■フェイズ45「近代22・終戦への道」

 マリアナ諸島近海での日本軍の勝利と連合軍の撤退は、多くの事実を知らない日本人に勝利の凱歌をあげさせた。しかし実情を知る日本海軍内は、傷だらけで凱旋してきた艦隊を前に頭を抱えた。
 航空隊は、一から再建しないといけないほどの打撃を受けた。あまりに生き残った搭乗員が少ないため、生き残りの搭乗員を全員特別昇進させるという日本軍にあっての異常事態によって、次の戦いのための将校、下士官を揃えなければならないほどだった。
 多くが生き延びた大型艦艇群も、修理の目処が立たない有様だった。いかに不沈戦艦でも、スクラップ同然で戻って来られては、現状の日本の工業力では短期間での修理は不可能だった。《大和級》戦艦は、まともに修理したらどれも1年以上の修理期間が必要と概算されていた。すぐにも動ける戦艦は、中途半端な改装が施されていた航空戦艦だけだった。しかも生還したからには、修理しなければならなかった。なまじ多数の艦艇が傷だらけになりながらも生還したことが、日本海軍の首を絞めていた。かなりが生還した空母群(生還13隻中の8隻)も、半数以上(5隻)が大きく損傷している上に、母艦が無事でも艦載機と操る搭乗員がなければただの箱に過ぎない。
 それに一回限りの大規模戦闘以外考えてこず、総力戦の中でもそれを改められなかった日本海軍としては、今回の戦闘が実質的な限界だった。そのことは、日本海軍自身がこれ以上ないぐらい自覚していた。
 これで戦争が終わっていれば話しは全く違っていたのだが、戦争はまだ続いておりアメリカは依然として強大だった。

 海軍側から、半年はまともな作戦行動が不可能になったという知らせを受けた政府は、「些細な事」よりもまずは海軍の勝利を称え賞賛した。陸軍ですら、しぶしぶ海軍の活躍を認めた。勝利に有頂天となった日本人達が、海軍とメーカーが説明した事を本当に認識するには数ヶ月を待たなければならなかった。
 一方、艦隊が半壊した上に侵攻作戦も失敗した連合軍だが、日本海軍ほど落胆はしていなかった。アメリカ海軍は、損傷艦艇の修理と新造艦の迎え入れで、三ヶ月後には戦力の7割が復活できる目処が見えていた。練度は若干落ちるが、航空隊の再編も比較的容易だった。アメリカ本土での艦艇建造速度も、異常なほど速められることになった。これまでほぼ2ヶ月に1隻のペースだった《エセックス級》空母の就役は、6週間に1隻のペースに早められた。新たな高速軽空母の計画も急ぎ進められた。またも壊滅的打撃を受けた戦艦や重巡洋艦の建造も急がれた。大型艦を建造していた各造船所はさらなる増員を行った上で、より高いレベルでの3交代24時間操業体制へと移行し、造船メーカーは嬉しい悲鳴に包まれていたほどだった。損傷した艦艇の修理も、アメリカ西海岸と竜宮王国各地、各泊地の工作艦群によって、アメリカ以外では考えられない早さで進んでいった。
 無論、空母部隊の半壊と戦艦部隊の壊滅、攻略部隊の大損害、そして数万の兵士の戦死はかなりの痛手だった。戦死者・行方不明者の概算も、海軍関係3万人を含め7万人にも及んでいた。一度に受けた損害としては、大戦最大の規模の記録だった。
 だが、戦死者の数ならヨーロッパ戦線の方が全体としてずっと大かったし、アメリカには日本本土に向かうもう一つの矢(南西太平洋方面軍)が無傷で残されていた。巨大なアメリカの工業力を活用すれば、戦力の補充も十分に可能だった。加えて冷静な調査により、日本海軍が今回のような大規模戦闘を行うには、日本の国力が健全な場合であっても最低一年の時間が必要なことも掴んでいた。

