■フェイズ54「現代7・第二次中華戦争」

 1955年11月1日、中華地域で何度目かの内戦が始まった。
 ここでは竜宮から少し離れ、中華地域の混乱を見ていきたい。

 直接的な戦争原因は、ジュネーブ会議にあったと言われている。
 同会議では、各国の主張や思惑が錯綜して結論が出なかったので、とにかく結論を出すための会議となり、民主選挙を行うという事を軸にした半ば玉虫色の結論が導き出された。
 しかしこれは会議を主催した大国の面子を立てるための要素が強く、また二つの中華勢力にとっては時間稼ぎのための方便でしかなかった。
 そして真っ先に会議で決められた選挙を否定したのが、国民党だった。
 理由は簡単で、中華全域での統一選挙をしても勝てる見込みが全くないことを、国民党自身が熟知していたからだ。皮肉として、国民党はアメリカや竜宮どころか旧大日本帝国軍にすら選挙で敗北するだろうと言われた程だった。なぜなら、蒋介石よりも東条(日本軍)の方が善君だったからだ。

 国民党の幹部、官僚は個人の蓄財に励み、その金を海外の口座に移していた。密航を主な手段として国外脱出も日常的に見られた。国民党の支持母体である地主達は、ほとんどが従来通り小作農を搾取する事以外考えていなかった。各地の軍閥はもっと酷く、アメリカのジャーナリズムから武力を持った野獣や中世の豪族と評価されるほどだった。民衆からの公にならない声としても、日本軍の方がましだったという声も少なくなかった程だった。
 そして一番上に立つ蒋介石は、頑なに実体のない大国主義と実現が難しい中華統一を訴えることしかしない、国際的視野に酷く欠けた偏狭的なナショナリストだった。彼の妻である宋一族は資本家であるだけに強欲で、取りあえず維持されている揚子江一帯より南の大地から、絞れるだけの富を吸い上げて、率先して海外に持ち出す有様だった。
 軍隊の内情も酷いものだった。ごく一部の国民党の精鋭部隊や各軍閥の子飼いの兵達はともかく、他は軍隊とは名ばかりで夜盗や盗賊とほとんど違いのない集団のままでしかなかった。兵士達への待遇も悪く、自然とそういった社会の底辺や爪弾き者しか集まらなかったのだ。だからこそ、500万とも言われる膨大な兵力を数えることができたといえるだろう。
 しかも、既に大戦中に国民党がアメリカから受けた武器弾薬と援助物資の多くは、先の内戦で使い尽くされていた。部隊のかなりが、旧日本軍から武装解除後に奪った武器を、しまい込んでいた倉庫から持ち出して使っている程だった。
 一方の中華共産党は、支持母体である農村での農地改革を進めて、民衆に対する施策を熱心に行った。また幾つもの「宣言」を出すことで民衆に強い意識を喚起して、強欲な国民党とアメリカ帝国主義からの全土の解放を謳った。
 人民解放軍の士気も高く、中華史上初めての国民の軍隊が出現する事になった。規律も正しく、ソ連、旧日本軍人の顧問などが精力的に軍の整備と訓練を進めた。またソ連は、中央アジア方面から陸路で出来る限りの援助を送り込んだため、武装の面などで見違えるほど強大化した。

 ジュネーブ会議後も焦りを強めたアメリカだが、アメリカはまずは自分たちが直接押さえている満州、内蒙古の維持に汲々としていた。しかも、中華民国に対する悪感情から抜け出すことが出来なかった。特にトルーマン政権は、蒋介石がアメリカが戦争中に与えた資金を、政敵のデューイに対して大統領選挙で援助したことに強い恨みを持っていた。彼らのゲームのルールでは完全な裏切りであり、許せざる行為だったからだ。
 もっともアメリカでは、新たなフロンティアである満州を他国に決して渡さないという思惑と、ソ連が核兵器を開発してからは共産主義に対して強い警戒心を持つようになっていたため、国民党を見捨てることまでは考えていなかった。自らの大義名分の為にも、可能な限り中華民国が存続している方が都合がよいからだ。
 取りあえず先の大戦で作った中古武器と弾薬を与え、軍事顧問を派遣して軍隊の整備を急がせた。精鋭部隊を養うために、兵士の給与まで一部面倒みたりもした。
 アメリカとしては、自らの後ろ盾と当面の軍隊さえ用意しておけば、共産主義者が暴発することもないだろうという安易な考えがあった。
 しかし蒋介石がジュネーブ会議を無視して総選挙を行わないことを宣言すると、事態は俄に変化する。

