群には既に数隻の脱落もしくは撃沈があるものと考え、さらには電子装備の優位を確信して第7機動群のみで戦闘を挑んだが、思惑は大きく外れていた。日本戦艦群は損傷はあっても1隻の脱落もなかった。しかも日本軍は相応の電波兵器を有していた上に、照明弾の豪雨がアメリカ艦隊を浮かび上がらせていた。しかもアメリカ側は、日本海軍の水雷戦隊が二度の全力雷撃が出来るのを軽視していた事を、この時の夜戦で思い知らされる事になる。既に傷ついた戦艦部隊が事実上の囮となっている間に、日本軍水雷戦隊がアメリカ海軍の戦艦、戦闘巡洋艦、重巡洋艦が並ぶ隊列に統制雷撃を実施した時点で勝敗は決した。
 この戦闘では、双方に多数の大型艦撃沈が発生した。特に日本海軍の誇る酸素魚雷を多数被雷したアメリカ戦艦部隊は再び壊滅し、特に高速発揮は可能だが小回りの利かない高速戦艦、戦闘巡洋艦は、日本艦隊水雷戦隊が一斉投射した酸素魚雷の格好の餌食となって大きな犠牲を出していた。日本側が、「あんなに当たるとは思わなかった」と戦後証言したほどだった。
 一方日本戦艦部隊は、生き残った艦艇がほとんどだったものの、二度と立ち上がれないほどの打撃を受ける結果に終わった。艦橋や砲塔が潰れた戦艦が半数以上を占めていた。
 その間の空母機動部隊同士は、両者の前衛となった戦艦部隊が突出した形のまま接近して散発的な砲撃戦にまで発展するも、基本的に日本側が後退し守勢を維持し、連合軍側も自分たちの艦隊の護衛任務もあったため、本格的な戦闘にまでは至らなかった。しかも、連合軍側に主力艦隊壊滅と日本艦隊を取り逃がした報告が駆けめぐると、すぐにもサイパン島侵攻作戦中止が発令され呆気ない終幕を迎えることになる。
 このため竜宮主力艦隊は、この戦いをほとんど走り回るだけで過ごさなければならなかった。とはいえ、戦闘とは本来状況が混乱するのが常であり、この時の日米のように正面から何度も衝突することの方が希と言うべきだろう。
 そしてこの戦いでの両軍の損害も、戦史上で未曾有のものとして記録されることになる。

 かくしてマリアナ諸島は守られたが、日本海軍に残されたのは、壊滅した航空隊とほぼ全艦が大きく損傷した艦艇群だった。


●フェイズ45「近代22・終戦への道」