■フェイズ53「現代6・竜宮連合王国成立」

 1955年4月に開催された「アジア=アフリカ会議(AA会議)」に、竜宮王国は参加を見送らざるを得なかった。
 竜宮は、第二次世界大戦での主要戦勝国であり国連常任理事国であるため「大国」、「先進国」とみなされた。さらには、本国の地勢分類がポリネシアに含まれ北米大陸に領土の多くを持つためAA国家と言い難い面もあり、国際的な意味での植民地(自治領)も有するので体裁も悪かった。このため、会議の準備委員会の方から水面下で辞退するように要請があり、会議への参加を見送ることになった。竜宮は、自分たちがアジア系人種を主体とした国家だとして食い下がってみたが、結局会議への参加は辞退せざるを得なかった。
 同会議では、インドのネルー、インドネシアのスカルノ、エジプトのナセル、そして日本の鳩山が主要な地位を占めた。
 中華地域は、ジュネーブ会議のタイムテーブル上では選挙直前の緊迫した状態で、南北双方の中華勢力も参加はできなかった。政治的に参加したかったのだが、自分たちのにらみ合いのため会議への参加どころではないのが実状だったからだ。しかも両者が一つの会議に揃うことに開催側が否定的だった事も、参加しなかった大きな要因となった。
 また竜宮は、同年7月の「ジュネーブ四巨頭会議」にも大西洋国家同士の会議だとして参加できず、大国としての面子すら失うことになった。四巨頭会議は、その名の通りアメリカ合衆国、ソビエト連邦ロシア、イギリス連合王国、フランス共和国が参加しており、国連常任理事国で参加していないのは竜宮だけだったからだ。
 そして国民は、外交での大失敗を連続させた竜宮政府を糾弾し、大きな国内問題へと発展した。しかもAA会議によってブルネイ島での独立機運の高まりも起きてしまい、竜宮全体が大きな政治的混乱を迎えることになった。
 これは1956年に王都昇京での夏季オリンピック開催を決め、国を挙げて開催に向かっていた竜宮にとって大きなつまづきとなり、一層混乱と再編成を望む声を大きくさせる事になっていく。オリンピックを単に世界に竜宮の存在をアピールするイベントとはせずに、社会資本整備や交通網充実のための国家規模での景気対策に位置づけそれに成功していただけに、この時の政治に対する国民の不信、不満は大きかった。

 なお、この当時の竜宮王国の内情は、戦争前とはかなり違うようになっていた。
 1939年に竜宮本土と北米の新竜領とに分かれ、第二次世界大戦では戦争で正面から敵対した。その上で竜宮本土の軍事独裁政権は、1943年に国民自らの手によって倒された。その後は新竜領の自由政府が本国でも実権を握り、旧来の力関係の逆転が起きていたのだ。国家分裂中に自由政府側で活躍した公主(王女)が新竜王の公子(王子)との婚姻を行ったことが、その象徴の一つと言われた。
 だが分裂前までの竜宮では本国の方が人口がずっと多く、しかも本国で工業などの産業が発展していたため、北米の新竜領は余剰人口の受け入れ地や食料供給地としての低い地位しか与えられていなかった。
 しかし二度目の世界大戦では、現地に立った自由政府がアメリカ、イギリスとの関係を深める事で大きな政治力を付けた。アメリカの援助と資本進出もあって、産業も大きく発展した。これに対して本国の政治家、軍人、官僚の多くが結果として軍事政権に協力したため、多くが失権、下野を余儀なくされた。軍事政権を倒した本国の伝統勢力は自由政府改め新たな王国政府(以後、新政府)に加わったのだが、彼らの多くは旧支配層のため保守的すぎる傾向があった。しかも実務面で優秀とは言い難い者も多く、数合わせに使われる程度の政治力しか発揮できなかった。「新竜系」の政治家、貴族、官僚、軍人、経済人の力は、本国でも大きなものとなっていた。
 新竜系の人々は、アメリカ、イギリス(カナダ)と常に向き合っているため国際感覚に優れている事が多く、また土地柄から本国よりもヨーロピアン化が進み、ヨーロピアンへの理解も深いので欧米諸国からの受けも良かった。しかも当時の政府を主導した森千首相が優れた為政者だったため、本国でも国民の多くも不満を漏らすことはなかった。
 しかも本国では、自由政府のおかげで枢軸側から勝者の最有力国へと転向できたので、不満を言うこと事態が間違いなのを国民の多くも知っていた。一時戦友とした日本がどうなったかは、占領統治に参加した将兵達がこれ以上ないぐらいに知っていたからだ。
 しかも新政府は、戦争中、戦後の混乱を利用して内政改革にも努め、国民の多くの支持を集めた。竜宮での完全な自由選挙(婦人参政権の付与など)が実現したのも戦後すぐの1946年で、実は日本と同じ頃であった。