 共産党は選挙が公正に行われれば必ず勝てるという確信があったため、選挙を反故にするという国民党側の言葉に大きな失望感を受けると同時に、違う道での中華統一に向けて強く動き出すことを決意する。違う道とは、当然武力だった。
 まずは、今までも行われていた農村部での浸透工作が実施され、主に内陸部では瞬く間に絶大な効果が発揮された。たった半年で華中、華南の各地で武装を有した共産党組織が作られ、1954年には反共産主義的な軍閥と農村の間に激しい対立が起き、小競り合い程度ながら戦闘すら頻発するようになった。
 これに対して国民党は、当初は軍隊を派遣して鎮圧に努め、より一層厳しい弾圧を行って対処した。これは「白色テロ」と呼ばれるほどの過酷さで、村丸ごとの虐殺事件が世界の目が届かない奥地では一般的に行われたほどだった。当然ながら民衆の反発と国民党からの離反は一層強まり、それをさらに国民党軍が弾圧するという悪循環が短期間の間に加速度的に進んでいった。
 それでも沿岸部の都市では、国民党はそれなりの支持を集めていた。共産主義では個人の富や贅沢が否定されているので、個人の蓄財や贅沢を重んじる人々にとっては到底受け入れられないからだ。持てる者にとって、賄賂で済むのなら国民党支配の方が「マシ」な選択肢だったのだ。
 むろん、金を持つ者、一部の官僚、軍人は、地獄のような場所となった中華世界から逃げだそうと考えたが、既に各地の門戸は堅く閉ざされていた。
 満州、内蒙古には依然としてアメリカ、竜宮が居座っていたが、共産党勢力圏で隔てられているため行く事は難しく、しかも周りのほとんどを仮想敵に囲まれているため、既にハリネズミ状態だった。地続きの香港は、イギリスが堅く門を閉ざしていた。地理的に行けなくもないが、イギリスの国境警備隊は密航者、越境者に容赦しないため亡命も命がけだった。台湾もアメリカが海上から厳重に封鎖している状態だった。
 もちろん、正統な手続きによる出国や移民が唯一の脱出手段だが、余程の金を積み上げるか太いコネがないと、国民党の側が出国を許さなかった。一番確実なのは、海外の船が入る上海などの国際都市で金を積み上げる密出国だった。
 しかしほとんどの国が、中華地域の住民が大挙やって来る事を酷く嫌っていた。ほとんどの国が、中華地域からの強い移民規制を敷いていた。亡命も、正規ルートではほとんど受け入れなかった。
 そして逃げ場を無くした富を持つ人々は、国民党を強く支持して共産党の打倒を叫ぶようになった。大元を絶つしか、自分たちが生き残られる可能性がないからだった。無論勝ち目がないと考える者も多数いたのだが、じり貧よりは賭けに出ることを国民党とその支持者は選んだ。
 蒋介石も積極的な統一には大いに賛成であり、四半世紀ほど前の自らの栄光を思い出すかのように強硬姿勢を見せるようになった。そして国民党の側からの戦争は、既に武力統一を決意していた共産党にとってはむしろ望むところだった。
 現状での兵力数は共産党が倍近い不利にあったが、勝算は十分にあった。問題はアメリカなど諸外国の介入だが、それに対してはソ連の後ろ盾が期待された。

 そして1955年に入ってからの共産党は自らが選挙で優位にあるため、国民党を挑発するような強気の発言を繰り返し、ついに国民党側が我慢の限度を超え戦端が開かれた。
 国民党の蒋介石は、正統な中華の回復、共産党勢力の防波堤としての役割を果たす、という主に対外向けのスローガンを掲げて国民党軍に一斉に攻撃を開始させた。
 攻撃に対しては、一切の妥協と共産党との共存はあり得ないとして、共産党を支持する者、少しでも刃向かう者に対しては徹底した殲滅戦が実施された。これに対して共産党は、自らの正面戦力の不利があったため、まずは自分たちに有利な場所に引き入れるため後退戦術を実施した。だが国民党のあまりにも強烈な殲滅戦術に驚き、開戦から一ヶ月ほどで積極的な防戦を行わざるを得なくなった。
 共産党としては、国民党に攻められることで相手の悪政を見せて民衆からの一層の支持を得ようとしたのだが、反発する民衆そのものを根こそぎ殲滅する国民党軍の「浄化戦術」は大きな誤算だった。
 国民党は、既に近代の戦争であるにも関わらず、中華伝統の「革命」による口減らしを極端な形で行うことで、強引に自らに対する不満の大元を消し去る戦争を初めてしまったのだ。
 わずか一ヶ月の戦闘、平均200キロの前進で、実に1000万人の死者と2000万の流民、避難民が出たと推定されており、ゲリラ戦すらできない地上の地獄が出現した。そして北に逃れる人の流れが大陸各所に出現し、交通網は大混乱に陥った。これも蒋介石が目論んだ事だった。強引な人の大波で、人民解放軍を身動きできないようにしようとしたのだ。
 しかし一方では、共産党側の民衆、人民解放軍の士気が大きく昂揚した。戦争という次元すら越えた戦いが、自らの存亡どころか生存そのものを賭けた自衛戦争となったからだ。
 このため戦争から半年もすると、国民党軍は各所で敗退を重ねた上で後退した。そして負け戦が続くと兵士達は逃げるか寝返りを行い、人民解放軍に暫定境界線を越えられることになった。国民党軍が優位を得られたのは開戦から三ヶ月程度までで、特に発展の遅れている内陸部での反発は強かった。
 しかし人民解放軍の前進は、はかばかしくなかった。
 まずは勢力圏内で殲滅戦をされた上に、後退する国民党軍が今度は徹底した焦土戦術を実施したからだ。
 しかも境界線から50キロメートルほどの帯状に渡ってかつてのソ連赤軍を上回るほどの焦土戦術を実施したため、兵站組織、補給物資の不足する人民解放軍では迅速な前進ができなくなっていたのだ。ある意味、焦土の大地こそが現代の長城として機能していた。そしてその地域に入るときには大量の補給物資がなければならず、兵站能力が不足する人民解放軍が大軍を動かすことは事実上不可能だった。
 そしてここで、アメリカ軍が本格的に介入してくる事になる。