 日米の現状を前に、竜宮中枢ではようやく戦争が終わると考えられた。
 いかに相手艦隊を壊滅させ重要拠点を守ろうとも、自分たちと同じ島国である日本の海軍が実質的に壊滅的打撃を受けたのだから、ただちに戦争の幕引きを行い後は交渉によって自分たちの権利を主張するというのが常道の筈だからだ。竜宮だって、軍事政権が倒れていなければ日本と同じ事をした筈だった。しかもマリアナ諸島での戦いは、本来ならば竜宮本土を巡る戦いであった筈だからだ。
 確かに連合軍の提示した無条件降伏という条件は過酷だが、これも軍の無条件降伏もしくは相手国の条件を認めない事を示しており、国家の主権まで奪わない事は少しでも考えれば分かることだった。無論、先の世界大戦後のドイツのように多くの賠償や領土割譲、軍備の一方的削減と制限は受けるだろうが、既に戦争に負けたのが確定的なのだからそれを受け入れるのが理性の上での筋であり、国家指導者が行うべき事だった。このまま戦争を続けても、国民の利益を損ない国家的損失を積み上げるだけで何の益もないのだ。
 加えて、仮に「一定の勝利」を求めた上での講和を考えていたのなら、今こそが絶好の機会の筈と考えられた。
 ただし、上記のような感情論や意見は、軍事政権に全ての責任をなすり付け、特殊な外交状況のおかげで処罰や賠償、敗者としての扱いを殆ど受けなかった竜宮人だから言えることだったかもしれない。しかも日本は、元々外交やヨーロピアン式の国際慣例に竜宮以上に疎く、戦況的にも四面楚歌状態で感情的にも追いつめられた日本人が容易く受け入れられる考え方でもなかった。
 このためマリアナ諸島近海での海上決戦の後も戦争は淡々と続き、日本政府が降伏を選択することはなかった。

 一方の連合軍は、マリアナでの敗北を研究し、意欲的に次の作戦準備に取りかかった。そしてここで、竜宮にとっての問題が起きる。侵攻予定地の一つに、琉球王国本土(ウチナン本島)が挙げられていたのだ。
 本来ならこれは、竜宮にとって領土奪回になるので喜ぶべき事だった。だがアメリカ軍の過剰な攻撃力だと、琉球本土全てを丸焼けに破壊した上で奪回したと宣言されることが十分に予測できた。それに侵攻される側の日本軍の行動が、現状で東南アジアで行われている暴力的になる事も簡単に予測できた。その上で日本軍が死にものぐるいで守ろうとするだろうし、日本軍が那覇を無防備都市宣言させてくれるとも考えられなかった。
 このため竜宮王国は、琉球本土侵攻に反対して台湾や奄美大島などの対案を提示する事になる。
 だが、合理性の点からアメリカは全面的には譲らず、当面に限り軍事施設以外の攻撃を制限させるだけで満足しなければならなかった。
 しかし連合軍(というよりアメリカ軍)の攻撃計画を知った竜宮は、日本を一日でも早く降伏させることに努力を傾けるようになった。
 軍事面では、潜水艦を中心とした通商破壊戦をさらに強化し、日本の港湾などに対する機雷散布もより積極的に行った。アメリカから貸与された重爆撃機も、そのためだけに使った。
 アメリカにも、地上爆撃や侵攻よりも通商破壊と機雷散布の方が効果的だと何度も訴え、詳細なレポートも各所に提出した。無差別爆撃しないのならば、マリアナ諸島や硫黄島の攻略もあえて必要ではないとまで論陣を張った。しかもこの場合、軍事政権が既に連合軍側に取り込まれている点が大きな効果を発揮した。軍事政権時代の日本との同盟によって、日本軍の行動パターン、作戦の詳細、そして日本の状態そのものを知っていたからだ。実際行われた通商破壊戦でも、以前軍事政権に属していた艦艇、兵士の方が多くの戦果を挙げていた。
 政治面では、日本の勢力圏に残る主に軍事政権時代からの竜宮人の人脈を使って日本にメッセージを送り続け、連合国に対しては日本に降伏しやすい条件を提示するように訴えた。
 こうした姿勢に連合国各国から竜宮に対する疑念や疑問が出てきたが、竜宮は日本の勢力圏下(占領下)にある自国民を守るためだといちいち説明した。ただこの答えに対しても、戦火に巻き込まれることを阻止する事よりも、取り戻すことの方が優先だろうという考え方の方がヨーロピアンには強いので、疑問や疑念がなかなか払拭されなかった。
 このため国家再統合後の竜宮は、ヨーロッパへの派兵にも以前以上に熱心となり、自らへの不審の払拭と国際地位の向上に努めた。1943年末頃から終戦までにヨーロッパに追加で派遣された竜宮兵の総数は80万人に達し、カナダやパナマ運河を経由して大西洋を押し渡った。ルキアからも竜宮本土からも兵力が続々と引き抜かれ、太平洋戦線など気にしないかのようにヨーロッパに兵力が送り込まれた。ヨーロッパの前線でも、連合軍としての献身的な戦闘が各所で展開された。重爆撃機の姿はほとんど無かったが、西欧の空に舞う航空機の5%近くが竜宮軍機(ほとんどが貸与機)になっていた。竜宮軍機を示す派手なストライプを描いた尾翼の機体は、主要国としての竜宮軍の表看板となった。
 ドイツ海軍の減退とマリアナ沖での戦い以後の日本に対向するため、海軍のかなりが太平洋に戻っていったが、南欧では陸軍、空軍共に十分主力の位置を占めた。44年の冬頃からは、軍団規模で西部戦線にも投入され一部妙な装備を持った有色人種部隊として、竜宮空軍の地上襲撃機部隊(国産の「尖竜2型」装備)と共に連合軍将兵の間ではかなり有名となっていた程だった。
 こうした努力は徐々に認められるようになり、意図したとおり国際的地位の向上にも繋がった。
 もっともアメリカとしては、取りあえず自らがうるさく言わなくても竜宮が戦争に熱心なので、竜宮の行動そのものはほぼ放任していた。竜宮兵一人のコスト(給与)の方がアメリカ兵一人のコストより安いため、竜宮へのレンドリースを増やしたほどだった。
 それよりもアメリカ自身は、自分たちの目標の一つであるフィリピンにターゲットを定めた。マリアナでの失敗も、侵攻ルートを一本化する一つの機会となった。アメリカ海軍の発言力が大きく落ちて、アメリカ陸軍というより南西太平洋方面軍を率いていたダグラス・マッカーサー将軍の発言権が大きく増大したからだ。
 侵攻ルート、スケジュールとしては、西部ニューギニアからフィリピン、台湾、沖縄そして日本本土へと北上していくルートが主要侵攻路とされた。
 だが事前作戦の日本南部から台湾、フィリピンにかけての空母部隊による空襲は9月に開始されるも、アメリカ軍は約束通り琉球王国の王都那覇の空襲は見送った。しかしこの作戦には竜宮三軍も参加し、取りあえず目標が琉球でもブルネイでもないので竜宮側に異論もなかった。竜宮はフィリピン作戦で、海空軍ばかりでなく陸軍部隊も用意したほどだった。このためフィリピン作戦は、アメリカと竜宮の陸軍が初めて共同で行う大規模上陸作戦となった。

