■フェイズ49「現代2・戦後すぐの北東アジア情勢」

 1945年7月、満州で起きた混乱は簡単にという表現を用いてい早さで一応の終息を見た。
 「独立宣言」した満州人民共和国は、満州共産党と自称した組織共々、何事も無かったかのように呆気なく崩壊・霧散した。まるで何かの実験をしたかのようであった。
 しかし円滑な統治のために連合軍による追及が行われ、ゲリラ組織、馬賊などそうした人々のかなりを逮捕する事ができた。そうした中で、「独立」と戦闘の原因も見えてくるようになった。
 まず第一に、安定よりも混乱の継続を望む中華地域の共産党勢力が背後にいる可能性が高くなった。その後ろにソビエト連邦が絡んでいる可能性も高かった。完全に確証がとれた訳ではないが、現在進行形で続いている各地でのテロ行為、小規模な戦闘がそれを裏付けていた。しかし逆に、中華域内の共産党を軍事力によって滅ぼそうと考えている国民党による行為という可能性も出てきた。共産党は連合軍の調停により自分たちの武力・勢力が奪われることを恐れ、国民党は連合軍が止める前に一気に共産党を武力で倒そうと画策していた。また辺境の馬賊達は、いつも不満一杯だった。誰が来ようとも、全てよそ者だったからだ。またソ連という名のロシア人が満州を欲しがるのは、独裁者の性格や行動に関係なく、ロシアの伝統政策なので驚くに値しない事だと認識されていた。
 次に、連合軍である竜宮軍に対して攻撃した理由の一つとして、一部の者は竜宮軍を枢軸側(日本側)の軍事政権軍だと思いこんでいた事が判明した。つまりは、次の支配者がやって来たと考えられたのだ。しかも次の支配者という点ではアメリカも同列に見られており、解放者とは見られていなかった。
 ただしほとんどの民衆にとっては、安定した統治を提供してくれる支配者が来るのなら誰でも良いのであり、そう言う点では竜宮にしろアメリカにしろ大歓迎された。なにしろ竜宮は日本より金持ちであり、アメリカは竜宮すら比較にならない金持ちだった。しかも治安の安定と税率の低下、通貨の安定、何より公正な統治をもたらしてくれるのだから、万里の長城の南側からまた誰かが越えてくるよりも遙かに有り難い相手だと考えられていた。
 そして連合軍の側も、日本がでっち上げた満州国と蒙古自治連合での安定した統治に必要な物を十分以上に熟知していた。

