■フェイズ47「近代24・総決算と戦後処理」

 1945年5月15日、第二次世界大戦は終わった。
 ドイツの首都ベルリンには星条旗が翻り、日本はアメリカの予測よりも早く降伏を受け入れた。
 ベルリンなどブランデンブルグ地方を掠奪できなかったソ連は大きな不満を抱えていたが、それでもヤルタでの取り決めで戦闘終了後になってからソ連赤軍がベルリンに踏み込んできていた。これに対してアメリカ軍と共に西から進撃してきた竜宮軍は、ベルリン攻撃、ベルリン占領の双方には参加していない。それどころかドイツの占領統治にも委員会以外では参加せず、ヨーロッパに派遣された大軍も一時期イタリア、ユーゴスラビア、チェコなどに枢軸軍の武装解除と暫定的な治安維持のため駐留したに止まっている。
 黄色いアメリカ軍や黄色いブリテン軍とも言われた竜宮軍のヨーロッパでの終着駅は、実質的にはベネツィアとプラハだった。

 この戦争での竜宮の総決算は、最大動員兵力数340万人、戦死者11万人、民間人死者1万人、戦費480億ドルと一般的には言われている。
 1941年当時の竜宮全体の人口が約4800万人なので、人口比約7%が軍に動員されたことになる。しかし1943年秋まで国家が分裂状態だったため効率的な戦争運営は望むべくもなく、全体での効率的な動員が行われたのも1944年に入ってからで、これが戦費の低下に影響した。
 また基本的に海空軍を重視するため工業生産に努力を傾け、陸軍の動員を抑止したことが動員数の低下につながっている。
 本国近辺での主戦場が世界最大の海洋だったことも、兵力の動員、軍人の動員を抑制した。
 しかも1939年から43年の4年間の間、戦争によらず国が二つに分裂して独自の判断で戦い合っていた事、国の領域が幾つかに分断されたままだった事も、動員数の低下につながった。実際ブルネイ島の人口は約500万人だったが、様々な面で近代化が遅れていた事から、一部が軍事政権時代に動員された以外ではほぼ何もしないまま戦争を過ごすことになった。徴兵よりも志願兵の方が多かったほどだった。
 しかし竜宮自身が、当時の日本よりも高い一人当たり所得だったため、戦費自体はかなり高額を示している。それでも主要参戦国の中では最も低い金額であり(※除く中華民国)、地理的にアメリカ経済と連動できた事と、アメリカから豊富なレンドリースも受けられたことも重なった事も戦費の低下につながった。
 一方戦死者も、主要参戦国の中では最も少なかった。
 主な理由は、大規模な陸上戦闘を行わなかったからだ。
 太平洋方面での戦いのほとんどは海空戦で、僅かに小さな島嶼での攻防戦しか地上戦はなかった。
 太平洋でまとまった兵士が激しい地上戦を行ったのはほぼ台湾のみで、他は海軍に属する海兵隊が各地の島嶼で戦ったぐらいだった。陸戦はむしろヨーロッパに送られた兵士達が行っており、陸での戦死者の数もヨーロッパ戦線の方がずっと多かった(※約7万人)。太平洋での主な戦死者も船舶の沈没によるものが一番多く、船舶乗員は軍属として徴用されているので軍人の戦死者にカウント(約3万人)されている。
 また竜宮の民間人の戦死者も地上戦や大規模な無差別爆撃が少なかったため、大戦終末期に行われたブルネイ島の陸戦での死者がほとんどで、あとは各地の空襲での被害になる。
 つまり竜宮は、未曾有の破壊をもたらした戦争を、偶然から比較的うまく切り抜けられたと言えるかもしれない。
 しかも竜宮は、領土がアメリカに近いほど戦争特需に湧くこととなった。特に自由政府の本拠地となった新竜領は、アメリカ軍の太平洋の事実上の出発点となった事で多数のドルが落ちた。1944年頃からは、竜宮本土、ハワイ諸島も似たような状況となった。アラスカやルキアの一部ですら好影響を受けた。また新竜領は、常にアメリカとの円滑な相互貿易・交流ができたため、アメリカの戦争景気にあやかることもできた。
 そして1944年頃からは、竜宮本土が対日攻撃の最重要拠点とされた。アメリカ軍の補給拠点、修理拠点、物資調達拠点として最大限に活用されたため、大きく潤うことになった。1945年春には、約30万人のアメリカ軍将兵が竜宮本島にいたほどだ。仮に戦争が続いて日本本土侵攻を行っていれば、作戦の直前には100万人ものアメリカ兵が竜宮本土に溢れていた可能性もあった。
 とはいえ、アメリカのような好景気には至らず、また軍事政権時代終盤では酷い困窮にも見舞われた事もあって、経済は乱高下したと表現する方が正しいだろう。
 また戦費を戦争特需でまかなうにはほど遠く、戦後も債務の返済には相応に苦しむ事になる。

