■フェイズ46「近代23・大戦終了」

 1945年2月5日、連合軍は日本軍の予測を裏切り、台湾へと侵攻した。
 作戦の変更は1944年12月に決定され、主な役割を果たしたのはアメリカ陸軍だった。
 太平洋の戦争で、アメリカ陸軍はいいところがなかった。
 南太平洋方面での消耗戦ではある程度活躍できたが、規模がどうしても限られていた。竜宮本国への侵攻作戦は、準備中に消えてしまった。派手な戦闘を何度かした上に何度も壊滅的打撃を受けただけの海軍に、いいところを全部持っていかれていた。
 気合いを入れたフィリピンでも、たいした戦闘をしないままに消極的な動きしかしない日本軍の持久戦に巻き込まれて戦力だけが拘束された。政治のために、日本本土での空襲で得点を稼げなくなった。しかも既に終戦への道筋が示されつつあった。
 そこでアメリカ陸軍は、日本降伏の前にどうしても大きな金星を太平洋方面で挙げておきたかった。
 幸いフィリピンでは大規模な戦闘がないまま進んでいるので余剰戦力と余剰物資があり、沖縄侵攻に用意していた戦力を合わせれば十分に台湾侵攻は可能と判断された。
 しかも初期の頃の作戦計画では、沖縄でもフィリピンでもなく台湾に攻め込む予定だったので、ある意味原点回帰は政府内での受けもよかった。

 日本側の台湾防衛には、関東軍の精鋭を引き抜いて増強した4個師団の陸軍部隊を中心に合わせて15万人の兵士が駐留していた。また現地日本人は約60万人を数え、台湾住民のほとんども日本人という意識を持っている土地だった。当然ながら、民兵や軍属、義勇兵などの数も非常に多かった。
 このため日本側も本土決戦の前哨戦として打ってつけと考えており、現地での日本軍属への動員や協力体制を積極的に作っていた。また大陸からも近いため増援も送り込みやすく、日本陸軍などは航空隊による反撃も容易いと考えていた。当時作戦中だった支那内陸部での大規模な作戦は米軍の台湾侵攻が分かると急ぎ上中断され、台湾近くの大陸各所には陸軍部隊が移動し、さらには臨時飛行場が多数建設された。台湾では、徴用されたり民間防衛隊として組み入れられた民間人の数だけで、数だけは20万人にも及んだ。志願者はそれ以上いたのだが、現地の日本軍には武器がなかった。
 一方で南九州を中心にした迎撃体制を整えつつあった日本海軍にとってはほぼ寝耳に水の台湾侵攻であり、戦力の移動半ばで戦闘が始まって初動で大きく出遅れることになる。
 しかも連合軍は、日本軍が考えていた以上の戦力を揃えた。
 連合軍は、マリアナへの再度の侵攻、その後の硫黄島侵攻も大きく先送りして台湾に戦力と物資を集中させた。アメリカ軍だけで陸軍2個軍団、海兵隊1個軍団による1個軍(第8軍)を編成し、さらに竜宮陸軍も後詰めを含めほぼアメリカ陸軍と同じ編成に改変された1個軍団を準備した。
 合わせて11個師団40万人近い上陸部隊となり、支援部隊を含めた作戦参加兵力は60万人を優に超え、ノルマンディーを越えて史上最大規模の大渡洋作戦となった。総司令官は、マッカーサー大将だった。
 作戦参加する戦闘艦艇も1000隻を数え、上陸舟艇などを含めた作戦参加船舶数は実に6000隻、参加航空機数は艦載機だけで約2000機、支援、輸送など全てを含めると4000機に達した。あれだけ日本海軍が叩いたアメリカ太平洋艦隊も、新鋭戦艦や新鋭空母が続々と加わっており、日本軍による偵察報告でも空母部隊がアメリカだけで3群、さらには見たこともない巨大戦艦の姿までが確認されていた。
 しかも作戦には、太平洋方面にある全て戦力の集中が求められ、日本本土を攻撃(機雷散布)していたB-29も総動員された。
 竜宮海軍もさらに増強されており、空母は4万トン級の戦艦から途中大型装甲空母へと改装した新鋭の《天伯》《天公》二隻が加わり、海軍のほぼ全力が参加していた。
 また遠くイギリス本土からも空母と戦艦多数を含む有力な艦隊が来援した。そしてイギリス海軍が来たことで、アメリカ、イギリス、日本、竜宮という海軍の主要国が最も多く参加した戦闘としても記録される事になった。