 このため連合軍は、まずは軍隊が各地に入り込んで、日本軍の武装解除を進めると共に、日本から滞ることなく統治を引き継ぎ、自らの軍事力の展開によって当面の安定化を計ろうとした。しかし円滑な統治のためには、満州国を僅か十数年で作り上げ取りあえずの安定にまで持っていった官僚団と、南満州鉄道、満州産業などの日本人の作った大企業と組織が必要であり、軍政の実施という形で間接統治が続けられることになる。
 当然ながら、すぐに日本人全てを強制的に帰国させる事など出来る筈もなく、むしろ最低限の既得権益を保障して安心して働かせる方向に動いた。金の卵を産むガチョウを絞め殺す者は、通りすがりの略奪者でなければ、何も理解していない大馬鹿者だった。
 また満州国の皇帝溥儀、内蒙古の徳王も、旧来の価値観を持ち続けている大多数の民衆や旧支配層にとっては、一種の安定装置としての価値が認められたため、即座に廃位するという予定は取りあえず延期という形にされた。廃位するにしても、民主選挙の結果の民意による廃位が望ましいとされた。
 日本人による満州統治で最初に大きく改められたのは、軍事関係を別にすれば、主に辺境での日本人開拓団の復員という名称の帰国事業だった。特に強引に先住者から土地を奪った事が明らかな地域では、日本人開拓団の帰国事業が連合軍主導で進められた。しかし古くから住んでいる日本人については、調査のために保留とされた。何しろ日露戦争から既に40年も経過しているので、自由貿易主義と民主主義、そして基本的人権の尊重という民主主義の観点から無視できない要素だった。
 だが、当面でも日本人が残った事で原住民が不満を持ち、日本人の間で差別を行った事で日本人の間にも不満が残る事になった。それでも、ローコストでの統治のためには、既存の体制を一度に全て叩きつぶしたり取り上げたりすることは選択できなかった。
 今までパックスやガバナーを与えていたのが日本人と日本人が作り上げた組織だけなので、現地での絶対数が足りない連合軍には他に選択肢がなかったからだ。盗賊とさして変わらない価値観しか持たない中華民国国民党軍やそれ以下の各地の軍閥達、強いイデオロギーと民族主義に染まった共産主義者を入れることは、竜宮もアメリカも選択出来なかった。
 消去法から、日本人の統治システム、経済システム、そして運営者の日本人を当面利用せざるを得なかったのだ。竜宮人などは、水面下で満鉄調査部に予算と保証を与え、混乱勢力の調査や監視を強化させたほどだった。
 そしてその上でアメリカや竜宮は、本国からどんどん生活物資を送り込んだ。ドルもリンカも送り込み、日本人に変わりうる役人や企業人も順次送り込んでいった。
 特に有り余る物資の安価な供給とドル経済が現地経済に結びついたことは民衆から絶賛され、進駐軍は満州、内蒙古各地で大歓迎を受けることになった。そこでの副産物で、それぞれの地域に入り込んで地下活動をしていた共産党員が、次々と連合軍に差し出されたりもした。思想よりも目の前のお金の方が正義であり、ジョージ・ワシントン(1ドル紙幣)の前では誰もが正直だった。
 そうした中で、竜宮の価値は上昇を続けた。
 アメリカは大量の物資とドルを持ち込みはしたが、どうしても上から目線な上に、白人的優越を当たり前として行動した。人材の数も質も不足していた。これに対して竜宮は、過去に満州に入り込んでいた事もあって、ある程度同じ目線で見ることも出来たし、邦人保護のためにも積極的に動き回った。また日本人との関係も積極的に利用して、円滑な統治のための潤滑剤としての役割と存在感を強めた。軍人以外の人数も圧倒的に多かった。そして何より、現地での知識と経験が豊富だった。
 アメリカ側も、自分たちの価値観や統治を押しつけるだけでは弊害が出ることを多少は理解していたので、自分たちの一段下の統治運営者として竜宮をアテにするようになった。またアメリカとしては、日本人、各地の現地民族の不満の矛先としての竜宮に「期待」していた。一方の統治される側に立たされた日本人も、自分たちの利益を多少なりとも守ってくれる竜宮を頼らざるを得なかった。当の竜宮人も、自らの立場を理解して行動した。それが国益となると考えられたからだ。
 そして日本人の作り上げた組織の上に、より良い統治と豊富な物資が加わったことで、反対や反発、新たな支配に対する不安は急速に沈静化していった。
 共産党などは必死にテロ行為などで安定を阻止しようとしたし、国民党は遠くから色々叫び声をあげたが、ほとんど無駄だった。
 国民党は自らの暴政によって既に民衆から否定されているし、アメリカにとっては現状から今後四半世紀にかけては、中華民国よりも竜宮の方が国家としての価値は上だった。満州の市場を得ることは、当面最も重要な戦略的行動だった。アメリカとしては中華民国は次の問題であり、今は適当に文物と口約束を与えて誤魔化すことにした。ドルの濁流で押しつぶせるのなら、それが一番と考えていたほどだった。共産党に対しては、テロ行為の徹底的な鎮圧と掃討そして国際的非難活動を精力的行い、同時に武力の削減、国民党との連携など勢力を減退させるための命令を、連合国連名で次々に行うことで当面は対処された。命令に従って分をわきまえ自ら萎んでいけばよし、刃向かえば滅ぼせば良いだけの相手だと考えられたからだ。
 そして力を伴ったアメリカからの命令に逆らえる者は、少なくとも東アジアにはいない筈だった。
 事実、戦争終了前後にあれ程うるさかったソビエト連邦は、少なくとも極東地域では取りあえず大人しくなっていた。ソ連にしてみれば、日本が倒れた次の瞬間に従来の敵である竜宮と、さらにこれからの敵であるアメリカがやって来たのだから、戦略上は目も当てられない事態と言えるだろう。まずは東シベリアの防備を固めるのが先決であり、満州、東アジアへの進出などという独裁者の構想という名の妄想を実践するには危険が大きすぎた。
 噂では、アメリカが大戦に間に合わなかった新兵器の「実験」をしたがっていたからだ。

 なお、極東地域には、満州国と日本の間に「極東共和国」が存在した。誰にとっても緩衝(ヴァッファー)でしかないが故に20年以上も存続できたのだが、独ソ戦開始頃から方向性が少し変わっていた。
 ソ連は、ドイツの脅威が強い間は、日本の神経を逆撫でしないために極力影響力を低下させた。そしてソ連が影響力を強めようと動き始めてすぐに日本が呆気なく降伏してしまい、今度はアメリカが近所にまで出てきた。しかも、元から辺境で国境を接する竜宮までがしゃしゃり出てきた。
 そうした状況を見て、凄まじい独裁状態となったソ連の影響力拡大、最終的には併合を恐れた極東共和国自身が、アメリカの庇護を求めた。さらに極東共和国は、満州の継続的な自立に対しても賛成した。満州の継続的な自立に関しては朝鮮半島も好意的であり、アメリカにとっての好都合な政治的状況が形成されつつあった。誰もが、隣人としての赤いロシア人と漢民族を恐れ、酷く嫌っていた。
 ただし、満州だけでなく中華地域の市場を全て飲み込みたいアメリカにとっては、ソ連、中華民国からの強い反感を買うことは賢明とは言えなかった。
 このためアメリカは、以後「占領統治」というお題目を掲げつつ、しばらく満州など中華周辺地域の問題を先送りにすることにした。
 そしてその後のアメリカは、「民族自決」や大西洋憲章、国連憲章を持ち出すことで、中華地域の再編成を画策するようになる。