 しかし竜宮は幸運だった。
 戦争中盤まではどこからも継子扱いされた筈の自由政府のおかげで、戦勝国の中でも主要国に含まれた。古くからのイギリスのパートナーとしての存在感も示せた。自由政府時代の竜宮の国力は低かったのだが、それでもフランス崩壊後に唯一まともな近代国家として機能していたのが竜宮の自由政府だけだったという点は、誰も無視できなかった。僅かながら、イギリスの窮地を助けたこともあって、1940年後半から42年にかけては大きなニュースとしてイギリス国民を勇気づけたりもした。北アフリカ戦線、地中海戦線、イタリア戦線では、陸海空の三軍が連合軍の一翼として戦った。バトル・オブ・ブリテンで空に散ったパイロットもいたし、イギリス海軍と共にドイツの巨大戦艦を追いかけ回した事もあった。ヒトラーに悪し様に罵られた事もあった。戦争終盤には、フランスからドイツ本土に進んでいった部隊もかなりの数あった。しかも捕虜となるとナチスの人種差別の洗礼を受ける可能性が高いと言われていたため、竜宮兵は非常に勇敢に戦った。「セブン・ストライプ」と言われた竜宮国旗は、ヨーロッパでもかなりの知名度となった。
 そして、身内とはいえ軍事政権を抑えたのも自由政府であり、お互いの戦争になってからは全く手抜きせずに同胞相手に戦った事も評価された。その軍事政権をクーデターで一瞬で崩壊させたのも自由政府と国王の存在があればこそであり、軍事政権の崩壊がその後の日本の急速な崩壊にもつながった。
 しかも大戦序盤は形だけ、その後徐々に増えて大戦後半は実質的にヨーロッパ方面にもかなりの兵力を派遣したため、実のところ太平洋、ヨーロッパ双方に大軍を置いた国の一つとして他国も無視できなくなっていた。同じ事をしたのは(できたのは)、アメリカとイギリスだけだったからだ。
 竜宮は間違いなく主要参戦国であり、そして主要戦勝国だった。
 1942年1月の連合国共同宣言にも参加し、1943年11月の「カイロ会談」ではイギリスに呼ばれる形ながらも参加した。
 なおカイロ会談でイギリスのチャーチル首相は、連合国に加わっている中華民国か竜宮自由政府のどちらか一方をアメリカへの牽制のために呼ぶことを考え、自由政府側の積極的なアプローチと地理的な呼びやすさから自由政府が選ばれたとされている。また戦友としての要素も竜宮の方が高かったのが、竜宮が選ばれた原因だとされる。幼い竜宮王の軍隊はヨーロッパで戦っていたが、頑迷な蒋介石の軍隊は一兵もヨーロッパにいなかったからだ。
 その後も、国家再統合後の1944年7月の「ブレトン=ウッズ会議」、同年8〜10月の「ダンバートン=オークス会議」では、主要国として参加した。
 そうした会議に参加したのは若すぎる国王ではなく、自由政府の森千首相で、1939年の首相就任時43才の若輩ながら大国の首脳達と対等に渡り合った。

