■現代
 第二次世界大戦以後の時代の事については「現代」としてくくり、可能な限り竜宮について触れつつも、アジア・太平洋を中心に世界情勢全体からの視野で記録していきたい。
 これ以後の事については、21世紀初頭の人々にとっては「年代記」として語るに至っていない時代に属すると考えるからでもある。

●フェイズ48「現代1・日本占領開始」

 1945年6月2日に日本軍事力の降伏調印が行われると、正式に日本の領域全てに対する占領統治が実行に移された。そしてこれを以て、正式に第二次世界大戦も終幕を迎えることになる。
 それよりも早い5月30日に、連合軍最高司令官となるアメリカ陸軍元帥ダグラス・マッカーサーが日本に降り立ち、この日から実質的に日本軍事力の解体と占領統治が開始される。
 彼とアメリカ軍は、日本という凶暴な国家を心理面から作り直すため、本当の戦争の勝利を確定するために日本へとやって来たのだ。降伏した頃の日本人達は、多くが腹は空かしていた。だが、沿岸部、港湾部の人々以外では、自分たちが負けたことを心理的に肯定できない者が多く、日本政府からの強い命令がなければ暴発する可能性が十分に存在した。こうした日本人たちが二度とアングロ勢力に刃向かわないようにするのが、アメリカ軍、連合軍の真の目的だったと言えるだろう。