 一方、中華地域で旧日本領とされていた地域であった台湾は、多少事情が違っていた。戦争中に連合軍が武力で占領したこともあって、日本の総督府を解体して、その統治システムだけを利用した軍政が実施されていた。戦闘で散り散りになっていた日本人の役人達も生き残りを無理矢理呼び戻し、戦火を逃れることができた台湾総督府を起点としてアメリカを中心とした支配が開始されていた。
 こちらは海を隔てているため、中華民国が何かを言おうともほぼ無視された。それにアメリカ人が直に血を流して日本から得た場所を、実質的に何もしなかった相手に渡すことは、アメリカの民意が許さなかった。この戦場では、中華民国は形だけであっても一滴の血も流していないのだから尚更だった。台湾での戦いは、中華民国の評価を落とす最も効果的な手段になったとすら言われた。
 それに既にアメリカは、中華民国(国民党)への評価をほぼ最低ランクにまで落としている上に、アジアでの戦略的パートナーとして竜宮を選んでいるので、中華民国に対しては大陸内での一日も早い安定と統治の実現を強く望むという表向きの姿勢を徹底した。まずは最低限の事をしてから人の言葉を発しろと、命令したに等しかった。
 そして台湾統治にも参加している竜宮からの歴史的な情報をスポイルしたアメリカは、台湾を中華地域とはあまり考えないようになっていた。台湾での一番最初の原住民はマレー・ポリネシア系民族の末裔であり、日本人からは高砂族と言われ現時点でもかなりの数が居住していた。日本が併合するまでは中華地域が支配権を持っていたが、他に誰も踏み込んでこないから持っているという程度のものでしかなかった。つまり、中華民国が近代国家としての統治権を主張するには不十分だとも判断していた。だいいち、半世紀の間の日本の統治によって、現地はほとんど日本の一地方になっていた。その事は、侵攻したアメリカが我が身をもって一番よく理解していた。台湾人はごく一般的に日本語を話したし、日本への忠誠心が高く勇敢な日本兵だったからだ。
 しかも台湾の民意は中華民国に対して反発的であり、戦闘になった事からアメリカ、竜宮にもあまり好意的ではなかった。
 このため軍政が長らく続く事になり、軍隊の駐留も続いた。

 他方、日本軍の占領地域では、終戦すぐにも一斉に軍人の復員や邦人引き上げが始まった。
 竜宮との関連で見ると、回復後の竜宮領である琉球王国、ブルネイ王国からの日本人引き上げが中心であり、また一部では他の連合国の代わりに竜宮軍が武装解除や邦人引き上げを行わせた。一方で竜宮は、以前からの日本との関係が深いため引き上げの優遇措置を行ったり、条件付きで現地の帰化を認めたりもしている。後には、戦後困窮する日本からの移民受け入れも積極的に行った。
 竜宮領内から復員もしくは引き上げしなかった日本人の数は10万人を越え、後の移民では50万人以上を竜宮領各地に受け入れることになった。
 また竜宮の主権回復後には、直ちに琉球、ブルネイの権利を復活させ、従来通り竜宮王国内の自治国家に再編入された。しかしこの中で、ブルネイ王国内の意見が二つに割れ、ブルネイ王を支持する北西部と、日本人移民を中心とするそれ以外の分裂が起きた。このため戦後しばらくして行政区の区分けが行われ、それぞれ違う自治行政単位とされるようになっていく。
 そうした変化はあったが、日本占領地域内での竜宮領の変化や混乱は最も小さいものだった。戦闘はほぼ皆無であり、住民の蜂起や独立運動という事態は一切無かった。古くから植民地ではなく、竜宮の領土もしくは自治地域として運営されていた結果だった。
 唯一起きた問題も、ブルネイ島での江戸時代からの日本人移民に若干の自立が芽生えた程度で、他国に比べれば小さなものでしかなかった。このため竜宮自身の持つゆとりも相対的に大きくなり、他者が構っていられない問題を押しつけられるようになる。
 しかしアメリカだけは例外であり、フィリピンでの問題を抱え、中華地域では自身の利益のために新たな対立を容認し、さらには東アジアで最も重要となった日本列島でも手を抜こうとはしなかった。



●フェイズ50「現代3・日本の占領」