■フェイズ50「現代3・日本の占領」

 日本列島の占領開始は、1945年5月30日のGHQ総司令官ダグラス・マッカーサー元帥の厚木飛行場到着と共に始まったと言われている。
 多少の誤差はあるがほぼ間違いではなく、サングラスにコーンパイプというおおよそ軍人らしくない出で立ちは、戦争に負けた日本人達に鮮烈なイメージを植え付けた。
 しかし日本本土を占領したのは、マッカーサーに率いられたアメリカ軍だけではなかった。半ば割り込む形で廣島の呉を占領したイギリス軍(英連邦軍)を例外とすれば、竜宮軍が全体の三割近くを占めていた。

 日本の旧領土の占領統治のために連合軍が用意した兵力は、アメリカ軍が、陸軍と海兵隊を含めて16個師団40万人、竜宮軍が7個師団を中心とした約20万人、英連邦軍が約4万人となる。他に台湾島を占領していたアメリカ、竜宮両軍があるが、戦争中に現地に侵攻した合わせて10個師団30万人近くのうち三分の二が占領統治のため他方に派遣されたため、10万人程度が別枠で台湾に残っていた事になる。
 当初の占領計画素案では日本本土の占領だけで60万人必要と算定し、最大86万人が必要だという数字もあった。このため、アメリカ軍を含め中華民国までが日本本土の占領に参加する計画もあった。しかし竜宮の持つ戦前、戦中の情報と研究により、過剰であることがすぐに判明した。このため初期の半年間は最大で40万人、その後は20万人以下で問題ないと判定された。
 一方で、満州、内蒙古、朝鮮半島の占領統治も行わねばならず、こちらでは防衛と治安維持の為に最低でも30万人が、できれば40万人以上が必要だろうと予測された。ソ連と正面から対峙するためには、150万の兵力が必要だという研究レポートすらあった。
 この数字は竜宮側でもほぼ同じ結果が出ており、中華民国軍は精鋭を除いて数に入れるわけにもいかないし、実際の統治では除外されたため、アメリカ、竜宮、イギリスだけでこの兵力を用意しなければならなかった。そしてそれだけの戦力を短期間に揃えることは不可能だった。
 このため日本本土の初期占領軍の数がさらに下方修正され約35万人とされた。朝鮮半島には5万、内蒙古自治連合にもほぼ同数、そして満州国には約25万人が占領統治のために現地入りした。しかしこれらの数字では足りないため、半ば予定通り竜宮軍の追加派遣が実施された。しかしこれでも足りず、満州国では日本が作り上げた治安維持組織、軍事組織の一部が利用されることになる。この場合、他の国々からの批判を多少でも避けるために、日本が作った満州国軍が利用されることになった。
 満州国軍は、現地住民を中心に部隊を再編成し、簡単な米式訓練と装備の支給を行い、形式上での連合軍隷下(第三国扱い)としての体裁も整えられることになった。満州国軍内にいた日本人兵も可能な限り除外した。
 これら日本各地での占領統治の中で、竜宮軍は満州に3個師団を早々と送り込み、少し遅れて4個師団を日本列島に送り込んだ。日本列島での竜宮軍占領地は、地理的に竜宮領と近いとされた樺太、北海道、千島列島に2個師団が、1個師団が首都近郊の横浜、横須賀を中心に展開した。またもう1個師団はアメリカ軍の指揮下に入る形で、分散して京阪神地区の占領統治に参加した。竜宮軍の約半分が人口密集地帯に置かれたのは、日本人との意思疎通のためだった。また、その後2個師団を追加され、その分アメリカ軍が満州へと入っていった。
 竜宮語は日本語と同一言語グループで、言葉そのものも非常に近く、両方の言葉を相互理解ができる者が大勢いた。しかも、多数の竜宮人、特に北アメリカ大陸の新竜領の兵士は英語を理解できる場合が多いので、通訳として米軍の各所にも配属され、円滑な占領統治に大きな役割を果たすことになった。一方では、竜宮人に対するマイナス感情を植え付けることになったり、アメリカとの間に入った竜宮人に逆に感謝する者もいたりと、様々な感情を日本人の間に残すことになる。竜宮側も日本人から受ける心理的側面には注意を払い、日本本土の占領軍には可能な限り最初から連合軍として戦った新竜領やハワイ、アラスカ出身の兵士や部隊を当てた。