 しかし日本海軍には、既にまともに動かせる艦隊がなかった。
 戦艦も空母も編成表の上では多数残っていたが、巨大戦艦の《大和級》はいまだ2隻がそれぞれ専用のドックの中で修理を行っている有様だった。半年以上経っても、修理が完了していなかったのだ。
 その上、連合軍のフィリピン侵攻以後南方資源地帯との連絡が絶たれ、石油不足に悩んでいた。北樺太油田は懸命の復旧作業が続けられていたが、嫌がらせの攻撃などの影響もあって、依然として最盛時の三割程度(※年産60万トン程度)にしか復旧していなかった。そして皮肉な事に、多くの大型艦が生き残っていることが、海軍の足を引っ張っていた。修理することで多くの労力と資材、施設を使い、さらに艦艇を維持するために大量の燃料を日々消耗しなければならなかったからだ。旧式艦の中には、燃料不足のため稼働状態に置かれずに防空砲台として使用されているものが出始めている始末だった。
 空母も形だけは完成したばかりの6万トン級の超大型空母すら残存し、編成表の上では依然として竜宮海軍を凌ぐ堂々たる艦隊が存在した。だが、戦闘力を支える燃料も艦載機もないので、多くが疎開状態に置かれていた。まともに活動している艦艇は、潜水艦と海上護衛艦艇のみとなっていた。艦艇単体の大きさでも、シンガポールに籠もった状態の数隻の戦艦(航空戦艦)と重巡洋艦を除けば、軽巡洋艦が最大だった。シンガポールの艦隊も、連合軍の侵攻を止めるための抑止力と言うよりは、連合軍の急な侵攻のため本国に帰る機会を失ったに過ぎなかった。
 それでも日本本土では、何隻かの戦艦や大型空母を動かすことが可能だった。だが、台湾近海に至るまでに沈められることが分かり切っているため出すに出せなかった。とはいえ航空隊の特攻(自爆攻撃)が多数出ているのに連合艦隊は何をしているのかという感情的な意見も多くあったため、大型艦全てを実質的な活動停止状態に置いて、浮いたリソースを他の戦力拡充や防衛に回すこととされた。ボイラーの火を最低限以外落とし、ハリネズミのように搭載された機銃も殆ど下ろされていった。依然修理ドックにあった艦艇の修理も実質的に中止され、本土決戦用の小型潜水艦の量産に切り替えられた。大型艦の乗組員達も、他の任務に振り向けられていった。
 そして日本海軍の主戦力は、全ての航空隊を結集した航空艦隊となったが、こちらも問題を多く抱えていた。既に熟練搭乗員が枯渇しているため、主な戦法もフィリピンでの戦いで初めて行われた「神風特別攻撃隊」という名を与えられた自爆攻撃、俗に言う「特攻」が主体となりつつあった。また日本陸軍の艦船に対する攻撃の主体も自爆攻撃に移行しつつあり、台湾防衛と言うことでかなりの力を入れていた。
 また日本陸軍は、決戦場が台湾と分かった時点で中華地域の奥地にいた戦力を沿岸部に戻す向きを強め、次に起きる可能性のある中華地域での連合軍との戦いに備えようとした。台湾対岸や上海近辺には、続々と陸軍部隊が移動しつつあった。