 だが戦後の竜宮は、大国として振る舞わねばならないため、主に海外に対して多くの出費を行わねばならず、国内には戦争中の借金が高く積み上げられていた。戦争の傷も、海運業を中心に相応に深かった。
 このため戦後の経済的停滞も相応にあり、戦争の勝者にして大国としての地位を得たにも関わらず、国民は相応に困窮を強いられることになった。多くの民主化政策なども、国民に対するガス抜きとしての側面も持っていたのだ。
 だが国民の不満を逸らすのも、戦後5年程度が限界だった。
 戦争中、挙国一致内閣を率い続けた森千首相は、激務が祟って病に臥し既に政界を引退していた。その後に続いた首相以下の政治家たちでは、「五大国」として扱われるようになった竜宮を引っ張るには力不足の場合が多かった。
 これは中華地域での政治力が発揮できなかった事に象徴されており、1955年の相次いだ外交的失点が致命的となった。
 しかも1950年代の後半は次々に政治的事件や混乱、紛争が相次いだにも関わらず、竜宮は主導的地位を一度も得ることができずにいた。
 そうした中で、国民の間に変革と革新を求める声が再び大きなうねりを見せるようになった。新しい世界に対して、より柔軟に対応できる政府と体制、そして強い政治が求められた。

 停滞の中で国民から注目されたのは、植民地帝国主義時代に作られた立憲君主体制という自らの政治体制に対してだった。
 ただし否定的な意味ではない。むしろ大きく肯定的であり、国民の多くが出身地を問わずに、戦争中の国王や王族の活躍を思い出すようになった事が発端だった。
 しかし竜宮の国王は権威君主であり、政治的影響力の発揮はともかく、実際の政治を行うことは制度の上からもできなかった。そして戦争中に即位した明晶王は、自らが言葉を発する意味を幼い頃からよく知っており、不用意な発言をする事はなかった。国民の多くも、今更時代に逆行する絶対王政や直接王政を求めたわけではなかった。
 国家の再編成の軸として、竜宮王家と各地の王家を形式上での中心とした政治体制の刷新が可能なのではないかと考えたのだ。
 近代において王家や王族もしくはそれに類する存在は、直接ではなく間接的に国家と国民を一つにまとめる存在だった。新日本憲法的言い回しならば、「象徴」としての役割を期待される存在だった。竜宮に伝わる玉璽という古いものに例えるならば、国王とは生きた玉璽と表現する事もできるだろう。
 その上この当時の国王と王族は、先の世界大戦で目立った活躍をしたばかりであり、国民の多くの人々にとっても認識しやすい存在だった。
 そして竜宮各地には、いまだ国王を中心とした封建体制の名残がほぼ全ての地域で残され、自治国の王、王族、大侯爵、侯爵、伯爵など様々な階級の王族、貴族が、たとえ名目上であっても命脈を保っていた。貴族や士族は、いまだ軍将校や官僚に多数の人材を輩出していた。
 そうした中で特に重要とされたのが竜宮国王と各地の王であり、それぞれの地域で王を中心にした連邦国家への再編成が考え出されたのだ。
 これならばそれぞれの地域のアイデンティティーが内政面での独立と共に意識しやすく、またそれぞれの王の間の関係によって国家の統合も容易いと考えられた。
 いささか古くさい考え方にもつながるのだが、既に旧来の近代的、植民地帝国的な政治体制では限界が見えたため、伝統階級を利用した連邦国家への道筋が急ぎ作られていく事になったのだった。