 日本及び日本の勢力圏で最初に問題となったのは、どの国がどこを占領統治するのかという点と、どの程度の兵力を出すのかという二つの点だった。
 こうした問題が起きたのは、日本の降伏が連合軍の予想よりもかなり早かったためだ。アメリカ軍は、日本の降伏はもう半年程度最悪一年以上遅いと予測していた。だが日本政府は、連合軍が喉元を締め上げすぎたため、戦う前に飢えてしまい、降伏を選択せざるを得なくなったのだった。効果的戦術を根気強く行った結果だったが、ドイツ同様の結末を予測していた多くの人々にとって日本の早期降伏は予想外だった。
 このため連合国内で日本の占領について十分な議論や研究がされなかった事と、日本領域への侵攻がほとんどなかったという二つの要素が物心両面での問題を深刻化させていた。占領統治のために必要な多数の兵隊、事務要員ばかりか、占領に必要な物資も大きく不足しており、これが日本に対する間接統治を連合軍の側から肯定させる大きな要素になったとすら言われている。それほど何もかもが足りなかったが、しかし早急に事を決めなければいけなかった。占領統治が遅れれば遅れるほど、連合軍の負担が増えるからだ。
 青写真程度ができていた原案では、ドイツと同様に分割統治が考えられた。しかし太平洋方面での連合軍であるイギリスや中華民国は、彼らの口先はともかくそれぞれ兵力量と軍隊の質で主要な役割を果たすアメリカのパートナー足り得ていなかった。それに連合国の一員ではあっても対日戦を行っていないソビエト連邦が加わる可能性は、日本と戦った全ての国々にとって最も避けたかった。
 そこで議長国でもあるアメリカは、まずは国を絞った。
 最初に除外されたのは、当然と言うべきかソビエト連邦だった。
 ソ連は、日本との中立条約は4月5日に慌てるように破棄され、5月9日に満州国との境界線であるアイグン川を越境した攻撃もあった。だが、日本側が反撃して撃退したため、小数の現地ソ連軍は満州国にすら入り込むことはなく、結局正式な宣戦布告も行わなかった。ソ連は、むしろヨーロッパからの本格的な兵力移動が行われる前に日本軍の反撃を受けて、自分たちの領内で戦闘状態が終わることを危惧したのだ。
 それでもソ連政府は、戦闘を事実上の宣戦布告だと言い張って、日本及び周辺地域の占領統治に極めて強い意欲と熱意、そして何よりもどん欲さを示した。
 しかし、アメリカにノーと言われては、日本の領域に足を踏み入れることは出来なかった。満州北部の日本軍も、ソ連軍を睨み付けたままだったため、火事場泥棒もできなかった。
 当然ながら、ヤルタでの密約は無かったことにされ、アメリカとソ連の関係を悪化する大きな原因となった。
 しかも連合国は、日本の降伏に対して「指定された軍隊に対する日本軍の武装解除」と並行して、日本領及び満州国、内蒙古自治連合に限り「指定された国の軍隊が到着するまで、政治、軍事の一切の現状維持」という通知を出していた。
 不用意な混乱による占領後の不安要素除去のためと説明されたが、ソ連軍が勝手に満州や北樺太に入らないようにするための措置だった。
 これは日本降伏当時のアメリカ軍に、日本及びその周辺部の占領に必要な兵士の数が不足していた事が理由の一つとして挙げられる。アメリカ陸軍主力は、まだヨーロッパでの戦争が終わったばかりであり、太平洋での主要な陸軍力は南方に展開していた。これから地球を半周して移動しなければならないものがほとんどだった。アメリカ軍が本格的に各地の占領統治に入れるのは、実質的に7月になってからだった。それまでに、混乱状態、反乱、内乱、連合国の制御を離れた民族自決に向けた動きなどされては、アメリカが迷惑この上なかった。後で鎮圧・統治するのは、連合国の中でもアメリカの役割となってしまうからだ。
 また日本の占領に対して、アメリカ以外に竜宮とイギリス、中華民国が名乗りを上げていた。この中でまともな占領軍を派遣できる国は、アメリカ以外に竜宮しかなかった。イギリスはやたらと占領に積極的なオーストラリアを中心とした英連邦軍と英海軍を出すと言っているが、単に日本への復讐と戦利品漁りがしたいだけなのは明白だった。イギリス人とは、こと戦争においてはそういう人種だった。中華民国は、欧米から見たら古くさい考え方のもとで、1平方メートルでも多く1ドルでも多く奪うことしか考えていなかった。しかも中華民国の場合は、自力での移動力が国内の鉄道以外に全く存在していなかった。近代的な兵站能力もレンドリースされた以外ではほぼゼロだった。兵士の質については、近代的な兵士と言えない者が殆どを占めていた。その事は、アメリカも台湾を占領した後に直に中華民国軍(国民党軍)を見て理解していた。アメリカの見立てでは、国民党軍は優れた装備を与えて訓練すれば「戦闘」には勝てるかもしれないが、「戦争」には決して勝てないだろうというものだった。
 また中華民国にいちおう属している形の中華共産党は、主に満州での占領に強い熱意を示して水面下でも熱心という以上に動いた。だが、終戦直後からしばらくは現地の日本軍や警察組織に徹底して狩られてしまい、共産主義の拡大を強く警戒する竜宮の意見が連合軍全体で通って、万里の長城以北での活動を連合国から完全に禁止されていた。万里の長城以北での活動が禁じられたのは国民党を含めた中華民国全ても同じであり、またアメリカと竜宮が占領する台湾の統治にも参加を厳しく禁じられた。連合国として日本と戦うよりも、内乱にばかり目を向けていた事が原因だった。
 そしてアメリカ以外で、というよりも日本近在で日本占領に必要なものを一番持っているのが竜宮だった。
 竜宮はヨーロッパに合計80万人以上の将兵を派遣していたが、本国と東アジア地域には合わせて200万人以上の兵士が動員されていた。このうち約120万人が陸軍兵であり、アメリカ軍の編成と似た(戦中に似せた)大型師団が留守部隊を残して15個師団が太平洋方面に存在していた。うち6個はルキアと台湾など太平洋戦線の各地に派遣され、さらにブルネイ、琉球の統治に必要とされていた。しかしまだ9個師団が、本国又は新龍領にあった。そのうち7個師団は、終戦時日本本土侵攻のために準備されつつあり、船舶などの移動手段や兵站準備なども一番整っている状態だった。これらの部隊の全てを合わせると前線で活動する戦力としても20万人以上の兵力になる。アメリカ軍が陸軍と海兵隊を含めて初期の占領兵力として16個師団40万人を想定していたので、ちょうど半分の数になる。しかもアメリカは自らの半分をこれから準備するのと違い、竜宮は近在のため派遣がすぐにも可能だった。しかも竜宮は、海軍海兵隊や他からの転用、本国留守部隊、予備部隊の動員も最初から連合軍総司令部に打診しており、後方部隊の兵力化、警察部隊などを加えると、さらに15万人が短期間で用意できると連合国(アメリカ)に伝えていた。移動力、兵站能力の多くも自前で持っていた。
 そしてアメリカと竜宮を合わせただけで、最大で75万の兵力が動員できるわけだが、これでアメリカが日本本土占領の最盛時に必要だと算定していた85万の過半数が満たせる目処が立ったことになる。少し足りない分は、半ば野次馬の英連邦軍で事足りる数字だった。
 そうした状態で、6月6日にアメリカから日本に対して正式に占領する軍隊の通知が出された。
 日本本土の占領統治は、基本的にアメリカ、竜宮が行い、一部でイギリスが参加する事になった。満州国、蒙古自治連合政府も、アメリカを中心としつつも竜宮も参加した占領統治が決まり、現地の政府が連合国からの占領統治を受ける事とされた。竜宮が満州国に多くの利権を持ち、さらに情報や人脈を持っている事が考慮されたからだ。
 朝鮮半島については、当面は日本の旧総督府が連合国(アメリカ、竜宮)からの軍政を受け、順次内政自治を朝鮮仮政府に移すものとされた。台湾は、現状のままにアメリカ、竜宮の担当とされ軍政が敷かれた。
 とどのつまりは、アメリカ以外に竜宮がほとんどの場所で占領統治に参加する事に決まった。物理面での制約からの選択ではあったが、竜宮が参加することでアメリカ軍単独ではなく連合軍としての体裁が整うからだ。そしてこの頃のアメリカ人にとっての竜宮とは、アメリカの衛星国のようなものだという感情が、アメリカ以外の占領軍として竜宮を選ばせたとも言われている。
 また、他の日本軍占領地域は、戦争前の宗主権を持つ国が占領統治を行うことになっていた。ただし中華民国は、国民党、共産党を問わずに万里の長城以南を当面の担当地域とし、現地での日本軍の武装解除と治安の回復を最優先することが強く命令された。この事を中華民国わけても蒋介石が非常に強い不満を持ったが、日本軍が満州境界線で軍列を敷いたままな上に、スポンサーでもあるアメリカが言っている以上逆らうこともできなかった。それに中華民国の補給能力を考えれば、北京(北平)以北に進まない事は非常に妥当な判断でもあった。共産党との争いの種を蒔きに行くようなものだからだ。

