●フェイズ52「現代5・日本の主権回復と東アジアの混乱」

 1949年9月8日、「サンフランシスコ講和会議」が行われ、日本は本当の意味での戦争が終了し、そして主権を回復した。
 会議には当時の主権国家の全てが招待されたが、ソ連、中華民国が調印拒否し、インドなど数カ国が講和会議そのものに反対して会議に参加しなかった。つまりこの会議は、俗に言う「東西対立」や「冷戦」を象徴する一場面ともなった。
 そしてそのすぐ後、竜宮の首都昇京で「東アジア条約機構(EATO)」が結成され、日本も加盟する事になった。
 EATOはアメリカを中心にした安全保障条約、軍事同盟であり、アメリカ、イギリス、フランス、竜宮、オーストラリア、ニュージーランド、極東共和国、大韓民国、タイ、フィリピン、ベトナム、パキスタン、そして日本が加盟したアジア・環太平洋地域諸国による国際組織だった。
 そして日本の主権回復と共に、日本領内の連合軍の多くが撤退した。アメリカ軍も、陸軍は満州だけに置いて司令部と海空軍拠点しか日本には置かなくなった。ただし、日本での占領軍の主力を占めるようになっていた竜宮陸軍は、一部が本国に帰国した他は依然竜宮の委任統治領下の樺太と、アメリカ軍が犇めく満州に向かった。
 その上で日本国憲法の改定が選挙と議会を経て承認され、日本は自らの「自衛権」を保持することを憲法に明記し、「日本軍」を復活させた。ただし旧大日本帝国とは違って、新たに設置された国防省の下に陸海空の三軍が置かれ、厳しいシビリアンコントロールによって統制されるようになっていた。しかも主権回復時、直接的な対外脅威が比較的低かったため軍備の再建も低調であり、また近隣諸国の顔色を見たものとなった。以前と比べると領土が著しく狭くなっている事も、日本の軍事力を抑えることに大きく影響していた。
 また、当時の政権が低軍備を求めたことも、日本軍の規模を国家規模に比べて著しく小さいものとした。軍の規模は、同時に独立した大韓民国よりも小さかったほどだった。軍というよりは、重武装の治安維持組織に近かったかもしれない。

 主権回復時の日本政府の行政権が及ぶ場所は、日本列島を構成する4つの大きな島とその周辺部に限られ、他の多くが国連を介した各国の委任統治領として占領が継続された。
 樺太島、千島列島南部は竜宮が、台湾島、南方の島々は主にアメリカが国連の委任統治という名目の軍政を実施することになった。このうち台湾島や沖の鳥島以南の島は、二度の日本の手に帰らないことが講和会議でも確認されていた。また、満州に持っていた日本の権益は、主権回復と同時に全て放棄させられた。朝鮮半島の独立も無条件で認めることになった。また、満州に現在も住んでいる日本人に対しては、個人の資格で日本か現地かのどちらかの住民(国民)としての資格を得る選択権が与えられた。
 この中で唯一問題が起きたのは、日本海にある小さな島、竹島を巡る問題だった。
 竹島は日本の占領統治の中で日本の行政下から離され、GHQの管轄となった。そして竜宮海軍が管理するところとなり、主権回復後もパトロールなどが続けられていた。
 同地域を、大韓民国が朝鮮仮政府の初期の頃から自らの主権地域だと訴えていたが、歴史的にどこの国の主権が及ぶべきか簡単には分からなかったからだ。
 そして占領中の竜宮は、日本、朝鮮さらには世界各地で竹島関連の資料を探し、最終的には日本に主権を戻すことが妥当だろうという結論に至った。国境問題は可能な限り最初に問題となる芽を摘んでおくべきだからだ。しかし朝鮮側が異常なほどこだわるので、日本の主権回復時も当面は竜宮の委任統治領とされることが決められた。問題の先送りに等しい行いだったが、両者の不毛な対立から意外に長く委任統治は続くことになった。
 なお竹島は、長らく竜宮の行政管理下に置かれたため他国人が入ることは許されず、違法漁業に対して竜宮海軍のパトロール艇が発砲する事件も起きた。そして無人のまま過ごした竹島は、現地はニホンアザラシの最後の楽園として維持されることにもなる。その後も世界的な自然保護の流れから、主権以前に人が入ることと開発が許されない場所になっていく。

