■フェイズ51「現代4・新たな対立構造」

 第二次世界大戦の終了と共に、「世界の敵」とされた枢軸陣営の国々は完全に打倒された。盟主だったドイツは本土決戦を行った末にナチスが滅び、国土は分割占領された。日本も、占領軍によって軍国主義が除去され徹底した民主化が行われた。
 しかし世界に平和が訪れた訳ではなかった。
 新たな覇権を競う争いが、戦争中に早くも始まっていた。
 新たなトップランナーは、アメリカ合衆国とソビエト連邦のビック・デュオだった。そしてヨーロッパと共に北東アジアも、二者の競争の最初の舞台とされた。

 1945年2月のアメリカ、イギリス、ソ連によるソ連のヤルタでの会談では、アメリカはソ連の対日参戦と引き替えに、樺太島の権利を認めた。同時に、極東共和国もソ連に再編入する事も了承しており、ヤルタ会談はソ連の政治的勝利となった。
 しかし戦争は、5月15日に呆気なく終わってしまう。ドイツとの戦争が終わったばかりのソ連は、極東にまともな軍隊を置いていなかった事も重なって、北東アジアに足を踏み入れることができなかった。ベルリン(占領)競争でアメリカに負けじと軍の総力を強引にドイツに向けて進めたため、終戦時極東のザバイカル方面には申し訳程度の軍隊しか残っていなかった。その上ベルリン競争では敗北し、ロシア人の終着駅はベルリン手前のオーデル川となった。
 欧州での戦争結果を、ソ連はアメリカがソ連を犠牲にした結果だとなじり、レンドリースを自分たちに必要量すら送り届けなかったためだと怒った。これに対してアメリカは、1943年秋以後にシベリアルートが使えるようになるまで援助物資の大量輸送ルートがペルシャルートしか無かく、アメリカは常に最善を尽くしたという論陣を張った。そしてこの場合、多くはアメリカの言葉の方が正しかった。
 だがソ連の特にスターリンは納得せず、スターリンの「懸念通り」に、アメリカは何事も無かったかのように、旧日本領各地へとすぐさま入り込んでいった。
 ソ連としては、非常に不味い事態だった。
 スターリンがロシアの歴史上でさらなる栄光を掴むべく計画されていた、日本に対する復讐、歴史的雪辱を晴らすことが出来ないばかりか、すぐにもアメリカと竜宮が日本領の各地に入り込んでしまったため、アジアでは火事場泥棒的な行為が何一つできなかったからだ。日本海に、米竜の大艦隊が展開されては、流石のスターリンも足踏みせざるを得なかった。
 加えて日本に対して宣戦布告できなかった為、日本の占領統治に参加することができないばかりか、発言権すらまるで得ることができなかった。しかも竜宮が、戦争中からソ連を警戒する動きを強めており、盛んにルーズベルト亡き後のアメリカを煽っていた。煽り方は、国家レベルでやっているだけにイギリスのチャーチル以上だった。竜宮人は、赤いロシア人のほぼ全てを信用していなかった。
 その上竜宮は、主要戦勝国にして国連常任理事国であり、ドイツ、日本双方の占領統治にも参加していた。ヨーロッパではドイツでの占領地を持たずに脇役に徹していたが、アジアではことあるごとに自分の主張を繰り返し、ソ連の「権利」を次々に奪う急先鋒だった。アメリカにいらぬ事を吹き込んでいるのも、日本の占領統治を甘いものにしているのも、ロシア民族と歴史的対立を続けている竜宮だとソ連からは判断されていた。
 もっとも竜宮としては、自国の安全保障と長期的な近隣外交を考えた末での合理的な選択と行動であり、相容れられない共産主義国であり古くからの仮想敵であるロシア人への対抗外交を行う事は、あまりにも当たり前の行動だった。
 ただし戦後の竜宮王国は、アメリカをバックボーンとして、国連や国際舞台では超大国ではなくなったイギリス、フランスと連携する姿勢を強める外交を強めているため、赤いロシア人にとっては非常にやりにくい相手となっていた。
 その竜宮は、アメリカとの二人三脚で北東アジア情勢を好き勝手に動かしていた。
 しかしアメリカも竜宮も、北東アジアの全てを飲み込もうとしているため、それなりに付け入るスキもあった。