 なお占領統治に際して、アメリカと竜宮が正面から対立した深刻な問題が一つあった。兵士の「慰安」の問題である。
 竜宮軍には、軍が将兵の性的慰安を面倒見るために娼婦が国に雇われる制度(公娼)が存在し、この戦争中も機能し続けてヨーロッパにまで押し掛けていた。ヨーロッパ諸国でも一般的な事であり、竜宮でも近代化以後に正式に制度として取り入れていたものだ。兵士の病気予防と素行対策に非常に有効だと判断されていたから、政府も熱心に行っていた程だった。
 しかしアメリカ軍にはそうした組織も伝統もなく、竜宮のそうした組織や制度を進駐軍のイメージダウンになるから占領統治には持ち込むなと言ってきた。
 これに対して竜宮側は、ではどうするのだと半ば感情的に反論し、アメリカは水面下の解答として日本側に用意させればよいと返答。大戦中から分かっていた事ながら、竜宮側は呆れてしまう。大戦後半以後の竜宮本土でも、アメリカ兵の性に関する事件や問題は頻繁に起きていたからだ。
 結局両者の溝は埋まらず、イギリスが竜宮側の肩を持った事もあって、結局竜宮は自らの行動をアメリカの黙認という形で通してしまった。そうして日本各地で借り上げられた竜宮軍の慰安施設は、日本人の間で皮肉と揶揄を込めて「竜宮城」と呼ばれることになる。

 日本の占領統治は、アメリカ、竜宮、イギリス(英連邦)が軍を派遣したが、GHQなどの事務組織には多数の国が参加した。
 日本を含め日本の持っていた領域全体の管理のために「GHQ(ジェネラル・ヘッド・クォーター=連合国軍最高司令司令官総司令部)」が設置され、それとは別にアメリカのワシントンに極東委員会が設置された。
 極東委員会の参加国は日本の戦争に関与した国と国連常任理事国が選ばれ、議長国でもあるアメリカ政府との協議の上でGHQに命令が下され、GHQが日本政府など日本の政府機関を間接統治する事になっていた。また諮問機関として「連合国対日理事会」が東京に設置され、アメリカ、竜宮、イギリス、中華民国が参加した。
 一方、日本の戦争を断罪する軍事裁判には、日本との戦争に関わった全ての国が呼び集められた。
 アメリカ、竜宮、イギリス、中華民国、フランス、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、インド、フィリピンが代表を送り込んだ。
 ここでソビエト連邦は、結局軍事裁判に呼ばれることはなく、日本との軍事紛争を証言するという名目でオブザーバー参加に甘んじる事になった。しかしソ連は、裁判の傍らで日露戦争にまで遡って自らの日本断罪の権利を主張するなど度々口を挟み、流石に各国から呆れられる事になる。
 それにヨーロッパ的流儀に従えば、血を一滴も流していない者に戦争の利益を分配することはあり得なかった。火事場泥棒は百歩譲って認めるにしても、実質的に何も得ていないのに権利を言い立てるのもルールに反していた。当然ながら、敗者の断罪も勝者の権利なので、結果として何もしなかったロシア人に与えられる事はなかった。極東軍事裁判では、ソ連のおかげで日本に対して甘くなったと言われたほどだった。
 そしてこの軍事裁判は、合理的な側面を除けば勝者の側の復讐のための極めて効果的なイベントでもあるため、分裂状態の片方が途中まで枢軸側だった竜宮の発言権は低かった。竜宮も分をわきまえており、軍事裁判に限りあまり多くを発言しなかった。唯一インドのパル判事の全員無罪という法の精神乗っ取った発言に賛意を示すが、他では途中まで枢軸側だったという点を利用して、資料提出や証言者の出廷が竜宮の主な役割となった。
 ただ竜宮が「正しいこと」を伝えても、裁判そのものが日本への言葉による攻撃もしくは復讐であるだけに、無視されたり曲げられることも多かった。日本での本当の犯罪者の洗い出しとその逆の冤罪の証明をしても、勝手に覆されたり他国から不快に思われたり、場合によっては敵視される事もあった。裁判全般にわたって竜宮にとっても不快な裁判となり、他の連合国との間に心理的溝を作る結果にもなった。
 このため戦後しばらくして、竜宮側の判事や弁護士は、法の理念を踏みにじる史上最低の裁判の一つ(※事後法で国の起こした行為を個人に償わせたなど)だったという内容の文書を証拠付きで公表して、大きな物議を醸し出すことになる。ただしこうした竜宮人の姿勢は、中世以後「法」を重視した国造りをしてきた竜宮らしいとも言えるだろう。またある意味では、竜宮人はヨーロピアンよりも幼かったと言える。