 そして始まった台湾での戦いそのものは、これまでの太平洋各地での戦いを規模の面で大きくしただけだった。
 制空権、制海権は連合軍が常に握り、自爆攻撃が加わったところで侵攻作戦を失敗に導くことはできなかった。
 しかし今度の戦いでは、住民が積極的に日本軍に協力した。アメリカ軍などは、日本の植民地のため住民は連合軍に味方するだろうと安易に考えていたが、住民達の忠誠度は日本人並に高かった。このため戦闘に巻き込まれた非戦闘員の犠牲も大きく、各地の都市では市街戦や占領後のパルチザン運動も展開された。日本兵の戦死者は最終的に13万人に達したが、抵抗したり戦闘に巻き込まれた非戦闘員の死者は兵士の数を上回った。山間部奥地では、戦争が終わってもゲリラ的な抵抗が続けられた。
 しかしなまじ平地や市街地での戦いとなったため、一部の強固な野戦要塞や陣地に籠もっている以外の日本陸軍は比較的容易く撃破され、戦闘開始から一ヶ月もすると台湾での戦闘も下火となった。またアメリカ軍の戦死者数は1万人を越えたが、マリアナ諸島の海上で受けた約7万人の戦死者に比べれば常識範囲でしかなかった。
 結局戦力の逐次投入となった日本陸海軍による航空攻撃も、連合軍側の濃密な迎撃網に捕まって消耗してしまった。また基地を沖縄などに無理して進めた海軍の消耗は、完全に限界を超えてしまっていた。この移動の際、航空機はともかく燃料弾薬、整備兵、支援要員などを積んだ輸送船は無理な移動中を集中して攻撃され、多くの犠牲を出していた。しかも日本軍の移動を、現地のコーストウォッチャーが連合軍に教えていたから尚更だった。琉球諸島の名もない小さな島には、竜宮軍が潜水艦などで極秘に入り込んだりしてすらいた。
 台湾での組織的抵抗は、実質1ヶ月半で終了した。現地司令部は、山岳地帯の奥地で僅かな残存兵力や先住民族と共に抗戦を続けていたが大勢は明らかだった。
 3月初旬には日本の中枢でも、台湾情勢覆しがたいと天皇に報告が挙げられ、天皇の口から「時局の収拾についもそろそろ考えなければならぬと思うが皆の所見はどうか」という発言があり、ついに日本中枢が終戦に向けて動き始める。
 この背景には、マリアナ、台湾沖で実質的戦力を無くして早々に終戦に傾いた日本海軍の活動と、本土決戦のための根こそぎ動員を開始した日本陸軍中枢が自国の現実を直視した事が影響していた。海軍には既に駒そのものがなくなり、陸軍の新しい駒は全部紙切れだった。
 つまり、もう戦いたくても戦えないのだ。
 あとは落としどころを探るだけだと、一部のパラノイア以外は考えるようになっていた。
 日本国民の多くも、3月に入る頃から新たにフィリピンのルソン島を拠点として日本本土各地を我が物顔に飛び始めたB-29を前にして、現実を直視するようになった。白銀の怪鳥は、陸上目標は一度東京を大規模に爆撃した他は発動機工場や製鉄所、一部の軍事基地ぐらいしか狙わないが、海では港や海峡に手当たり次第に機雷を落としていた。北からの機雷投下も、日増しに酷くなった。あまりの機雷と潜水艦の物量を前に、4月にはルキア方面から飛来する機体のために北海道、樺太は完全に孤立するようになった。北樺太の油田はある程度復旧していたが、既に本土への移送すらままならなかった。日本海にも連合軍の潜水艦が入り込むようになり、瀬戸内海ですら船よりも機雷の数が十倍多いと言われるほどで、木造船以外では漁業すらままならないほどだった。
 そして日本政府と連合軍は水面下での交渉を本格化させるようになり、日本は国体護持を最低条件として他を譲る姿勢を示した。

 日本政府と連合軍の秘密交渉で、大きな役割を果たした国があった。第二次世界大戦、太平洋戦争のおかげで、世界から半ば忘れかけられていた国、極東共和国(ファー・イースト・リパブリック)だ。
 極東共和国は、一応の多党制と議会民主制を敷いていたが、元ロシア極東地域であり建国の経緯もあってソビエト連邦の影響が強い国だった。1930年頃までは日本、アメリカ、イギリス、竜宮など様々な影響もあったが、1935年頃になると影響を与える国はソ連と満州を制した日本だけになっていた。
 そして経済的には日本(+満州)、政治的にはソ連との関係が強くなり、独ソ不可侵条約締結以後は「中立宣言」を出すことで、日本、ソ連双方の緩衝地帯となることを選択。両国にも消極的に認められ、日ソ中立条約成立以後は完全な中立状態へと入った。中立状態により日本、ソ連共に防衛線を多くを抱え込まずに済むので、極東共和国は両者にとって利益があったからだ。
 そして太平洋戦争中の極東共和国は、日本と隣接する国の中で唯一どの戦争にも関わっていない完全な中立国となり、この時点でも連合国に参加していなかった。
 連合国に与したら日本の関東軍が押し入ることが分かり切っていたので、ソ連政府の強い指示で中立を宣言していたのだ。日本の方も、一時期は占領を企んでいたが、戦争が思わしくなくなってからより一層中立を支持するようになり、さらには連合国との交渉窓口として利用するようになった。
 連合国から極東共和国には、竜宮軍事政権崩壊以後ルキア地方のチウプカ半島南端からオホーツク海、アムール川を経由して入れるようになり、日本も樺太から交渉相手を出せるようになった。両者が落ち合う場所は、ハバロフスクかウラジオストク、もしくは満州国のハルピンだった。
 なお連合国が使った経路は、竜宮軍事政権崩壊以後ソ連へのレンドリースの主要補給路としても使われていたため往来が多く、秘密交渉のために入り込むのも比較的容易だった。
 無論どのような場合も秘密裏に行われそれでも危険を伴ったが、1944年に入ると両者の秘密交渉は頻繁に行われるようになった。しかし交渉が本格化すると、同国に影響力の強いソ連が強く干渉するようになり、1944年の夏頃には同国での交渉は難しいものとなった。しかしソ連の動きは、日本、連合国共に警戒感を抱かせるようにもさせ、場所を移して交渉は深まるようになる。
 また、ソ連がドイツとの戦いで優位に立ち始めると、ソ連は極東共和国への影響力を強めるようになり、これに対して極東共和国は竜宮やアメリカ、イギリスを頼る向きを強め、両国も主権侵害だとして抗議するようになった。