 アメリカと竜宮は、膨大な生活物資や援助をガバナンスと共に各地に持ち込んで民心を得ようとした。加えてアメリカは大量のドルを持ち込み、事実上の資本進出も並行して行うようになった。
 アメリカが対日戦に使った実際の戦費を聞けば、中華民国の強欲な将軍ですら一瞬言葉を詰まらせる金額だったので、日本の資産が勝利者であるアメリカのものとなる事に理論面での文句は言えなかった。古来戦費の額だけ賠償を得るのは、勝者の基本的権利だったからだ。これに本気で異を唱えたら、発言力の低い国民党など簡単に爪弾きにされかねなかった。
 しかも主要戦勝国とされた竜宮ですらアメリカに多くの借金を背負った状態であり、近代国家として何も持っていない中華民国の前近代的な反論は、中華地域の中核部以外での事はほぼ完全に無視された。朝鮮仮政府については、連合国が自立させてやる予定のついでやおまけのような存在でしかないので、如何なる会議にも呼ばず、急いで独立させる必要性も少ないため、事実上の連合軍軍政下に長らく置かれた。
 そして竜宮は、それなりに自国権益を求めるも、今後の包括的な安全保障のため、東アジアの安定のために動いたはずが、結果として他国との関係を悪化させた。竜宮は世界一般常識を求めた場合が殆どだったのだが、東アジアでは戦争に負けて従順になった日本以外は、ほとんど聞く耳を持ってくれなかった。

 もっとも、朝鮮仮政府代表の李承晩は、竜宮の側が特に嫌っていた。キリスト教徒という点だけでアメリカは買っていたが、どう見てもパラノイアな反日家の独裁者でしかなかった。しかも李承晩は、竜宮人も嫌っていた。
 このため竜宮は、それとなく朝鮮半島を包囲するように警戒艦艇を配備して、朝鮮が常識を逸脱した行動に出ないよう警戒していた。また相互間の復員と帰国事業も国費を割いて熱心に行い、さらに後は朝鮮から日本への再渡航阻止も精力的に行った。
 これらは日本での自分自身の統治負担軽減のために行ったと説明され。現実面でもその通りだった。たが、竜宮人の内心が見えていたためか、朝鮮側から敵意を持たれることになった。竜宮政府は、今後の問題が少なくなるように行ったのだと説明しても、朝鮮側は日に日に竜宮を敵視とも言える感情を募らせた。
 そして朝鮮人達は、アメリカなどに竜宮の「非道」を訴えたりもしたが、1947年までにGHQで正式に朝鮮半島出身者の日本列島再渡航禁止が命令される事で多少の解決を見るに至る。余分な食い物のない日本にわざわざ人を増やすのは、馬鹿のする事だという事ぐらい誰にでも理解できたからだ。
 一方で朝鮮仮政府は、朝鮮半島内での統治に明らかに失敗していた。日本人全てを財産を取り上げて追い出した後、すぐにも同民族内での対立を起こしていた。周囲に外敵がいないため、彼らは気兼ねなく「国内」での争いに時間と労力を割いた。
 同民族に対する事実上の弾圧が行われ、親日派と烙印された多くの朝鮮人は、地続きの満州へと逃げていくか反政府組織として結束するようになった。加えて共産党組織が半島北部で活動したため、朝鮮半島は長らく独立するに値しないとしてGHQの管理が続く事になる。
 他、インドシナ、インドネシアではそれぞれの旧宗主国に対して原住民が独立戦争を初めてしまい、アメリカが戻ってきたフィリピンも似たような状態だった。しかもインドシナとフィリピンでは、反抗する主力は共産主義者だった。一方インドネシアでは、復員を拒んだ日本兵が個人で数多く独立戦争に参加していた。
 このため竜宮としては、自国領であるブルネイ島に政治的影響が波及しないよう、対策を行う事に懸命にならざるを得なかった。
 そして一番の問題は、やはり中華地域だった。
 竜宮が事実上のファシズムだと判断していた中華民国の国民党は、竜宮が日本の肩を持ちつつも満州での利権を保持しようとしているとして、竜宮との対立路線を強めていた。このため竜宮は、半ば仕方なく国民党に満州内の自国権益の譲渡交渉を行おうとしたのだが、中華民国側は軍事政権の賠償として無条件譲渡を要求。話しは平行線のままアメリカが調停に入り、満州問題は当面棚上げとされ中華民国は一部占領統治のための人員以外は、満州に入る許可も与えられなかった。
 その上で国内では共産党との対立を再び深め、1946年に入る頃には事実上の内戦が再開して、新たな戦乱の火種となっていた。しかも国民党は、内戦が再開すると無理な戦費調達のために常識を疑う増税と紙幣乱造を行って、国の経済を極めて短期間で自ら再起不能なまでに破壊し、アメリカからも完全に愛想を尽かされていた。アメリカが満州や上海、台湾から注ぎ込んだドルの濁流を無駄にしたのだから、アメリカの怒りは非常に大きかった。特にアメリカの財界の怒りは大きく、彼らは長らく中華民国中枢の人々を信頼しなくなったと言われる。
 一方、アメリカ軍が徐々に軍政の比重を増している満州は、アメリカ軍とアメリカ経済の威力によって比較的安定していたが、万里の長城を越えてくる中華系流民に紛れた共産党関係者によって、徐々に混乱が広がりつつあった。このため万里の長城は、戦争終了から一年ほど経った1946年春頃から厳しく封鎖されるようになって、境界線の周辺部で問題を起こすようにもなっていた。
 そして皮肉な事に、竜宮以外の北東アジアで最も安定した国は、以前は緩衝国家としてのみの価値しか認められていなかった極東共和国だった。