 一方国際的にも四面楚歌の日本には、既にまともに抵抗する術がなかった。
 海軍主力は、書類上以外では既にほぼ壊滅していた。空母や戦艦は多数残っているが、多くがいまだ修理の順番待ち状態だった。修理が完了したのも、損傷の軽い数隻だけだった。特にドックでの修理が必要な大型艦の修理は遅れていた。最も有力な戦力である《大和級》戦艦の修理を優先した事が、逆に修理スケジュール全体を後らせることになっていた。
 また、生き残った空母の半数近くと数隻の新造空母が瀬戸内海でたむろしていたが、既に空母からの発着ができる搭乗員の数が揃えられない状態だった。
 1944年秋の台湾沖での大規模な空中戦で、取りあえず数だけ揃えた艦載機部隊も母艦を用いずに戦闘に投入されて消えて無くなっていた。同じく再建途上だった基地航空戦力も壊滅状態だった。敵潜水艦による通商破壊戦に対する防衛は既に破滅的状況に陥りつつあり、自らの海上交通維持も大陸寄りに迂回できる台湾はともかく、フィリピン方面では兵力移動すら責任が持てない有様だった。
 台湾沖の戦いでは、現場からの派手な戦果報告にすがってみたが、なけなしの戦力を動員して追撃してみたら、自分たちの報告が全くの虚報だった事を思い知らされただけだった。この真実を国内の他の部署に伝えることはなかったが、自らの損害の大きさを理由にして既に海上交通維持や兵力移動に責任が持てないという言葉にすり替えられた。そして日本の大本営は、海軍が出撃不可能で海軍航空隊の一時的壊滅もあるため、台湾もしくはフィリピンでの決戦が不可能だとの判断を下すに至る。それよりも台湾かフィリピンに攻め込まれないうちに、南方からの資源輸送に全力を傾ける事になった。大本営全体の方針でも、フィリピンに既に送り込まれた部隊に対しては、できる限り他方への移動(兵力転用)を行うが、それ以外については徹底した持久戦と固守が命令され、市街地など防衛が難しく攻撃されやすい場所から日本兵は姿を消していった。
 この時点で日本は、本土決戦に向けて動き始めたのだ。
 そして日本政府首脳を本土決戦に向けさせた理由が、戦争経済にあった。