 一方で竜宮が日本の占領統治で力を入れたのが、日本の民主化と改革だった。竜宮としては、今後のよき隣人を作り出そうという意図があったので、かなりの力の入れようとなった。この裏には、他の北東アジア諸国は現状ではどれも論ずるに値しないのだから、日本に力を入れざるを得なかったという側面もあった。
 また占領軍にも多くの力を割いているので、GHQに対しては一定以上の発言権を持つことができた。
 GHQの人員面での主力はアメリカだったが、竜宮も多数の人員を拠出し、また強引に人材を送り込んだ。そして人員の割り当てや役職で竜宮側は、先に様々な資料や専門家を用意して、アメリカに様々な要求を送りつけた。この中で竜宮側がアメリカに強く苦言したのが、アメリカ国内で行き場を失った俗に言う「ニューディーラー」のGHQ派遣についてだった。
 ここで竜宮は、日本占領と民主化を一種の理想主義的な事を行うための実験台代わりにするような愚かな行為の停止を、アメリカ政府、大統領、議会にロビー活動した。竜宮人は、行き過ぎた行為は、近い将来必ず禍根になると論陣を張った。
 これらの活動の結果、人員の過半数や決定権は事実上アメリカが握るも、スタッフの多くに竜宮関係者が組み込まれることになった。実際、日本の事、東アジアの事を、アメリカ人はほとんど何も知らなかった。その上で、独善的に自分たちが正しいと思っていることを他民族に押しつけた時に起きる反作用を警戒した。圧倒的な勝者であるが故に、その程度のゆとりはアメリカも持ち合わせていた。加えてアメリカ国内でも、ニューディーラーに対する評価は低かった。単に用済みだから、アメリカ国内から追い出したのではなかった。
 このため竜宮側の行動は、アメリカにとってもむしろ渡りに船という面もあり、アメリカは日本の占領統治の実務面の多くを竜宮に委ねるようになり、自分たちは本来の戦争目的である満州の獲得に力を入れる傾向を日増しに強めていった。
 日本の統治の多くを竜宮に任せる動きは時間が経つごとに多くなり、占領軍についてもアメリカ軍は日本から引き揚げるとかなりの数が満州へと再び入っていった。
 このため、1948年頃の日本占領軍の地上部隊の過半数が竜宮軍で占められるようになった。安全保障上の抑止力としての海、空軍は米軍もかなり残っていたが、陸軍については東京の司令部機能以外の殆どが消えていた。占領の終末期には、樺太、北部、関東、中部、近畿、西日本に各1個師団の竜宮陸軍が分散配置され、米陸軍師団は首都東京以外では実質的にほぼゼロとなっていた。