 そしてアメリカにとっての占領統治上で最も注目されたのが、日本本土ではなく満州国だった。
 戦争に負けた日本人達は、日本政府から降伏セヨという命令があった時、多くが憤慨し、徹底抗戦を叫ぶ者が数多く出た。実際、降伏を阻止しようと、命令系統を無視して動いた軍人も一人や二人では済まなかった。憲兵隊や理性派とも言われる降伏を是とした人々と、盲目的に徹底抗戦を叫ぶ人々との間に小規模な戦闘すら発生した。
 しかし、降伏から一週間もすると、多くの人々が戦争が終わったことにホッとして、一気に脱力感が日本人の間に広がった。
 そして多くの日本人は、自分たちに戦う力がもうない事を、自分たちの最も身近な食事という面で理解していた。
 日本が降伏したのが5月なのも、日本本土に海外からの食料移入ができなくて飢餓が迫っていたという要素が大きく横たわっていた。秋に米が収穫できるまでに食料を何とかしなければ、日本本土の1割以上の国民が飢餓線を彷徨い、それが国家崩壊の引き金になるのではないかという恐れが日本の中枢を動かす原因の一つとなったのだ。降伏すぐに日本政府が求めたのも、機雷除去の許可と大量の食料供給の懇請だった。
 個々の日本人も、1944年秋頃から港という港が機雷によって次々に廃港にになり、船が機雷と潜水艦で手当たり次第に沈められるという惨状、目に見える食料不足、途絶える物流など、国家の血流が止まっていく有様に、自らの敗北を半年ほどの時間をかけて悟っていったと言われる。故に日本本土では、日本が降伏して内心ホッして人々は脱力感に襲われていたのだ。

 一方満州では、日本に支配されていた周辺民族の動きが問題となったからだ。その中でも問題となったのが、満州だった。
 7月にアメリカ軍の占領統治が始まるまでに、早くも混乱状態が拡大していた。
 当時満州国には、数の上では50万人の日本軍と10万人ほどの満州国軍が存在していた。また数字の上ではさらに30万人近い現地日本人の徴兵・徴用が実施の最中にあった。ほとんどの部隊が装備は貧弱だったが、域内の馬賊(盗賊)やゲリラ相手なら十分な戦力を持っていた。加えて華北沿岸部は日本軍の占領地域であり、安全面は確保されていた。
 また基本的に満州の国防は西方、つまりソ連と中華地域の共産党勢力を注意しておけば良いため、陸軍主力(関東軍)はソ連国境の満州里(マンチュウリ)市から大興安嶺山脈にかけての縦深陣の野戦陣地群と要塞に配備されていた。逆を言えば、ソ連国境から大興安嶺山脈にかけては、鉄道沿線を除けば日本の勢力は希薄となっていた。このため戦前は馬賊や共産党の活動が最も盛んな地域となり、馬賊の後ろには絶えず他の勢力が見え隠れしていた。
 そして満州国を狙っていたのが、ソビエト連邦、中華民国の国民党、中華共産党だった。
 それは当時の中華地域の工業力の90%が満州にあり、当然ながら資産価値が最も高い場所だったからだ。日本が建設した昭和製鉄所は最盛時400万トンもの銑鉄(※粗鋼や鋼鉄は少量)を作り出す、日本列島を除けばほぼ唯一の近代的な大規模製鉄所だった。また中華各勢力にとっては、日本人による近代化教育が行われた満州国の住民そのものが大きな財産足り得るし、武装解除した日本軍の装備も十分以上の価値を持っていた。
 つまりは宝の山というわけだ。
 しかし中華地域で最も美味しい果実は、誰も刃向かうことが出来ないアメリカと、よりにもよって途中まで日本と組んでいた竜宮のものとなることが通知されてしまう。
 しかも海の向こうから連合軍(占領軍)が来るまでの間、日本人達は現状を維持し続ける事をアメリカから命令されていた。そればかりか、華北の日本軍は中華各勢力に降伏して武装解除する前に、満州へと続々と移動した。降伏受諾の5月15日から調印のある6月2日を、現地日本軍は有効に活用したのだ。この移動した数だけで10万人以上に及び、同時に日本の在留邦人の満州への移動も行われた。終戦時155万人だった満州の日本人の数は、7月には170万人を越えていた。軍人を含めると優に250万人を越えている。しかも、現地日本人達は日本に帰るまでの現状維持で結束しており、連合国(アメリカ)は他の勢力の増長とそれに伴う混乱を許さなかった。不用意に動いた中華共産党などは、単なるテロリストとして徹底的に逮捕又は鎮圧されていた。
 加えて国民党と連合軍は、共産党に武器を渡すことになりかねない日本軍の武装解除を阻止するため、日本人のこうした移動をほぼ黙視し続けた。
 さらに加えて、満州、内蒙古の統治権が日本人から直接アメリカ、竜宮に渡されると、中華共産党のソ連との連絡が東トルキスタンから伸びる舗装もされていない悪路一本だけとなってしまい、終戦が分かると同時に水面下で始まっている国民党との戦いで著しく不利となっていった。