 そして日本に無条件降伏を求める連合軍内での動きだが、基本的にアメリカ国内での声が一番強かった。この中で竜宮は、半分以上が途中まで敵だったので発言権はあまり認められず、アドバイザーやオブザーバー的な扱いしか受けなかった。軍事政権時代の脅威を受けたオーストラリアからは、何度も悪し様に罵られたりもした。
 それでも竜宮王国中枢は、次なる対立の構造を見ながらの発言をアメリカ、イギリスさらには英連邦諸国や西ヨーロッパ諸国にも繰り返した。
 竜宮の表向きの弁は、日本を一日でも早く降伏させて、日本占領下の自国領の安全を確保したいというものだった。
 しかし水面下では、ソ連及び共産主義者の脅威を訴え続けた。
 竜宮はユーラシア大陸の僻地でソ連と直接国境を接しており、これからは直接ソ連の脅威と向き合わねばならず、一国では絶対に不可能だと言った。また中華全域が万が一にも赤化した場合、北東アジア全域の安全保障が脅かされるとも重ねて言った。対抗するためには、当然ながらアメリカ、イギリスの助力が最も必要だと言ったが、もう一つの要としてある程度の力を維持した状態の日本が必要だとした。アメリカやイギリスも、竜宮の安定のためには日本という北東アジアの中核となる国と、緩衝剤が必要だと言うことは理解していた。言ってしまえば、ヨーロッパと似たような構図である。
 そうして竜宮は米英の内諾を得た上で、日本を一日も早く降伏させて、日本にソ連と向き合えるだけの余力を残しておくべきだとした。また、出来うるなら極東共和国、満州、朝鮮をそれぞれ自立させて自由主義陣営に加えるべきであり、北東アジアの連携と連合によってこそ、アジアは共産主義、ソ連の脅威から守られると論陣を張った。逆に現状の中華民国は、国民党は実質的に全体主義政権な上に現状では統治能力が低く、中華共産党とは組む事自体が考える以前の問題なので、どちらにせよ現状では組むに値しないという意見を中華民国以外の国に内密で訴えていた。
 この声がどこまでアメリカ中枢、ルーズベルト大統領に届いたのかは定かではないが、イギリスからは一定の理解を得て、アメリカの一部でも竜宮の意見を支持する動きがあったのは間違いなかった。
 竜宮の動きの結果か、アメリカ国内では「ソフトピース派」と呼ばれる日本の早期講和実現を目指す一派が有力となった。国務次官で知日家のジョセフ・グルーが中心となって、日本に対する降伏への道筋が示されることになった。日本に事実上の最後通牒を突きつける役割を担ったコーデル・ハルも残った政治力を使い、「ソフトピース派」を支持した。
 日本に送られたメッセージは、「最低限の統治能力(国体護持)を認める」「大西洋憲章に従い、国家の主権は国民が選ぶ」で、それ以外は日本政府の条件と認めないという意味での無条件降伏案であった。

 日本の降伏は、竜宮の変節以後の激しい抗戦を考えると、意外に呆気なかった。
 日本にとっての最後の衝撃は、ドイツ降伏だった。
 それまでに、連合軍の台湾上陸の失敗の責任を取って東条内閣が国内での謀略事件の責任を取る形で2月15日に総辞職し、同月17日に鈴木貫太郎内閣が成立した。
 その後は台湾での戦闘もほぼ沈静化した4月5日にソ連が中立条約不延長を通告し、日本の対ソ不審が一気に高まると同時に戦争を終わらせる時期が来たことを日本人に教えた。
 その後4月12日にルーズベルト大統領が死去した事でアメリカ政府に混乱が見られ交渉は一時中断したが、4月30日にドイツ首都ベルリンに星条旗が翻り、5月6日にドイツ無条件降伏したことは日本にとっても大きな衝撃となった。
 日本の終戦は5月15日で、東京湾での降伏調印は6月2日となった。


●フェイズ47「近代24・総決算と戦後処理」