 1956年夏のオリンピック開催に前後して国家改革が進められるようになり、一気に国家再編成の動きが竜宮全体で盛り上がる。
 そして翌年の1957年5月、国号が「竜宮連合王国」に変更された。オリンピックが国威発揚に利用されることはよくある事だったが、国家の再編成にまで利用したのは竜宮だけだろうと言われている。
 なお、国家体制は引き続き立憲君主体制なのだが、各地の自治を広く認める連邦国家でもあった。
 それぞれの地域は、竜宮王国、新竜王国、荒州加王国、瑠姫亜王国、ハワイ王国、琉球王国、ブルネイ王国、ブルネイ国に別れて、国王を権威君主として外交と軍事、国家財政の権利以外を持つ「内国」となった。その上でそれぞれの国王や首相の上に国家元首としての竜宮王が位置して、政府も中央政府としての竜宮政府が再編成されることになった。連動して憲法も大改定が実施され、国内の民主化も一層進められる事になった。
 この中で問題とされたのは、それぞれの地域の間の物理的な距離であったが、基本的に国の中核となるのが竜宮本国と新竜地域を中心とした北米大陸北西部なので、問題は少ないだろうと考えられた。地方裁量権も大きくなったので、今までのような弊害は少ないはずだった。
 なお、国家再編成の際に参考とされたのが、「英連邦=ブリティッシュ・コモンウェルス (the British Commonwealth) 」だった。プロイセン・ドイツ帝国にも少し似ていたが、立憲君主制、議会制民主主義共に参考とされたのはあくまで英連邦だった。
 また新国家建設では、貴族、士族の特権のほとんどが廃止される事になった。これは戦争中の軍事政権のような完全廃止ではなく、名誉としての権利は保障されるものだった。ただし、働かずに食べていけるというものではなくなった。名誉としての称号、血統の保証、先祖伝来の宝物の国家保障(免税と抵当補償)、従来の住居の当面の保障(時限免税特権)などが主で、王と王族、姻戚にある一族(主に公爵家)に限り、国家機関としての存続のために国家から保障が与えられることになった。
 ただし貴族の多くは、古くから官僚、軍人、知識階級など幅広い分野に進出しているので一気に廃れるということもなく、それまでの財産もあって相応の地位を維持し続ける事になる。貴族の側にも自分たちこそが国家の屋台骨だという意識が強いため、意識としての貴族も長らく続くことになる。
 もっとも、世界平均レベルの累進課税や固定資産税から逃れることが出来なくなったため、ほとんどの貴族が城館、邸宅を国に返納したり売り払うなどの状況に徐々に追いやられたり、称号を裕福な企業家に売ったり、裕福な者との姻戚関係で暮らしを維持するなど、それまでにも見られた変化が急激に進むようになる。これは日本で人工的な貴族が強引に廃されたのと違い、ヨーロッパの貴族でも見られた情景と似通っていた。国家の名称とは裏腹に、竜宮の近代化がようやく完成の域達したと言えるだろう。
 また一方では、特権階級から得られた膨大な税金によって、大戦以来喘いでいた竜宮の国庫も大きく息を付くことができた。

 一方、国家の再編成で一時期問題となったのが、軍備についてだった。基本的には、近衛隊は本国並びに各王家の儀仗部隊、儀典部隊としての機能を残して解体された。陸軍については連合王国軍を名目上の上位に置いて、各王国軍を地方軍として設置する形になっていた。海軍と空軍に関しては、全てが連合王国軍に属する形にされていた。
 そして海軍と空軍について、自治意識が強い地域は連合国家として不十分だとした。また士官学校などの将校育成に関しても、依然として竜宮本国のみで行われていることに不満を持つ地域が多かった。海空戦力共に、一定の人口がある場合は、地方組織を持たせるべきだという意見が強まった。しかし国家の根幹というか存在意義が国防にあり、統一された軍の運用は必須だとして、結局以前と大きな違いがでる事はなかった。
 そしてこの時の国家再編では、各地の不満が完全に解消されたわけではなかった。様々な問題を理由として、後にブルネイ王国、ブルネイ国はそれぞれ主権国家として独立していく事になる。この時点でブルネイ島が自治に甘んじたのは、東アジア情勢が予断を許さなかったのが大きな原因だった。
 東アジアは、竜宮が停滞から変革へと進む中で、竜宮以上の混乱に見舞われていたのだった。


●フェイズ54「現代7・第二次中華戦争」