 こうした状況下で、再び戦火が上がる。
 日本人の勢力が急速に減少した華北で、中央の統制を離れた共産党軍の一部が武装解除せず逃亡している事を理由にして、日本軍に対する攻撃を開始した。しかも現地日本軍は自衛を理由に独断で反撃し、戦闘、テロ行為が華北各地で発生した。
 しかも旧熱河省の僻地では、満州共産党を名乗る団体が「満州人民共和国」の独立宣言を行い中華共産党が支持する声明を相次いで発表した。これに対して現地日本軍(関東軍)は、連合軍側の通達通りにそして従来通りただちに討伐軍を派遣して鎮圧した。満州共産党はすぐに逃げ散ったが、ラジオのゲリラ放送で独立を宣言したことが連合郡内で問題視された。
 独立に対して、ソ連が反応する可能性が出てきたからだ。
 そしてソ連(ロシア人)の介入を嫌って、敏感に反応したのが竜宮だった。
 日本降伏後の6月の第一週目、竜宮は既に琉球王国の奪回と現地日本軍の武装解除を進めており、竜宮本国では続々と兵士が日本各地への渡航準備を進めていた。既に第一陣の先遣隊は日本本土にも入っており、海軍主力も日本近海に展開していた。
 そうした状態で竜宮政府は、ただちに満州での無法を取り締まるべきだとアメリカに食ってかかり、今すぐ動ける竜宮軍の満州進駐を強く求めた。これに対してアメリカは難色を示したが、現地でのこれ以上の混乱を嫌った事と、自分たちがすぐに満州に軍を送り込めない事から、数日後には竜宮軍の満州進駐の前倒しを認めるに至る。
 もっとも既に日本入りしていた極東方面軍総司令官のダグラス・マッカーサー元帥は、竜宮の積極的姿勢を強く支持しており、現地での優先的な物資供給を約束した。
 そして竜宮本国と琉球を発った竜宮軍は、6月半ばまでに続々と満州入りして、優れた鉄道網を通じて満州国、内蒙古連合の国境線へとまずは広く散らばっていった。広く散らばる行動にはアメリカ軍も少数ながら各地に同行し、連合軍による占領統治という体裁を整えた。
 また占領軍と共に、竜宮本国から大量の武器弾薬を満州に陸揚げし、自軍の主力と共に大興安嶺山脈の西側、モンゴル国境、中華地域の国境地帯を目指した。
 一方で連合国は、現地日本軍に自衛以外の戦闘は禁じる命令を重ねて発し、連合軍が来るまでは強く自重を促した。同時に共産党、国民党にも同様の命令を行った。ソ連にも特使が飛んだ。
 そして竜宮軍の先遣隊が現地日本軍の案内で国境線各地に至った頃には、一見事態は沈静化したように思えた。
 だが今度は、連合軍として進駐した竜宮軍が正体不明の敵からテロ攻撃を受け、同様の戦闘報告は満州西部、内蒙古各地で報告された。
 日本という「たが」が緩んだ途端に、北東アジアでは混乱が吹き出しつつあった。それは第二次世界大戦が終わってから、わずか二週間後の出来事だった。


●フェイズ49「現代2・戦後すぐの北東アジア情勢」