 日本に関わりなく竜宮の問題としてもめた場所が、琉球王朝(王国)だった。
 琉球王国は、数百年間の間、竜宮の影響下にあった。帝国主義時代には、保護国に転落してそのまま竜宮王国の一部となっていた。そして第二次世界大戦のごく一部の期間だけ、日本の事実上の占領下に置かれた。戦後すぐに竜宮の主権が回復され現地王朝も自治権を取り戻したが、ここにアメリカが首をつっこできたのだ。
 アメリカは、時期を見て琉球王国を自主独立させるべきではないかと、竜宮に言ってきた。一見民族自決が目的だったが、その実は独立した琉球との間に軍事同盟を結んで、多額の援助と引き替えに巨大な軍事基地を置くことが真の目的だった。
 非常に好位置にある適度な大きさの島で、泊地能力も高い琉球本島(沖縄(ウチナン)島)は、軍事拠点に向いていたからだ。
 これに対して竜宮政府は、アメリカの提案を住民投票まで行って否定して、軍事基地もほとんど置かせなかった。
 竜宮の一見強硬な姿勢は、太平洋戦争中盤以後、竜宮領各地にアメリカ軍が駐留していた事が強く影響していた。
 竜宮王国は北太平洋地域の殆ど全てを有する国であり、そのため戦争中は各所にアメリカ軍が駐留した。しかしアメリカ軍の大国特有の我が儘な行いや一部蛮行を竜宮人は肌で痛感させられており、戦争終了と共に最低限以外のアメリカ軍には即時引き払わせた。
 アメリカ軍駐留による特需はあったが、戦争が終わっても他国の軍が我が物顔にいることは、主権国家としては受け入れがたいものがあった。しかもアメリカ軍将兵のごく一部の素行が悪かったことは、民意の点でアメリカ軍駐留を否定させる大きな要因になった。特に自由と正義の戦士達の性的素行については、世界大戦での経験がその後長らく竜宮人のアメリカ人観になったほどだった。
 そして、アメリカ軍に対するマイナス感情が琉球の人にも伝えられており、アメリカ軍の拒絶となって現れていた。
 このことは、日本の占領統治でも起きていた軍将兵の慰安問題の再燃にまで発展し、慰安問題に関しては本音と建て前を使い分けるアメリカの姿勢を竜宮は明に暗に非難した。
 無論アメリカ兵、アメリカ軍全てを否定するわけではないし、戦争を共に戦った竜宮はアメリカ、アメリカ軍の良さも十分に知っていた。十分以上の恩義もあった。だが、だからと言って、認められる話しではなかった。
 このため戦後も竜宮領内に駐留を続けたアメリカ軍は、ハワイと竜宮本島、アラスカ、ルキアのチウプカ半島の限られた場所での海空軍拠点と、ごく限られた戦略用のレーダーサイトが主体だった。他では、移動などの際にアメリカ軍が竜宮軍の施設を借りるように国家間の制度も整えられた。アメリカ軍の艦艇も、竜宮各地の軍港によく寄港していた。
 だが陸軍又は海兵隊の実働部隊は、ルキア以外には一兵も置かせなかった。このためアメリカ軍は、自国領のグァム島と最も従順なフィリピンに軍を置くことになる。また琉球に代わる拠点の一つとして、少し危険ながらアメリカ委任統治領だった台湾が選ばれた。またアメリカ太平洋艦隊の東の拠点には、主権回復後の日本が主に選ばれていた。これは日本本土に、優れた軍港施設が各所に存在したからだった。