 占領軍の事はともかく、アメリカ、竜宮を中心にした日本の民主化政策は強権をもって進められた。
 日本人の多くは既に反論する気力も失っていたし、戦争中の総力戦体制の中で幾つかの政策に手を付いていた事、日本の官僚の中に同じ構想が存在した場合があった事などもあって、日本の改革は順調に進んだ。
 「五大改革」と言われた、女性参政権の付与、労働組合結成の奨励、教育の自由主義的改革、秘密警察の廃止、経済機構の民主化はほぼ順調に進んだ。
 しかし経済機構の民主化では、行き過ぎた面も多々見られた。特に財閥解体は、日本に二度と総力戦を行わせないための占領政策でしかなかった。もう一つの柱の農地改革も、実質的な伝統階級の破壊な上に、農地を細切れに分配しすぎていた。さらには売却や転用、企業経営など関連項目の規制が強すぎるため、竜宮側の提案により若干緩和され、さらには十年ごとに制度の見直しを行う項目が盛り込まれた。これは、日本人に最初から硬直した制度を与えることを危惧したという要素もあった。
 また労働組合について、社会主義的、共産主義的になりすぎる場合の規制項目が最初から盛り込まれたのも、竜宮が日本の共産化、社会主義化を警戒して警鐘を鳴らしたことが影響していた。アメリカ側は、むしろ日本の自由主義を進めるためには、社会主義的、共産主義的要素も当初は必要だと考えていたが、この点では竜宮側の強い反発が通った形になった。この過程で、僅かながらGHQに潜り込んでいたニューディーラー、アメリカ人社会主義者、共産主義者は完全に日本の占領統治から排除された。当然だが、ソ連の言葉はほぼ無視された。
 教育に関する改革、政治犯についても同様で、竜宮のスタッフは日本を共産化、無国籍化する可能性のある事項については改訂や対案を出すことが多く、一部の「リベラリスト」とソ連スタッフとの間では強い対立が見られた。ただし議長のアメリカが、ここでも日本の自由主義促進のために、ある程度の共産化、社会主義化を容認している節が強いため、竜宮の提案の多くが叶うことはなかった。教育勅語についても、竜宮側は全面改定による存続を主張したが、他の国々の全面撤廃の言葉を覆すには至らなかった。ここで竜宮は、白人による有色人種国家の魂を奪う行為だという感想を抱いたという意見が、戦後数多く出されることになる。これを一部の法曹界や文化人などは、「焚書」だといって警鐘を鳴らし物議を醸しだした。戦後もそうした意見や著書が多数発行され、折からの植民地独立運動や日本の戦後政治に大きな影響を与えることになる。
 そうして様々な問題を抱えつつ行われた日本の民主化で最大の問題となったのが、新たな憲法の制定についてだった。