 極東共和国は、満州と日本にアメリカと竜宮の勢力が強まったためソ連の影響力が極端に弱まり、終戦から一年もしないうちにアメリカ資本、竜宮資本が続々と入るようになっていた。
 政治的影響力も自由主義側の色が強まり、自由主義を謳う政党が戦後乱立してソ連の警戒感を強めさせた。1948年に実施された民主的な総選挙では、それまでほぼ一党独裁だった社会革命党が大敗を喫し、新たに自由党が政権を握った。
 共産主義、社会主義がアメリカというよりドルに敗北したのであり、イデオロギーが金銭に負けた事はソ連にとって戦争に負けるよりも大きな脅威と映った。
 選挙の結果をソ連は謀略のためだとして、政治介入ばかりか軍事介入をちらつかせた。
 これに対してアメリカは、既に世界各地でソ連との対立が強まりつつあった事から、主権国家に対する干渉は許されないとして、依然軍政下の満州、日本の占領軍を増やし、日本海に艦隊を入れるなどのパワー・プロジェクションを実施した。竜宮に対しても、北東アジア地域並びに竜宮領北辺でのパワー・プロジェクションを強く要請。これに異存のない竜宮も、ロシア人に対して積極的な力の誇示を行った。しかもアメリカは、近隣各国の合意の元で太平洋の環礁における核実験を連続して行った。
 そしてアメリカのドルと軍事力の後ろ盾を得た極東共和国の新政権は強気の姿勢を示し、自由主義改革へ一気に舵を切った。当然とばかりにアメリカの庇護を求め、ソ連との対立姿勢を強めた。
 緩衝国の予想外の過剰な反応に、アメリカ、ソ連とも引くに引けなくなり、満州北西部とザバイカルで双方の軍隊が積み上げられて行くことになった。
 しかしアメリカは、1948年までに第二次世界大戦で動員した兵士の多くを復員させていた。しかも陸軍兵士のかなりが、日本とドイツの占領軍だった。このため、戦うための兵力に大きな不足を感じるようになっていた。しかもヨーロッパでもドイツ地域を中心とした米ソの対立が先鋭化しつつあり、急ぎ軍事力の再編成が目指される事になった。このため、満州近辺での米ソの兵力積み上げゲームは、数字の上では圧倒的にアメリカが不利だった。
 核兵器と無数の戦略爆撃機があれば戦略面では問題はないのだが、兵隊が足りないことはそれなりに問題だと考えられた。
 そこで北東アジアでは、まずは竜宮軍の協力が強く求められた。
 だが竜宮は依然として日本占領に大きな力を割いており、国力と人口、そして北辺の瑠姫亜でのソ連との直のにらみ合いを考えると、これ以上の負担は難しかった。
 そこで竜宮は、アメリカの要求を円滑に実行するには、日本の主権回復と軍備の再編成が前提となると返答する。その事はアメリカも合理性の面で理解しており、加えて旧日本領の外郭地全ても一斉独立する事による負担軽減と軍備創出を構想するようになった。
 この当時日本以外でも、朝鮮も仮政府のままでGHQの管理下にあり、台湾、樺太は日本から切り離されて軍政が実施されていた。満州、内蒙古もアメリカが抱えたままだった。満州、内蒙古の双方ともにGHQの軍政下にあり、いまだ現地日本人がGHQの下で働いている有様だった。同地域の軍備も、ソ連との対立のおかげでいまだ20万人近くが駐留していた。