 一方で竜宮は、日本の主権回復後も、北東アジア各地に軍隊を駐留させなければならなかった。
 自分自身もユーラシア北東端部で直接ソ連と向き合わねばならない上に、日本の樺太島、千島列島を委任統治しなければならなかった。さらに日本本土にも条約に従って基地を置き、満州、内蒙古にも国連委任という形で軍隊を置いた。日本近辺の戦略的な制海権の維持も、基本的には竜宮の役割だった。
 海外に展開する軍人の数は5万人以上になり、国力の限られた竜宮にとっては大きな負担となった。このため兵員以外の面では、徐々にアメリカへの依存を強めるようになっていく。
 それでも竜宮は、東アジア・太平洋地域での主要国、国連常任理事国としても振る舞わねばならず、「東アジア条約機構」でも主な役割を果たさねばならなかった。
 形だけはイギリス、フランスも加わっていたが、それぞれ自らの植民地のために機構にいるようなもので、実質はアメリカと竜宮が組織を背負わねばならなかった。しかも竜宮は北太平洋一円を領土とする国であり、総人口4800万人を抱える先進国の一つだったため、様々な面での負担にも耐えられると各国から考えられていた。
 竜宮の国民も、世界の主要国となった事に誇りを感じており、多少の負担を我慢してでも主要な役割を果たすことには前向きだった。
 そしてヨーロッパのように比較的分かりやすく対立構造と境界線が構築されたのと違い、アジアでは戦争、紛争、植民地独立など混乱が相次いだ。
 そしてその都度竜宮は動かねばならなかった。

 混乱の中心は中華地域であり、1946年には10年前に日本との戦争で止んだはずの内乱状態にほぼ完全に戻っていた。
 内乱再発当初は、すぐにも国民党が共産党を滅ぼすのではないかと見られていた。国民党は戦争中に大量の援助をアメリカから受けていたし、兵力差、支配領域でも圧倒的な差があったからだ。これに対して共産党は、アメリカが満州、内蒙古を押さえた事もあってソ連からの援助や支援が受けにくい状態が続いていた。加えて、降伏した日本からあまり文物は奪えてなく、内乱再発すぐにもアメリカから敵視されるようになっていた。もっとも国民党もアメリカから半ば見限られており、戦争中にアメリカから得てため込んだ兵器と資金を武器にして戦争を行うしかなかった。この頃のアメリカとしては、共産党を自力で潰したら再び国民党の相手をしてやろうという程度の気持ちだったと言われている。
 内戦再発当初、欧米諸国のほとんどが中華地域での戦争を、愚かな蛮族同士の内乱と見ていたほどだった。しかも1950年頃までのアメリカは、北東アジアの自分たちの縄張りとして中華大陸中央部をあまり真剣に見ていなかった。現状での市場価値が、大きく損なわれていたからだ。