 日本の生命線である海上交通網は、竜宮の脱落以後急速という以上に悪化した。1943年秋の時点で何とか700万トンを維持していた船舶量は、僅か一年間で400万トンも沈められ、これに対して補充できたのは150万トンだった。このままいけば、1946年春までに日本商船隊は消えて無くなると予測された。
 そして海軍は、艦艇の事実上の壊滅に加えて航空戦力の枯渇、さらには海上護衛戦の失敗によって、マリアナ沖での勝利をピークとして急速に士気を低下させ続けた。逆を言えば、終戦に向けてより一層活発に活動するようになった。
 しかし国からの虚報ばかりを伝えられ、国際情勢、各国の正確な情報を知らない日本国民は、まだまだ抗戦意欲にさして衰えを見せていなかった。海の状況を知る者と、上空に飛んでくるようになった巨大爆撃機を見上げる者が、疑問を感じる程度だった。
 一方日本陸軍は、自分たちにとっての「決戦」をまだ行っていない事もあり、面子にかけても士気を落とすわけにもいかなかった。実際意気軒昂と言える者の方が圧倒的多数派で、支那戦線では大規模な攻勢作戦が動き始めてすらいた。南方での敗北、ビルマ方面での大失敗も、別の理由に責任転嫁されたり局地的な事象でしかないと考えられた。
 このため「負けるための決戦」が必要だという認識が、終戦を模索する人々の間で頭をもたげる。
 そしてお膳立ては既にかなり揃っていた。
 まず最初の衝撃は、竜宮本国の軍事政権の突然の崩壊だった。すぐさま竜宮が一つに合流して日本への積極的な攻撃を開始した事も大きな衝撃だった。
 連合軍の爆撃機は、早くは1943年の末に関東平野東部に現れた。
 翌年3月には、チウプカ半島からの奇襲的な大規模夜間爆撃で、日本が最も重視していた北樺太油田が周辺基地共々壊滅的打撃を受けた。ヨーロッパと同様に高度な電波妨害を行いつつ突如低高度から侵空してきた300機以上の重爆撃機相手では、統制の取れた夜間戦闘がままならない日本の防空網では、高射砲を打ち上げる以外にどうにもできなかった。また北部からは、北海道、東北各地の軍事施設や室蘭、釜石の製鉄所が散発的な爆撃と、港湾部の機雷投下が開始された。関東でも太平洋岸の港湾は、飽和状態の機雷により既に壊滅的だった。
 そして1944年6月の決戦では、戦略的には勝利するも、海軍主力部隊が事実上壊滅して二度と海上決戦が出来なくなった。同年10月には、海軍の航空隊までが壊滅的打撃を受けた。ニューギニアからフィリピンにかけての戦いでは、陸軍航空隊の損害も甚大だった。そして連合軍はついにフィリピンに上陸し、決戦を避けた日本軍はルソン島の奥地に籠もった持久戦で対応した。
 あとは、次に連合軍が攻めてきたときに、負けるための戦いを行うだけだった。日本に出来る選択肢はそれだけだった。
 しかし問題が一つあった。
 連合軍が琉球王国に侵攻した場合だ。
 この場合、竜宮の領土内での戦闘となり、日本領内での戦いではなかった。しかも住民が裏切る可能性が高いと、日本軍では考えられていた。現に10月の空襲では連合軍のビラが撒かれ、住民は戦闘が始まったら極力山間部などに待避するようにビラには書かれていた。現地の日本軍将兵も、竜宮は裏切り者だと思っていたので、住民に対して酷い対応をする場合が多く既に民心は失われていた。両者の関係悪化は軍事政権崩壊後に日本軍が大挙乗り込んできて来て、王族や王朝中枢を完全に軟禁、拘束した時から始まっており、元々琉球本島が食料を自給できない状態だった事が、住民の日本軍に対する悪感情を育てた。
 琉球でも、大東亜共栄圏の一般的な姿が再現されていたのだ。
 しかし琉球本島は、泊地として利用しやすい湾や入り江が多く、島内には飛行場に適した平地が数多くあった。現に日本軍も竜宮軍が建設した島内各地の飛行場や泊地を利用していた。しかも日本本土に攻め上がるため、琉球本島は手頃な位置に存在した。
 次に連合軍が攻めてくるのは、台湾か琉球のどちらかだった。そして琉球に攻めてくる可能性の方が高いと判断されていた。竜宮が奪回を求めるだろうとも考えられたからだ。
 このため多数の陸軍部隊が、琉球本島に派遣された。
 日本内部の終戦派と海軍全般も腹をくくり、最後の決戦準備へと入った。