 一方で、終戦から半年もすると、中華中央部では国民党と共産党による事実上の内戦が再発していた。争いは万里の長城より南側で展開されていたが、情勢は徐々に混乱しつつあった。
 内乱は45年夏に事実上再開された。
 日本軍により焼け野原とされていた重慶から這い出してきた国民党軍が、日本軍が引いていくのに合わせて中華各地に進出したのが始まりだった。これに対して共産党も、延安から華北を中心に勢力を広げたが、米軍からの大量供与を受けていた国民党軍の方が圧倒的に強く、国民党軍は主要都市のほぼ全てを「奪回」。共産党は終戦直後一時的に北京など華北主要部を押さえるも、再び農村部に追いやられた。
 しかし、華北内陸部を中心にして徐々に共産党有利に塗り代わりつつあった。
 国民党が行った戦争に伴う暴政により、民心が国民党から完全に離れていたからだった。万里の長城を越えてくる中華系流民の数も、戦争が終わってからですら毎年100万人を数え、大きな問題となっていた。
 そうした状況を踏まえ、アメリカは日本、朝鮮の独立と、満州地域の国連委任統治領の継続を国連に提案する。
 1948年夏の事だった。

 日本の主権復帰に対して多くの国が反対した。
 国連加盟国のうちで常任理事国の反対はソ連だけだったが、東アジアの国、環太平洋諸国には日本の再独立に反対する意見が根強かった。先の戦争で、日本軍がハデに暴れ回った恐怖故だった。
 特に中華民国は、徹底して反対した。日本と同時に独立する予定の朝鮮仮政府も異常なほど反対したが、アメリカ、竜宮が日本が主権回復しない限り第三国扱いの朝鮮の完全独立も難しいと水面下で伝えると、ピタリと言葉を引っ込めた。
 そしてアメリカ、竜宮は、日本の再独立に際して、アメリカを中心にした安全保障条約もしくは条約機構に日本を含めることを追加で提案。同盟関係により引き続き連合軍が日本国内に駐留して事実上の監視を行い、軍事同盟で行動を制約した上に軍備を大きく制限できるというのである。これでソ連、中華民国、モンゴル以外が日本の主権回復に一応の同意を示した。
 そしてここからはアメリカとソ連が水面下で積極的な接触を行い、東アジアでの両者の妥協が模索された。舞台は、名目上の自由な社会から、大国のパワーゲームへと移行したのだ。
 そしてソ連は、国連総会への欠席という形で日本の主権回復を黙認する事になる。またソ連は、アメリカが引き続き満州、内蒙古を委任統治という形で支配するのと同様に、中華地域が安定化するまでという表向きの条件で東トルキスタン地域の委任統治権を獲得する事になった。
 満州や東トルキスタンについては、中華地域が出口のない内戦に入ったことを国連総会上で確認した上で行われた。中華地域が、米ソ両超大国の政治の道具として使われたのだ。
 そしてお膳立てが整ったのを見計らって、日本の主権回復が実行に移された。


●フェイズ52「現代5・日本の主権回復と東アジアの混乱」