 しかし共産党は、戦争中に勢力を広げた華北内陸部の農村を中心にして勢力を確実に広げていった。これに対して国民党は、当初は快調な戦闘を展開して、1946年末には一度は共産党殲滅を宣言した。しかし共産党は華北の農村部で勢力を温存し、都市と鉄道を支配しただけの国民党を農村部から包囲して、兵糧攻めとゲリラ戦でジワジワと消耗させていった。
 そして国民党は泥沼化した戦争に際して、戦費調達のための常識を越えた増税と紙幣増刷を行って国内経済と民衆の暮らしを破壊して、自滅の形で急速に民心を失っていった。
 しかし、もともと共産党の勢力、特に戦力が小さいため、戦争初期は多少の民心離反が致命傷にもならず気付くのが遅れた。国民党首班の蒋介石は、アメリカに中華を統一したので満州、台湾を自分たちに解放しろと権高に要求していた時期もあった。しかし共産党の勢力は着実に増加し、1950年頃に蒋介石と国民党幹部が気付いたときには、彼らの持っていたもののほとんど全てが泥沼化した戦場に消えていった。
 しかも大戦後に国民党がしていた事は、数年前の日本軍と同じだった。都市を支配して鉄道を押さえただけで、農村からは敵視され続けた。統治も酷かったため、実際は日本軍以下ですらあった。その上不利になると、過酷な統治をさらに厳しくてより一層民心を失うという悪循環を繰り返すようになった。日本人が戦争中に沿岸部の中華系民族資本を壊滅させていたことも、国民党にとっては大きなマイナスとなった。中華系民族資本が、国民党の大きな支持母体だったからだ。
 国民党にとっての情勢は、年を経るごと月を経るごとに悪化した。そして1952年には、各地で国民党を撃破して黄河流域での支配権を確立した共産党が、ついに独立宣言するに至る。これによりソ連が、共産党が作った「中華人民共和国」への支持を表明したため、戦闘は「内乱」から「戦争」もしくは「紛争」へと国際上で変化する。戦乱の名称も、これまでの「中華内戦」から「中華戦争」へと名称も変更されることになった。
 ここで一度スイスのジュネーブで国際会議が開かれ、国連常任理事国の全てが集まり、中華地域の安定について話し合った。これこそが共産主義陣営の目的であり、アメリカとしても国民党が倒れる前に一度支えなくてはならないと考えるようになっていた。そして全てを失いかけていた国民党に否はなく、共産党側も一時的に息切れしていたため交渉の席に着くことを了承した。独立宣言した共産党は政治的優位には立っていたが、独立という切り札のカードを切らねばならないほど疲弊もしていたのだ。これは物資や武器の支援や援助もなく戦い続けた結果、多数の優秀な幹部や兵を戦闘などで失ってていたからでもあった。

 会議は大混乱となってまともな結果は出なかったが、1953年に南部を中心にした中華民国と華北を中心にした中華人民共和国に分裂した。暫定停戦ラインは、北緯34度に設定された。
 そしてこの会議では一旦両者は戦闘を停止して、2年後を目処に総選挙を行う事で民意を問うという形が整えられた。
 辛うじて会議での結果が出たのは、この時点で中華内の両者共に別々の理由で戦闘継続がまともに出来ない状態であり、その後ろにいるアメリカもソ連も、それぞれの理由で中華情勢と世界情勢をこれ以上混乱させたくなかったからだった。勢いにのる共産党はそれでも停戦には最も否定的な見解を示したが、多くは政治的パフォーマンスであり、また支援するソ連に援助を切られることを警戒して交渉の席に座った。また一方で共産党は、民意を問えば自分たちが勝てるとも考えていた。否定的に見せたのは、有利な条件を引き出すためのポーズでしかなかった。一方の国民党にとっては、色々な意味で総崩れ状態の体勢を、時間を稼いで少しでも立て直したいという思惑があった。
 なお、この時の内乱は1946年から約7年続いた事になる。この間の両者の凄惨な戦闘と搾取、そして経済の混乱が同地域を大きく疲弊させた事が、戦闘停止の一番の理由だった。共産党が独立を急いだのも、これが原因していた。
 一説では、総人口の約一割に当たる4000万人近くが死亡し、1000万人近くが流民として周辺各地に流れたと推定されている。このうち戦闘などでの死者は大きく見積もっても一割程度だったと見られるが、経済、流通の混乱による物資の偏在、疫病、飢饉、そして残虐行為などが、近世的な人口飽和状態の中華地域での大量死をもたらしたと考えられている。
 そしてほとんどの中華系流民が流れ込んだのが、国連委任統治領となった満州、内蒙古だった。