 森千首相は、新竜領出身の国際法に通じた弁護士で、若くして博士号を得た敏腕の弁護士として知られていた。
 彼は、特進(飛び級)で若くして大学院を出るとすぐにも弁護士として活躍し、北アメリカのアメリカ人、イギリス人とも渡り合い、その後30才を前に高い名声と人気を得ると冬霞州の州知事として政治家に転身した。その後さらに名声を高めて新竜王国首相に選出されるも、その翌年には竜宮が全体主義の混乱期に入り、分裂直後に手腕を買われて挙国一致政党から首相に抜擢されたという経緯の持ち主だった。また彼はプロテスタント系キリスト教徒であるため、ヨーロピアンへの受けも良かった。
 しかし竜宮の国益のために妥協と譲歩をしない愛国者でもあり、若い国王に代わり果敢に他国との交渉を戦った。
 そうした気骨の強さのため「北太平洋のジョンブル」と言われ、口さがない者から「黄色いド・ゴール」とやや差別を込めて揶揄され、全ての国の関係者と良好な関係が築けたわけではなかった。特に仲が悪かったのが、中華民国で国民党を率いる蒋介石だった。
 森千首相は、中華民国を連合国唯一のファシズムと非公式に表現し、蒋介石は竜宮がことあるごとに中華民国が占めるべき国際的地位を奪っていくのであからさまに敵視した。
 しかも中華民国側は、竜宮が軍事政権が持っていた満州での利権、投下した資本の権利、在留邦人の権利の保障もしくは返還に際する譲渡金を求めた事を、竜宮が日本に成り代わる侵略行為だと非難した。
 そこで森千首相は、戦後も悪化すると予測された対中華民国対策及び外交として、欧米各国への東アジアに関する歴史のすり込み、ロビー活動を熱心に行うようになる。自国の学者、研究者、専門家、外交官、企業人を中心した人々をアメリカやイギリスに送り込み、様々な人脈を活用して会議、交流、ロビー活動を精力的に展開した。
 こうした動きは、アメリカが中華民国の日本軍に対する情けない戦いぶりに落胆した44年秋以降、大きな効果を発揮するようになった。「ダンバートン=オークス会議」の終盤でも、中華民国よりも竜宮が優位な位置を占めるに至った。

 そして竜宮が新たな国際組織で大きな地位を占めるためには、なるべく近在に自分たちを支持する国が多い方が好ましいとも考えられるようになった。
 ここで竜宮が対中政策として行ったのが、清朝に対する多民族国家論だった。
 中華民国が自国領として根拠にする先の清帝国は極めて雑多な民族を内包した多民族国家であり、漢民族による単体の国家というのは大きな誇張が過分に含まれているという論法だった。清帝国自体も、旧トルコ帝国と同様に旧時代型の膨張国家、帝国主義国家だったという論陣も張った。旧トルコ帝国と似ているという言葉は、ヨーロピアンにも馴染みやすかった。
 竜宮としては、地域としての北東アジアという地理的条件を人工的に作り上げるため、日本が中華から強引に引き剥がした満州、内蒙古などを、国家として引き続き切り離すのが目的だった。また日本領でアメリカと竜宮が攻め込んだ台湾も、歴史的に見て漢民族の領域とは言えないというレポートなどで詳細に伝えた。この竜宮の論法はソ連も自らの利益になるのである程度支持し、これまで東アジアの事にまったく疎とかったアメリカは、何も知らないので鵜呑みにするしかなかった。イギリスは自国権益に強く触れない限りは反対意見は言わず、竜宮の意見を支持した。
 こうした流れは、後に大きな政治的変化をもたらすことになる。

 話が少し逸れたが、戦争が終わろうとする1945年4月から6月にかけて「サンフランシスコ会議」がおこなわれ、「連合国憲章(国家連合憲章)」が採択された。ここで枢軸国に宣戦布告しなければ国連に加盟できないとされたので、ほとんど全ての独立国が既に降伏しようとしていた日本に宣戦布告していった。このため数日しか日本との戦争状態になかった国も多く、かえって単なる儀式だったことを印象づける結果にもなった。
 そして戦争にも完全に決着がついた1945年10月24日、「国家連合(UN)」は成立した。
 竜宮王国は首尾良く常任理事国入りを果たし、候補だった中華民国をけ落とすことに成功した。
 無論、竜宮王国の常任理事国入りには、軍事政権が枢軸として戦ったという点、国力的に役目を担えないのではないかという点などから否定的意見も多かった。ヨーロピアン達の、有色人種に対するやっかみもあった。だがイギリスは、自由政府時代からの戦争での貢献を理由にして全面的に後押しし、戦争中の経緯について竜宮と多少似た所のあるフランスも竜宮支持に回った。アメリカも、自分の言うことを聞く国と考え支持した。それにヨーロッパの他の国は、わざわざヨーロッパに多数の兵力を送り込んで血を流した国に対して、あからさまに否定的な意見を言うことも難しかった。
 徹底的に反対したのは中華民国で、少し遅れて朝鮮仮政府も同調して反対に回った。これは竜宮が、アジアの「実状」をヨーロピアンに翻訳する役割を果たしている事が、東アジアの国々にとって不利益をもたらしていると考えられていたからだった。また自分が座るべき椅子を竜宮に奪われた中華民国の怒りと焦り、恨みは殊の外大きく、一時はほぼ国交断絶状態に陥ることになる。
 そうした状況は、戦後の東アジアの混迷を現すかのようであった。そしてその中心となったのが、戦争に敗北した日本だった。



●フェイズ48「現代1・日本占領開始」