 国民党が不利になった事で、アメリカ国内を中心にして反共産主義の機運が大きな盛り上がりを見せ、中華の完全な赤化を防ぐための出兵にゴーサインが出たのだ。無論この時点では、中華地域での戦闘についての詳しい事はほとんど分かっていなかった。
 このためアメリカは世界中にも共産主義と自由主義の戦いだと訴え、アメリカ以外にも竜宮を始めとする東アジア各国も赤化阻止のために出兵には前向きとなった。
 本来ならヨーロッパ諸国も参加する筈だったのだが、ヨーロッパの主要国であるイギリス、フランスは、中東で起きた「第二次中東戦争」に嵌り込んでしまい、むしろ世界中に帝国主義的側面を見せることで共産主義に利する行為となって、アメリカと西欧諸国との溝が深まっていた。そして自分たちの失点を補うためにも、共産主義者を敵として祭り上げねばならなかった。
 しかしアメリカは、中東問題にも力を割かねばならなくなり、世界情勢は混沌とした。だが逆に、共産党に対する陰謀論が飛び交い、中華地域への大規模な出兵がむしろ肯定されることになった。
 そして1950年代は、アメリカの全盛期だった。
 経済力は世界の半分以上であり、製造業もピークに達している時期だった。軍事力も圧倒的だった。
 アメリカに恐れるものなどなく、勇躍世界各地の戦場へとアメリカ軍が派遣されることになった。
 それでも中華地域は戦場が広いこと、人口が多い事から多少は慎重な姿勢が求められたため、ある程度の軍隊が準備されてからの投入となった。最初の実戦部隊が東シナ海に展開したのは、準備を開始してから三ヶ月後であり、さらに三ヶ月もすれば100隻単位の艦艇と1000機規模の航空機が、中華地域北部、中部を攻撃圏内に入れることが可能だった。
 さらにアメリカは国連をも動かそうとしたが、国民党側が戦争を仕掛けたので流石に叶わず、ソ連など共産主義陣営の強い非難を受けながらも、それを正面から受け止め「反共産主義十字軍=アンチ・コミュニズム・クルセイダ(ACC)」と揶揄された軍隊を中華大陸中央部に注ぎ込んだ。
 また、アメリカ軍投入の環境を整えるために日本軍の再軍備も進められ、近隣諸国も中華の混乱を前に日本の再軍備前進を受け入れざるを得なかった。

 アメリカの参戦から三月もすると、海軍の空母機動部隊と空軍の重爆撃機が、前線近くと共産党の支配領域を日常的に爆撃するようになった。ここで空母機動部隊の価値が見直され、アメリカ本国では一度に6隻もの巨大空母の発注が行われた。また同盟国の竜宮、イギリスでも既存大型空母の大改装が行われ、独立を回復したばかりの日本にすらアメリカは空母の整備を要請した。戦争の大義名分を満たすためにも、多数の国が参加した方が良かったからだ。
 アメリカ陸軍が中華の大地に降り立ったのは、参戦から半年ほど経過してからとなっあt。
 アメリカ陸軍は最初、満州での境界線防衛のために投入されるも、国民党の支配領域にも少しずつ軍事顧問などの形で入り始めた。そして次第に派兵は沿岸部を中心に本格化し、東アジアを中心にした各国の軍隊も、次々と派兵されるようになった。
 竜宮も、満州駐留軍を準戦時体制にまで増強し、国民党支配領域にも陸軍師団を派遣し、海軍、空軍の各部隊を琉球や日本を拠点にして多数展開した。いまだ安定していない韓国やインドシナ各地からも、赤化を防ぐという目的のための軍隊が中華地域にやって来た。

 中華での戦争は、第二次世界大戦以来最大規模の戦争へと急速に拡大しつつあった。


●フェイズ55「現代8・中華民国滅亡」