 満州、内蒙古では、結局日本人の多くを残して使うことでアメリカ主導の円滑な統治が行われ、ドルとアメリカ企業の浸透により経済も安定に向かった。竜宮の果たした役割も大きく、以後同地域での一定の影響力を持つようになった。
 しかし内戦の激化に伴って激増した中華系流民は治安など様々なものを悪化させ、1946年夏頃からは相互移動に大きな制限が設けられるようになった。1950年には、万里の長城のラインで国連軍が事実上の封鎖を行うに至った。1952年の戦争状態という事態を利用して、鉄道や橋梁の爆撃による破壊までして流民の流れを防いだ。本来ならソ連が文句を言う事なのだが、北の大地に人が流れることはソ連としても脅威であるため、嫌みを言う以上の事はしなかった。
 つまりは、アメリカ人もロシア人も、やっと日本人がかつて感じていた圧迫を実感する事ができたと言うことになるだろう。
 少し話が逸れたが、1953年のジュネーブ国際会議では、満州、内蒙古でも中華地域としての総選挙が同時に行われることになっており、ソ連が管理する東トルキスタン地域でも選挙が行われる予定表が組まれた。国際的に半ば放置されていたチベットでも、総選挙が行われる予定になっていた。
 とにかく、誰もが混沌と混乱を鎮めたかったのだ。
 しかし西側と呼ばれるようになった自由主義陣営にとって、中華地域での混乱は悪いことばかりではなかった。
 中華民国(国民党)が沿岸部、南部の支配権を何とか維持したため、東南アジアへの共産党、共産主義の浸透は防がれていた。この副産物として、ベトナム地域で独立運動をしていた共産主義勢力が、事実上の兵糧攻めにより壊滅的打撃を受け、生き残った少数の首脳部がソ連への亡命を余儀なくされていた。この後フランスは、自らの強欲を若干改めてインドシナ地域全土に独立を与えることで後の影響力確保を行い、赤化の阻止と最低限の安定を見ていた。
 また中華地域での共産党の勢力拡大は、東アジア全域での共産主義に対する脅威を現実のものとして認識させ、1950年までにマレー半島とブルネイ島以外の全てに共産主義を敵視する国家が相次いで成立する事になる。

 そして中華の混乱の影響として、日本の再軍備の進展があった。北東アジアの安全保障は全般的にはアメリカが面倒を見るが、通常は竜宮の分担となっていた。しかし竜宮は、満州から自国領のユーラシア北東端でソ連と向き合わねばならなかった。このため北東アジア広くに手が行き届かないため、日本列島の防衛は日本にさせることが各国の間で了承される。そして再建される陸海空の三軍の中で、特に海軍を重視するように指導が行われた。
 とはいえ再独立後の日本は貧乏であり、かつてのような大軍の維持は極めて難しかった。再独立時に連合軍(アメリカ軍)が預かっている形にしていた旧日本海軍艦艇の返還と連合軍艦艇の供与が進められたが、とても当時の日本軍では維持できなかった。
 大型艦では、復員完了以後も連合軍の手により日本国内で保管状態に置かれていた戦艦《大和》《武蔵》《信濃》、大型空母《甲斐》《海鳳》《瑞鶴》、中型空母《天城》《葛城》《笠置》《阿蘇》がリストアップされたが、日本海軍が受け取っても動かすだけの人も資材も、そして金もなかった。軍への志願者は予想外に多く人は集められなくもなかったのだが、集まった人々を国が雇うだけの予算が捻出できなかった。
 仕方なくアメリカや竜宮が多数の旧式兵器による無償供与して若干の近代改装させるも、状態の良い中型空母2隻の維持が精一杯だった。他の大型艦は、最低限の整備を余った人員を使って細々と行うのが限界に近く、返還前の保管状態とさして違わない状況が続く事になる。このため返還後の旧海軍大型艦群は、「記念艦艦隊」とか「万年改装中」などと自嘲的に言われたりもした。
 それでも日本軍が大量の艦艇を持っているという既成事実には、一定の効果が期待された。艦艇を有しているという事そのものが、抑止力として期待できたからだ。
 それに、誰もがこれ以上のお金を使いたくなかったので、独立したからには日本に一定の義務と責務を負わせるべく、そして海軍再建の足がかりとさせるべく日本に多くを押しつけることになった。


●フェイズ53「現代6・竜宮連合王国成立」