 近代日本では主権者は天皇にあり、国民は臣民、つまり天皇の民と記されていた。この点日本人のほとんどが疑問を持たず、共産主義者の多くですら天皇の存在を容認していた。日本人の中での天皇とは、単なる統治者や主権者を越える歴史的存在であり、ある意味国家そのものだったからだ。
 このため、戦後すぐにGHQの命令によって始められた日本の憲法改定案のほとんどは、旧来の大日本帝国憲法と比べてさしたる変化のないものだった。
 このことを竜宮人たちは、アメリカなど比較にならないぐらい熟知していた。恐らくGHQが全く新しい憲法の素案を渡すことになるだろうと、戦争がまだ続いている段階から予測していた。そこで竜宮政府は、国内の国際法、法律、政治などの専門家を集め、新生日本憲法研究のためのシンクタンクを戦争中に発足。戦争終末頃の数ヶ月の準備期間の後に、戦後すぐにも連合国として活動を開始した。
 この活動はアメリカも注目し、自国のスタッフも合流させた上で正式なGHQの日本新憲法の機関とした。
 ここで新しい憲法の草案が早々に練られたのだが、アメリカが派遣した未熟な若手スタッフと竜宮人との間で問題となったことが大きく二つある。
 一つは、天皇の権威付けについて。アメリカ側は、日本語に意訳した場合「象徴」とされるであろう案を提示したが、竜宮側は他の立憲君主国と同様の、一般的な権威君主案を提示していた。竜宮側は、憲法上で主権が国民に移るのだから、必要以上の制約や曖昧な表現は不適切だとした。加えてあまりに露骨にすると、日本人に連合国からの復讐と取られると反論した。対するアメリカ側スタッフは、日本の周辺諸国の感情を考慮すべきだと論陣を張った。
 もう一つが、主権国家の最も重要な項目の一つである国防権についてだった。アメリカ側は、出来うるなら日本に全く武力を持たせない、ある種の理想主義、別の側面から見た場合の復讐、もしくは恐れや警戒感からくる強い制約を設けようとした。初期案では、明確に自衛戦闘すら禁止しようとしていたほどだった。日本人の一部も、日本の非武装もしくは弱武装を支持していた。
 これに対して竜宮は、憲法上での明確過ぎる国の交戦権や戦争行為自体の否定も問題あるが、何より自衛までも否定する事は国際法の上でも問題が強いと否定した。自衛の否定を憲法上で肯定する場合は、日本が主権を回復するまでに限定するべきだとした。でなければ、主権を回復した後も自立した国家としては不十分で、日本の主権を認めることが難しくなる可能性が高いと論陣を張った。要するに、理想主義をかざした「くだらない実験」を余所で行うなという事になるだろう。
 他にもアメリカ側スタッフの素案に対して数々の問題が指摘され、客観的に見た場合多くは竜宮側スタッフの言い分が正しかった。
 しかし多くを竜宮側から正論で覆されたアメリカ側の未熟なスタッフは頑なになり、上層部に密告するように上申して判断を仰ぐことになった。これを知った竜宮側は、長期的な意味での日本の防衛に誰が全面的に義務と責任を持つのかという事について、竜宮はそんな負担は物理的に出来ないとアメリカ政府に水面下で強く伝えた。その他の事についても色々と伝え、要するにアメリカ政府が寄越したスタッフの殆どが役立たずの素人だと伝えた。
 結果、天皇制については「象徴」として押し切られるが、他の多くでは竜宮側が提示した新憲法案が通ることになった。理想主義的な素人が他の資料を見ながら急いで作った俄仕立ての草案と、日本と世界の双方に詳しい専門家が時間をかけて作った草案のどちらが優れているかは自明の理だった。
 日本の国防権についても、自衛権を認めて非武装についても表現が緩められた。さらに主権回復までは新憲法を受け入れさせるが、主権回復後に日本人自らに議論、選択、そして憲法改定させることで落ち着いた。
 そして、アメリカがそうした含みを認めたのには、当然訳があった。

 なお、日本の占領と新たな国防に連動していたのが、日本の軍備そのものをどうするかという問題だった。
 終戦時、日本はかなりの戦力を抱えたまま降伏した。陸海軍は半壊したが、逆の視点から見ると半分残っていた。特に世界的に見ても規模の大きかった海軍は、多数の大型艦艇を抱えたまま連合軍に降っていた。
 そしてこの大型艦艇群こそが、一部の国にとっては垂線の賠償対象だった。
 終戦時、日本海軍は修理中を含めて、戦艦10隻、大型・中型空母9隻を保有していた。最後の大規模戦闘以後は、燃料不足のためほとんど活動状態に置かれていなかったが、残存は残存だった。しかも日本海軍は、ドイツのように自沈することはなく、残存した艦艇を綺麗に清掃した上で進駐した連合軍に引き渡した例も見られた。
 そして日本から即物的に得られる中で最も魅力的な賠償こそが、日本海軍の保有した艦艇群だった。
 以下が賠償対象の大型艦になる。