 逆に大いに焦ったのが、竜宮王国だった。
 日本は何故か一向に降伏する気配が無く、ましてや外から見ている限り徹底抗戦の準備を着々と進めているようにしか見えなかった。
 日本の終戦工作をしている者や、日本海軍との水面下での接触は活発になったが、どちらにせよすぐに日本が降伏すると言うことはあり得そうになかった。
 一方で、合流後の竜宮が積極的に進めた通商破壊戦と機雷戦は、アメリカ海軍がすぐにも全面的に支持してくれたため、連合軍全体で極めて順調に進んだ。多数の重爆撃機を使って無差別爆撃するよりも費用対効果がはるかに高く、死傷率も低いという詳細なレポートも提出され、アメリカ軍内部でも爆撃予算をどんどん海軍が奪っていた。夜間低高度爆撃の効果は、北樺太油田の破壊で日本軍に対して極めて効果的な戦法だと言うことは判明していたが、それよりも安上がりで犠牲の少ないプランがあるのならば、合理性を尊ぶアメリカの選択は決まっていた。マリアナ諸島の攻略をし直さなければならないとなると、尚更大規模無差別爆撃の必要性は低下した。しかもアメリカ海軍は、侵攻作戦のイニシアチブをアメリカ陸軍に奪われた事への対向として、都市爆撃よりも潜水艦戦、機雷戦を押し進めた。
 爆撃と通商破壊には、アメリカでの陸軍と陸軍内の空軍建設論者と海軍の対立があったが、太平洋では同盟国である竜宮を政治利用した海軍に軍配が上がった。対日戦に使う弾薬も、使うアテのない焼夷弾からいくらでも需要のある機雷や魚雷にシフトした。
 それでもアメリカ陸軍の一部は、既に生産したり準備した資材の有効活用を理由にして日本本土爆撃の計画を進めたが、竜宮本土からでは限界も早かった。地理的要因からどうしてもクリアできない問題が多いため爆撃の効果は低く、「B-29」の生産数と予算は削られる一方だった。1945年2月に大規模無差別爆撃のための切り札として竜宮本土に送り込まれたカーチス・ルメイ将軍も、場所が限られ装備(機体、武器・弾薬)が少ない状態では打てる手は限られていた。デモンストレーション的に東京市街地への夜間無差別爆撃を限られた規模で行ってみたが、アメリカの中枢を動かすには至らなかった。
 逆に海ではアメリカと竜宮の潜水艦が溢れ、日本本土近辺での制空権を奪うため空母のさらなる増産も進んでいた。陸軍と海軍の争いは、航空機業界と造船業界の争いでもあったのだ。そう言う意味では、日本軍が度重なる決戦でアメリカ海軍に大打撃を与えた事ですら、アメリカ造船業界の追い風になった。アメリカでは、多数の巨大空母の建造と並んで6万トンの巨大戦艦の建造が終戦まで続けられたほどだった。
 損害を埋めるための発注の増加は勿論だが、海軍の増強なくして日本の打倒は叶わないと言う論法が、正論として最も重視されたからだ。

 しかし実質において、既に日本海軍に往年の勢いはなかった。アメリカ海軍と海軍のシンパとしても、そろそろ日本が両手を上げてくれないだろうかと考えるようになっていた。無論、アメリカ陸軍とその後ろにいる連中を勢いづかせないためだ。日本本土決戦は、アメリカ海軍にとって政治的な不利益となる要素が多かった。アメリカ海軍として後やっておきたい事は、日本海軍に一度勝利して日本の巨大戦艦を叩きつぶしたいぐらいだった。
 こうしたアメリカ国内での一部の思惑から、竜宮の対日終戦工作にアメリカ海軍と後援組織が好意的態度を示していた。それにアメリカ海軍にとっては、自由政府の時から竜宮には幾つもの借りがあり、軍事政権と合流したからと言ってもなかなか粗略には扱えなかった。人種が違っても、流石に命の恩人を疎かにする考えはアメリカ人にもなかった。
 かくして太平洋戦線では、日本の降伏を巡った最後の攻防が始まろうとしていた。


●フェイズ46「近代23・大戦終了」