新型戦艦:《大和》《武蔵》《信濃》
旧式戦艦:《長門》《伊勢》《日向》《扶桑》《山城》《金剛》
大型空母:《甲斐》《海鳳》《瑞鶴》《天鷹》
中型空母:《天城》《葛城》《笠置》《阿蘇》《隼鷹》

 他にも、巡洋艦各種10隻以上、軽空母もかなりの数残存していた。激減していた駆逐艦や潜水艦も、アメリカ、イギリス以外なら大量に存在していると表現できる数だった。
 これらの艦艇を一番欲しがったのは中華民国だった。ソ連のスターリンも、未練がましく日本の艦艇賠償を求めた。
 しかし重巡洋艦以下の艦艇についてのみ賠償対象とされ、大型艦については研究調査以外では全てアメリカ預かりとされた。戦争に費やした金額から見れば、当然の結果だった。
 そして問題を棚上げした上で、稼働可能な空母と一部の戦艦(航空戦艦)については武装解除のうえで日本人の復員事業に従事させた。復員事業については、他の日本の残存艦艇も総力を挙げて動員された。遂に戦うことのなかった世界最大の巨大空母などは、一度に4000人も乗せて南洋や東南アジアとの間を往復したりもした。また、自分達がばらまいた機雷についても、機材を供与までして元日本海軍組織に全力を挙げて除去させた。
 そしてアメリカは、手に入れた艦艇について悩んだ。
 艦艇については、自分たちの持ち分すら大量処分予定なので、研究資料さえ得られたら全部廃棄して構わないものだった。他国が欲しがっても、アメリカ海軍のいらない艦艇を代わりに与えれば済む話しでしかなかった。工業製品としての精度は基本的にアメリカ製の方が高いし、その後の整備や予備部品の事を考えれば合理的だったからだ。
 アメリカが多少の魅力を感じたのは、巨大空母の《甲斐》とその元となった《大和級》戦艦3隻ぐらいだった。特に日本海軍に手当たり次第に戦艦を沈められていたので、感情的には戦艦全てを奪いたいところだった。ただ、自前の《モンタナ級》戦艦2隻、《アイオワ級》戦艦4隻があれば戦艦も事足りるので、復讐と感情面以外で他国の戦艦など不要だった。
 このためアメリカでは、殆ど全部を原爆実験に使おうという案が大きな意見を占めるようになった。実験に使えるような即時廃棄してよい自国の旧式戦艦に事欠いていたので、これは妙案に思えた。
 しかし、軽空母も含め20隻以上も原爆で吹き飛ばしては、アメリカの度量が問われる上に日本人から恨まれるという意見が内外から寄せられた。とはいえ、これだけの大型艦群をまともに活用できる国となると、アメリカ以外にはイギリスと竜宮ぐらいしかなく、イギリスは自分たちの持ち分以上手を広げられないほど戦争で疲弊していた。竜宮も、日本人からこれ以上恨みを買う気はないと、事前交渉の段階で辞退していた。それにどの国も、空前の規模の巨大戦艦、巨大空母が運用できる施設を持たないので、もらっても仕方のないものだった。また当然ではあるが、既に国軍が事実上解体された日本に残すという事は、少なくとも当面はできなかった。
 結果、稼働可能な旧式戦艦と空母のうち数隻を原爆実験艦として賠償枠でアメリカが奪い、残りのうち建造年次の新しい分についてはそのまま日本本土で連合軍管理のもとでの保管状態として、残りは戦勝国への賠償とするも解体処分して屑鉄による売却が決定された。
 この決定は、日本人の行儀が弱ければ幾らかは返してやるという側面も持っていたが、別の側面として日本海軍に叩かれたアメリカ海軍関係者が、一種の畏敬の念から日本海軍の艦艇を残す運動を行った結果でもあった。敵を称えて自分たちをより上位に置くというのはアングロ民族の半ば性癖だったが、そうした点から見ても日本はアメリカに敗北していたと言えるだろう。


●フェイズ51「現代4・新たな対立構造」